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大阪弁とギリシャ語ヘブル語は親戚

難しい事は私には分かりませんが、今から2千年前に地中海世界で話されていた古代の

コイネーギリシャ語やさらに1000年程古い旧約聖書が書かれたヘブル語で聖書を読んでいると

わざわざ日本語に翻訳なんかしなくとも、殆どというか、ほぼ全ての聖書の記述(当時には

文語はなく口語である会話がそのままの音で記されている) は翻訳しないでそのまま読んでも

ほぼその音で日本語が話せる人にはそのまま通じ、とりわけ日本でも1000年以上前の話し言葉

がそのまま残っている大阪弁で理解すると翻訳不要でそのまま発音するだけで普通に意味が

通じるところが頻繁に存在するという事は間違いありません。

  以下はバベルの塔の出来事がそう遠くない過去の出来事であることを納得させる

稀有なロシア発のネット情報です。

   たとえば2千年前のコイネーギリシャ語で思うという意味のオイオマイという語がありますが

これは思い込むという意味の間違った想像を指し、こんなひとがいたら「おいおまえ」とつい

その人に言ってしまいます。それはあなたがひどい間違いをしているという意味で、その発音で

その文脈の会話で問題なく意味が通じます。 そしてさらに古いヘブル語聖書を原文で読んでいると

よくホンネニという語が登場します。これはハナンという語で本来理由無くという意味ですが

まさしく日本語の本音と同じ意味です。

  一つ一つ列挙すると100や200では無くきりがありませんのでこれぐらいにしておきます。


「地球の人類はみな同じ言語を話している」 : 国際的研究で判明したこの衝撃の事実から、むしろ浮かび上がる「日本語」という存在の奇妙さ

2016年9月13日のロシアの報道
旧約聖書『創世記』11章01節
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
 

冷静に考えると異常ともいえる地球の言語の多彩さ

なぜ、世界中の言葉は違うのだろうというのは、ずいぶんと小さな頃から考えていたことで、今でも時々考えます。
今の地球にどのくらいの言語があるのかというと、世界の言語の百科事典ともいえるエスノローグ(Ethnologue)には、 6912 の言語が掲載されているということで、かつては 7148言語という時代もあったようですので、もう何だか世界の言語はものすごい数なのです。
宇宙の中ではそれほど広い惑星というわけでもないこの地球で、そして、その人口も多いとはいえ現在 34万人くらいの(所沢の人口かよ)…… 現在 73億5136万6603人(世界の人口より)ほどの人たちが、こんなにたくさんの種類の言語を使っているということは、ずっと不思議でした。
そして、その後知った、現世人類がアフリカ単一起源(現代の人類の祖先はアフリカで誕生し、その後世界中に伝播していったという今ではほぼ確実な学説)であるということ、そして現世人類の歴史は、せいぜい 15万年前後くらいしかないという事実。
15万年の間に、アフリカから世界中に人の移動と共に言葉が拡がっていったとするならば、現在の地球がこんなに多彩な言語になっているというのは、やはり不思議な気がするのです。
たとえば、今の日本語を使う日本人の誰かが最初の人類になったとして、そこから「旅」がスタートした後に、たとえば、1万年後とかに、
「日本語がすっかりロシア語のように変わってしまった」
ということが起き得るだろうかと。
もちろん、今ここに書いている例えとしての「最初の世界」には「日本語」しか存在しないわけで、「そこから変化していって」、それがタイ語みたくなったり、ヒンディー語みたくなったり、フランス語みたくなったり、というようになっていくものだろうかと。
これはですね。
やっぱり、普通はそうはならないと思うのですよ。
言語は確かに変化していきますけれど、それは、新しい言葉や言い回しが次々と現れたとしても、やっぱり、何万年経っても、「日本語が、たとえば、アゼルバイジャン語のようになる」ということは考えにくいのです。
「言葉の伝播の途中で根本的に《文法》が変わる」というのはやっぱりおかしい。
そういうこともあって、どうして世界にはこんなにたくさんの言語がある? ということは、このアフリカ単一起源説を知って以来、さらに不思議に思えています。
今回の冒頭に旧約聖書「創世記」の 11章 1節を載せました。
この創世記の話の頃には、
「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」
という時代があったと記されています。
そして、この「創世記」の 11章 5節からは、「世界がいろいろな言語になった理由」が書かれています。バベルの塔のくだりです。
旧約聖書『創世記』11章05-07節
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 
と、「神がされた」ということになっています。
もう少しわかりやすいところだと、「ヨベル書」というものに、以下の内容が記されています(バベルの塔より)。
神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。
しかし人々は、これら新技術を用いて天まで届く塔をつくり、シェムを高く上げ、人間が各地に散るのを免れようと考えた。
神は降臨し、この塔を見て、「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」と言った。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。
というような理由で世界はバラバラの言語になり、現在に至るというのが聖書の言い分です。
ここに、
> 人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。
とありまして、そのために神が人間の言葉をバラバラにしたということなんですが、世界の言葉がバラバラになってからの方が戦争とか多いんじゃないの? ……とは思うのですが、しかし、考えてみれば、神は地球に平和をもたらすために来たわけではないことは、イエス自身が申しております。
新約聖書『マタイによる福音書』10章34-36節
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。 こうして、自分の家族の者が敵となる。
このマタイによる福音書の部分の、昔風の表現「我が持ち来たれるは平和にあらずして刃なり」に関して、
という雑記的な記事に記したことがあります。
いずれにしても、「神」的には、人類の戦争だとか、諍いだとか、そういうことはOKでも、バベルの塔の建設のように「新しい技術を過信して、神に背き行動する人類」(これは「今の時代」もまさにそうですが)という存在はいけないということのようです。
何だか前置きが長くなりましたが、冒頭に貼りました「すべての人類は同じ言語を話している」というニュースは、アメリカ、ドイツ、アルゼンチン、スイス、オランダなどの科学者たちからなる言語学者、物理学者たちの国際研究グループが広範な研究を行った結果、「世界の言語は《音》と意味の面で著しく共通していることが見出された」という結論に達したというものです。
これは、現在世界で使われている言語の約 62パーセントにあたる 3700の言語で、100の基本的な単語を比較したという大研究ですが、その結果、「世界の言語は実は共通言語であるかもしれない」というようなことが見出されたというものなのですね。
3700の言語を分析したというのはすごいことだと思います。
このニュースは欧米の様々なメディアで取り上げられていますが、冒頭のものを取り上げましたのは、タイトルがストレートなことと、記事の冒頭が、バベルの塔の話で始まっていたからです。
冒頭の記事は長いものではないですので、ご紹介しておきたいと思います。

