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モーセの十戒

モーセの十戒 

 聖書で一番大切な教えはなんといってもこの「モーセの十戒」です。

 旧約聖書の出エジプト記の20章の3節から17節と同じく旧約聖書の申命記の6節から21節にほぼ同じ形で記されています。
  今日は、この部分のヘブル語旧約聖書出エジプト記の方の原典の直訳とこれがギリシャ語に訳された70人訳からの直訳をご紹介しましょう。以下です。

  このブロクは5千字以上は投稿できませんので解説は明日に行います。 一番 下のリンクは十戒の部分の一般の翻訳を簡潔にしたいわゆる十戒の文言です。   

へブル語直訳
03 ・無い 彼が存在する にあなた 神ら もうひとつ別の 上 顔ら私
04 ・ 無い あなたが作る にあなた 彫像 そして全て 似姿 所は 中で 天 から高い所 そして所は 中で 地 から 下部 そして所は 中で 水ら 下部 に 地
05 ・ 無い あなたが自分自身を平伏す に彼ら そして無い あなたが奴隷される彼ら として 私 ヤハウエ 神らあなたの 神 嫉妬 巡視するは 咎めるの 父ら 上 息子ら 上に 第三ら そして上に 第四ら に憎むら私  
06 ・そして作るは 誠実 に 千ら に 愛するら私 そして に見守るらの 戒めら私の
07 ・ 無い あなたが担ぎ出す を 名の ヤハウエ 神 あなたの に 空虚 そして 無い 彼が徹底的に無害する ヤハウエ を 所の 彼が担ぎ出す を 名の 彼 空虚 
08 ・思い出す事 を 日 その 休む に 徹底的に聖する事彼 
09 ・ 6の 日ら あなたは奴隷する そして あなたは作る 全て 占領(わざ)
10 ・そして 日の その 第七 安息 にヤハウエ 神あなたの 無い あなたが作る 全て  占領(わざ)あなたは そして息子あなた そして娘あなた 奴隷あなた そして 侍女あなた そして 家畜あなた そして滞在者あなた 所は 中で門あなた
11 ・ として 6の 日ら 彼が作った ヤハウエ を その 天 そして を その 地 を その海 そしてを全て 所の 中で彼ら そして 彼は留まった 中で日  その第七 上に そう  彼が徹底的に跪いた(祝福した) ヤハウエ を 日の その 安息 そして 彼が徹底的に聖とした 彼 
12 ・徹底的に重くする事(orあなたは徹底的に重くしろ) を 父あなたの そして を母あなたの に 故に 彼らが長くさした 日らあなたの 上に その土 所は ヤハウエ 神あなたの 与えたは にあなた 
13 ・無い あなたが殺人する 
14 ・無い あなたが姦通する
15 ・無い あなたが盗みする
16 ・無い あなたが答える 中で共にいるあなたの 繰り返す(目撃証言)の ごまかし
17 ・ 無い あなたが欲望する 家の 共にいるあなたの 無い あなたが欲望する 女の 共にいるあなたの そして奴隷彼 そして 侍女彼 そして 去勢牛彼 そして ロバ彼 そして全て 所の に 共にいるあなたの 

70人訳直訳 

03 ・無い 彼らが確かに存在する あなたに 神ら 他らは しかしながら 私の。
04 ・ 無い あなたが確かに作る あなた自身に 偶像 無いも 全てら にせられたもの、全て 中で その 不可視ら 上に そして 全て 中で その 地 下 そして 全て 中で その 水 下にの下 その 地の。 
05 ・ 無い あなた方が確かに方に伏し拝む 彼らに 無いも 無い あなたが雇われ働きした(為) 彼らに。私が そして 私は存在し続けている 主は その 神 あなたの、 神は 熱心な者 離れ引き渡す(支払う)は 罪らを 父らの 上に 実子ら まで 3 そして 4 世代 その 憎んでいるらに 私を 
06 ・そして 作っているらは 哀れみを 中へ 千 その  愛しているらに 私を そして その 見守っているらに その 定めら 私の。 
07 ・ 無い そして あなたが取った(or彼が取った(為)or彼が取った) その 名 主の その 神の あなたの 上に 空虚。 無い そして (絶対に)無い 彼が聖くした(為) 主が その 受け取ったをその 名 彼の 上に 空虚。
08 ・あなたは覚えさせられろ その 日を その 安息らの 聖くする事 彼女を。 
09 ・6 日ら 働くらは(orを) そして あなたは確かに作る 全て その 業 あなたの。
10 ・ その も 日に その 第七 安息らを 主に その 神に あなたの。 無い あなたが確かに作る中で 彼女 全て 働きを、あなたは そして その 息子歯 あなたの そして その 娘は あなたの、その 男の子 あなたの そして その 少女 あなたの、その 牡牛 あなたの そして その 軛を あなたの そして 全て 家畜 あなたの そして その 改宗者 その 側で家する 中で あなた。
11 ・ 中で そして 6 日らに 彼が作った 主が その 不可視を そして その 地を そして その海を そして 全て その 中で 彼ら そして 彼が下に止めた その 日に 第七 そして 彼が聖とした 彼女を。
12 ・ あなたは価格しろ その 父を あなたの そして その 母を あなたの、為に 良く あなたに彼が成る(為)、そして 為に 長い時間の立ったは 彼が起きた(為) 上に その 地 その 善の、する所の(orあなたが存在し続けている(為)) 主は その 神 彼が引き渡し続けている あなたに。 
13 ・無い あなたが確かに姦淫する。
14 ・無い あなたが確かに盗む。
15 ・無い あなたが確かに殺人する。
16 ・無い あなたが確かに嘘の目撃証言する 下に その 近いの あなたの 目撃証言を 偽りは。
17 ・ 無い あなたが確かに欲望する その 女を その 近いの あなたの。 無い あなたが確かに欲望する その 家を その近いの あなたの 無いも その 畑を 彼の 無いも その 子供を 彼の 無いも 子供女を 彼の 無いも その 牡牛 彼の 無いも その 軛(ロバ)の 彼の 無いも 全ての 家畜らを 彼の 無いも 全て その 近いを あなたの 彼が存在し続けている。

http://bible.ne.jp/service/who/jikkai.htm  一般に言われている十戒 

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主の祈り

今日は聖書の中で有名な箇所に目を向ける事にしましょう。他でもありません、主イエスがお弟子たちに教えた「主の祈り」マタイの福音書の6章の9節から12節をみてみましょう。

原文は以下です。 

Πατερ ημων ο εν τοιs ουρανιs.
αγιασθητω το ονομα σου, 
ελθετω η βασιλεια σου. 
γενηθητω το θελημα σου. 
ωs εν ουρανω και επι γηs. 
Τον αρτον ημων τον επιουσιον δοs ημιν σημερον
και αφεs ημειs τα οφειληματα ημων,
ωs  και ημειs αφηκαμεν τοιs οφειλεταιs ημων
και μη εισενεγκηs ημαs ειs πειρασμον 
αλλα ρυσαι ημαs απο του πονηρου.

直訳してみます。

父よ 私達の その 中で その 不可視ら、
彼が崇めさせられろ その 名が あなたの、
彼が来させろ その 王国が あなたの、
彼が起きさせられろ その 意志が あなたの、
様に 中で 不可視 そして 上に 地、
その パンを 私達の その 当日(生存の為)の あなたは与えろ 私達に 今日。
そして あなたは放置しろ 私達に その 借金を 私達の、
様に そして 私達が 私達が放置した その 借金 らに 私達の。
そして 無い あなたが中へ運ぶ(為) 私達を 中へ 誘惑、
反対に あなたは救出しろ 私達を から その 邪悪。

翻訳してみます。

父さん 私たちの 見えない所の。
聖させて あなたの名を、
来させて あなたの支配を。
成させて あなたの意志を。
見えない所と同様に 地の上で。
私たちのパンを 生きれる様に 今日の分だけ与えて。
私たちをほって置いて 私たちの借金を、
私たちに借金している人をほって置いたのと同じに
あなたは私たちを運び込まないで 試験の中へ。
反対に あなたが助けだして 私たちを邪悪の中から。 

主の祈りのコメント

 この祈りが人間の生きざまについて教えている事はなかなか厳しいものです。何故なら、人間の祈願とは全く反対の事を願えと言う教えだからです。
  
  見えない神に対して、人間の自己実現ではなく反対に神の計画の実現(その名と支配と意志)を求める者されるように教えています。自己の名声、資産、人生設計の放棄を自主的に申告することです。 

そして、自分に関しての祈願は「今日の食料以外は要求しない」と言う、極貧に徹する意志の表明です。

さらに、神様の扱いを、自己の他者にたいす扱い以下に制限する自己実現の否定です。

さらに、自己が神様の試験に確実に不合格となる確信に加えて、自己が邪悪の中に存在し神の救済を要請する以外に希望の無い事を認証する事が主の祈りの本命なのです。

だから、こんな祈りをする様な人は一人も地上に生存しえないのです。

ボタンの掛け違い!

 ガラテヤ1章16節 

  聖書を原文で読んでいると随分と教えられる事が在ります。特に面白いのは旧約聖書の出エジプト記やレビ記や民数記です。

その中に登場する特徴的な言葉に「肉」や「血」と言う単語に出会います。そんなおりたまたまガラテヤ人への手紙を原典のギリシャ語で読でいてふと気がついた事が在りました。

 ガラテヤ人への手紙、1章の16節の終わりの箇所です。この新約聖書のしかもガラテヤ人の手紙で1章の16節の後半に出ている「 肉」や「血」と言う 単語は旧約聖書の70人訳で良く見かける物ばかりです。生贄にする「肉」そして、祭壇の隅に注ぐ「血」です。そして、その前にある 「★προσανεθεμην」と言う単語も良く見かけます。

これは、原形が「★προσανατιθημι」(プロスアナテイセーミ)で アオリスト一人称単数中態で意味は「生贄を献げる」と訳される言葉です。このガラテヤの手紙の中で使われているこの語は「私が自分の為に献げた」とするのが一番自然な事に気づきました。 

この語は本来「προσ=方に」と「ανα=上に」と 「τιθημι=私は置いた」と言う意味です。 しかし、普通の一般の翻訳が何故か「相談した」などと訳しているのです。 これはどう見ても単語自体の意味からは相当無理な曲解釈になるからです。

いろいろ調べてみると、まあ古い辞書には特例として「ここだけは特例として言葉の意味を無視して『相談』と訳す伝統が在るようです。しかし、この語がその様な意味で使われる他の用例も一切見当たらりません。

唯一この聖書箇所だけの特例として訳出されているようなのです。ギリシャ語の意味からは随分と無理な解釈になってしまいます。

  何故なら「相談」には普通は「βουλευω」や 「συνβουλευω」 を用いるはずだからです。 

この新約聖書のガラテヤ書の1章16節の「★προσανατιθημι」を70人訳戸同様に普通に自然に読んだら、果たして文脈で意味が通じなくなるのでしょうか? むしろ反対に分かりやすく意味がより通じるのでは無いでしょうか。

この箇所でパウロがガラテヤの人々に言いたかったのは「エルサレムの人々=血や肉にに★相談しなかった」と言う意味なのではなくは「エルサレムの神殿に上ったけれども血や肉の★献げ物=罪の為の献げ物」をしなかった。」言っているのでは無いのでしょうか? そして「宮に肉や血の献げ物 を捧げる為にエルサレムに上らなかった」と自然に読めば随分と理解しやすくなるように思います。

  そればかりではありません、このガラテヤ人への手紙執筆の背景を見るとより明確になります。割礼を強要てる人々がエルサレムからガラテヤ教会の地方にも下っ来ていたのです。彼らの目的は明解でした、「神様を信じた者は全て割礼を受け、ユダヤの掟を守って、年に三度エルサレム詣でをして、最近減少しているエルサレム巡礼者=血や肉を神殿に献げる=神殿の現金収入を増やす」という大変明解なミッションでガラテヤ教会の信者に割礼を強要しに来ていたからなのです。

その様に訳出すればガラテヤ書も分かりやすくなり、旧約聖書とも通じで良いことづくめだと思うのです。

  もし、この聖書箇所をその様に正しく訳出してて困る様な問題が何か教会に有るのでしょうか? 新約聖書の時代のギリシャ人クリスチャン達が年に三度のエルサレム巡礼をしなくしても教会にとって信者の負担が少なくなり、礼拝出席も増える(エルサレム教会に行く費用と時間が節約されるから)のでは無いのでしょうか。

いったい翻訳上で、パウロは明確にしているエルサレム巡礼を無用とする意味を明解にしてしまうと何か問題が在るのでしょうか。

日本の教会ではあまり問題にならないかも知れませんがヨーロッパの伝統ある教会にはかなりの経済的打撃を与えてしまうのかも知れません。もしこんな風に、聖書を正しく翻訳してしまうと中世のヨーロッパキリスト教会には今以上に沢山の巡礼が在りました。キリスト教会の名所旧跡をお遍路れんのように回っていたのです。こんな正しい翻訳をしてしまって大切な教会の収入源が減少しては大変です。

  だから、こんなふうに教会にとって損害「巡礼者の減少による現金収入の減少」が生じな様に翻訳してしまったのではないでしょうか。所詮人間は全て罪人。信徒もしっかりとキリシャ語やヘブル語を学んで原典にあたる習慣をつけていないといい加減な学者が教会の指導者に喜ばれる様にいい加減な翻訳でごまかされしまうのも仕方ないでしょう。

  そして、その様な観点=パウロが戦ったのはエルサレム教会とユダヤ神殿がガラテヤ人の異邦人クリスチャンに旅をさせエルサレム詣でさせる事に反対したと言うことなのです。そんな悪巧み「=ユダヤ教入信キャンペーン=割礼と、宿泊によるエルサレムの繁盛」から、ガラテヤの教会の入信したばかりのキリスト者を守ろうとしてパウロが送ったこのガラテヤ人への手紙ぐらいは本当に正しく訳出して欲しいものです。

と言うことで今日は何故か、ボタンの賭け違いで、一件辻褄が合っている様でよくよく読んでみると原典やパウロの意図を無視した訳になっている翻訳における「ボタンの掛け違い」のご紹介でした。

蝉と蟻

   今日は有名なイソップ寓話の「蟻とキリギリス」原文では「蝉と蟻」を訳してみました。 
一般にキリギリスとされているのはヨーロッバアルプス以北には蝉(=原文ではテェティクス=ツクツクボウシの事)生息しなので便宜上「キリギリス」と訳出した事に因るのです。

蝉と蟻(日本語→蟻とキリギリス・No336)            

直訳
  冬の季節(雨期)に穀物が湿ったので蟻たちか乾かしていた。そこで飢えた蝉が彼らに養ってくれと要求した。すると蟻たちは彼に言った。「収穫の間に取り入れもしないで、養えだって?」彼は言った「暇がなかったのでね。歌と宴会でね」すると彼らはあざ笑いながら言った「なんと、収穫時に笛を吹くのなら、冬に踊るがいい」                   

 この寓話が明らかにしているのは、「全ての行為において何かを見下さないことが必要です。酷い苦痛や危険にあわないために。」

意訳  
  冬の晴れ間に、貯えていた穀物が嵐ですっかり湿気てしまったので、蟻たちが乾燥させていた。するとそこに飢えて死にかけている蝉がやって来て「一冬でいいからおれを養え」と要求した。そこで蟻たちは「長い収穫時期があったのに、何もしなかったあんたをどうして俺たちが養わなければならないのかね。」といった。すると蝉は答えた「なにしろ、社交音楽会で歌うのに忙しくてそんな暇があるわけがないだろう。」すると蟻たちがあざ笑いながら言い返した。「へえー、収穫時を気にせずに笛が吹けるなら、寒さも気にせず踊ったらどうかね。」

この寓話が教えているのは「大事ではないと思っていても、先ずやらなければならないことをしないと、酷い目に合わなければならないと言うことです。」

コメント

 この寓話が教えているのは王や貴族が国政を放置して虚栄の満ちた社交パーテイにのめり込んでいる頽廃した古代のギリシャポリス社会を批判したものです。順調な国家の財政収入が飢饉やその結果引き起こされる戦争等によって緊迫すると、安易に増税によって自分たちの生活レベルを維持しょうとする安易な財政改革を批判した物なのです。

  「蝉」は大きな声で民意民意等と号令だけをかけて遊びほうけている為政者や官僚、財界人などを象徴し、「蟻」は、実際の労働者で農民や産業従事者をさしています。厳しい産業の冬=飢饉や戦争(デフレや経済恐慌)ょき嵐が一度吹き荒れるとたちまち社会状勢は疲弊して国家のあらゆる部分に歳入不足が発生しそのしわ寄せは全て社会の底辺を支えている弱者(蟻たち)に過大な負担が課せられるのです。

  その様なありさまが続くとその先がどうなるかは自明です。労働者達いずれ納税拒否か革命に活路を見いだす事でしょう。そして国家が衰退し燐国による侵略の結果(ギリシャの場合はローマや回教国)国家体制は崩壊するのです。 

 

神の意志

  今日は皆様とご一緒に大変難しいギリシャ語に取り組みましょう。他でもありません、第一ペテロの3章の17節です。原文と括弧内に単語の逐語訳を記します。

  κρειττον(よりよい) γαρ(何故なら) αγαθοπουνταs(善を行っているらは) ,ει(もし+現在時制=仮定条件を話者が認めている) θελοι(希求法現在形=彼が願えよ) το(その) θελημα(意志) του(その) θεοs(神) ,πασχειν(苦しみ続ける事) η(よりも) κακοποιουνταs(悪を行い続けている).

