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獄屋の聖書・中世の教会と聖書の関係を如実に具現する

 中世と言えば暗黒時代と言われるほどおぞましい殺戮が繰り返された時代です。特にヨーロッパでは
 
魔女狩と称して、カソリックと自称するローマ教会によるプロテスタント教徒迫害の最中でした。
 
  魔女とされて磔刑や火あぶりにされたのは殆どがプロテスタンと呼ばれるルッターやカルバンの
 
教えに感化され聖書を当時の教会が権威を認めていたラテン語ウルガタ訳に疑問を持ったフマニスト
 
と言われる聖書研究家たちでした。
 
  勿論その発端は、小アジアのアナトリアやスペインにまで侵略を始めたムスリム達への討伐隊で
 
あるクルセードや十字軍と呼ばれ、実際には略奪と凌辱と人身売買を目的として世俗化したカソリック
 
司教達の画策した東方遠征事業です。 その本当の目的は異教徒からの聖地奪還ではなく東方ギリ
 
シャ教会や文化が進み繁栄した中東の財宝の略奪でした。
 
  その略取した数多の美女や人間に加えた高価な宝飾品や宝物の中にはから美しく装飾され金文字等
 
が施された貴重な数多の聖書写本や教父文書や古代文献も混じっていたのです。
 
  それらは格調高い東方の言葉で記されて居た為当時はほぼ全員が文盲で無教養で野蛮なヨー
 
ロッパ蛮族の兵士とは名ばかりの盗賊達には使途不明の単なる宝物の一部でしかありませんでした。
 
勿論彼らが持ち帰ったのは財宝や奴隷として売り飛ばす人間だけではありません。ペスト汚染地域で
 
あるエルサレム周辺では絶対に食べてはならないと聖書が禁じている(レビ記11章)ゲッ歯類のプレー
 
リードッグなどのペスト汚染生物を摂取してペスト菌も持ち帰り自身も家族もそして一族郎党どころか
 
町や村に都市国家丸ごと累々たる屍となって死滅するという略奪に対する神罰をも持ち帰ったという
 
次第です。 
 
  金銀財宝や女子供に高価な衣服は高値売り飛ばし大儲けが出来ましたが、貴重な古代東方文献は
 
まさしく猫に小判で売り物に成らず、その価値を知っていた文字の読める司教達に寄進され、降って湧いた
 
貴重な蔵書として殆どが教会の宝物として図書館に収蔵されたと言う次第です。
 
  しかし、時間と供にフスやウイクリフを初めルッターやカルバンなどの東方言語を習得したフマニスト
 
と呼ばれる言語学に精通した人々に読まれ出すと、ローマカトリック教会は窮地に陥ったのです。
 
 最大の問題は、ローマ教皇こそが筆頭使徒のペテロの後継者だというローマ教会の首位制をあっさり
 
否定され、教皇の権威を擁護する唯一絶対のウルガタと呼ばれるラテン語訳聖書の悪質な改竄
 
の実態を曝露し始めたのです。
 
  自らの悪行によって持ち帰った数多の東方文献が教会から外部に漏れると教会そのものも権威が
 
失墜しかねない事に手を焼いたローマ教会は多くのフマニスト達の書物、特にグーテンベルグの
 
印刷術によって大量に領布されたいわゆる民衆の言葉による聖書邦訳や、ローマ教会批判文書は
 
ことごとく焚書に処しましたが、貴重で美しく高価な東方ギリシャ語の手書き文献は焚書に忍びず、
 
やむなく鎖につないで教会の内部の御用学者以外には閲覧も外部への持ち出しも禁止したと言う
 
事なのです。
 
 以下は、そのような歴史的経緯も知らず無知で愚かな似非ジャーナリストが、客観性の無い主観で
 
歴史を曲解し、聖書などの文献を単に鎖で盗難防止を行ったのだと感激しながら独り合点して、発信し
 
た無知をさらけ出す日陳腐なネットニュースは以下です。
 
 
2015年04月06日 20:07
 
http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/7/a/7a0a1b8c.jpg
15世紀にグーテンベルクが活版印刷技術を確立するまでは、 ほとんどの書物は手書きによる写本であり、それはそれは高価なものでした。
そのため中世ヨーロッパの図書館では、本の亡失・盗難を防ぐために、非常にわかりやすい手法を採っています。
いったいどんな方法かというと……。
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答えは「鎖でつなぐ」
中世ヨーロッパの書物の大半は宗教(キリスト教)関係のものでしたが、修道院の図書館では本の厚紙に鎖をつけ、机や本棚に固定することで紛失を防いだそうです。
「鎖付図書」“Chained Library”と呼ばれています。
1.
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こちらはイギリス西部にあるヘレフォード大聖堂の図書館。

http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/f/a/fa6c0c68.jpg
当時の姿を残す鎖付図書館としては最大。

http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/6/0/60a4cf7c.jpg
現存する本の多くは、歴史的な状況を保存するため再発行されたレプリカ。

http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/f/c/fc886e76.jpg
現在も営業(有料)しているとのこと。