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すべての人類は同じ言語を話している

聖書のバベルの塔をご記憶だろうか。塔を建設するまで人間はみな同じ言葉を話していたが、神は人間から同じ言葉を話すことのできる能力を奪った。
最近、アメリカ、ドイツ、アルゼンチン、スイス、オランダの代表者を含めた科学者と言語学者たちによる国際研究グループは、広範な研究を行った上でセンセーショナルな結論に達した。
それは、地球上のすべての人が同じ言語を話しているというのだ。
この研究で科学者たちは、異なる 3700の言語のそれぞれから 100の基本的な単語の分析を行うプログラムを作成した。3700 という数は、既存の言語の 62%にあたる。
分析の結果、世界のすべての言語には隠された共通のルーツがあることを示した。
基本的な単語において、人々は住んでいる場所や祖先の起源と関係なく、同じ音を使っていることがわかったのだ。
この特性はすべての人類に普遍的であり、したがって、単語の持つ「音」と単語の持つ意味の関係は、以前に考えられていたように言語によってランダムなものではないことがわかった。
人々は、彼らの基本的な意味の単語の発音に共通する「音」を使用しているのだ。
なぜ、世界の異なる言語にこのような共通の特性が存在しているということについては、仮説は提唱されているが、今のところ科学者たちに理由はわかっていない。
 

 
ここまでです。
要するに 3700の言語の基本的な単語には、「音」の共通性が見られるということなのですが、ちょっと具体的ではないですので、少し具体的に取り上げていたものとして、英国テレグラフの記事があります。
Humans may speak a universal language, say scientists
(人類は共通の言語を話しているのかもしれないと科学者たちは言う)
という 9月12日の記事です。
ここに少しだけ具体例が出ているのですが・・・しかし、ここにある具体例を見て、「日本語を話す日本人」である私は「おや?」と思ったのでした。
テレグラフから、その部分を翻訳します。

「人類は共通の言語を話しているのかもしれないと科学者たちは言う」より

研究では、ほとんどの言語で、「nose(鼻 / 発音:ノウズ)」を意味する単語は、「 NEH (ネー)」や「 oo (ウー)」、あるいは「 ooze (ウーズ)」のような音が含まれていることが多いことが見出される。
同様に、「 leaf (葉 / 発音:リーフ)」を意味する単語は、共通として、「 l 」、「 p 」、「 b 」の音が含まれている。また、「 sand (砂 / 発音:サンド)」を意味する単語には共通として、「 s 」が含まれている率が高い。
単語「 red (赤 / 発音:レッド)」と「 round (回る / 発音:ラウンド)には、「 r 」の音が含まれている。
他の単語では、「 bite (噛む)」、「 dog (犬)」、「 fish (魚)」、「 skin (肌)」、「star (星)」、「 water (水)」では、数千の単語の中に共通の音が含まれていることがわかった。
このような音の関連性は「 knee (膝)」、「 bone (骨)」、「 breasts (胸)」などのような身体の部位に関する単語で多く見られた。
チームはまた、特定の意味の単語が特定の音を回避することを見出した。これは代名詞に顕著で、たとえば、「 I (私 / 発音:アイ)」を意味する単語では、「 u 」、「 p 」、「 b 」、「 t 」、「 s 」、「 r 」、そして「 l 」の音は共通して含まれない。
そして「 You (あなた / 発音:ユー)を意味する単語では、「 u 」、「 o 」、「 p 」、「 t 」、「 d 」、「 q 」、「 s 」、「 r 」、そして「 l 」の音は共通して含まれない。
ということなんですけれど・・・この、数千の言語に共通する「音」の特徴に関して、読まれていて「あれ?」と思われなかったでしょうか。
ひとつずつ例を見てみますと、
・英語の「 nose(ノウズ)」は、日本語で「鼻(はな)」。そして、他の言葉に共通しているという「ネー」も「ウー」も、「ウーズ」も日本語にはまったく含まれない
・英語の「 red (レッド)」は、日本語で「赤(あか)」。「赤」の意味を示す数千の言語には共通として「 r (ラ行)」の音が含まれているとありますが、日本語の「あか」には、含まれない。赤の他の読み方(「せき」、「こう」など)も同じく含まれない。
・数千の単語に共通の音が含まれるとしている「 bite (噛む)」、「 dog (犬)」、「 fish (魚)」、「 skin (肌)」、「star (星)」、「 water (水)」などや、あるいは体の部位である「 knee (膝)」、「 bone (骨)」、「 breasts (胸)」などは、英語との比較でも、日本語では、まったく「音」の関連性はない
・・・ということがわかるのですよね。
つまり・・・どうやら、3700の言語の非常に多くで共通して通じている「音」が、日本語では、少なくとも、ここに取り上げられている例では、まったく「関連性がない」のです。
ちょっと時間がなくなってきまして、中途半端ながら、このあたりでいったん締めたいと思いますが、この「日本語のサウンドの違和感」は、突出したものなのかもしれないです。
そういえば、このニュースを取り上げたロシアの他のサイトで、下のようなイラストが載せられていました。