  これをギリシャ語を除いて日本語だけ(直訳)にしてみます。

  よりよい 何故なら 善を行っているらは、もし 彼が願えよ その意志 その神の 、苦しみ続ける事 よりも 悪を行い続けているらは。

  これを後置語などを前に置き変えてすこし日本語らしくしてみます。

  何故なら よりよいのです。善を行っているらが 神の意志なのです 苦しみ続ける事、悪を行い続けているよよりも。

  もう少し日本語にしてみます。

  何故なら、よりよい神の意志は 何時も善を行っている者が苦しみ続ける事です。悪を行い続けている者ではなく。

  これを、一般の翻訳と比較してみると聖書原文の大切な主張点が浮上します。 以下に一般の翻訳を記します。

  新改訳・もし、神の御心なら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるより良いのです。
  新共訳・神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
  口語訳・善をおこなって苦しむことは―それが神の御旨であれば―悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。
  岩波訳・神の意志(おもい)であれば、善を行って苦しむこと[もあるかもしれないが、それ]は悪を行っている為[に苦しむ]よりもよい。
  WEB・For it is better, if it is God’s will, that you suffer for doing well than for doing

   面白いですね。ギリシャ語の原文は明確に「善を行って苦しむ事が神の意志だ」と明言されているのにいずれの翻訳も 仮定を強調してあたかも善を行う物が苦しむ事もあり得るかのように訳出している事です。
  このような読み方の違いを議論してもきっとつまらないでしょうからこれ以上この部分関するギリシャ語や訳文に関するお話は止めて目を別の事に向けたいのです。

そう、この様な翻訳の微妙な、そして非常に大切な部分の理解にはこのペテロの手紙の著者の置かれている状況理解が大変大きな影響を持っている事を勘案する必要が在ります。

  ご存じのかたも多いかと思います。あのイタリヤのローマのバチカンの巨大なサントピエトロ大聖堂は何処に建てられているかご存じでしょうか? そう、この言葉を記したペテロの墓の上に建てられているのです。 どうしてペテロが死んだかご存じでしょうか? 有名な「クオバデス」をお読みになりましたか? 
  その真意の程は確かめようがありませんが、一つの事実は疑う事が出来ません。

  この言葉を語った使徒ペテロはローマ帝国の官憲によって捕縛されこの近くで逆さ十字架刑に処せられたのです。
  何か死刑に値する犯罪を犯したためでしょうか? 違います。ただ彼はイエスキリストの復活を伝えたのです。
  イエスキリストが良い事を行って十字架で処刑された様に彼も良い事をして十字架で処刑されたのです。神様の御心は何ですか? それがペテロがここで言っている事なのです。なぜならば使徒ペテロはローマでこの手紙を記し、そして期日うへずして処刑されたのですから。

  文字通りペテロは残された多くのキリスト者達に「善を行う者が苦しむ事が神の意志だ。だから私はローマ人の手によって処刑されるのだ。あなた方も私に倣って死に至るまで主に従え」というメッセージを記しての手紙を書き送ったのです。
  ですから、このペテロ記した手紙には明白にこの主題「世界は悪に支配され善が迫害されるのは当然だ」と幾度も記されているのです。ただ、残念な事いずれのその様なペテロの明確な主張も、ペテロを処刑した人々の子孫たち(ローマのキリスト教会)の手によって、全て「神の御心であれば『善を行って苦しむ事もあるかもしれない』でもそんな事はまず無いだろう」と訳出される様になったのです。

  使徒ペテロがこの様に訳出された翻訳を読む機会があったらきっとこういうに違いありません。「お前たちも先祖も、『もしかしたら本当に神様の恵みに預かる事があるかもしれない』でもそんな事はきっと無いだろう。」

赤い紐

赤い紐 旧約聖書ヨシュア記2章18節 

  聖書を原典で読んでいると、不思議に思うことによく行き当たります。先日ヨシュア記の2章を読んでいて不思議に思った事が在りました。それは、モーセの死後、イスラエルの指導者となったヨシュア(ギリシャ語訳はイエス)が攻略するエリコに遣わした二人の斥候が持っていた「赤い紐」なのです。

  発掘の結果、エリコ(「月の町」の意味?)は二重の城壁を持つた2ヘクタールの巨大な城塞都市であった事が判明しています。

  二人の斥候は怪しまれないように遊女ラハブ(広い)の私娼宿に泊まりました。その売春宿でエリコの王が遣わした追っ手に踏み込まれたのですが、ラハブの計らいによって危うく難を逃れるのです。まあ、売春宿の宿命としてお客の秘密と安全は生命線だったからなのでしょう。
  2章の1節で二人のお客が泊まったと訳されている言葉は「シャカブ」と言う言葉で一般に聖書の中で男女関係を表す場合の言葉です。用例としては創世記19章33節、35節などのロトの娘と彼の父の性行為を表す為に使われています。原文では「彼らは寝た、そこへ」となります。完全に売春宿のお客になりすましたのです。

 二人のお客の素性を知った売春宿のお上ラハブは、イスラエルのエリコ侵攻は不可避と悟り、斥候と取引をするのです。生命の危機に直面している二人の斥候たちにとって遊女ラハブの提案は受諾する以外に術のない状況でした。何しろエリコ(要塞都市)の城門は閉じられ城外脱出も不可能で、たとい無事エリコの町を脱出しても道中で追っ手に捕縛される可能性が高かったからです。
  遊女ラハブが提示した条件は以下です。「二人の斥候の情報を他言せず、城外に脱出をさせる代わりに、イスラエルがエリコ攻略時に一族の救助を要求したのです。」二人の斥候に取って選択の余地はありません。快諾し、逃避完遂時には必ずラハブの一族の安全を保証したのです。

 一族を識別する為に斥候たちは 「イスラエルのエリコ攻略時に、一族が必ずラハブの家に退避しその窓に印として斥候たちは赤い紐を明示する事」を要請したのです。 そして、彼らはラハブの家の窓から城壁づたいに城外にのがれヨシュアの元に帰還し、エリコ攻略は開始されるのでした。 

  ここで、気になるのがこの赤い紐です。ラハブの家の窓から吊り降ろされたのは綱でへブル語はケベル(綱)です。70人訳ギリシャ語ご聖書は15節の「綱」の部分は「下に緩める」として、18節に「ロープ=綱」と訳していますがへブル語の方は少し書き方が違います。それぞれに別の言葉が使われているのです。

 へブル語の18節に使われている赤い紐は、 フート(紐)+ ハシャニー(緋色)です。そして此の紐という言葉は列王記Ⅰ7章15節やエレミヤ52章の21節を見ると測量様の丈夫な紐(伝道者の書4章12節)である事がわかります。

  と言う事で、ヨシュアが遣わした二人の斥候はエリコの巨大な城壁の構造を測量する為に危険を犯して、売春宿に偽装宿泊していた事がわかるのです。しかも、彼女の売春宿は城壁の内部ですから城壁の外部構造に加えて内部構造も測量できたのです。その上、ラハブが二人を匿った屋上の「亜麻の茎」の干場はエリコの町の防備で最重要な城壁最上部でした、と言う事はその様なエリコの町の防御施設や設備の詳細も入手できたのです。
  遊女ラハブの協力(エリコに対する裏切り)があったおかげで何とか使命を果たした二人の斥候は無事任務を完遂して派遣したヨシュアの元に帰還します。彼らはエリコの偵察の状況結果をヨシュアに上奏するのです。
  この報告時に使われている言葉も大変、変わった興味ある言葉です。へブル語では「ケサフエルー」で原形は「セフエル」です。一般に「書記」や「書物=聖書」と訳される「数える、と言う意味の強意形」なのです。これを日本語に直訳すると「そして彼らは徹底的に数えた」となります。わかる事は、斥候からのヨシュアの報告は正確な書面であったのです。一体その書面には何が記されていたのでしょうか? 自明です。エリコの町の詳細測量図面であったでしょう。これが元になってイスラエルのエリコ攻略が開始されるのです。

  この事から、ヨシュアの緻密なエリコ攻略には何か重大な計略があってなされていった事がわかるのです。この続きはまたいつかお話する事に致しましょう。

罪の無い者

聖書を原文で読むようになって最近はすっかり邦訳聖書から疎遠になってしまいました。何故かって? それは怖くって翻訳が読めないからです。 そんな思いにさせた箇所の一つが次の聖書箇所です。

マタイの福音書12章7節 以下にこの聖書箇所のいくつかの代表的な翻訳を記します。

■新共訳・もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
■口語訳・『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
■新改訳・『私はあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かをしっていたら、あなたがたは罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
■岩波訳・もしお前たちが、『私の望むのは憐れみであって、犠牲ではない』[と言う言葉]が何を意味しているかわかったならば、罪の無い者たちう断罪などしなかったであろうに。
■WEB・12:7 But if you had known what this means, ‘I desire mercy, and not sacrifice,’ you would not have condemned the guiltless.

  聖書に通じた方であれば誰でも上記の翻訳に 「アレ!」という疑問をもたれる事でしょう。そう、いずれの翻訳を読んでみても聖書には「罪の無い人間が存在する」かの様に訳出されています。

聖書が幾度も繰り返して教えているのは明確に「神の前に罪の無い人はいない」ということです。
以下に代表箇所のみを記します。
● 旧約聖書 Ⅰ列王記8章46節「罪を犯さない人間はいない」
● 新約聖書 ローマ 3章 23節「罪の無い人はいない」

もし、上記の翻訳が間違いないなら聖書は自己矛盾を起こしている事になります。何故ならマタイの福音書の12章7節の翻訳でキリストは自分の弟子たちに対して明白に「罪の無い者」たちと主張した様になっているからです。

★本当にこの翻訳が正しのでしょうか? ギリシャ語の原文に目を向ける事にしましょう。原文でこの箇所をを見てみると、「罪の無い者」と訳されている語には珍しい単語が使われているのです。とりあえずこのフレーズを見てみましょう。 ギリシャ語の原文はこの部分はこうなっているのです。

「ουκ αν κατα δικασατε  τουs αναιτιουs. 」以下に逐語直訳します。
「無い ともかく あなた方が下に義(有罪宣告)した その 罪に問われないらを 」となります。

随分と原文と翻訳は違っています。そして問題の「罪の無い者」と言うのは「罪に問われない」となっています。全然意味か違っていますね。詳しくこの言葉を見ていく事にしましょう。

問題は一番最後の「αναιτιουs.=アナアイテイウス」という言葉です。いずれの翻訳、英訳も全て「罪が無い」と訳出しているのです。しかし、ギリシャ語で見ると全然そんな意味の言葉ではないのです。

ギリシャ語で「罪がない」という時には、ヨハネの福音書8章7節(この箇所は本来の聖書ギリシャ語の原典本文には欠如している部分であるが)にある 「 ο αναμαρτητοs」とするはずです。

★いったいどう違うのでしょうか?

このマタイの12章7節の最後の「罪が無い者」と訳出されているギリシャ語は 二つの言葉の合成語です。
『「α」+ 「ν=母音が続く場合の音便」』+「 αιτια」です。

それぞれの意味は

「否定語」+ 「要求 =原形の動詞αιτεω」と言う意味なのです。

★と言う事で原典のギリシャ語がこのマタイの福音書の12章7節で言っているのは「罪がない」ではなく 罪が「要求されない」と言っているのです。

★と言う事は「要求されない」だけであってその人に「罪は存在する」わけです。

この事は以前お話した「罪の許し」と言う語の誤訳(罪の放置 参考URL=

http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1154299.html )の箇所と根深い関連があります。

「聖書が教える贖い」とは人間の罪が無くなるのではなく、「罪がそのまま放置される」と言う事でした。もしこの箇所が罪があってもその事が「罪の有無が要求されない」ならばそれはそのまま放置されると言う意味と符合するわけです。

もし、そうででないと、聖書の他の箇所と矛盾する事になります。聖書は明確に多くの箇所で「罪の無い人間はいない」と言明しているのです。もしここでキリストが「罪のない人が存在する」ことを言っているならなら聖書は自己矛盾する事になるからです。

翻訳は原文の意味をそのまま記す事が少なく、分かりやすい言葉に訳そうとする為なのか、その前後の文脈ではわかったような気になるのですが聖書の他の箇所とは食い違いいくら読んでもなかなか聖書の教える事が理路整然と認識しにくいのです。しかし、ギリシャ語の原文で読む聖書はすっきりしていて大変分かりやすいものなのです。

幕屋の構造

 今日は忙しいので昔書いた論文の紹介記事を転載します。元のページと詳細は一番下のリンクをご覧ください。

「幕屋の構造」の研究より

  聖書は幕屋について多くの紙数を費やしています。出エジプト記では40章の内1/4を超える12章がこの記録に当てられています。またレビ記全体も、幕屋で行われる祭儀に関する記録が記されています。民数記1~12章も幕屋と深い関係があり、新約聖書にもキリストとの関係で幕屋の事が記されています。

  ところが今日、多くの批評学者は幕屋の実在を否定しようとしています。そこで私は聖書に記されている幕屋の構造を、そこに記されている材料を用いて建築した場合にどのようになるだろうかということを、材料、技術、重量、その他の面から実証してみようと思い立ちました。その結果いくつかの意外な (当然な?) ことが分かって来ました。

  たとえば、幕屋に使用された金の総量をかぶせられた面積に割り振りました。なんとそれは60μの薄い金箔になるではありませんか。しかもそれは当時のエジプトの技術では十分可能であったのです。

 また契約の箱の重さは、どう見積もっても500㎏はくだらない重量物となります。これを担ぐには少なくとも12人の祭司が必要です。そしてそれはヨシュア記3章12節と全く符合するのです!