2.
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イギリス・カンタベリーにあるウィンボーン・ミニスター教会の図書館。

3.
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イギリス・グランサムにあるフランシス・トリガ図書館。イギリス初の公共図書館だそうです。

4.
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イギリス・ギルフォードにあるロイヤルグラマースクール図書館。
5.
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こちらはオランダ・ヘンダーラント州のズトフェンにある図書館。

http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/b/1/b1937b7b.jpg
分厚くて重い本は、書架に置いた状態で読むため、鎖も短くなっています。

http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/f/5/f5c146f3.jpg
少し軽めの本はそれなりの長さ。
6.
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イタリア・チェゼーナにあるマラテスティアーナ図書館。ヨーロッパ初の自治体の財産を公に開放した図書館であるとのこと。

物々しさから、当時の本にどれだけの価値があったのか伝わってきます。
ここまで厳重なのは、貴重なのはもちろんのこと、聖書などが紛失することで教会の威信に傷がつくことも恐れたのかもしれません。
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二つの聖書研究方法

二つの聖書研究方法

 さて、今まで聖書の本質やそれを人間が認識した神学についてお話してきました。

  今日は纏めに■聖書を実際に研究する二つの研究方法に付いてご紹介してみます。

  それは■帰納的聖書研究方と●演繹的聖書研究方です。 

  じつは★この両者は聖書研究の両輪で片方だけでは聖書研究は成り立ちません。

 さてこの二つの聖書研究方法ですが、やはり、基本は■帰納的聖書研究方です。

 ■帰納的聖書研究方とは■

これは、一切の前提を排除して、純粋に聖書を読み、聖書からその主張を導き出し、それらを集大成して聖書の主張を認識するものです。

  本来はこの方法が聖書研究の基本で理想ナノですが、問題が有ります。

  ★その問題は、聖書はあまりに厖大で、その上大変な古典ですから大抵の方はこの方法では聖書を理解する以前に挫折を経験されてしまうのです。

  ★特にある程度聖書理解が進むと翻訳では物足りなくなり、原典言語による聖書研究が不可欠ですから尚更です。

  時間を掛けて聖書に書かれている事を読み解き、その意味する事を理解し、原則を見いだしてそれらを集大成して「聖書はこう言っている。」という聖書の主張の理解に至る事がこの帰納的聖書研究方なのです。

  さて次にもう一つの●演繹的聖書研究方をご紹介します。

  
 ●演繹的聖書研究方とは●

 これは、聖書の主題に関する先入観を何処からか仕入れてきてその先入観にそって聖書を読み、その先入観が正しい(あるいは間違っている)と言う結論を導き出すものです。

  こう言ってもあまり具体的ではありませんから幾つか聖書に関する先入観をご紹介してみましょう。

 ●神は愛である。

  ★聖書を初めからこの前提で読んでいき読みおわってからやはり神は愛であった。と言う結論に至るものです。そう、大抵の教会や学者さんがしているのはこの聖書研究方なのです。

 この方法は大変分かりやすく楽しいのですが問題はどんな主題を持ってきてもやはりその主題が正しいと言う結論にいたってしまう事が多い点なのです。

  具体例を上げてみましょう。

 ●神は義である。●神は聖である。●人間は罪人である。●神様は人間を救われる。●聖書は平和を教えている。●神が世界を支配している。●教会は常に神様に従ってきた。

  いろいろ上げる事が出来ます。しかし、この聖書研究方では先入観を先に持つ為間違った結論に至る危険性が在るのです。そして主題に対して疑問を懐くと今度は反対に、全く反対の結論にいたってしまう傾向が在るのです。