4カ国語のネコの鳴き声《発音はすべて「ミャウ」》

共通しているのは「 m 」、「 o 」、「 u 」などの「音」です。
そして、このネコの鳴き声、日本語は、
「ニャー」
というようになっていまして、私たちはネコの声から「 m 」の音を意識的に拾わない唯一の民族ともいえます。
旧約聖書にあるように、最初、地球の言葉は同じだったものが「神」により世界中で別のものにされたのだとしても、あるいは、日本語に関しては、地球のものではなかったのかもしれないですね。
私は昔から日本語の特殊性に惚れ込んでいて、そして、どうしてこんな独自な言葉が出現したのだろうなずっと考えていましたけれど、「異次元からやって来た」というように考えてみるのも夢がある話かもしれません。


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人類相互監視命令

いきなり物騒なお話ですがこれが実は聖書の基本的な教えなのです。

まあ追って説明しましょう。 じつはこれは今日の私のデボーション(毎朝の聖書黙想)の箇所でした。

じつは日に3章聖書を原典で読んでいます。朝は新約聖書、昼と夜は旧約聖書で70人訳とヘブル語で

朗読しています。今朝はたまたま新約聖書のピリピ人への手紙の第2章でこの4節が気になった

次第です。 以下に原文とその下に直訳とその下に翻訳を記しましょう。

原文 4. μὴ τὰ  ἑαυτῶν ἕκαστοι σκοποῦντες,  ἀλλὰ  καὶ  τὰ ἑτέρων  ἕκαστοι.

直訳 無い その 各々 お互いに 監視しているらは、逆に そして その 他らを お互いに

翻訳  あなた方はそれぞれ自己監視しています。それでは行けませんから他の人を各々が(監視)しましょう。

一般の翻訳 自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。(新改訳1970年版)