 ここでは紙数の関係で特に幕屋を形づくっている板について、貧しい研究の結果をご紹介します。

幕屋の壁の部分はアカシヤ材で作られており、移動が可能な様に組立式になっています。

 さて、これが 「板」か 「板わく」か については、長い間にわたる学者の議論が有りました。口語訳はヘブル語 「ケレシュ」 を「枠」と訳し、文語訳、新改訳は「板」と訳しています。ちょっと考えるとどうでも良いことにも思えますが、いざ幕屋を復元して見ようとすると、板か枠かでは大変大きな相違がある事がわかります。

  まず材料のアカシャ材について考えてみますと、この木はシナイの荒野に特有の木で、パレスチナでは死海の南部に僅かに見られるだけです。樹高は4~7米、幹の太さ約30㎝、材質は堅牢そのもので、比重は死海の水よりも重く、ここでは1.2と考えました。

  さてこれを板として考えると、どの位の重さになるでしょうか。

・厚さ1キュビト説 (ラッシ)これを次のような式で計算してみます。すなわち、重さは体積×比重ですから、45×(45×10)×(45+45÷2)×1.2=1640250g 一枚の板の重さは約1.64トンで、総重量は約79トンとなり途方もない重量になります。

・4分の1キュビト説(ガグラディ)。この場合は、隅の板には斜めに切断され、かぎ形に張り合わされたものとする為、聖所の外形は横が10.5キュビト、長さ30.75キュビトになり、その重量は、一枚が410㎏、全体で約20トンになります。

・6分の1キュビト説(ペイン)この場合は、一枚の板が273㎏、全体では13トンとなり、だいぶ軽くはなります。しかし、民数記7章では幕屋全体を運ぶ車が4両しかないのですから、板だけで13トンは重すぎます。

・板枠説(ケネデ)。この場合も厚さ6分の1キュビトで計算しますと、一個の板枠の重さは71㎏、48枚で3.4トンになります。

  しかし、実際にはこの他に、柱、横木、台座、庭柱と台座が加わります。これらの重さも、それぞれの寸法によって綿密に計算してみました。それによると、柱と横木が1.5トン、台座3.4トン、庭柱と台座が770㎏で、全部を合計すると約9トンになります。これらを運ぶのはメラリ族の役割になっおり、そのための車は4両と決まっていましたから(民数記4章31節、7章8節)、一両が運搬する重量は約2.25トンになり、現実的なものに近くなります。

  その他、装飾の面からも、板枠説が正しい事が分かってきます。幕屋は巧みにケルビムが織り込まれた幕で覆われていました。もしケレシュを板と訳すと、見事なケルビムは何処からも見ることができません。しかし、これを板枠とすれば、見事なケルビムが板枠の間に額にはまった絵の様に美しく浮きあがって見えたことでしょう。

  私は新改訳聖書を愛用し、生涯これを教会で用いたいと思っています。しかし、この部分については、以上述べた点からも改めるべきではないかと思っています。勿論足りない学びです。先輩の先生方には別の論理があると思います。足りない所は教えて頂きながら、なお、私達が用いている聖書を正しく解釈する為の学を続けて行きたく願っています。諸先生方のご指導を心から仰ぎたく願っています。

http://bible.co.jp/tabernacle/

エレク (私行く)

「エレク」(私行く。) 旧約聖書 創世記24章58節

 原典で読む聖書は感動に満ちています。今日取り上げた「エレク」と言う言葉も考えさせられる言葉なのです。その言葉の意味を知って頂く為に、出来事を順を追ってお話しして見ましょう。

 この言葉が登場するのはアブラハムの一人子(正妻サラの子は一人である。実際には妾らが産んだ男子だけで8子ある)イサクの嫁取り物語に登場する言葉です。

  アブラハムの跡取り息子、イサクはその時40歳でした。もう立派な中年男です。その父アブラハムは何とかして立派な嫁を娶ろうと画策するのですが、彼が滞在するカナンの地の住民たちは大変不道徳で適当な相手が見当たらなかったのです。致し方なく彼は自分の親族が移り住んでいるシリヤ北西部のハランの親戚の中から身持ちの良い娘を嫁にと願うのです。しかし、老齢のアブラハムは御年140歳で帰省は無理でした。彼は一族の命運をにぎる跡取り息子の嫁捜しを、最年長の奴隷に託します。

 その嫁取りの大命を託されたのはシリャのダマスカス出身のエリメレクという家令(奴隷の長)でした。彼は、当時の不穏な国際情勢や通過する地域の情報や風俗習慣に精通していたのです。初対面の人に信頼され、主人とそのご子息に気に入られ、更に先方のご家族の了解を頂いてご本人を預かって無事帰宅しなければ成りません。このような困難な事業に彼以外に適任は考えられなかったのです。

  彼は主人の資産に相応しい結納品を揃えます。選んだ交通手段は駱駝10頭の護衛を伴ったキャラバン隊でした。そして、たとい道中に盗賊に遭遇しても出来るだけ被害の少ないようにと見事に金品を収納し目指すシリヤ北西のハランの町に向かうのです。

 当時アブラハムが住んでいたのはパレスチナ南部のべェルシバ(創世記22章19節)、そこから目的地のハランまで直線距離で約750㎞、安全な道を選べばおそらく1000㎞程の大旅行でした。一説によれば駱駝は無荷で時速16㎞、連続走行時間は最大18時間と言う事で一日に200キロは移動が可能でした。と言う事は休憩時間なども考慮すれば1週間ほどの旅であったでしょう。

  そして、彼は目指す町の傍の井戸に駱駝を伏させ、当時は若い乙女達の日課となっている夕べの水汲みを利用して嫁候補の面接を目論むのです。彼は思いやりの深い、健康な女性にめぐり合えるように神に祈願し、水汲みに登場したリベカ(雌牛と言う意味)に目を止めたのです。そして彼女に出身を問うと何と主人アブラハムの弟ナホルの孫娘だったのです。早速自宅に迎えられたアブラハムの家令エリメレクは、出された食事に手をつける事を待たせ、結婚話を切り出し一族の了解を取り付けたのです。早速結納の品々を取り出し一族に配り宴が始まります。

  そして、その翌朝の事でした。遠くに嫁ぐ娘に婚姻の宴をしきたり通り10日続けるつもりのリベカの家族を前にして、アブラハムの家令エリメレクは直ちに主人アブラハムの許に娘リベカを伴って帰途につく事を切り出したのです。

 予想外の性急な申し出に戸惑った一同とエリメレクの押し問答があり、一同でリベカの判断を持って決着する事に決めたのです。

  その場に呼ばれたリベカは躊躇うことなくこういったのです。「エレク」(私行く。)その一言で事は決しました。即座に一同は立ち上がり、駱駝に嫁リベカを乗せた一行は、一路カナンの地のベエルシバを目指したのです。

 リベカは、たったの12時間前に出会った人々に自分の身と生涯を託し、二度と戻る事の出来ない1000キロの道の彼方に向けた一歩を踏み出したのです。

 何が、彼女にその決断をさせたのか、それは彼女の心以外誰にも知り得ない神秘でしょう。しかし、聖書はその一歩が間違っていなかった事を記録しているのです。夫イサクは生涯リベカ以外の女性に心を向ける事も無く、アラブ人の先祖となったエサウとイスラエル民族12部族の祖ヤコブを産み育てたのです。それはたった一言「エレク」(私行く。)との言葉から始まったのでした。

善と悪

 今日は、久方ぶりにイソップ寓話をまたご紹介したいと思います。 以前の物は以下のリンクを参照。

http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/578211.html

 日本にはあまり紹介されていない「善と悪」というものです。性善説の根強い日本の社会には、きっとこのお話の内容ては理解されないで返って反発を買う結果になるでしょう。

 能書きはこれくらいにして早速イソップ寓話、シャンブレー編集のギリシャ語の原典では一番最初に紹介されているイソップ寓話です。

  まず直訳したものを記して、次に翻訳した物を記します。 

イソップ寓話「善と悪」直訳  

  悪の下に善が迫害されて病気のようになっていた。そして(善は)天に登っていった。そして善はゼウスを問いただした。「どうしたら人間たちと一緒におられるのか?」すると彼は言った「全てが一緒には無理だ。一人が人間一人に対してなら行き着けるよ。」こう言うわけで一方で悪は人間たちに押し迫っている、近くにいて到着している。他方善は遅れている。天を出で下るので。

こう言うわけで善を成す者達はすぐにはめぐり合う事はない。悪を成す者達は互いが互いにつながっているからだ。

イソップ寓話「善と悪」翻訳 

  悪に迫害された善はすっかり弱ってしまった。そこで善は天に登って最高神のゼウスにお願いすることにした。そうして尋ねた。「どうしたら人間たちの所に留まって良い影響を与えられるのでしょうか?」神は答えられた。

「皆で同じように善い影響を与えるわけにはいかない。善はそれぞれの状況に合わせて個別に影響を与えるなら、何とか人間たちの所に留まれる」

こんな事が昔にあったので、善は天に逃げ去ったままなのです。その後は悪が地上を占領し、何時でも何処でもしたいほうだいなのです。反対に善は人間の世界では一向に見あたらないし、善を行うには大変な時間が必要なのだ。なにしろ注文が来てから天を出るし、その到着を待たなければならないのだから。

こう言うわけで人が幾ら善を行なおうとしても簡単に行えない。それは悪が絡み合って自分の縄張りである地上にひしめいているからだ。

★コメント★

・イソップ寓話が戦国時代に日本に伝えられたのは、キリシタンの宣教師による事は良く知られています。聖書と同じギリシャ語で記されていますので正規の教育を受けた神父さんや牧師さんなら誰でも簡単に読めるからです。そして、興味ある事に両者はよく似たことを教えています。もちろん、相違点も在ります。相違点の一番重要な事は、聖書はそれらを「イスラエルと言う古代国家に起きた事実」から語ります。イソップ寓話は彼が生きたであろう紀元前7世紀を舞台にムソス(虚言)で記している事です。

 ところで、このイソップ寓話の筆頭に記されている「善と悪」というお話の主題は聖書と全く同じです。 聖書の主題が何かと言う事ですが、様々な理解や神学の立場が在るのですがそれらは様々な教会の都合や利益が絡んでいますので考慮せずに、単に聖書その物の主張を見ると簡明です。

 ★聖書の主題は今日紹介したこのイソップ寓話と同じです。すなわち●「神がおられるのに何故地上は悪が支配するのか」●と言う事ナノです。性善説はその動因を人にするにしても、神にするにしても「必ず正義が勝つ」と言う事ですし、性悪説は「正しい神がおられるのに『地上では必ず悪が勝つ』」と言う事なのです。

 より具体的に記すときっとご理解いただけるでしょう。このイソップ寓話の「善と悪」の善をキリストや預言者や使徒たちに置き換えてみると自明です。彼らは悉く地上で不遇で、ほぼ例外なく宗教の専門家と称する政治権力の手先となった宗教指導者と呼ばれる権力者の総意によって投獄され処刑によって地上の生涯を閉じました。そして、彼らは全て天に移されて、そこで栄光を与えられていると聖書には記載されています。その様な意味で、古代のギリシャ語で記されたイソップ寓話もなかなか興味の尽きない物があります。まだまだ沢山面白い物が在りますので追ってご紹介します。   

プ~ メネイ!

 που μενει (プ~ メネイ!)
 原典で聖書を読んでいると、良くハッとする箇所に出会います。上記の言葉もその様な箇所の一つです。この言葉が登場するのは新約聖書ヨハネの福音書の1章39節です。日本語にしてしまうとなんでもない表現なのですが、原文でははっきりとわかる事が在るのです。
 それは何かと言うと、最初の言葉の発音が教える意味なのです。そう 「プ~」と言う発音です。しかも、後ろのプ~と伸ばす所に何とも言えない響きがあるのです。ギリシャ語で「プ~」と言う音で始まる音には特定の概念が存在しているのです。列挙してみましょう。

プネウマ→霊、風
プレー→門、入り口
プリュ→火、炎
プトーコイ→乞食 
プロオーイ→夜明け
プロ→前、方に
プロソーポン→面前に、顔

 わかりますか? そう、「目に見える物質が何もない場所=空間を表現する時」に、この「プ~」音が使われるのです。なんと無く感じが掴めますね。そして、次の言葉メネイは「彼が留まっている」と言う意味です。

 この箇所の意味は「彼らは見た、何処に(プ~) 彼が留まり続けている(メネイ)」と言う事です。ですから彼が留まっているのは場所であって何もない空間、と言う事は建物や天幕のない只の場所であって(プ~)を見たと言う事になります。

 さて、では彼とは一体誰でしょうか?

 そう、イエスキリストです。そして、その場所を目撃したのはキリストの一番弟子のヨハネです。これは大切な事を教えています。キリストの公の生涯のスタートは「野宿者」であったと言う事です。そしてその弟子となったヨハネの使徒としてのスタートも同様でした。その場所をキリストの後に付き従って見に行った二人の弟子達(ヨハネとアンデレ=ペテロの弟)も「そして彼(キリスト)の傍に彼らは留まった」と記されているからです。

 おそらくこの時キリストと最初の二人の弟子達が夜を過ごした野宿の場所は、豊かな水量で累々と流れるヨルダン川からすこし上った、なだらかな高台で、何もない荒野の風除けの岩場の陰であったでしょう。そして、原文の「留まる」と言う動詞の時制は現在形なのです。と言う事はこの「野宿の状態が」一時的なものではなく「習慣的常態」であった事を示しています。

 その3年半後にキリストは十字架に処刑され、その復活を見たヨハネを初めとする弟子たちは、生涯地中海世界を渡り歩き、悉く殉教の死を遂げていきました。最後まで地上に残されたのは、この最初の弟子ヨハネでした。彼もローマ帝国の迫害下に90歳を過ぎてパトモスと言う島に流されて、普通の人間の価値観から見れば不遇の宣教生涯を終えるのです。その事を思う時に、キリストの教えの原点は、この何もない場所で、何ももたずに眠ったことを記している、この記述の重要さがひしひしと感じられるのではないでしょうか。

  この 「プ~メネイ!」にはそのような意味で「キリストの生涯と宣教」を理解する上で知っておくべき、人間の原点を知る為に大切な基本ではないでしょうか。それは、「裸で産まれ獲得した全財産を残して裸で死んでいく人間の本当の姿」を見据える事を教える大切な言葉ではないでしょうか。

 家も、家族も、枕する場所も、そして何の地位も財産もない全くの無産の状態を表すこのプ~メネイと言う言葉には本当に考えさせられます。特に、今日の世界のキリスト教のあり方を見ると、すっかりこの原点が忘れられ、巨大な伽藍や政治や学問の権威に塗り固められた教会の現実の姿と、聖書に記された教会の原点のありさまは、あまりにかけ離れてしまっているように思います。

最初の弟子、ヨハネとアンデレは「全く何もないその場所」で、キリストの傍に満天の星を仰ぎながら静かに目を閉じて安らかに眠り、凛とした黎明の後に輝く朝日と共に起き上がり、キリストと共に生きるキリスト者としての生涯をスタートしたのです。

近代文明、物質や情報資産に取り囲まれて、生きる現代がどこかに置き忘れてしまった、「なにか大切な物」がこの言葉に込められているように思います。

愛の定義

 今日はどんな題ではじめようかと様々に考えました。「愛と法律」、「法律と愛」、なんて言う題にすると、きっと「何時から不倫の相談をはじめたのか」と疑われそうな題になってしまいます。ずばり今日は「愛の定義」として今日の聖書箇所を見ていくことに致しましょう。

  キリスト教は愛の宗教と言われますが、一言で言って「愛とは何か」というお話は、この5?年間一度も聞いた事がありません。しかし、聖書はこの定義を明確に記しているのです。今日の聖書箇所こそ、その「愛の定義」の聖書箇所なのです。 

いつもの様に、一般の翻訳をまず記しましょう。

新共同訳・愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

口語訳・愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

新改定訳・愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 上記の翻訳で 「愛の定義」がおわかりでしょうか? 「なにか釈然としない」とおっしゃるかたが多いのではないかと思います。例によって、使徒パウロが記したギリシャ語の原文を見る事に致しましょう。