  さらに、互いに矛盾する主題を上げて演繹的に聖書を研究しても主題を変えて研究していると大抵の場合は、それぞれの主題が正しく見えてしまう傾向がある事も問題なのです。

  ●神は人類を滅ぼされる。●世界を支配しているのは悪魔である。●神は恐ろしい怒りの神である。●人間は常に神様に反抗して滅んできた。●神は怒りの神である。●聖書は戦争を教えている。●教会や常に堕落して最後に背教が起きる。

  ■お分かりでしょう。聖書は特定の主題を理解するれは分かる様な、そんなに単純に理解できる書物では無いのです。

  と言う事で演繹的聖書研究にも基本的に限界が在るのです。

  と言う事で■帰納的聖書研究方と●演繹的聖書研究方の両方の聖書研究に
限界が在るのです。
 
  だから★結論は明白です。

  聖書研究は、ある時には帰納的に無心に聖書を読み、またある時には演繹的に一つの主題について聖書を読み、そこに見いだされる一致点と矛盾点を調整しながら、時間を掛けて読み進んで初めて、聖書の真の理解に至る事が出来るのです。

 ★私もまだ聖書研究の途上あるに過ぎませんが、最近になって漸く自分なりの結論らしき物がぼんやりと見える様になりました。

  ★現在の私の聖書に関する結論です。

  ■聖書はやはり中々難しく、そして同時に中々面白く有用な書物で、時間も労力もそして生涯も費やして読み解くべき価値の在る書物だ。

  ■もし、聖書をこれから勉強しょうとされる方がおられたなら次の様に助言します。

 ●出来れば各種の神学(今までに聖書を研究した人々の学問的成果=帰納的聖書研究)にも通じ、同時に無心になってひたすら聖書に聞き続け(聖書通読や出来れば原典通読)それらを毎日繰り返して2~30年かければなんとか、聖書が言っている神様御自身や、人間社会のありさまについての聖書の主張が分かるように成るかも分かりません。

 だから聖書を研究するにはこの二つの研究方法の両方(■帰納的聖書研究方と●演繹的聖書研究方)を用いる事が必要なのです。

神学の意味

神学の意味
 
  さて昨日、「全ての神学は聖書から出てきている」と言う事をお話ししました。

  と言う事は、神学を作る為に聖書から選びだす題材を「どんな基準で選択するのか」が大変重要になります。

 人間の目や頭を使って、特定の基準を意識したり、あるいは無意識の内に聖書から特定の事柄を選びだし、在る物を強調し、在る物を軽視し、さらに在るものには解釈と言う変更を加えて辻褄合わせをして、出来てくるのが神学と言う訳です。

 その様な意味で、「神学とはその神学を作った人のフィルター(あるいは色眼鏡)を通して聖書を見たもの」と考えるのが一番理解を助けると思います。

 「出来るだけ、多くの事柄を選びだし。無視する事を少なくし、変更を避ける」とそれは結果的には聖書その物で十分で神学無用論になります。

 そうすると、「聖書はあまりに厖大で遠い過去の異国の古典で在る為、一部の有能な人間以外は結果的に聖書の主張を認識し得ない」という問題が生じます。 

  また神学を構築する時にその人が「一体どの国の言葉で聖書読むか」と言う事も大変重要です。誰もが原典言語に精通して原典から神学を構築する資質があれば良いのですが、そんな人物はアウグスチヌスやルッターなど歴史上に数人しか登場してきませんでした。

大抵の場合は翻訳本の聖書を見ながら、その翻訳を正しい物と仮定しての神学形成がなされたのです。

ラテン語で聖書を学ぶと、ラテン民族の特質と言われる「楽天さ」や「行動的」な物が強調されてしまいます。 そしてラテン民族の歌好きから「教会音楽」や視覚的な「絵画」「彫刻」が重要になります。

  これらは、現在のラテン民族に広がったキリスト教=ローマカソリックをご覧になれば自明です。

  またドイツ民族の様な緻密で普遍的な理性を強調するとバッハに代表される威圧的な教会音楽やコンコルダンスの出版や言語的な緻密な分析の結果登場した自由主義的で緻密なバルト神学が誕生します。

  また、英語に訳出された聖書で神学を構築すると、デイスペンーセーション(契約期分割説)や終末論の時系列的な理解に気を取られて、聖め派やメソジスト派と言われる英国系のキリスト教会に見られる独特の神学が形成されます。 