 じつはこの翻訳と原文との間には天と地ほどかけ離れた認識の相違が存在しているのです。

何が違うのかはお判りになるでしょうか?  もちろん翻訳者のお偉い先生方は全く認識して

おられないのだと思います。 もしかしたら、よくよく解った上であえて教会成長や自分の利益の為に

わざわざ原文とは正反対に訳しているのかもしれません。

 鍵となるのは二つのギリシャ語です。 その第一は冒頭のメーと言う言葉です。前提条件を前提にして

禁止するという意味合いの言葉で、この場合の意味は自分で自分を監視しているという事がそれに

該当します。

そう、ピリピの教会では一人一人が自律して自分を自分で律した自主独立的な教会が形成されてい

たのですが教会の創立者のパウロはそれでは良くないといっているのです。

もう一つの大事な言葉はスコポスという言葉です。 翻訳では顧みると訳出されていますが

原文の意味は監視するです。 要するに目をはなしていると何をするかあるいは怠惰に堕する

危険が有るので監視するという意味の言葉です。 この語に上を表すエピが着くとエピスコポス

となりいわゆる監督と言う意味の言葉になります。

  エピスコポスというと英国のメソジストなどの監督系の教会を指しますが、そう言う上から目線の

監督という意味はスコポスという言葉にはありません。あくまでも自己監視か相互監視という

下から目線か水平目線の監視ということなのです。

 ということで問題がお判りでしょうか。要するにピリピという新約聖書中の最も規範的教会であっても

信者は自分で自分を監視することは不可能であり、まして優れた信仰者がいて上から目線で他の

信仰者を監視する事も危険なので、お互いが厳しい視線で相互監視してこそクリスチャン生活や

教会活動が健全さを維持できるという事をパウロは語っているのです。

  要するにクリスチャンになって救いを経験したり聖霊に満たされたなどといって自己の顕著な霊的

体験を持っていたとしても、それは監視する立場ではなく相互監視される単なる救われた罪人に

すぎないという厳粛な命令だと言うことなのです。

    そして、これは単に教会内に対する命令ではなく、社会や一般大衆はもちろん為政者や経営者

はもちろん教師や法曹関係者などの聖職者と言われる人びとの判事や検事や弁護士はもちろん

高い教養のある人格者と見なされている医師や大学教授や宗教家はもちろん苛めを放置する

教育現場も教師や教育委員会に任せず対等目線で相互監視が適用されるのは

当然だと言う主張なのです。そしてこの監視は人を苦しめたり制限や恐喝するための

悪意有る監視ではなく正しいあるべき状態を維持推進するための腐敗や劣化を防止し怠惰など

を改善するための良識有る監視なのです。

  昨今のパナマ文書やパラダイス文書に群馬大の医療過誤(犯罪)に警察官や検察の証拠捏造問題

や東芝や神戸製鋼に東洋ゴムや日産にワーゲンなどの経営陣を始めありと人類のありとあらゆる

活動や行為や組織に 「自己監視は危ないので相互監視しろ」というこのパウロの言葉は重要な

示唆を与えているということなのです。

  そして、その最大の責任はやはり社会の基盤となる法律や道徳や宗教に絶大な影響を持つ

人類歴史上の揺るぎない最大の権威と甚大な影響力を持つ聖書という古代の教典の翻訳に

あるということなのです。 この様な間違った聖書翻訳を世に送り出したという嫌疑で、おそらく

最後の審判で神の前に立たされた多くの歴代のキリスト教会の指導者がいの一番に社会の

腐敗や不正の蔓延ヤ放置の責任を問われるのでは無いでしょうか。そして、その事を要請も

要求も探求もしなかった多くのキリスト者が同罪に問われるという事は不可避だという事なのです。

ギリシャ語は正しく学べは世界一簡単な言語

  これが世界一簡単なギリシャ語の学び方講座のコンテンツとそのページへのリンクです。

一番下が講座のスタートで上に来るほど後のクラスになります。


ヤフーのブログのシステムの関係ですぐ下の一番上にあるのは最後の記事です。

順序だってご覧になりたい方は右のスクロールバーをドラッグしてグーッと一番下まで下げて

2007年の11月の一番最初の記事から順に上の方に向かって順にご覧ください。

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2017

2017年 11月12日 第10課「動詞の変化」を持って
   世界一やさしいギリシャ語初級講座第七期終了
いたしました。次回開催は未定です。
左端の①~⑩の数字の物がそれぞれの課の大切なテキストです。他は参考です。

2016/1/21(木) 午後 10:20
 2012/9/19(水) 午後 9:25
 2011/4/20(水) 午後 10:53
 2011/4/17(日) 午後 9:55
 2011/4/16(土) 午前 4:54
 2011/4/15(金) 午後 11:02
 2011/4/7(木) 午後 5:31
 2011/4/6(水) 午後 10:07
 2011/4/6(水) 午前 8:19
 2011/4/4(月) 午後 3:20
 2009/7/8(水) 午後 11:33
 2009/5/20(水) 午後 11:29
 2008/2/3(日) 午後 10:21
 2008/2/2(土) 午後 3:57
 2008/2/2(土) 午後 3:55
2008/2/1(金) 午後 11:36
 2008/1/29(火) 午後 11:15
 2008/1/28(月) 午後 11:36
 ⑨2008/1/25(金) 午後 10:44
 2008/1/22(火) 午後 11:46
 2008/1/21(月) 午後 11:51
 2008/1/20(日) 午後 7:17
 ⑧2008/1/18(金) 午前 0:03
 2008/1/17(木) 午後 11:35
 2008/1/13(日) 午後 11:15
 ⑦2008/1/11(金) 午後 10:27
 2008/1/10(木) 午後 11:14
 2008/1/9(水) 午後 11:36
 2008/1/8(火) 午後 11:26
 2008/1/7(月) 午後 11:42
2008/1/6(日) 午後 11:31
 ⑥2008/1/4(金) 午後 9:03
 2008/1/3(木) 午後 11:15
 2008/1/2(水) 午後 11:42
 2008/1/1(火) 午後 11:37
 2007/12/31(月) 午後 7:51
 2007/12/30(日) 午後 11:24
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 ⑤2007/12/28(金) 午後 11:50
 2007/12/27(木) 午後 4:55
 2007/12/26(水) 午後 11:11
 2007/12/25(火) 午後 11:51
 2007/12/24(月) 午後 11:37
 2007/12/22(土) 午後 11:03
 ④2007/12/21(金) 午後 11:28
 2007/12/20(木) 午後 11:50
 2007/12/19(水) 午後 11:46
 2007/12/18(火) 午後 11:23
 2007/12/17(月) 午後 11:38
 2007/12/16(日) 午後 11:21
 2007/12/15(土) 午前 1:10
 ③2007/12/14(金) 午後 10:55
 2007/12/13(木) 午後 11:25
 2007/12/12(水) 午後 11:13
 2007/12/11(火) 午後 11:44
 2007/12/10(月) 午後 11:15
 2007/12/9(日) 午後 11:18
 ②2007/12/8(土) 午後 7:57
 2007/12/7(金) 午後 11:47
 2007/12/6(木) 午後 10:52
 2007/12/5(水) 午後 11:37
 2007/12/4(火) 午後 10:41
 2007/12/3(月) 午後 11:40
 2007/12/2(日) 午後 10:35
 ①2007/12/1(土) 午後 7:57
 2007/11/30(金) 午後 11:29
 2007/11/29(木) 午後 2:51
 2007/11/28(水) 午後 3:00
 2007/11/26(月) 午後 11:37
序論 2007/11/23(金) 午後 11:48

イソップ寓話と聖書の相関研究(20年前)