原文のギリシャ語のローマ13章10節の意味を一語ずつそのまま日本語=直訳してみます。

  直訳 ・その愛 そのに 近くを 悪を 無い 彼が働かされる 。 満たされた物 そういうわけで 法律の その愛は。

  これを、出来るだけ損なわないように日本語らしくしてみます。

  私訳・愛は親しい人に悪を働かさせないのです。そうなのです、法律の満たされた物が愛なのです。

  違いがお判りでしょうか? いろいろち細かな相違は放置して一点に絞りたいと思います。一番最後の部分に注目してください。 

  一般の邦訳は「愛は律法(ユダヤ宗教法)を全うする。」そして、原文は 「法律(宗教法)を満たすものが愛だ」となっているのです。 「何がどう違うのか、同じではないか。」と言う方には果して同じでしょうか? と聞いてみましょう。じつはこの両者には大きな違いが存在するのです。愛と法律どちらが地位が高いかと言う視点で見てみると良いかと思います。 

  一般の邦訳は■「愛は律法を全うする。」と言う事はすかさず■「愛は律法を超越してよりすぐれた物」であると言う前提=「■人間の思考」が隠されているのです。 

 一方の原典の直訳は、●「律法を満たす範囲の行為が愛である。」と明らかに●「愛に対する律法の次元の高さ=優位」が前提=「●聖書の原則」となっているのです。

  この両者は一見同じことを言っているように見えますがその根本は全く相違しているのです。

  この一般の翻訳の背景には、実は大変大きな問題が隠されています。それは「律法=旧約聖書のテーマ」と「愛=新約聖書のテーマ」の優劣論議です。もちろんこんなふうに聖書を簡単に割り切る事は出来ません。旧約聖書にも愛や誠実があり、新約聖書にも神の律法が記されています。まあ一般に言われている程度の理解での事としてお聞きください。
  その様な一般の理解と言う事を踏まえた上で、販売されている翻訳聖書の立場として「新約聖書(愛は)は旧約聖書(律法)に優越している」という思考形体が存在しているのではないでしょうか。それ故に、この箇所の様に「愛が律法を完成する」などと「律法に対する愛の優越性を当然の如く訳出している」のではないかと思います。
  大切な事は聖書に実際に「新約聖書は旧約聖書に優る」と記されているのならば良いのですが原典で聖書の何処みてもその様な箇所は見当たらないのです。
  そして、原文のギリシャ語で読むと、反対に新旧両約聖書が全く同じ物として扱われているのです。その論拠の一つがこの箇所なのです。
  パウロが記したギリシャ語の聖書の原文は「旧約聖書(律法)に合致しているから、新約聖書(愛)は有効だ」と言う内容なのです。あるいは「旧約聖書の教えの範疇に新約聖書の教えが存在している。だから新約聖書の教えは正しい」と明確に旧約聖書の優越性を主張していると見た方が正確だと思うのです。
  原文のギリシャ語がこの箇所で主張している事は一般の翻訳が訳出しているとはむしろ反対です。
「人間が愛だと思っている行為の中で旧約聖書に合致しているものだけが本当の愛だ」と聖書のこの箇所(パウロ)は言っているのです。それ以外の行為はたとい人間が愛だと思っていても聖書の教えている健全な愛ではないのです。間違った愛なのです。
 何故なら、愛には様々な間違った愛があるからです。間違った愛として金銭愛、溺愛、偏愛、などが在ります。愛そのものは健全に思えても対象を間違えると大変悪い物に転化してしまいます。地位や金銭や物に執着する愛情を聖書は否定しています。ですから愛だけではその愛が良い物か悪い物かは判断できないのです。聖書が良い物として奨励している愛は、沢山ある人間の愛を動因とする行為の中で「律法=聖書の教え」を満たしている「愛」が健全な愛だと言っているのです。

  それは当然です。配偶者が存在するのに、それ以外の異性に心を引かれ愛情を感じたとしたら、それは邪恋であり律法に禁じられている「姦淫」に繋がる罪の行為となるのです。また、両親が神様に与えられた自分の幼い子供を遺棄して、慈善活動にのめり込んだら慈善活動その物は愛の素晴らしい行為に見えても、遺棄された子供たちは両親を敬う事が出来ないで餓死してしまう事でしょう。もしこのような行為があったら、それは聖書が言っている愛では無いのです。 律法が言っている教え(具体的には有名なモーセの十戒です)が満足されてこそ正しい愛であって、それ以外の行為は、たとい当人がどんなに愛だと思っていても、聖書の言う愛ではあり得ないのです。

  そして、その愛の対象とされるべき範囲は「隣人」と聖書のこの箇所は教えています。これはギリシャ語のプレージオンと言う言葉です。これは日本語の隣人と言う意味より以上の意味を持っています。直訳には「近い」と訳出しましたが、これが大切です。人間は遠くの他人を愛する事はたやすいのです。しかし、目の前の配偶者や実の子供や両親などの家族を実際の行為を持って具体的にしかも正しく愛する事は大変難しいことなのです。プレージオンと言う言葉が第一に指しているのは、法的に言うならば「一親等」です。そして今日の様々な事件や犯罪を見てみると此の一親等内で起きている事件があまりに多いのではないでしょうか。

  親が自分の子を殺し、実の子が親の家に放火して親を焼き殺す悲惨な事件が頻発しています。そしてその家庭の夫婦関係が大変乱れて子供たちが苦しんでいるのです。そしてその親たちが医師であったり、教育に従事していたり、かなり社会的に責任在る立場の方も多くお見かけします。他人の子供、見ず知らずの患者さんには笑顔で良い評判を頂いていても、一親等の家族に憎まれるような現実が今の世界を満ちあふれているのです。

 ですからこの聖書の「近い=一親等を具体的に正しく愛せよ」という教えはその様な今日の世界に大変重要なことを教えているのです。地球の裏の飢えている人を愛する事も大切ですが、あなたの目の前のあなたの夫、妻、両親、子供を正しく愛する事出来ているでしょうか。 その近い人たちが聖書の律法を守れるように貴方は仕向けているでしょうか。

  これが、此の聖書箇所が教えている正しい愛の姿なのです。

  今日の様々な家庭や教育や政治などの様々な社会問題を見る時に、この正しい愛の判別基準(=聖書の教えにあった愛)が欠如している事に原因が在るのではないでしょうか。

  参考の為に正しい訳している二つの翻訳を最後にご紹介しておきます。

岩波訳・愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのです。  
WEB・Love doesn’t harm a neighbor. Love therefore is the fulfillment of the law.

参考のために・★穂新約聖書と旧約聖書の関係についてはやはり基本事項として、最も聖書原典に準拠しているとされるウエストミンスター信仰告白(基準)の第8章5~6を確認して置く必要があるでしょう。「だから本質上異なった2つの恵みの契約(旧約と新約聖書)があるのではなくて、違った時代の元に、同一の物があるのです。」

妻は夫に逆らえ!

 今日は随分と進歩的な主題です。しかし、この言葉には考えなければならない内容が含まれているのです。  前置きはこれくらいにして早速本題に入りましょう。今日、取り上げる箇所は表題とは全く反対のことを言っているかの有名な新約聖書エペソ人への手紙5章22節なのです。 いつものようにまずこの聖書箇所の一般の翻訳で代表的なものを取り上げてみましょう。
 
1・新改訳・妻たちよ。あなた方は、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

2・新共同訳・妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。

3・岩波訳・女たちは主に[従属する]ように、自分の夫に[従属しなさい]。

 面白いですね。こんな簡単な聖書箇所ですが翻訳によって随分と様子が違います。こうなって来ると使徒パウロがギリシャ語の原文でなんと記しているのかが気になります。早速以下に記してみましょう。 

αι γυναικεs τοιs ιδιοιs ανδρασιν ωs τω κυριω 

  これを順番を変えないで単語毎にそのまま日本語に置き換え(直訳)してみます。

その 女らは その 自分らに 男らに 様に その 主(人)

できるだけ原文を変えない様にして日本語にしてみましょう。

私訳・「女たちは 自分の男らに 主の様に 」

  となります。分かる事ですが主動詞(術語)も 目的語も無い短い文章なのです。ですからこの言葉の周辺から術語と目的語を捜して来ないと英語にも日本語の文章にもならない箇所なのです。

  さてこうなると原文の文脈を何処で切る(ピリオードの場所)かが重要な意味を持ってきます。冒頭に上げた翻訳では一番上の新改訳(1・)は前節の19節の直前にピリオードを設定します。(ギリシャ語の元の文章には句読点は一切存在しないので編集者が自由に文脈を設定できる。)そうして その前の節にある分詞(主格受動現在男性分詞複数)をこの20節に適応して、「妻は夫に従え」と訳出しているのです。しかしこの訳文には問題点が残ります。それは、ギリシャ語の修飾の基本である分詞、形容詞の修飾関係は「性、数の一致」が条件なのです。原文を見れば分かる様に「従っている」は男性受動現在分詞主格複数)です。 また、新約聖書本文批評の前世紀の権威者であるメッツガー教授は、文脈の設定をこの20節の直前に設定します。という事は前節19節の「従っわされている男ら」と20節の女たちの間には何の修飾関係も発生しないと言う事になります。あと残るのは24節にある「教会が自分の為に(中態(=行為の目的が自分自身)キリストに従っている」を借用してこの箇所の術語としていると考えられます。

  という事で新改訳(1・)の 「妻は夫に従え」という翻訳は単純にそのまま受け入れるには二重に問題があると言う事にになります。そして、もし24節の借用だとすると「自分の利益になる範囲内(=中態=行為の目的が自分自身)で夫に従え」と言う意味で記されてると考えなければなりません。あるいはそうであるかもしれません。

  さて次なる、新共同訳(2・)の「夫に仕える」はどこにもそのような言葉は無く、翻訳者が適当に(自分の願い=大抵翻訳者は男)この様に訳出したと考えられます。

  岩波訳は原典に出来るだけ忠実であろうとして訳出されており、[従属する]という言葉を 鍵括弧にいれて翻訳者の解釈であることを明確にしているのはたいへん良い訳であると思います。 

  さて、以上のことを踏まえた上で今日の表題に戻りたいと思うのです。 この箇所のギリシャ語の原文は「女たちは 自分の男らに 主の様に 」と言う事なのです。そして 術語と目的語は無いのです。パウロはこの箇所でそれら意図的に省略したのです。何故でしょうか?

  ここから先は聖書に書いていない事を考えますので「想像」と言う事になります。もし彼が書いてくれればそんな想像は不要なのです。と言う事は反対にパウロが「当然記されているべき言葉を記さなかった」と言う理由があるのでは無いのでしょうか。

  もちろんその事に関しては様々な解釈が成り立ちます。

  当然、分かりきった事だから記さなかった。と言う立場を取ると、妻は夫に「従う」のが当たり前なのだと言う考えが(or思い込み?) がまず第一に考えられます。

  次に考えられるのは理想はよく知っているけれども現実を見なければならないと言う人も在るでしょう。聖書の中に夫婦の姿が沢山記されていますがそれぞれを思い浮かべてみてそれをこの箇所に当てはめるのも正当な解釈だと思います。

  「主の様に、夫に」と言う言葉が意味深遠だと思います。具体的に見ていきましょう。

  最初の人アダムとエバに当てはめれば面白い翻訳になります。

 最初の女「エバ」は「禁断の木の実を食べるな」という神(主)の明確な命令に逆らったのですからエバに当てはめてこの文章を翻訳すると。「主に逆らった」様に夫にする事を言っているのですから

★ エバ訳の聖書 
 「女達は、自分の夫らに逆らえ、主に逆らったように。」と訳しても間違いと言えない事になります。

★アブラハムの妻サラ訳の聖書 
  創世記18章12節「サラは心の中で(主を)わらってこういった。....」

  「女達は、自分の夫を笑え、主を笑ったように。」

★ヤコブの妻ラケル訳の聖書 
  創世記30章1節 「私に子供を下さい。でなければ私は死んでしまいます。」(夫に不平を言った)

   女達は、自分の夫に不平を言え、主に不平を言ったように。」
  
★王ダビデの妻ミカル訳の聖書
  Ⅱサムエル記7章20節「イスラエルの王は本当に威厳が御座いましたねごろつきが..」(夫を蔑んだ)
  女達は、自分の夫を蔑みなさい、主を蔑んだように。」 
 
★ヨブの妻訳の聖書 
  ヨブ記2章9節 「あなたは...神を呪って死になさい。」(神を呪った)

  女達は、自分の夫を呪いなさい、主を呪ったように。」 
 
★イスラエルの民訳の聖書
  エゼキエル書の16章16節 「イスラエルの民か神である主を捨て外国の神々と姦淫(偶像礼拝)した。

 女たちは自分の夫を捨てて他の男と姦淫しろ、あなた方が主にしたように。」

となります。

  私は何もこの箇所を上記のその様な翻訳にするべきだと言っているのではありません。パウロがギリシャ語の原文で「女たちは 自分の男らに 主の様に 」という言葉でそれ以上何も付け加えなかった意図と言うものがあったとするならば、将にその様な多様な妻たちの信仰の現実の姿がエペソの教会には存在していただろうと思うからなのです。

  初代教会は全て聖い素晴らしい何の問題も無いキリスト者の善男善女の集まりでは決してありません。初代教会内には世の中と全く同じように様々な現実の問題が常に存在していました。

  以下に新約聖書の教会の様々な現実を記している箇所を列挙します。

信徒間の訴訟(Ⅰコリント6章節から11節、
近親相姦(Ⅰコリント7章1節から7節)、
離婚 姦淫、説教批判(Ⅱコリント10章10節)、献金ボイコット(Ⅱコリント8章1節から9章15節)
貧富による差別(ヤコブ書2章1節から13節)
背教ヘブル10章25節、Ⅰテモテ4章1節、Ⅰテモテ1章20節、Ⅱテモテ2章17節 他)

  このような現実を上げれば新約聖書も、前に見た旧約聖書も神様を信じる人々の様々な現実の苦悩見ることができるのです。これは、聖書に記されている神様を信じる人々の問題のほんの一部にすぎません。
  そしてエペソ教会は初代教会の中でも取り分け問題の多い教会であったのです。それゆえパウロはあえてこの箇所に術語や目的語を記さないで現実を脳裏に思い浮かべさせ、そしてしかる後にあるべき夫婦の姿を記しているのではないでしょうか。

エペソの手紙4章24節直訳 

・反対に 様に その 教会は 彼が下に任命し続けている その キリストに、 この様にして そして その 女らは その 男らに 中で 全て。
  
  24節の原典直訳にある「反対に」と言う言葉に注目して欲しいのです。原典には明確に反意を表す接続詞がアルラが配置されているのです。 現実を踏まえてあえて尚、あるべき教会の姿とそれに習った夫婦の姿(現実はいずれも反対である)を記す為に、パウロはあえてこの箇所に 述語と目的語を省いたのではないでしょうか。

最後にもう一度この箇所の私訳を記します。 「女たちは 自分の男らに 主の様に 」 

聖書解釈

今日は随分と退屈そうな題のお話です。この聖書解釈の問題について話し合うと、解釈ではなく癇癪を起こす人を随分と見てきました。おそらく理性的に自分の立場を弁明するのが不得手なのか癇癪(怒り出す)の発作が起きてしまうのでしょう。さて余計なことはこれぐらいにして早速本題に入りましょう。 

 今日考えたい聖書箇所は新約聖書のペテロ第二の手紙の1章 20節です。以下に、この聖書箇所の一般的な翻訳をご紹介します。

新共訳・ 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。

口語訳・聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

新改訳・それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならないということです。

WEB・knowing this first, that no prophecy of Scripture is of private interpretation.