  また、周辺諸国の覇権に翻弄され、不幸な戦争によって為政者や国家に散々踏みにじられたオランダやネーデルランド周辺の人々は、国家や王に加えてその手先となった宗教界に基本的に不信感があります。その結果、信徒の自立による独立教会の形成や信徒による教会教育が強調されます。それらは、メノシモンズに見られる様な急進的再洗礼派や聖職者を否定したような信徒中心の会衆派やバプテスト派のような信徒が教会形成の中心になって教会と神学が構成されると言う事なのです。

  そして、基本的に認識しなければならない事は「いずれの神学であっても、それは聖書から一部を抜き出してある部分を強調した、人間が理解しやすい不完全な物である。」ということです。

  と言う事はどの神学を学んだとしても、その神学に満足することなく、その理解を突破口として聖書その物の全体を学ぶ足掛かりと成る物が「神学」という物なのです。

  と言う事で今日は、簡単にどの様な神学を学んでもよいが、「神学その物は基本的に幼稚なもの」でありそこを端緒として聖書全体を学ぶ事の大切さのご紹介でした。

神学と聖書

神学と聖書

 さて、前回は「聖書と神学」と題して■神学とは「神様の言葉」■と言う意味である事をお話ししました。これからは、さらに進んで様々な神学についてお話しして見てみたいのです。

 取り敢えずその中で、今日最初にお話ししたい事は■「『聖書』から出た物が『神学』である。」■と言う事なのです。

 なんでもない当たり前の事なのですが結構この■基本はあまり■理解されていない様です。

  ★端的にご説明してみましょう。★

 聖書から神学が出たと言う事は以下の様に表せます。

 ■「 聖書 → 神学 」(聖書から神学が出た)  と言う事は、

 ■「 聖書 > 神学 」(聖書は神学よりも大きい)と言う事なのです。

  ★言い換えるならば●「聖書は厖大で煩雑な為●人間には理解が困難なので、●人間が理解しやすい様に●ある部分だけを選びだしたものが●神学だ」と言う事なのです。

  ●全ての「神学」は「誰かが聖書からの特定の部分を選びだし物にすぎない」と言う事なのです。

  ■と言うことは「神学」と言う物は確かに元は全て聖書から出ているけれども全ての「神学=聖書ではない」と言うことなのです。

  ここで●聖書についてお話ししなければなりません。それは●「聖書は基本的には人間の理解不可能な事ばかりが書いてある」と言うことなのです。
   
  こんなふうに言うと「何のことかサッパリ分からない」と思いますので具体的にしてみましょう。

 ●イエスキリストは神であり同時に人間である。

 ●聖書は人間が書いたけれども神の言葉である。

 ●教会は人間の集まりだけれども神の所有物である。

 ●神様が世界を作られたけれどもやがて世界を滅ぼされる。

 ●神様が作られた世界は完全であったのに人は罪を犯した。

 ■まだまだ沢山の矛盾点が有ります。基本的に●「聖書は神様に属することが記されていて、不完全な●人間が聖書を完全に理解する事は出来得ない」●と言うことなのです。

ここで矛盾点として紹介した問題の原則的理解は、以前に「聖書解釈の前提」でご紹介したカルケドン信条で決着されています。以下のリンクをご覧ください。
  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/30563826.html

  ★そして当然のことですが、能力に限界の在る人間には理解できない物が聖書であり神様なのですから、当然「■人間にとって理解し易い神学程、聖書や神様の■真実から遠く離れている」と言う事が基本的に言えるかと思います。

  以前お話した事の纏めは、基本的に「神学」とは「神+言葉=神の言葉」で聖書の全体その物を表しているのです。と言うことは、「パウロ神学」などと■「パウロ」と言う修飾語をつけると、そのパウロ神学=「聖書全体からパウロが記した一部分だけを抽出した聖書や神様に関する事柄の断片にすぎない。」■と言うことなのです。

 と言うことは★「『全ての神学』は聖書全体の主張に照らし合わせると不完全である。」★と言う事が★基本的に言えるのです。そして、皮肉な事に「●不完全であれば在るほど、返って●人間には理解し易い神学●になっている。」と言うことなのです。

  何故なら、■「○○神学「と言う物は■「○○と言う人が理解した聖書」■と言うことですがその御当人の聖書の理解度が低ければ低いほど、返って■多くの人が理解でき、人間にもてはやされる神学になるからです。

 前世紀初頭に流行したドイツ人のバルトが作り上げた神学は「彼が■「聖書全体の中から彼の頭で理解出来た部分だけの集大成と言う事で、全聖書のほんの一部分の理解」■を彼がして、それに共感できた人が多かったと言う事実を明白にしている。」と言う事なのです。