正教師継続教育研修報告書  「聖書とイソップ寓話の相関研究」 
    研修者 川西聖書教会  牧師     油食林間
 報告資料目次
1)本文の抄訳
1.善と悪
2.蝉と蟻(日本語→蟻とキリギリス)
3.北風と太陽
4.狼と少年
5.兎と亀
2)聖書とイソップ寓話の相関関係について
1.ギリシャ語テキストに関して
2.聖書とイソップの相関箇所について
3.相関関係箇所の考察
3)古典ギリシャ語クラスのテキスト資料
4)イソップ寓話原典資料(シャンブリ版)
5)その他参考文献
6)研修費関連領収書
7)研修を終えて
1)本文の抄訳
1.善と悪(No1)                            
直訳  
  悪の下に善が迫害されて病気のようになっていた。そして(善は)天に登っていった。そして善はゼウスを問いただした。「どうしたら人間たちと一緒におられるのか?」すると彼は言った「全てが一緒には無理だ。一人が人間一人に対してなら行き着けるよ。」こう言うわけで一方で悪は人間たちに押し迫っている、近くにいて到着している。他方善は遅れている。天を出で下るので。
こう言うわけで善を成す者達はすぐにはめぐり合う事はない。悪を成す者達は互いが互いにつながっているからだ。
意訳  
  悪に迫害された善はすっかり弱ってしまった。そこで善は天に登って最高神のゼウスにお願いすることにした。そうして尋ねた。「どうしたら人間たちの所に留まって良い影響を与えられるのでしょうか?」神は答えられた。
「皆で同じように善い影響を与えるわけにはいかない。善はそれぞれの状況に合わせて個別に影響を与えるなら、何とか人間たちの所に留まれる」
こんな事が昔にあったので、善は天に逃げ去ったままなのです。その後は悪が地上を占領し、何時でも何処でもしたいほうだいなのです。反対に善は人間の世界では一向に見あたらないし、善を行うには大変な時間が必要なのだ。なにしろ注文が来てから天を出るし、その到着を待たなければならないのだから。
こう言うわけで人が幾ら善を行なおうとしても簡単に行えない。それは悪が絡み合って自分の縄張りである地上にひしめいているからだ。
2.蝉と蟻(日本語→蟻とキリギリス・No336)            
  直訳
冬の季節(雨期)に穀物が湿ったので蟻たちか乾かしていた。そこで飢えた蝉が彼らに養ってくれと要求した。すると蟻たちは彼に言った。「収穫の間に取り入れもしないで、養えだって?」彼は言った「暇がなかったのでね。歌と宴会でね」すると彼らはあざ笑いながら言った「なんと、収穫時に笛を吹くのなら、冬に踊るがいい」                   
 この寓話が明らかにしているのは、「全ての行為において何かを見下さないことが必要です。酷い苦痛や危険にあわないために。」
意訳                                  
    冬の晴れ間に、貯えていた穀物が嵐ですっかり湿気てしまったので、蟻たちが乾燥させていた。するとそこに飢えて死にかけている蝉がやって来て「一冬でいいからおれを養え」と要求した。そこで蟻たちは「長い収穫時期があったのに、何もしなかったあんたをどうして俺たちが養わなければならないのかね。」といった。すると蝉は答えた「なにしろ、社交音楽会で歌うのに忙しくてそんな暇があるわけがないだろう。」すると蟻たちがあざ笑いながら言い返した。「へえー、収穫時を気にせずに笛が吹けるなら、寒さも気にせず踊ったらどうかね。」
この寓話が教えているのは「大事ではないと思っていても、先ずやらなければならないことをしないと、酷い目に合わなければならないと言うことです。」
 