  何が問題かというと上記の翻訳は私的(自分勝手な)解釈は問題だが公的(=教会や国家の)解釈は良いと言う誤解をあたえるかのように訳されている点なのです。お判りでしょう。ここには明確な問題のすり替えがなされています。問題は「正しい解釈」が良いのであって私的であろうが公的であろうが「間違った解釈」は問題なのです。そして現実の国家やその手先となった教会によって都合の良い解釈=翻訳がこれまた国家の費用によって領布されています。この点は今まで随分と沢山取り上げてきましたので具体例はそちら以下のリンクをご覧ください。

    間違った公的解釈の実例(これ以外にも沢山在ります。)

  王権神授説  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1294750.html
  男女の服装  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1242034.html
  教会の分類 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/942292.html
  翻訳と解釈 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/857729.html

  まあそのことは置いておいて原典に戻ってこの箇所のギリシャ語本文に目を向けましょう。以下にそのギリシャ語を語順そのままに出来るだけ正確に直接日本語(直訳)にしてみます。

ギリシャ語原典直訳 20 節・この事を 第一を 知っているらは、それは 全ては 預言は 書物の 自分の(らを)上解放(解明or 解釈)の 無い 彼が存在し続けている。

 これを、意味を変えずに日本語にしてみます。

  私(試)訳・ この事を第一に知っています。全ての書物の預言(聖書)は、自分の解明では決してありません。

 分かりますか、「聖書を記した預言者たちは自分が経験した事や神様の啓示を自分で解明(釈)してそれを記したのでは無い。」という意味なのです。そう分からない事も理解できない事も一切の解釈抜きに神の啓示をそのままに記した物が聖書だと言っているのです。

  この聖書箇所に関しては教文館と言う出版社から出ている織田 昭氏の新約聖書キリシャ語小辞典の επιλυσιs(解明or解釈)の項目(213~4ページ)に随分と紙面をさいて詳しく解説されています。

  聖書がこの箇所で言っているのは解釈云々ではありません。そうではなく、聖書の本質を言っているのです。それを曲解釈して個人解釈禁止問題に発展させる翻訳のあり方は我田引水で、言っている翻訳委員会その物が、自らが犯している曲解釈の正当化をしているに過ぎません。

  聖書がここで言っている事は、「預言者自身が神様から啓示された言葉を解明(解釈)しないでそのまま記した」という意味なのです。そのことは同じペテロによって記された第一ペテロの1章10節には「預言ている預言者自身が自分の預言を理解する為に調べた」という内容が明白に記されています。

  と言う事で、この箇所は、聖書を翻訳する時に気をつけなければならない大切な事を示しているのです。すなわち、「聖書を書いた当人(預言者自身)が理解、あるいは了解出来ない内容の物をそのままに聖書に記したもの」が聖書なのです。と言う事はそれを、「誰かの第三者の個人や団体(所詮他人)がいくら注意したとしても聖書を正しく解釈するのは困難である」と言う事です。いやどちら道、「正しい解釈だと言える物は存在しえない」と言った方が正確なのでは無いでしょうか。

  と言う事で「著者(正確には筆記者)が理解していない事をさも理解できたかの様にまことしやかに翻訳する事には当然無理がある」と言う事なのです。まして、理解していない、いや聖書には預言者達が自分の目で見、自分の耳で聞いた超自然的な理解しえない神の言葉や神のなされた不思議が克明に書かれているのです。

  その人間に理解できえない事を、時代背景もまたその場にも居合わせなかった第三者(読者)に分かる様に、美しい文章で分かったかの様に翻訳するのは、かなりの無理があると言わなけれはならないのでは無いででしょうか。

と言う事で、何故こんなふうに原典の主張を曲げて翻訳=解釈して無理な翻訳にしなければならなかったかという信徒に知られたくない聖書翻訳の暗部が見え隠れしている聖書箇所がこの箇所なのです。

その様な曲解釈が長い期間、世界中で繰り返してなされてきた目的は明白です。

この様な翻訳を生み出しておけば、真剣に聖書を学び原典を読んだ人がほんやくされた聖書の間違いに気づき、意義を唱え、教会の都合に合わせて翻訳している悪事を指摘されても、その様な★指摘を★私的と★指摘して自分達のしてきた悪行の数々に対する批判をかわし、指摘したものを公的な場に出れない様に異端者の烙印を押して、ご都合解釈以外に一般の信徒が耳を貸す事が無い様にすることが可能になると言うことなのです。
 
  と言う事は、とりもなおさず 「聖書翻訳には問題が多く、教会には随分と後ろめたい事がある」と言う事なのです。

  今日は聖書翻訳や解釈というものの難しさを少しはご理解頂けたでしょうか。 と言う分けで直訳なる物を現在進めています。以下のリンクを参照ください。

聖書直訳へのリンク http://bible.co.jp/bible/

霊の乞食

  今日はまた聖書の有名な箇所を取り上げましょう。山上の垂訓というのをご存じでしょうか?イエスキリストがお弟子達に教えられた教えの中で一番良く知られているものです。山(丘)の上で教えられたので山上垂訓と言われています。随分と長い教えなのですが今日はその冒頭の言葉を見てみたいのです。

  新約聖書のマタイの福音書5章3節です。一般の翻訳は以下の様になっています。

新共同訳・「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
口語訳・「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
新改訳・「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

  一体どのような人が神様に祝福されているのを宣言した言葉なのです。宣言ですから詳しい説明はなされていません。翻訳はまあとりあえずおいておいて、ギリシャ語の原典を語順そのままに日本語に意味を置き換えて直訳してみましょう。

マタイの福音書5章3節原典直訳

・祝福されているらは その 乞食らは その 霊に、それは 彼らの 彼が在り続けている その 王国 その 不可視らの。

  とりあえず、これをすこし日本語にしてみましょう。原文はもちろん話言葉なので会話調になります。

「祝福されているのは 乞食たちだよ 霊における。その理由は 彼らだけが 神様の国にいるのだよ。」

となります。パラフレーズ(意訳)してみます。
「神様が祝福された人は、自分には聖書の言う善や徳が何も出来ていないと思っている人さ。そういう自覚のある人は神様に祝福された人で天国に入れるのだよ。」となります。

さて鍵となる言葉が「乞食」です。

  原文では πτωχοι(プトーコイ)乞食 と言う言葉です。 この言葉の同意語には πενηs(ペネース) 日雇い=貧乏人 と χρεια(クレイヤ)窮乏 困窮 があります。これを豊かな順番?に並べてみると問題が分かります。
    一番豊かなのは 1・πενηs(ペネース) 日雇い=貧乏人
    次の真ん中が 2・χρεια(クレイヤ)窮乏 困窮
    そして一番下が 3・πτωχοι(プトーコイ)乞食

  という順番に並ぶのです。当然一番下は家もお金も仕事も無い乞食を指しています。こんなあたりまえの事を長々と記していると、「何をやっているのか」とお叱りを受けそうですがもう少し我慢してお聞き下さい。
「1・」の貧乏人は職業をもち借家か自分の家で一応の生活の自立が出来て物をもらえばお返しも可能であんまり感謝したくありません。
「2・」の困窮者は今の生活が維持できず衣食住に困って生活の為に必要な物が満たされない状態ですが無理をすれば何らかのお返しや感謝が出来ますが繰り返して哀れまれるのを好みません。
「3・」のこじきは全く仕事がなくその上家も無く衣食住も無く当然お恵みを施されてもお返しすることは無理ですから繰り返して人一倍の感謝を言葉だけで言います。

と言う事で神様の祝福とは「霊」に関する事では、全て誰かに施してもらわないと生活も生存もままならない文字通りの乞食のような道徳あるいは精神状態の困窮いや生存や将来の展望における絶望を指しています。

ですから一般の翻訳の様に「貧しい者」と訳すのはあまり良い訳とは言えません。この箇所でキリストが使われたのは「3・」ですから 「1・」πενηs(ペネース) 日雇い=貧乏人や「 2・」χρεια(クレイヤ)窮乏 困窮の状態をさす日本語に訳すのは間違いと言わなければならないでしょう。

「3・」の言葉は「乞食」という意味以外の何物でも無いのですから。

さてもうもう一つの重要な単語にも目を向けましょ。一体何の乞食なのでしょうか。心ですか、違います 原文は 昨日学んだ 5・πνευμα(プネウマ) という言葉です。新約中に385回登場していて、訳語の内訳は次の様な物でした。聖or神霊(120回)、霊(111回)、人霊(52回)、悪霊(81回) その他(3回)で合計が先述の385回となります。参考 URL http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1294750.html

  と言う事は一般の日本語訳の「心」と訳出されてるのはここだけですのでかなり無理な、いや強引な原典を無視した訳文と言わなければ成りません。これ以外の箇所ではいずれの場合でも「心」とはしないで、殆どが「霊」と言うふうに訳されているのですから。

 と言う事で、山上の垂訓で語られた言葉の意味は翻訳とはかなり、いや相当異なっていると言わなけれ派成りません。何故なら 重要な単語が二つともかなり違う意味に訳されてしまっているのですから。

 と言う事は、今日のキリスト教会にはイエスキリストが言われた言葉はそのまま受け入れる事には相当困難があると言う事になります。重要なのはこの教えがキリスト教の最重要な教えであるという点に在ります。

 聖書があるべき人間の姿、本来の宗教に帰依する人の心の状態、正確には「霊」の健全な状態とは明確です。豊かな心 、豊かな霊性と言う普通の感性と、キリストの教えは相違していると言う事です。 

  「貧しい心」では無く「霊(性)の乞食」こそ神様に祝福された人なのです。それは人と比較して自己の序列を定め安堵(割り引かれた翻訳聖書の妥結に満足)する生き方ではありません。聖書に記された峻厳な神の基準(=原典に記されている言葉)に自己を依拠させようと切磋した者のみが到達できる本当の神様の祝福と恵みの境地なのです。

最後に参考の為にかなり努力して一番良い訳と思われる岩波訳を記します。

・「幸いだ、乞食の心を持つものたち、

  この箇所の教えをはっきりと明確に記すならば、神様の前に自分の霊的な惨めさを悟り、キリストの十字架の贖罪で示された神様の一方的な罪の赦しと言う哀れみにより頼む以外に自分の罪性と言う悲惨な状態から救出される術は無く、その後も、地上にある限りはいつまでも霊の状態は乞食であって神にお返しの善行や慈善どころではなく、常に自分は神の哀れみを受けつづけなければ成らず、いつまでも罪の惨めな状態は改善され得ない事を認める事の出来る人が神様に祝福されていると言う意味なのです。 まさしくキリストの十字架の贖いを受けるのは霊の乞食だけであって、人間が神様にお返しが何か出来ると思い上がる事を戒めていると言うことなのです。

王権神授説

  今日は、多くの方にとって耳慣れない表題です。しかし、全ての人に重大な意味を持っている聖書箇所を取り上げます。それは、表記の 「王権神授説」の最も重要な根拠とされている聖書箇所なのです。

  そう、ローマ帝国時代から中世、近代はもちろん、現代に至るまでキリスト教国丈ではなく多くの国家がその依拠する正当な国家権力の動因とする思潮の根拠とされている聖書の言葉なのです。 

  結論を先に言うと、 王権神授説などと言う考えは聖書の何処からも出で来ない考えで「王権人造説」すなわち「悪い人間ほど、自分が得た既得権益をあたかも神様の祝福と選びに起因る物で当然の権威だと人々を思い込ませ自己の既得権益の安泰を弄する詭弁にすぎない。」という事なのです。

 「王権神授説」の根拠となっている聖書箇所の最も重要なのは以下の聖書の言葉です。 
新約聖書 ローマ人への手紙13章1節(以下は代表的な邦訳=英訳も全てほぼ同じ)

  新共同訳・人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

口語訳・すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。

新改訳・人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

  この節の翻訳文には随分と問題があるのですがあまり長く複雑になるといけないので今日は最も重大な問題点だけを取り上げる事にしましょう。 

 ★そう、この言葉が言われている対象は誰かと言う一番大切な問題なのです。 

  いずれの翻訳も「人は皆」とあたかも全ての人がこの言葉= 「王権神授説」の対象の様な印象を与える書き出しですが実のところ実際はどうなのでしょうか。 

★ みなさまは一体この箇所の「人」に原文のギリシャ語はどの単語を用いていると思います。?

  以下に人間と訳出されうる単語を6つ用意しました。この箇所の「人」には原文のギリシャ語はどの単語が使われていると思いますか。

・人と訳される言葉(発音)新訳聖書中頻度 訳語と(数)
1・ανθρωποs(アンソローポス)559  人(々)552   非訳出(7)
2・ανηρ   (アネール)  215  男(156)    夫(50)  その他(8)
3・λαοs   (ラオス)    143 民(人々)(143) 
4・ψυχη   (プスケー)  105  人霊(58)    生活(40) 意志(3) 心(1)非訳出(5)  
5・πνευμα  プネウマ    385  聖or神霊(120) 霊(111) 人霊(52) 悪霊(81)その他(3)  
6・καλδια  カルデイア   160  心(160) 
 
  正解はなんと 4番のψυχη(プスケー)なのです。そして人間と訳出されているのは新旧(70人訳)両約聖書中私の調べた範囲内ではここだけでした。

何故、ここだけ全ての翻訳が無理をして生活または精神(=人霊)という意味の単語を「人」と翻訳したのでしょうか? 異例中の特例? しかし、誰が見ても分かる事ですがこれはどう見ても不自然、いや間違いです。

  念のためローマ人への手紙の中に原典のギリシャ語で登場するψυχη(プスケー)の登場箇所を全て(4箇所)調べ直訳したものを以下に記します。

ローマ2章9節  人の生活の上に下る
   11章3節 私の生活を捜している 
   13章1節 全ての生活は権限らに従い続けろ 
   16章4節 この人たちは私の生活の為に 

  誤解の無い様に2章の9節は「1・」の ανθρωποs(アンソローポス)で 16章の4節の「この人達」は 不定関係代名詞で「かかる所のものは誰でも」という全く別の単語です。

分かりますね! こプスーケ(精神や生活という意味の言葉)を全く違う意味の「人間は」という変なな翻訳をした方の心の中が見えてきますね。

そう 、昨日見た様に王様や中世の諸公や現代の為政者達が自分の持っている支配権力を無知で愚かな国民や植民地の無教養な人たちを恭順させて自分の生活と地位を安定させる為に、自分の地位を利用して翻訳に口出ししてこんなふうに権力者=翻訳を依頼する側に都合良く「全ての人間=人民」と思わせるために無理に言葉を曲げて解釈して聖書の翻訳が出来ているのです。

さて、では一体この聖書箇所でパウロは本当は何を言っているのでしょうか?