  ●神学を論ずる前に、基本的に知らなければならない事は、「●歴史上に登場した様々な●神学は程度の差こそあれ●全て不完全である。」●と言う「神学の宿命が存在している」と言うことなのです。

  と言うことで今日は聖書を読み解く時によく引き合いに出される「神学」と言う物が基本的にどういう物であるのかと言う基本のご紹介でした。

  その事=神学は全て■「不完全な人間による完全な聖書と神の理解の断片である」■と言う事を踏まえたうえで、過去の歴史上に様々登場した様々な「神学や教派神学などの特質」を次回にでもご紹介してみたいと思います。

聖書と神学


聖書と神学

 さて実際に聖書を読み出すと結構気になるのが「神学」と言う言葉です。大抵の注解書や専門家にお聞きするとすぐにこの言葉が登場します。

  「・・神学によると。」とかあるいは「神学的にはそれは.....」とサッパリ分からない言い回しにすっかり聖書を学ぶ意欲を削がれてしまいます。

  これから少し「神学」という言葉に付いてお話したいと思います。

 神学校に入って一番最初に学んだのが実はこの「『神学』とは何か?」言う事でした。おそらく、大抵の方はこの「神学」という難解な表現に絶望されているだろうと思います。

 ★神学の語意

 神学とはセオロジーと言う英語Theologyの訳語です。これは本来二つのギリシャ語の合成語です。

  セオス (θεοs)+ ロゴス (λογοs)と言う事で「神の言葉」と言う意味です。

 ただそう言う事を難解にして言っているだけ事なのです。

★神学の分類

神学とは「神の言葉」と言う意味なのですからそれは聖書の事を先ず第一に指し示します。

  ■神学の第一の分野は神の言葉である聖書と言う意味で「聖書神学」と呼びます。なんのことはない「聖書神学」=「聖書は神の言葉」だと言う意味です。
  だったら初めからそう言えば良いのですがそれではあまりに権威がありませんのでかっこよく聖書神学と言います。これが分かればさらに旧約聖書神学と新約聖書神学もお分かりになられるでしょう。もう説明はしません。

  さらにこれを具体的にすると旧約聖書神学はモーセ五書神学 歴史書神学と聖書区分毎に神学が現れ、さらにそれらを細分すると創世記神学、出エジフト記神学となります。また著者がモーセですからモーセ神学などと言う事も稀に有ります。

   新約聖書では福音書神学とかパウロ神学の神髄など言いますが、何の事は無い 「パウロか語ったのは神の言葉だ」と言う事なのです。ローマ書の神学は...などと言うのも何の事は無い、パウロが記したローマ書における神の言葉は...と言う事なのです。

さて以上が聖書神学の大まかな分類です。

  ■さて次成る神学の第二分野は歴史神学と言います。まあ歴史の中で神学=神の言葉がどう働いたかと言う事ですから簡単に言うと教会の歴史と言うことになります。

  当然その中にも細かな分類が生じます。教会の時代区分で初代教会の神学とか、使徒後教父の神学、中世のスコラ神学、近代主義神学などや、時代や地域や原語、思想で分類して宗教改革の神学、ラテン神学、啓蒙主義神学などなどです。 さらに信仰告白や教理の変遷を指して教理史などもこの範疇に分類されます。

  この歴史神学にはもう一つの系統があり文字通り「人類の歴史は神の言葉」だという考え方です。世界の歴史を「His+Story=History」言うわけです。実は私はこの立場を取っています。しかし問題は「何が史実か?」と言う事で記録されたり勝者によって捏造された歴史は含みませんので「真実の歴史」のみがこの題材とされなければなりません。

  実際のhistoryはギリシャ語のιστορια(ヒストリア=知る為に尋ねる=物語る)と言う意味ですから歴史神学=Historical Theologyとは「神の言葉の物語」と言うのが正確な意味かと思います。

  ■さて、次はSystematic Theology=組織神学です。こちらも元はギリシャ語でσυστημα(スステーマ=全体構成=共に立つ意)+神の言葉と言う意味です。前にご紹介した歴史神学は神の言葉の働きや理解を時代や地域や民族別に縦割りにした区分を指しますがその横割りの区分を主に組織神学と言います。