3.北風と太陽(No73)                            
直訳    北風と太陽が力について論争した。そして彼らのどちらかの上に勝利を置くことにした。それは彼らで人間の旅人の服を脱がせたどちらかに。
そして北風が酷く始めた。すると、人間は着物を硬く持った。彼はさらに吹き下ろした。そして風をこらえようともがいたより一層。そしてより一層強く服を引き寄せた。収まるまで。
北風は太陽に彼を引き渡した。すると彼は先ず初めに穏やかに照らした。すると人間は豊かな着物を離して置いた。非常な熱を彼は落とした。避けれなくなるまで、耐える力が無くなるまで。脱いで、側を流れる川に洗うために行ってしまった                            
  明らかにしているのは時として力で承服させるよりも言葉が良くなし遂げることがある。
意訳   
寒い北風と太陽が実力を競い合った。初めは論争であったが、力試しをして、旅人の服を剥がした方を勝者にする事が決まった。
先ず、北風が登場して、酷く吹き回した。すると旅人はそれに対抗して着物をしっかりとつかんだ。すると北風は益々激しく吹きつけた。そうすると旅人も必死になって服を飛ばされまいと頑張った。しばらくそのままであったがとうとう北風はあきらめて吹くことを止めて太陽に交代した。       
     登場した太陽は早速、旅人の上に日を降り注いだ、すると忽ち旅人は服を脱ぎはじめた。太陽がさらに激しく強く照り輝いたので旅人は等々裸になった上に、道の横に流れていた川に飛び込んで溢れ出た汗を流した。
これでわかることは「力で人を屈伏させるよりも、言葉で納得させるほうが有効だ」と言うことです。
4.羊飼いの悪ふざけ(No318)
直訳    羊飼いが引き出していた、彼の群れを村から前の方に。止まっていた、気晴らしを利用することに。そして、村人たちに「たすけて」と叫んで言った。「羊たちに狼らが入りこんだ。」そして二度三度、驚いて村を出た、そして飛び出した。その上、笑って解散した。
最後が起きた、真実に狼が臨んだ。そして引き裂いた彼らの群れを、そして羊飼いは助け求めた。村人たちを呼んだ。その人々は彼に答えて何時ものようにふざけた。関心を示さなかった。そして、こうして彼らの羊たちが奪われることが起きた。
この言葉が示しているのは、この事を受ける、嘘つきはまた真実を言うときも信じられない。
意訳   
 羊飼いが羊を村の囲から放牧地の方に連れだす時に、よく悪ふざけをした。それは「助けてくれ!狼が羊を襲っている」と言って村人を驚かして、駆けつけた人を馬鹿にすることであった。しばしば騙されていた村人も次第に馬鹿らしくなっていた。そんなときに突然、狼の群れが出てきて羊に襲いかかった。羊の群れは散々に食い荒らされた。羊飼いは慌てふためいて村人たちに叫び助けを求めたが、誰一人耳を貸すものはなかった。そうしてとうとう羊飼いは群れの羊を全て失ってしまった。               この話が教えているのは「いつも嘘をついているひとは、真実を話すときにも信じてもらえない」と言うことです。
5.亀と野兎(No352)
直訳    
  亀と野兎が速さに関して論争しました。そして、そこで指定された日と場所を立てて、解散しました。一方野兎は本性の速さの故に、早く走ることを怠けた。道の側に倒れて眠った。しかし、亀は自分が遅いことを自覚していたので休まないで走った。そして、野兎がまだ寝ているのを走りすぎ勝利の栄誉の上に到着した。
この言葉は示す、しばしば天性は不注意で努力が勝つ。
意訳     
亀と野兎が言い争って喧嘩になりました。日時と場所を決めて何方が先に行けるかで決着する事にしてその日は別れました。野兎は走ることには大変自信があったので、亀に負けるはずがないと考えました。亀を馬鹿にしてこれ見よがしに道端に横になっていました。そうしていつの間にか眠りに落ちていきました。一方亀はよくよく自分の欠点を知り抜いていました。定められた日までに未だ間があったのに、その場所に向かってたゆみなく走りました。ほどなく寝ている野兎の側を通り抜け早々と約束の場所に着いてしまいました。こうなっては野兎が約束に間に合っても勝ち目はありません。
この話は「どんなに才能があっても努力がなければ無駄になる」事を教えています。
2)聖書とイソップ寓話の相関関係について
1)ギリシャ語本文に関して
イソップ寓話は起源前6世紀にに実在した人物が起源である。(ヘロドドス2巻134章)彼はサモス人イアドモンの奴隷であった。その生涯は不明な点が多く最後は彼の話術に対する逆恨みを得てデルポイで処刑された。その寓話は口伝として世界に広まり、同時に様々な改編や誤訳に贋作が混在して流布したと思われる。最初にイソップの寓話を記述したのはアテネで処刑される直前のソクラテス(BC399 : プラトン「パイドン60E 」)によるものと言われるが今日にまで、その所在は確認されていない。
次に、イソップ寓話を収集したのはバレロンのデメトリオスで(BC350-280頃)当時の口伝や各種寓話の中でイソップによるものを採集しその写本はAD10世紀頃まで実在していたが今日ではその所在は確認されていない。
現存する写本で最古のものはパエドルス(BC18) によるものでラテン訳のものが5巻95話が現存している。
さて、最も信頼できるギリシャ語写本はAD1世紀の後半に記されたバブリオスによるもので143話が存在しパエドルスの95話と共にB.E.ペリーによって編纂されローブクラシカルライブラリー436番に収録されている。                
今日、最も信頼できるテキストとしてはエミール・シャンブレーによる358話が最も標準的テキストとして評価さているのて是を参考のため添付する。
2.聖書とイソップの相関箇所について
前記の如く、イソップ寓話は多くの人の口と筆を通して編纂されたためどの言葉がイソップ本人の物であるのか、或いは全く無関係の作者の寓話か、さらにそれぞれが編集されたときに、どれが編集者の加筆なのかを判別することは大変困難な問題を提起する。しかし、実際その流布の年代や当時の交易範囲から考えて聖書とイソップ寓話に相関関係があり得ることは否定できないと思われる。実際後記の17か所には何らかの影響があったと推測される。しかし、聖書がイソップ寓話に影響したのか、またイソップ寓話が聖書に影響したのかは今後の解明を待たなけれはならない。
特に、今日の形にイソップ寓話が纏められる過程で聖書を伝える人々が介在したことは否定できないからである。それは日本に最初にイソップ寓話を紹介した「イソホ物語」がイエスズ会宣教師によるものであり。教父アウグスチノスもイソップに親しんだ事などからも容易にうかがいしれる。                          
 聖書とイソップ寓話の相関関係箇所
番号   題名        共通主題     聖書箇所
No 11 エテイオピヤ人   肌の色      エレミヤ13章23節
No 19 造船所のイソップ  土と水      黙示録12章16節
No 20 2羽の雄鳥と鷲   へりくだり    Iペテロ5章5節
No 24 笛を吹く漁師    笛と踊り     マタイ11章17節他
No 37 狐と豹       豹の斑点     エレミヤ13章23節
No 58 人間と狐      麦畠の火事    士師15:1-8, IIサムエル14:30-32
No 59 人と獅子      獅子を殺す    士師14章5節~9節
No 66 王を求める蛙    木々にそよぐ王  士師9章1節~21節
No 69 医者蛙と狐     医者よ自分を治せ ルカ4章23節
No159 胃袋と足      肢体の自慢    Iコリント12章18節~22節
No198 惚れた獅子と百姓  自らを滅ぼす   創世記34章1節~31節
No252 木どもとオリーブ  木々にそよぐ王  士師9章1節~21節
No259 旅人と真理     捨てられた真理  箴言3章3節
No288 蛇の尻尾の導き   盲人の導き穴に  マタイ15章14節他
No296 盗みをした子と母  子どもを懲らせ  箴言19章18節       
 No331 黄蜂と蛇      自分の死で復讐  士師16章21節~31節
No343 禿頭の騎手     裸で生まれ死ぬ  ヨブ1章21節
3)相関関係箇所の考察
以上代表的17か所を上げたが、この中には明白な関係を示唆するものがある。例を上げると、                                  
 No 24 笛を吹く漁師    笛と踊り     マタイ11章17節他
No 37 狐と豹       豹の斑点     エレミヤ13章23節
No 66 王を求める蛙    木々にそよぐ王  士師9章1節~21節
No 69 医者蛙と狐     医者よ自分を治せ ルカ4章23節
No252 木どもとオリーブ  木々にそよぐ王  士師9章1節~21節
No343 禿頭の騎手     裸で生まれ死ぬ  ヨブ1章21節
である。それ以外は単なる偶然と思う事が可能である、しかし、上記6箇所に関しては何らかの関係があると思われる。しかし、実際にその関係を究明するためには残念な事にイソップ寓話に関する本文経歴が不明確であり、その相似点がどの時代に存在したのかを明確にする事が出来なかった。先述のペリーの編纂したバブリウスの物は紀元1世紀後半頃を参考にしてもやはりその時代には旧約聖書も新約聖書もほぼ現在の大勢が定まっていたと思われるため参考に出来ない。
従ってこの点に関しては残念な事だが、より優れたイソップテキストの入手を抜きにしては考察が出来ない。
参考文献リスト
1)辞書類                                    
Liddell,H,G;and Scott,R.Greek-English Lexicon 9th ed.,Oxford:Clarendon
Press, 1953.
Oxford English Dictionary,The.Compact ed.,Oxford:Clarendon Press, 1971.
2)テキスト類
Chambry,Emile.Esope Fables.1st ed.,Paris:Les Belles Lettres,1927.   
Babrius and Phaedrus.Edited and Translated by B.E.Perry.1st ed.,London;
                Harvard University Press,1990.                   
Rahlfs,Alfred.,ed.Septuaginta ,1st ed.,Stuttgart:Wurttembergische
                 Bibelanstalt Stuttgart,1935.
Aland,Barbara,et al.ed.,The Greek New Testament.4th ed.,Stuttgart:United
                         Bible Societies,1993.
 