  もう一度この箇所の直訳を記すと ローマ 13章1節「全ての生活は権限らに従い続けろ」と言う事ですか聖書=パウロがここでローマの教会の信徒に命じている事は以下の様になります。

  「生活の事は権威に従い続けなさい」ということです。もっと詳しく訳すとこうなります。「地上の生活に関する事は権威に従っておきなさい。」と言う事になります。

   と言う事は「為政者や王様の権威や方策に逆らわずトラブルを起こさないで長い物には巻かれて生活しろ」と言う事でそのことが意味しているのは

「所詮高い地位や身分のある人は神様にかかわりの無い人たちなのだから好き好んで争う様な愚かな事は止めておきなさい。」

  という世俗権力にたいする消極的服従を信仰者の生活の知恵=方便として教えているのです。

だいたい、考えてみてください。パウロが産まれたのはキリキヤのタルソスと言う都市でした。あのシーザーの子シーザリオンのローマ皇帝就任を画策するクレオパトラは後継者アントニウスと密約をする為に向かったのがこのタルススの町でした。エジプトの女王クレオパトラが28歳の時です。黄金の豪華船に美女と美酒を満載して、タルススの川にかがり火で煌々川面を照らして夜な夜な饗宴を開いて奸計によってローマと同盟しエジプトの再興を画策した町でした。しかしアントニウスは懐妊したクレオパトラを見捨て宿敵オクタビアヌスと政略結婚の道を選びやがてオクタビアヌスとアントニウスのアクチウムの決戦の為に再びクレオパトラとアントニウスは協力します。しかしオクタビアヌスに破れ敗走し、その後をおったオクタビアヌスによってエジプト王朝は武装解除されて衰退していくのです。

その様な凄まじい権力闘争と不道徳極まる政略の渦中のこのタルススの町に産まれ育ち、為政者の不徳の限りを知り尽くしたパウロが、事も在ろうに「神によって立てられた為政者に従え」などとたわけた妄言をローマのキリスト者に語るなどあり得ない事なのです。

  以上。今日は「王権神授説」は間違いで、「王権人造説」すなわち「悪い物のみがこの地上では出世し、権力を得、豊かになるのであってそれは悪魔の呪いではあっても決して神様の祝福である事はあり得ない。」と言うお話でした。

男女の服装

 今日は聖書から服装のお話をしたいと思います。と言っても聖書が言っているのは服装の事ではないのですが? 問題の聖書箇所で一般の邦訳(英訳もほぼ同じ)は以下の様になっています。

旧約聖書 申命記22章 5節 
  新改訳・女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、をあなたの神主は忌みきらわれる。

  新共同訳・女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

  口語訳・女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。

  なにか、随分と封建的でニューハーフを聖書が禁じているのだと思われそうな記述ですが、聖書がここで言っているのは見当違いの事なのです。(もちろん聖書が見当違いではなく翻訳が見当違いなのですが。)以下にこの部分のへブル語の原典をそのまま日本語にしたものとそれを紀元前3世紀にギリシャ語に訳出した物の直訳を掲載します。前後の文脈はこちらから申命記の章節をクリックしてご覧ください。
http://bible.co.jp/bible/

直訳・へブル語 05 ・ 無い 彼が存在する 備品の 強い男 上 女 そして無い 彼が着せる 強い男 外套(=寝具)の 女 として 憎悪の ヤハウエ 神らあなた  全ての 作るは これら

直訳・70人訳 05 ・  無い 彼が確かに存在する 備品は 男の 上に 女、無いも 無い 彼が着せた(為) 男は 長服を 女を、それは 嫌悪ら 主に その 神に あなたの 彼が確かに存在する 全ては 作るは これらを。  

  一般の翻訳と原典の相違が分かりますか? 

 原典直訳と一般の翻訳では随分と様子が違います。第一の相違点は男には服ではなく「備品」となっている事です。へブル語でも70人訳でも同じです。

 ★当時の備品とは第一に水汲み用の水瓶をさしました。

  と言う事はこの「男の備品を女の上に乗せてはならない」と言う聖書原典の主張は「男用の大きな水瓶で女性に水を汲ませる無理な労働を、奴隷の主人はさせてはならない。」と言っているのです。

ではもう一方の「女の服を男に着せる」はどうなのでしょうか。

 原典直訳を注意して見てください。女の「服」では無くへブル語は「外套」70人訳は「長い上着」と言う用語が使われている事です。

  ★当時の上着(外套=長い上着)は貧しい人々にとって布団=寝具を意味しました。聖書の世界である乾燥地域でしかも山地=バレスチナは昼間は酷暑ですが夜間はすごく冷えるのです。それゆえにこの言葉の意味は「女の服を男が着る=男は女装してはならない」ではなく、「奴隷=労働者の衣服=寝具=布団代をけちって寒い思いをさせて私腹を肥やすな」と言う意味になります。衣服を小さくした事で奴隷の主人が得る利得の為に、寒くて凍えるかわいそうな奴隷が起きない様に、他者の生存権を冒す様な卑劣な弱いものいじめを聖書は禁止しているのです。

  ★更に、この部分の文脈を見てみましょう。22章の1節から4節は迷子になった家畜や落とし物の外套の返却命令です。そしてこのあとの6節からは鳥の巣にいる母鳥と卵の両方は取らず親は逃がせ等と言う命令です。そのあと13節からは口実を構えて離婚させられる女性の身分と権利の擁護です。

明確です。この文脈で聖書が言っているのは「弱者の正当な権利の擁護」なのです。

  結論です。
  
この「男の服を女に着せるな、女を服を男に着せるな」と言う翻訳は間違いです。聖書がここで言っているのは、「強い立場の者(お金持ち=資本家=王様や貴族)は自分の利益の為に弱い立場の者(使用人や奴隷)の当然の権利を侵害して私腹を肥やしてはならない。」と言う事なのです。この箇所で聖書が言っているのは、聖書全体の重要で大切な主題である「弱者の権利の擁護」なのです。

ですから、この箇所の正しい翻訳は以上の理由で下の様になります。 

  男用の大きな水瓶(備品)を女奴隷にもたせて水汲みの労働をさせてはならない。そして、女用の小さな服や布団を、一人前の男奴隷にあてがってはならない。

  聖書は 弱者に無理な労働を強要して弱者の犠牲の上に自己の収益を構築する事や、体よりも小さな寝具(当然安い)をあてがって、経費を削減して当然支出するべき労働対価を搾取する事を禁じているのです。ここで言われているのは「強者が私利私欲の為に弱者に無き寝入りさせる事の禁止」なのです。

となります。★ さて、そこで大切な問題が発生します。

  一体誰がこんな明確な聖書の主張をはぐらかして 、でたらめに訳出させたのでしょうか? それは簡単です、キリスト教会の歴史の中で常に聖書を翻訳しえたのは王様でした。最初はヒエロニムスによるラテン語ウルガタ訳です。彼が聖書を翻訳したのはローマ皇帝お命に因る物でした。

  以下はその経緯です。

 初代教会以来300年に渡ってキリスト教(当時は敗戦国ギリシャ語=ローマの植民地=被支配民族の宗教)を迫害していたローマ帝国は疲弊し、コンテタンチヌス帝は帝国の建て直す為に文化も経済もローマに勝っていたギリシャ人を味方にする為にキリスト教を公認しすぐに国教化します。そこで必要になったのがラテン語訳の聖書です。その当時は、ギリシャ語で書かれた新約聖書とへブル語の旧約聖書とギリシャ語に訳された70人訳旧約聖書しかなかったのです。コンタチヌス大帝の死後 、混迷するローマ帝国のヴアレンテイニアウス帝の要請で時のローマ教会のダマスス監督の命令でヒエロニムスはラテン語訳聖書の大改訳作業に取りかかりました。しかし名ばかりのクリスチャン政権であったローマ帝国側やローマ教会からの執拗な干渉を排除する術がありませんでした。聖典には含まれない外典や偽典も強引に含ませられてラテン語聖書(ウルガタ訳)を翻訳させられました。そればかりではありません、「皇帝や教会の監督の権能があたかも神から直接与えられたものである」という意向にそった翻訳となる様に、翻訳内容にまで沢山の介入を余儀なくされてしまいました。もし、逆らえば翻訳の承認はおろか下手をすると処刑ものでした。こうしてラテン語訳聖書は公にされたのです。それ以後ローマ帝国はこれ以外の翻訳を一切認めず、帝国の傀儡ラテン語教会(=今日のローマ教会の前進)と結託して悉く翻訳者は異端審問で処刑し訳された聖書は徹底的に焚(ふん)書されたのです。

 その次はルッターのドイツ語訳ですがご存じの通り彼は宗教改革の旗手となり、フリードリッヒ選定公の庇護の元に聖書翻訳を完成しました。当然、為政者=民衆の搾取者に都合の悪い翻訳など出来ようがありません。  
  その次は英国王ジェイムが命じて国教会の御用学者達に訳させた有名なキングジェイムズ訳です。もう説明は不要でしょう。

  当時の封建体制下においては、労働者や一般民衆の権利などを擁護する翻訳など出来ようはずはなかったのです。

  ですからこのようなとんでもない翻訳が現在までまかり通っているのです。 

と言う事で、聖書は今の時代に英訳を参考にせず日本語に訳し直される必要があるのです。

真理と真実

  昨日は「罪の放置」について学びました。今日はもう一つ大切な言葉について学びましょう。このブロクの一番最初に扱った国会図書館の誤訳の記事はご覧になられましたか? あそこでは、「真実は奴隷解放する」として奴隷解放を指すエレウセロイに焦点をあてました。今日はもう一つの言葉 「誤訳の真理」に注目してみたいのです。

ご覧になられていない方の為URLです。→http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/508137.html

取り上げたのはヨハネの福音書の8章の20節で以下の様な原文でした 
(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)

  今日はもう一つの方の言葉の間違いについてです。そう、「真実=ΑΛΗΘΕΙΑ=アレーセイヤ」の方なのです。これは以前お話した「信仰と信頼」の箇所とも深く関わっています。 

参考URL→http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/688353.html

 真理と言う意味ならば別に信頼とは無関係ですが、「真実」となると当然それが信頼されなければなら無いのです。嘘ではなく真実なのですから万人がそれを支持し、そのことを主張する人々とその言われている事に対して信頼が当然なのです。そして、同時に真実なのですから別に人が信じようが信じまいが真実に変わりは無いのです。そして、真実は証明されなくともまた理解されなくとも真実自体に価値の変化はないのです。この事は説明不要です。何故ならば、そのことが真実だからです。そして 真実なのですからそのことを主張する人の言葉は実言でなければならないのです。 

実言と虚言に関しての参考URLは→ http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/746266.html

  この真実か真理かで重要な違いを持っているのが、ヨハネの福音書18章38節に記されたキリストの処刑された時のローマ総督ポンテイオ・ピラトの言葉なのです。

  そこではキリストを十字架につけようとするユダヤ指導者がローマ帝国のユダヤ総督ポンテイオ・ピラトの前に押し寄せてキリストの死刑を要求している最中に総督ピラトがキリストの面前で語った言葉なのです。この言葉は最後までキリストに付き従った大祭司の一族である使徒ヨハネ以外の他の使徒達には聞き知り得ない言葉であったでしょう。それゆえヨハネの福音書にのみこの言葉は登場します。

  この箇所は一般に「ピラトは言った。『真理とは何か。』」(新共同訳)「ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。』」(新改訳)「ピラトはイエスに言った、『真理とは何か』」。と訳出されています。

  しかし、原典のアレーセイヤには「真理」等と言う意味はありません。「真実」と言う意味なのです。そして、この箇所を正しく「真実」として訳出してみましょう。 

 ギリシャ語のこの箇所の原典はこうなります。 

原典  「λεγει  αυτω  ο Πιλατοs,Τι εστιν αληθεια ; 」 簡単なギリシャ語で誰でも見れば分かるでしょう。直訳はこうなります。 「彼は言った 彼に その ピラトは 、何が 彼が存在し続けている 真実? 」

 誰が見ても分かる様にローマのユダヤ地方総督は「 何が 真実だ!」と言ったのです。考えてみてください。戦争に明け暮れたローマ帝国で熾烈な権力闘争に打ち勝ち、やっとの事で手に入れたユダヤ地方総督の地位、そこに現れた30そこそこの見すぼらしい大工(正確には石工)の若造にすぎないイエスキリストに、日に焼けた肉体労働者風情に真理を尋ねなければならないほど無教養なピラトでは無いのです。 自信にあふれ虚栄の世界に出世を目指す彼にとって「真実などに、何の意味があるか」と吐き捨てたのです。

  もちろん、後世のラテン語訳を作ったヒエロニムスはローマの皇帝にそんなステゼリフをキリストにぶつけた事をそのまま訳出する事は許されませんでした。

  大学者であるヒエロニムスは、ローマ帝国の代表であるピラトがキリストを尊敬どころか侮辱と取られかねない捨てぜりふを吐いたのを真正直に訳してしまう様な愚かな事はしませんでした。

  もしそうすれば翻訳の依頼人である時のローマ皇帝の顰蹙(ヒンシュク)を買うことは必須です。 ヒエロニムスは、ばか正直にその様な愚かな訳をするほどの愚人ではありません。 上手に皇帝の検閲をクリヤし歴史に名訳者の誉れを残す為にあえてこのような「ローマの総督であったピラトがキリストを尊敬し丁重に質問したように改変」する事などお手の物だったのです。

と言う事で、この箇所の正しい翻訳は、どうみて信仰や神様などに何の関心も無い野蛮で残忍なローマ総督の当然の発言として「何が真実だ! こいつは馬鹿じゃないか!! 」という意味です。そしてこの世俗的なピラト総督の捨てゼリフを使徒ヨハネは神と人間世界の隔たりを表す言葉としてここに記録したのです。

というわけで、「ギリシャ語のアレセイヤは真理と言う意味はなく、真実を意味するものである。」と言う事なのです。

  そして、この言葉は旧約聖書のアマンと言う言葉に相当します。だからで此のアマン=アーメンもやはり「真実」あるいは「信頼」と訳されるべきなのです。

この真実を意味するギリシャ語のαληθεια=アレセイヤ(女性名詞)の聖書中での使用頻度は新約聖書に110回 です。 それに同語根の副詞(21回)や形容詞(27回)や動詞(2+2=4回)その他(25)を加えると187箇所になります。また、旧約のアマンが関連語を含めて約200回で合計400箇所のかなりの部分の翻訳はいずれも訳語を再考する必要があると思われます。

今日は、αληθεια=真実と言う言葉の訳し方に関する問題点でした。

罪の放置

 ギリシャ語の原文で聖書を読んでいると、いつも翻訳とは随分と意味が違っているのが大変気になります。有名な「主の祈り」を見てみても、随分と気になることが沢山出てきます。その筆頭が表記の「赦し」と言う言葉です。この言葉は贖罪宗教であるキリスト教の基本教理の一つで大変重要な単語なのですが、これもどうも正しく訳されていない様です。以下にその聖書箇所を記します。

マタイによる福音書 6:12
και αφεs ημιν τα οφειληματα ημων, ωs και ημειs αφηκαμεν τοιs οφειλεταιs ημων

これを語順そのままに日本語(直訳)にすると次の様になります。

「マタイ6章12節 ・そして あなたは放置しろ 私達に その 借金を 私達の、様に そして 私達が 私達が放置した その 借金を 私達の。」

 気になるのは一般の翻訳で 「赦す」と訳されている二番目に使われている言葉「αφεs」です。この言葉は αφιημιと言う「置き去りにするor見捨てる」という言葉のアオリスト2人称単数命令形です。一般の翻訳は「あなたは赦せ」と訳しています。しかしギリシャ語のこの単語の意味は少し違っているのです。「あなたはそのまま放置ろ」と言う意味です。

  この言葉使われている他の場所、たとえば第一コリント7章11節と12節には「離婚してはいけません」と訳されているのですがそのように訳出されているのはいずれもこのαφιημιなのです。この言葉の意味は「そのままにする」なのでここでは意訳して「離婚してはいけません」と訳出しているのです。
  またこの言葉は借金にも使われます。マタイの福音書の18章の21節から35節に登場する有名な「借金の免除」のたとえ話です。ここでも21節の罪の「赦し」と訳されている言葉と27節に使われている借金の「免除」と言う言葉は両方ともこのαφιημιなのです。32節にも35節にもこの言葉は使われていますが良く注意してみるとこの αφιημιと言う言葉は借金にすればその「免除=消滅」では無く「請求権の放置=返済を求めない事」を意味することが分かります。