  聖書神学や歴史神学とは異なり、時間と言う概念を排除して、投影された神学の姿と言った言い方が一番正確かと思います。

  組織神学には時代での聖書理解やその移り変わりを総合して設計図の様にキリスト教の信仰の構造を縦から見たり横から見たりして言葉にしたものを組織神学と言います。具体的には神論、人間論、救済論、終末論などと言う時間によって変化しないキリスト教の教えを表した物なのです。その一番初めは「認識論=人はいかにして神を認識するか」と言う学問です。この神認識には当然罪の自覚=堕落論=罪の認識が含まれます。

  ★お分かりのようにこの神学の一分野から「法学」が派生しました。法学は神学のお弟子さんのような付け足しの学問なのです。だから由緒ある大学は大抵第一に神学部が先ず最初に設立され、次が法学部、か哲学部、そして最後に医学部の四学部が当初の学部です。

  大学の卒業式で学士さんの被る帽子が四角く上部の中心に房が付いていて学位授与前は左に掛け学位授与宣言と同時に房を右に移動します。角帽の四つの角はこの4つの学問を表し、最初の一番前に来る角が全ての学問を支配し冠たる「神学」と言う事なのです。それらの由緒ある大学で博士の学位を取ると学位授与式に臨む時にドクターガウンを纏いますが肩から胸にたらすストールの色が神学はキリストの血を表す「深紅」、哲学は智恵をあらわす「紺碧」、法学が義を表す「純白(今は紫=一番お金がかかる=儲った)」、そして医学は生命を表す「濃緑」と言うわけです。そして現代の学位の序列はすっかり昔と逆になり、何処の大学でも神学は不人気で、評価も収入も最下位、はや廃止の瀬戸際に置かれていて、神学(=神の言葉)は置き去りどころか儲からない学部として迫害されているのが実情かと思います。

  ■そして最後は、実践神学(=Practical=ギリシャ語のπαρασσω=パラッソー=「行う」の名詞形πραξιsプラクシス=実践+神の言葉)となります。聖書に書かれている事が歴史で変遷し、それらを構造的に纏めた組織神学を「現実の教会や生活でどう具体化するか」を扱います。「神の言葉の実践」と言う事です。

  礼拝学、教職論、聖餐論、聖歌学、説教学などと言う分野がそれなのです。最近はこれにゴスペル、教会成長学、牧会心理学や牧会カウンセリングなどいう流行りの世俗的な講座が神学校で人気と聞きますが、大切な事=神学「=神の言葉」が滅亡直前の旧約聖書の王国の堕落時代と全く同様にすっかり置き去りにされて「人間の言葉」がもてはやされているのが大変嘆かわしい所です。

 ★現代ではこの様な聖書、歴史、組織、実践神学などと言う四神学による分類ではなくもっと多様な分類も在る様です。しかし、まあこれが一般的な神学と言う言葉の分類方法です。神学とはなにか特別な難しい意味があるのではなく、なんでもない当たり前の事=神の言葉=聖書をどう認識するかの区分の概要にすぎないのです。

  聖書神学は聖書に書かれている神の言葉。歴史神学は聖書の言葉が歴史に一体同影響し歴史からどう影響されたか。そして組織神学とは神の言葉を人間がどう理解したかであり、実践神学は聖書が神の言葉なら人間はどう生活れば良いのかを扱った物にすぎないという事なのです。

 と言う事は★聖書は全ての神学の上位に存在する物★であり、

  ●聖書を読んでいる段階では下位に存在する神学は無用な物である」●

  と言う事なのです。何故ならば全ての神学は聖書が神の言葉であると言う事を具現化すると言う目的の為に存在しているからなのです。

と言う事は「神学があって聖書が出来た」のではなく、「聖書があってそれから神学が作られた」からなのです。

 ■聖書は全ての神学に優先する■と言う事なのです。●聖書から神学が作り出されたのであって、決して▲神学が聖書を生み出したのではないからです。

と言う事で、今日は聖書を読む時には神学は一切考慮する必要も、また神学に振り回される必要も無いと言う当たり前の事のご紹介でした。

  冒頭の写真は我が家の賢犬Lab公にモデルになって頂きハーバード大学に沢山在る裏口の一つで最高(お値段が)の学位、哲学博士(Ph.D)のガウンを纏ったスナップ写真です。こんな裏口にまで立派な十字架がついている所がなんとも言えないバロデイになっています。所でモデル料は牛筋肉一切れの超高額でした!!

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