3)その他参考文献
市川又彦訳 全訳イソップ物語(1)(2) 南雲堂 1995年.
大塚光信注 伊曾保物語 岩波文庫 1965年.
河野与一編訳 イソップのおはなし 岩波少年文庫 1996年.
塚崎幹雄訳 新訳イソップ寓話 中公文庫 1995年.
寺西武夫訳 イソップ物語 研究社 1988年.
中務哲郎 イソップ寓話の世界 ちくま新書 1996年.          
山本光雄訳 イソップ寓話集 岩波文庫 1996年.
村松達雄訳 イソップ物語 旺文社 1979年.
ラ・フオンテーヌ 寓話 (上)(下) 今野一雄訳 岩波文庫 1990年.
6)研修費関連領収書
図書購入経費                                
 書名          購入先            価  格   送料他
1)シャンブリ版テキスト  ヘルソネス書店      7800円           
2)現代語版イソップ1)      〃          1750円           
  1. 〃             〃               1280円   450円
4)イソップ英訳本   大阪梅田紀伊国屋     3598円           
5)ローブクラシカルテキスト他1)銀座教文館  33790円
                                        21210円   
                                   4180円
      ギリシャ語文法書〃                             2549円
       リシャ語文法書立川福音センター 28135円
  1.                                                       合計104742円        
  2.                            教育部よりの入金80000円
  3.                                                          自費24742円         
  4.                                         差引  残額               0円
7)研修を終えて                          
足掛け1年をかけて、教会の人々とともにギリシャ語をアルフアベットの初歩から始
めた。その後、ヨハネの福音書を学んだ。其に平行して有志の方々とともにイソップ寓話を原典で学んだ。更に興味の有る方々とは、ローマ人への手紙や、コリント人への手紙、また少し難しいがペテロの手紙にも取り組んでいる。             
    
         この学びに参加した一番年下はわが家の小学3年生、年長は70歳を越える壮年?や婦人?であった。学ばれた方々の中には初級文法の終了試験で満点を取られて満足されそれっきりギリシャ語とはさようならされた方もある。勿論礼拝には真面目に来られているがあっさりしたものである。また、最近来はじめた他教員が恐れをなしたのか、他の教会に移られたりもした。
     
     ギリシャ語がわからなくて本当に泣かれた方、聖書が原文で読める喜びに踊られた方様々な結果をそれぞれが経験された。不思議なことに1年を経て教会の大勢はギリシャ語なんて何のことはないと言う雰囲気になった。やる人も、やらない人も、当たり前になってすっかり落ちついた。一番心配であった求道者の方々は意外なことに全員がギリシャ語を習得し現在も継続中であり、しかも礼拝に出席される事が定着した。案じるより産むはやすしとは良く言ったものである。その中にはギリシャ語の為に来はじめた全くの新来会者が3名有る。しかし同時に教会員で2人の人がギリシャ語が原因なのかすっかり足が遠のいてしまっている。その原因は自分より頭が悪いと思っていた人々が易々と原典を読破し、自分がわからないという現実を突きつけられた事が許容出来なかったようだ、皮肉なものである。                                    
   