  とすると、この語が「罪」に対して用いられる時も「赦す」言う意味ではなく「放置」すると言う意味である事が分かります。その意味は借金は無くならないし、債務証書もそのままだけれども借金の返済を迫らないと言う事になるのです。それを罪に当てはめると「罪の刑罰を与えたり、償いを要求せずそのままにしておく」意味です。
  ですから聖書が教えている罪の赦しは罪が消えて無くなる事ではないのです。信仰してもキリストの贖いに与っても、人の罪はそのまま残っているのです。しかし、その罪は神様が関西弁で言う「ホッタラカシ」にして下さっているのです。そして私達が他者に、罪の償いを要求しないことが要請されています。(先程見たマタイ18章23節から35節の借金免除のたとえ)だから、神様は私にも罪の償いを要求されないのです。キリストの贖罪に与った人は入信前は罪人でした、そして入信後も罪を冒しますが、神様はキリストに免じてどちらの罪に対しても「罰」を与えたり、「償い」を要求されないのです。
  ですから、主の祈りを初め聖書が「赦す」と訳しているαφιημιが使われている146箇所中「赦す」と訳されている70箇所程が誤訳です。それらの箇所で聖書が言っている事は「人や罪を赦す」事ではなく、人が行った罪にたいして腹が立っても、赦せなくとも「ほっておく」ことが要請されているのです。

三匹の鯰(なまず)

今日は難しいお話は止めて13年前に書いた物を紹介します。

阪神大震災の2年前の大渇水の夏の出来事です。父兄として長女の通う附属少学校文集に投稿したものです。1993年12月

「三匹の鯰(なまず)」    

この夏の異常渇水でわが家に珍客が舞い込んだ。干上がった武庫川で取り残された鯰である。
体長は十センチ余り。髭面の丸い顔に小さな目、なかなかの役者だ。水槽の石陰に潜み、髭であたりの様子を伺う。子供と一緒になって喜んでいたが意外な事実が判明した。

同居しているオタマジャクシやオイカワ、ハゼの類が目に見えて少なくなる。ある日現場を発見した。
水槽を縦横に逃げ回るオタマジャクシに鯰が食いついた。尻尾に噛みついた後、石陰に身を潜め、お隠れになった。鯰は肉食であったのだ。それから鯰の餌とりが始まった。近くの小川に、また猪名川に六歳の長男と奮戦した。長女にあっさりと振られたからである。折からの渇水でようやく捕まえた哀れな生贄たち。家に帰りつくまでに早くも犠牲者が発生した。折角の努力も虚しく腹を背にして浮いているオイカワ。痛ましさを覚えつつもみるみる成長する鯰の魅力とたくましさに押し切られた。

この珍客によってわが家は子供とともに生きることの意味を考えさせられた。

鯰の貪欲さを問う以前に、食卓にのぼる生贄の多さに気づかされた。ステーキは牛、トンカツは豚、鮭、鰯、フライドチキン、野菜も穀物も皆生物である。生きるということは他の命の犠牲の上に成り立っているのだ。自分を生かすことは他者を犠牲にすることであり、自分を犠牲にすることは他者を生かす道となる。

ある日、二匹の鯰が目についた。近くの小川の溜まり水に取り残された子鯰であった。独りぼっちの鯰の「お仲間に」との親心で捕獲し同居させた。何と翌日、新参者の鯰は両方とも背中に大きな噛み傷を受けていた。大きく成長した最初の鯰の仕業である。縄張りに侵入したよそものと認識したのであろう。二匹のうち小さいほうの鯰の傷は深刻であった。その後も執拗な攻撃が加えられもはや別居は不可避と判明した。

それぞれに新居を用意しながら考えさせられた。強いものが弱いものを苛める。弱者が強者から逃れるためには逃避以外に道はないのかと。三匹の鯰を通して家族で考えさせられた。せめて人間ぐらいは進んで自己を犠牲にし、弱者を援助するべきではないのだろうか? (教育雑感)

JEDP文書資料説

 文書資料説なんてい古めかしい言葉は最近めっきり見られなくなりました。一世を風靡したこの仮説ですが未だにこんな物を後生大事に信奉している御仁もおありとききます。今日は、この学説について簡単にお話してみたいと思います。
 ユリウスベルハウゼンと言うドイツの旧約聖書学者が同国人のヘーゲルが案出した哲学に感化されて創出した旧約聖書生い立ちに関する想像上の仮説です。

 このベルハウゼンと言う人は創世記の神名に使われているヤハウエ(当時はエホバと呼んだのでJ資料)と言う言葉やエロヒムという神名(E資料)と言う2つの神名は創世記の元になった異なる資料の名残りだと言う思いつきの仮説に基づいて旧約聖書の編集過程を解明しようとしたのです。

 この仮説は後に申命記資料(D)と祭司資料(P)を加えて一般にJEDP文書資料説と呼ばれています。従来の保守的な見解の立場からは「破壊的聖書批評学」として前世紀前半に随分と派手な議論が展開されました。
  この文書資料説が広く旧約聖書の研究者に支持され大勢を占めるに至るのです。その理由は明解です。20世紀初頭において新約聖書の写本は一世紀後半のもの(ムラトリ断片)等多数発見され年代も確定していたのです。しかし、旧約聖書の一番古い写本は新約聖書の写本よりも千年も新しいキリスト紀元1100年頃の物しか存在しなかったのです。それゆえに新約聖書が先に書かれ、それに合わせて後代に旧約聖書が創作されたのだと言われると当時の学術資料を駆使しても否定が出来なかったのです。

古い写本が残らない理由ですがそれは以下の理由によります。マソラの書記(ユダヤ正統派の聖書=律法学者の子孫)たちは羊皮紙に筆写された古い写本を新しい物に書き写すとその新旧の巻物の文字数をカウント(へブル語セフエル=数える=書記と訳される)し新旧の文字数が完全に一致すると古い巻物を焼却処分していたので古代の写本は残っていなかったのです。

  しかし、文書資料説の信奉者はその様なユダヤの伝統に無知で知っても無視して自説を掲げたのです。そして、この文書資料説が世界の旧約聖書学会を席巻し、その最盛期に突然一連の巻物が死海のクムランの洞窟で発見されたのです。

 それは第二次世界大戦が収束し、パレスチナに平和が訪れ折しもユダヤ民族の悲願であった祖国イスラエルが2千年の空白をへて聖地パレスチナに建国されたその時だったのです。
 1948年(発見は1947年の早春)のことでした。そして、この中にはほぼ完全な形の旧約聖書が含まれその筆写年代は紀元前3~4世紀と結論されたのです。

JEDP文書資料説に酔っていた多くの聖書学者達は一斉に沈黙しました。なにしろ今まで一番古かった旧約聖書の写本よりも1500年以上も前の物が突然登場し、しかもその年代が確定してしまったのです。第一、第二、第三イザヤ等と派手に議論されていたイザヤ書も完全な形でしかも第一イザヤの時代に、それよりも遙に後代としていた第二、第三、イザヤもそこに含まれていたのです。そして、モーセ五書もほぼ完全な形で発見されてしまったのです。

  しかし、それから60年を経た今日に至っても、死海写本の全容は公にされていません。多くの理由があるのですが最大の物は、これを進めているのがスポンサーとなっているバチカンにとって不都合極まりない文書が厖大な分量含まれている為だとされています。何しろ、死海写本を擁していたクムラン教団がローマ軍によって滅亡させられたのですからローマ帝国やその当時の1世紀の世界のキリスト教会の勢力図を明示する多くの古文書がその中に含まれていたのです。

  それゆえ、バチカンは今まで公表していた歴史上のバチカンのプロパガンダ(初代教会時代からローマは世界の教会の首位性を保っている等という一連のフエイクです。)が霧散することをおそれて公表を無期延期にしてしまったのです。何しろこの研究を実際に取り仕切っているのは1892年に教皇レオ13世によって創設されたエルサレムの聖書学院に設けられた「国際チーム」言われる研究者達なのです。しかしそれは表向きの顔で実際にはバチカンの教皇庁聖書委員会の傀儡御用学者集団であったのです。

  それゆえに今日にいたるまでJEDP文書資料説は生殺しの状態で死ぬ事も出来ず、かと言ってこれを公に掲げる専門の旧約学者もいないわけなのです。しかし、今日にもこんな死に体の文書資料節の亡霊が横行するのは次の理由によります。問題は、全くその様な事情を知らない門外漢の人々が、特に新約学や組織神学などの旧約聖書に関して専門知識をもたない方々が、まさかそんな事になっているとは露知らず。このJEDP文書資料説を振りかざして無知をさらけ出しているのが現状なのです。

  さて、以上でこの仮説の現在の状態ナノですが、以下にその学説のその他の問題点を上げておく事にします。 

 JEDP文書資料説も最近は混迷の限りを尽くしとうとう、構造解析とかパソコンを使った聖書の分解作業が講じてすっかり統一性を失ってしまっています。その結果今では学説がバラバラに散開、錯綜し、もはや定説は何一つありません。しかし、未だにこの仮説を真実と思っている専門外の人も多いので困りものです。

 このJEDP学(仮)説の根拠の最大の物は次の事です。

ドイツヘーゲル哲学的社会学進化論に乗っ取り「最初は簡単な聖霊崇拝がやがて中央集権的祭祀宗教となり、その権力の座に最終的に大祭司が登場し壮大な神殿が建設された」その段階になって初めて教典が必要とされ歴史が捏造されたという想像上の仮説が発展してJEDP文書資料説と成りました。

  
 JEDP文書資料説の最も顕著な問題箇所は、捏造された証拠として取り上げられている、初期の祭儀や宗教形態にあります。当然全ての祭司資料や祭儀に関する聖書の記録には信憑性が無いというのです。だから中央集権祭司集団によってフエイクされた幕屋などという古代祭祀神殿は架空の物で実在しなかったとされたものです。それゆえに幕屋は実際に建設は不可能で構造も矛盾だらけのでたらめである。と言う物でした。

 じつは、この中央集権祭司の文書資料集のP(祭司典)の最たる捏造の証拠とされる「幕屋」に関する事が実は私の最も専門とする所です。何故こんな物を好き好んで研究したかというと、「幕屋の構造が制作不可能な非現実的記述である」というので実際に原典を調べてみて作れるか作れないかを検討してみました。もし嘘なら必ずどこかに矛盾や不合理が出て来て真偽の程は自明になると思ったからです。その研究結果は意外な物でした。事細かな計算の結果ピタリと寸法や重量構造は驚くほど厳密でその上実に正確でした。詳細は以下のリンクをご覧ください。JEDP文書資料説の最大の論拠であるP祭司資料に関する主張を見た限り、文書資料説の主張は私の確認した限り只の妄想でしかありません。

幕屋の構造の論文に関しては下のリンク先か「幕屋の構造」と検索して概要をご覧ください。。


 さてもう一方の文書資料節を真っ向から否定しているコンサバテイブ(保守派)の主張にも、確かに問題(弱点)があります。それはどうして3,500年前の部分と2,300年前のマラキ書などが1,200年の時代差が在るのにほぼ同じ文法(正確には語法)で記されているのか?と言う事がどうしても説明出来ません。 実際に旧約聖書はほぼ同じ文法で記されています。おかしいですね、「言葉や文章は必ず時代によって大幅に変化します。その解決に、バビロン捕囚から帰還した律法学者のエズラが同一の文法に成形して写本を纏めたと言う人も居ます。


  しかし、私はそれにも疑問を感じます。なぜなら翻訳されている旧約聖書は上手にそして見事に翻訳されていますが、実際に自分で原典をあたると、不思議に思ええる程、原意不明の単語が続出しています。正確にカウントした分けではありませんが、意味不明の単語、特に相当古そうな、アッカド語やセム語に類似する言葉ですが、全く意味の分からない単語が1割以上あります。もしかしたら15%ぐらい存在しるでしょう。それは厖大な数です。もしエズラが編纂したならどうしてこれらの古めかしい単語を、後代の分かりやすい一般的な単語に変換しなかったのか不思議でなりません。


 まあ古代の事ですから、今の私達とはどこかで相当考えかたが違っていたのかも分かりません。例えは、著者と言う概念に関しても相当違います。古代の文書の常識ですが、著者に関しては新約聖書の全書物同様に認識する必要が有ります。分かる事ですが新約聖書には「キリストの直筆」も「使徒達の直筆」もありません。当然です。それは当時の常識です。書き物(書物や手紙)は全て口述筆記でした。書記と言う職業があって、それ以外の人間が物を書くと言う事は古代にはあり得ない事だったからです。ですからモーセや預言者や使徒の自筆原典などと言う物は初めから無いのです。


  そして、これらの文書は全て綺麗に韻を踏んだ覚えやすい物語に(ナラテイブ)になっています。原典で読めば自明ですが、音読すると実に感情が自然に移入され解釈不要です。単語を発音する音だけで、あたかも交響曲を聞く如くに、音で迫力が伝わってきます。やはり相当コトダマの超弩迫力な人格がその音声の向こうにいて、その脈動が音声を聞く物にのりうつってくるのです。

  聖書を読む音声には何処を読んでも本当に圧倒されます。しかし、翻訳してしまうと実にくだらない(すみませんこんな言い方で)意味不明の文書(もんじょ)に変化してしまいます。おそらく原典の音声に表される、この名文なら、ネイテイブのヘブル人なら大抵簡単に暗記出来るでしょう。しかも相当量を。「ユダヤ教のラビが3人寄ればその暗記している記憶で全聖書を正確に復元出来る」と言う主張を聞いた事が有りますが当然かと思います。

  その様な訳で私はモーセ五書はおそらくモーセの従者シュア(ギリシャ訳はイエス)あたりが目撃した事を口述して、書記が書いたと推測しています。モーセ五書の殆どの部分を。その論拠ですが、目撃者でなければ書き得なかった事実が沢山聖書に記されているからです。それは先に述べた出エジプト記に記された移動式神殿の幕屋の記述です。確かにこの「幕屋」難解な記述が多くいのですが、実際に幕屋の実物を見た物でなければ書き得ない正確で緻密な表現が随所に見られるからです。そして70人訳の翻訳も忠実にそれらをギリシャ語に見事に訳出しています。

  結論ですが、私は手元にある聖書原典を読んだ素朴な感じとして、誰がそれを記したかは私が見た訳ではありませんが、こんな言葉を記した人物は並の凡人ではなく卓越した相当の奥深い学識と威厳を如実に顕示する人物が聖書を記したのであると、ひしひしと実感します。

以下は参考リンクです

http://bible.co.jp/tabernacle/

出エジプトの人数と進化論

出エジプトの人数

昔ある方(●●さん)から、聖書の信憑性に関してご質問を受けた事が在りました。それは、出エジプトの人数に関してでした。

出エジプト記38章の26節他に記された●1●・「60万人は信じられない」と言う物でした。その根拠として」聖書の数字は全て象徴で、もし実際に20歳以上の男丈で60万人なら女子供を加えると200万人を越え、その様な大人数が紅海を渡りシナイ半島で移動する事も生活する事も不可能だ」と言うのです。その質問には「具体的に移動するには1m間隔の5列縦隊で総延長は600㎞に達してシナイ半島に収まり切らない」というものでした。●2●・それに当時には筆記する事が不可能で、●3●・その上聖書の記録には進化と言う観点から時代錯誤が見られるとう言う物でした。