      今後の課題はこれらの方々に個別対処することである。特に、ギリシャ語の初級をおえられた全くの外部の方々は、今は全く教会に来られていない。約6名程であるが致し方がない。元々聖書には興味が無いのだが何とかして他の諸集会にもと思うが困難と思われる。インターネット上にホームページを4月に開設する予定で有るが、その方々の半数は、Eメールのアドレスをお持ちなのでそちらに教会での原典の学びを紹介する予定である。                                  
    
      私個人としても、今回の研修は大変益するところが大きかった。特に、古典ギリシャ語の文献を手に入れることができ、それを実際に読む事が出来た。実際に読んでみて余り難しくなく、新約聖書や70人訳聖書と同じ程度で簡単に読めることに驚いた。今後は、今回の研修で入手出来たプラトンやエウセビオス、ヨセフス等の古典を通して、聖書に興味の無い人々をも獲得する手づるにしたいと思う。
      
     最後に、このような研修の機会を与えてくださった教団教育部の増山部長を初め部員の方々と、同盟教団の諸教会に感謝してこの報告を終えることとしたい。
あとがき
いかがでしたか、イソップ寓話が聖書と同じ言語で記されている事が納得できましたか?
もし、,原文を見たいかたや、学びたい方は下記にメールを下さい。ご指導致します。
また、原文や正確な翻訳を知りたい方もメールを下されば時間があればその日のうちに
新しいページに載せます。遠慮なくお申し出下さい。

キリストの妻=女?

アメリカのハーバード大学の神学部の女教授が面白い発表をされました。 キリストに妻がいたかもと
 
言うのです。 もしそうだとすると長い間ローマカソリックの神父やシスターを縛っていた終生独身誓願が
 
無用になると言うのです。 

 
 詳細はこちらの動画をご覧ください。
 
 
  問題と成るのはエジプトの古代の言葉であるコプト語で記された紀元4世紀頃のパピルス断片です。 
 

これです。 
読めませんね!! 処理を施した物がこちらです。 

  え!! 裏側だって!! 昔のパピルス高価で今のA4程度で一万円位、だから表も裏も文字を
 
書いたものです。 何処で発見されたか、はたまたいつごろ手書きされた物かこんな小さな断片では
 
諸説入り乱れ確定は困難を究めました。 
 
  カレンキング先生はこれは、紀元2世紀中頃と言う事は紀元4世紀頃の物だというのです。
 
詳細はこちらのハバード大のページです。
 
 
  単なる紙切れの僅かな文字なのですがこの断片が聖書ではなくトマスの福音書と言う外典の記載と
 
関係があると言うのです。トマスと言うのはキリストの弟子の一人で「疑いトマス」と呼ばれる
 
実証主義者のキリストの弟子で、伝承では彼は東方インドまで宣教に出かけそこで殉教したと
 
いわれています。しかし、残念な事に彼に関する資料は一切残っていないのです。
 
  では何故このトマスの福音書なる物が在るかというと、それは彼の名を語って何者かが
 
キリストの生涯を書き残したのです。 勿論これを記した人は使徒(キリストの生涯の目撃者の12弟子)
 
ではありませんから、自分の目で見た事ではなく伝聞をさも自分が見たかの様に嘘を書いた書物なのです。
 
  ですからこのパピルスの断片は基本的に信憑性の無い書物でしかないのです。 しかもギリシャ語
 
では無く古代のエジプトの言葉で書かれた小さな破片なのです。 と言う事は何が書いてあったとしても
 
証拠力は無いと言う事になります。
 
   余分ですが旧約聖書が記されたヘブル語にも、新約聖書が記されたギリシャ語にも
 
実は「妻」と言う言葉その物が存在しません。ではどうして妻を表すかと言うと、女とうい言葉
 
(ヘブル語イシャ、ギリシャ語グネー)を文脈から判断して女と訳したり、妻と訳したりしているのです。
 
はっきり言って当時は一夫多妻が標準でしたから、要するに男の人が娶った多数の女の事で
 
特定の一人だけが妻であったと言う概念その物が存在しないのです。
 
  普通に複数いる大勢の女を、ときたま「私の女、彼の女」という記述のあった場合、現代語の
 
英語などに訳する時に、翻訳者が女=ウーマンと訳さず自分の判断で妻=ワイフと訳出しているだけ
 
です。 だから、たといもしカレン教授が解読した「私の女」という記述が存在したとしても、それが
 
果たして本当にキリストの発言の中に「私の女」と言ったことが間違いなく存在しても、それが
 
「私の妻」という解釈や翻訳が可能なのかはだれにも断言出来ないと言う事になります。
 
  以上の理由からこのカレン教授がコブト語に翻訳された小さなパヒルスの断片をかざして
 
「私の女」と書かれている文言を英訳に「マイワイフ」とするのは全く自由で間違いとは言えませんが、
 
 しかし、それだけの不確かな根拠をもってこの小さな断片を根拠にしてキリストが「自分の妻と発言した」
 
と言う意見発表はかなり学者としての見識が疑われる事柄なのです。
 
  勿論彼女はこれをもってキリストが妻帯していたとかそうではないと言う証拠力は無いと言うのです。
 
  現実はその程度の問題なのですが、このご時世それぐらいインパクトのある発言をしなければ
 
世間の注目は集めないし、本も売れないし、更に人気のない教授で生徒が少なと直ぐに解雇される
 
厳しいハーバード大学の経営哲学の熾烈なサバイバル環境の中にあっては、彼女がこういう発言を
 
しなければならない実情は察して余りあるものです。 それほど、彼女の教授としての現実の立場が
 
厳しいものである事を彷彿とさせてくれる発表だと言う次第です。
 
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