果たしてどうなのでしょうか?その時の私の反論です。

●1●・「出エジプトの人数」への反論 

 聖書がダバールやロゴスとして主張している部分は、以前お話しした様に (参考URL「言葉」という言葉 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/746266.html )で史実でなけれはならないのです。もし、この聖書の明確な主張が否定されると問題は一部ではなく聖書全体に波及する問題となります。もしこの点が否定されるとその結果、聖書全体の記述はでたらめと結論されざるを得なくなるのです。
 ●●さんが出エジプトの人数に言われるように5千人だとすると「男だけで60万人(出エ38章26節、他)」という明確な聖書の主張が崩される事になります。そしてその主張は聖書はロゴスとして記録していますので、それが否定されると、結果的に聖書全体が否定されてしまうのです。
 さらに、この点をより具体的にお話ししましょう。この出38書26節の前後に在る60万人の登録人数と、その時にその献げられた一人当たりの銀の重さ(半シケルの5.7g)に人数(603550)を掛けるとその合計は3440235gできっちり100タラント1775シケルになります。そしてこの献げられた銀を用いて幕屋は建設されているのです。この重さが否定されると私の論文の多くの計算はこの数値を前提にすべて割り出されました。その結果幕屋全体のたの数値とも符合して全体が見事に調和しているのです。もしこの銀の数値が否定されると私の論文全体にその影響は波及し、おそらく「幕屋は実在しなたかった」という結論を私は導き出さざるを得なかったでしょう。
 その点から見ても、聖書は本気で出エジプトの人数を男だけで60万人としている事を疑う事は出来ません。さて、聖書の記述から現実の実際に話をむけましょう。言及された通り現在のシナイ半島に200万人を超える難民を養う自然は皆無である事は私も十分知っています。しかし、紀元前11世紀(私は1440年の早期説を取ります。)のシナイ半島がどうであったかは明確な資料はありません。ソロモン神殿の建設に使われたレバノン杉の大森林や、ダビデの息子アブシャロムの反逆時のヨルダン渓谷の密林での戦闘の記述やライオンなどの動植物の記述を見る時、現在のパレスチナと余りにかけ離れている豊かな自然の描写であることは自明です。それはパレスチナだけに止まりません。当時の周辺諸国の考古学的調査結果による都市の壮大さなどと比較検討する時、時代をさかのぼるほどシナイ半島やパレスチナには、「当時は現在と比較出来ない、より豊かな自然が在った」事は否定出来ないと思います。
 さらにその周辺のエジプト周辺やメソポタミヤにも、紀元前2千年期には豊かな自然があり、文明の発展していました。しかし、豊かな自然が失われると同時に、その地に存在した文明も消失してしまったのは周知の事実です。
 さらに今日の日本とシナイ半島を比較してみましょう。シナイ半島は今日の日本の四国(人口約415万人)の約3倍の面積が在ると言われています。一方現在のシナイ半島は面積(61,000 km 2)で四国(18788 km 2)の約3倍に相当します。とすると「出エジプトの難民時代には、シナイ半島は四国の3倍の面積で四国の約半分の200万人程の人口を養っていた」という事になります。言い換えると「出エジプトの時代のシナイ半島の人口比の土地の負荷は現在の四国の6分の一」と言う事です。
 以上の事を総合的に勘案して考えると聖書の記録は現在よりもかなり有利である事が分かります。しかし、どうひいき目に見ても結論は「当時の自然が現在よりも少しぐらいは豊かであったにしてもまあ200万人が生活するのは非常に厳しい」という事実に変わりはありません。
  そして、その事実をすべて踏まえて、「聖書の記述の真実性に本当に問題があるのか」という事に目を向けましょう。よく聖書を読んでください。200万人は出エジプトの後、どうなったのでしょうか? 聖書は厳しい現実を記しています。聖書が明確に記しているのは200万人が荒野で生活したと言っているのではありません。聖書が言っているのは、「その荒野で20歳以上のものは記された通り2名以外は悉く死に絶えた」と言う記録です。(民数記26章62節)当然でしょう。どのような状態で出エジプトの民がどれぐらいの割合で死んだのかは記されていません。しかし、明確に聖書は彼らは悉く荒野で死に絶えたと記しています。とすればそれで当然で、聖書その記録を疑う根拠にはなり得ないのではないでしょうか。
  そしてもう一つの問題が生じます。ではどうして40年の放浪の末期にはまた男だけで約60万人だったと記されているのでしょうか? 
 その回答は次の様に考えてはいかがでしょうか。
当然、難民の常として、シナイの荒野の悲惨な40年の期間には死亡数の増大と同時に、出産数の異常な増大が見られたでしょう。多くのものが死に絶えたでしょうが、同時に多くのものが生まれたのではないでしょうか。もちろん、その中でも死者が多くなるのは当たり前です。40年間の荒野の放浪ではおそらく、イスラエル難民の人口は半減、いやそれ以下になったでしょう。
 そして生まれる子供達も次から次へと餓死した事でしょう。その悲しみに直面していた荒野の40年間の殆どの期間に対して聖書はほぼ沈黙しています。(民数記に記されているのは荒野の40年の期間の最初の2年間と最後の2年間の僅か4年間で16章から18章の36年間に関する記録は皆無です。)しかし、シナイ半島の放浪の後半には彼らの生活事情は大幅に改善されました。シナイの荒野を出てモアブの草原地帯やアモリ人達の居留地を侵略し生活が安定した事を聖書は記しています。パレスチナにも土地を略取したシナイ半島難民時代の末期には爆発的に人口が増加し、再度出エジプト当初の規模を回復した(民数記26章51節)のはごく自然の成り行きかと思います。
 また1974年 韓国で開かれた民族総福音化をテーマに国会議事堂前の広大なヨイド広場で行われたエクスプロ'74に日本から参加した時の事です。宿泊していたミヨンドンの韓国キャンパスクルセードの本部ビルからバスで会場入りをしました。会場に向かう4車線の道路の両側の歩道は会場に向かう人々で一杯でした。そしてハンガンを渡る橋は大渋滞でした。聞けば一日中このような状態と言う事でした。会場のヨイド広場は端から端まで見渡す限りの人でした。この会場は縦2キロ横1キロあり、有事には航空機が発着出来る広さであるときき驚きました。そしてその会場に入った入場者総数は200万人であったと発表が有りました。出エジプトに参加したと言われる全難民と同数でした。確かに200万人はものすごい人数ですがまとまればこの程度なの感嘆しました。そして、その翌日、復光節の大統領婦人の陸女子の暗殺事件が起きました。戒厳令が解かれて漸く私達日本からの参加者が会場に尽きました。その数約3000名でした。その日は日本のラジオ牧師羽鳥 明さんが説教でしたが、その中で韓国に介する日本国の罪をわびられて、私達は豪雨のなか、会場の前方に移動して、講壇の正面で200万人の韓国の方々に向かって土下座し戦争中の非道をお詫びしました。そのために群衆の中を移動しましたが人は詰まっている様でも結構移動には手間取りませんでした。確かに出エジプトには200万人の人間の他にも家畜や牛車がっあって、移動は大変だったと思いますが、ご心配されるほどの混乱は生じないかと思います。
  以上の事から出エジプトの人数200万人の記載は聖書の記述の信憑性を疑う根拠にはなり得ないと認識します。
 
●2●・「筆記具」への回答 
さて次に、筆記の問題です。当時にも文字はありました。オストラカに残されている楔形文字やフエニキヤ文字やエジプトの線文字なと全てアルファベットの表音文字ですからどんな言葉でも、そのまま簡単に記録出来たでしょう。また記録媒体には幕屋に大量に使われたなめし革はそのままで最高のメデイヤになった事と思います。

●3●・「進化論」への反論
  最後に、「物事にはおおよそ発展進化があります。」と言う事ですがこの点も敢えて反論させていただきたく思います。全ての発展を見れば自明の事ですが、資源の枯渇がかならずその背景に有ります。ガソリンという化石燃料の枯渇によるコストの増大がハイブリッド車を生み出し、更なる資源の高騰がやがて燃料電池車や電気自動車を生み出したのです。もし縄文時代の狩猟経済の川の魚が枯渇しなかったら、丸木舟は不要であったでしょう。そして沿岸の漁業資源が枯渇しなかったら漁船や遠洋漁業や魚群探知機は不要であったでしょう。今日の発展した高度な軍備や科学技術を持つ高度な情報社会は、そのような観点から見る時、物質資源の枯渇が原因であって、けっして進化や発展が先に在った訳ではありません。そしてますます資源は不足し更なる技術の進化が止めどなく必要とされるだけの事ではないでしょうか。

聖書に記されている記事に対しては聖書はダバール=ロゴス=実言と言う明確な立場を顕示しています。もしその立場で記されている聖書の明確な記述に虚構や象徴的な意味が存在すると仮定するならば、聖書その物が明記している実言というスタンスが瓦解してしまうのです。それゆえに聖書の記事や数字は事実によって裏打ちされていなければならいのです。これを看過しては聖書に関する最初のボタンをかけ違えてしまい、聖書の読み方の前提が崩れてしまいます。その結果付随する、聖書翻訳やその結果構築される全神学は無為に帰すのです。これを認めないと聖書や神様に関する、最初の一歩が踏み出せません。

教会の分類

 教会にも分類法があるのか?と疑問をもたれる向きも多い事と思います。何しろ牧師に対しても「神父」さんとローマンカソリックの教職者の呼称で呼ばれる方が大半の日本の事です。当然のことでしょう。また昨日の「聖霊派」等という言葉をみて「身内で他教派批判をするキリスト教は日本の宗派と同じで見苦しい!」とお叱りを頂きそうです。今日は、キリスト教の教派についてお話したいと思います。

  まず教派とは何かを基本的にお話ししなければなりません。「仏教もキリスト教も宗教紛争に何の変わりがあるか!」と言われる向きには「基本的に違います」とお答えしなけれはなりません。
  日本の仏教は日本の国内で同じ宗派の財産や地位を巡っての争いが多いかと思います。仏教教派は開祖とそのお弟子間の権力闘争の結果ではないでしょうか。

この点キリスト教教派は仏教の内部紛争の結果生じた「宗派」とは次元もスケールも違います。キリスト教の教派(宗派)とは基本的に国家(民族=原語)単位です。因みに古い順にキリスト教の主要教派を記しましょう。

これはキリスト教の歴史による分類で同時に、地域=国家=民族=原語によるキリスト教会の分類になります。

★・教会の分類・★ 教派の分類には3種類の指標があります。

★・分類第一・歴史的民族国家による分類
●注意して下さい、いずれの教派教会も自分達がキリストと初代教会の正当な継承者と言っています。問題はそれが歴史的にどういう変遷を辿ったかという客観性とその認識です。

括弧内は現代の中心活動国家名(植民地は除く)、 右の数字は概略活動世紀です。
 1・ 初代ギリシャ教会・公認前地中海世界       1-4世紀 
 2・ ギリシャ正教会・東方教会(公認後、ギリシャ)  4-21世紀 
 3・ 西方教会16世紀に民族毎に独立=宗教改革    2-16世紀 
 4・ 古ローマ教会  497年滅亡              4-5世紀
 5・ コプト教会・カルケドン会議で分離・アフリカ     5-21世紀 
 6・ ロシア正教会980キエフ公の改宗 (ロシア)    10-21世紀
 7・ ルター派(ドイツ国教会)(ドイツ北欧)        16-21世紀 
 8・ カルバン(長老)派(スイス仏北部)         16-21世紀
 9・ バプテスト(会衆)派(オランダ)            16-21世紀
10・ ローマカソリック (イタリア、スペイン)       16-21世紀
11・ 聖公会(英国国教会)(英国南部)          16-21世紀
12・ メソジスト派1737ウエスレー改心(英国)      18-21世紀 
13・ 聖霊派、ペンテコステ、カリスマ派(米国)      20-21世紀  

おわかりでしょうか? キリスト教の主要教派は教会が分裂して出来たのではないのです。宣教が進むにつれて宣教先の民族国家毎に集団が形成されそれぞれが教派となったのです。そして、それぞれの国毎の公用語に聖書が翻訳されています。もちろん無理をして言葉の異なった国家が共通語を定めて一つであった時代が在りました。2世紀から16世紀まで続いたラテン語を公用語とする西方教会です。しかし、所詮ラテン語が母国語であるイタリアや同言語系列のスペイン、仏蘭西南部以外は負担が大きく結局ルッターの宗教改革によって経済的にも組織的にもそれぞれの民族毎に分離する結果と成りました。

  さて、その様な時代の流れの中のキリスト教に一大異変が起きます。それは米国のキリスト教なのです。
  お判りでしょう。米国=合衆国にはこれら全ての国家から移民が押し寄せたのです。特に自国の信仰的に堕落して為政者と結託した国教会からの自由を求めて米国に宗教移民した人々は、最初はそれぞれの国の言葉で礼拝をしていましたが移民2世から3世の時代(100年後)になると移民達の教会も英語が公用語になります。そしてこの英語を話す多様な背景を持つ合衆国の教会から送り出された宣教師が明治維新と第二次世界大戦後に大挙して日本にやって来たのです。彼らは米国の英語を話す教会からサポートを受け、同時に彼らの祖国の教会からもサポートを受け、更に複雑な事に祖国から直接日本に遣わされた少数の宣教師と宣教協力をして日本のキリスト教化を進めたのです。

 それゆえに現代の日本には120を越える様々なキリスト教会の教派が活動しています。北米からの宣教師の活動がどのような物であったかを推測するには現代ある多くの著名なミンション立の有名諸大学をみればおおよその見当がつくかと思います。それらの詳細をこのブログにアップしょうとしましたが全て「使用が禁止される文字列」に該当しましたので残念ながら削除しました。

  さて、その様なキリスト教の教派の存在を認識頂いてその上でこれらの教派の分類をしたいのです。

★・第二は教会政治による分類です。政治とは端的にいうと、教会における権力の所在です。教会の財政、教職員の人事、信徒や牧師の信仰生活に関しての決定権です。
●注意してください、いずれの教派教会も自分達は神様に全ての権限を帰していると言っている事です。問題は実際に誰がその権威を制定し具体的にどの様にしてその権威が継承されているかと言う事なのです。
古いものが監督政治、その対局が会衆政治、その折衷が長老政治と思ってください。
(括弧内は典型的な教派と思われるもの)

1・監督政治は・監督・教職者丈が権力を行使します。その理由は、教職者丈が教育があり聖書知識を持っているので配下の事に対して神聖冒されざる権限を持つのです。
(ローマンカソリック、英国国教会(聖公会)メソジスト、ホーリネス)
2・会衆政治は・信徒(総会)が権限を行使します。その理由は教職者が信徒の無知を良い事に私利私欲を肥やすし不道徳極まりないので任せられないと言うものです。
(バプテスト、メノナイト、)
3・長老政治は・教職者の代表と信徒の代表で構成した(長老会)が権力を行使します。
(改革派、長老教会)

★・第三は神学による分類です。上記は組織としての見える形での権力の所在ですが、こちらは見えない理性や心の中に存在する本質的な権力の所在です。 (括弧内は典型的な教派と思われるもの)
●注意してください。いずれの教派教会も神に霊感された聖書に最高の権威を置いていると主張しています。問題は言っている事と実際がどの程度整合しているかと言う客観性なのです。


1・聖書主義・聖書の原文を歴史的文法的に解釈しそこに唯一絶対の権威を起きます。
(福音長老、改革派、保守バプテスト、同盟基督教団、インマヌエル、ホーリネス)
2・自由主義・人間理性に絶対権限を起き、理性で理解できな物を信仰から排除します。
(聖公会、日本基督教団、バプテスト連盟)
3・神秘主義・人間の理性を停止し、聖書の記述からも遊離し超自然現象や恍惚状態を追求します。
(アッセンブリー、ペンテコステ、カリスマ派 )

以上の3つが非常に大まかなキリスト教会の分類方法です。もちろんこれらの一つ一つは子細に枝分かれし複雑に絡み合い単純に認識理解するのは不可能に近いほど複雑多岐に渡る枝葉が存在します。

  しかし、現実の諸教会はこれらの3つの基本的な分類項目(1・歴史国家、2・教会政治=権力構造 、3・神学傾向)によって大まかその特徴を理解することができます。

さて、その様な教会の分類法ですが、もう一つ大切な事を最後に記さなければ成りません。キリスト教会の教派教団で最も大切なのは言われている教会当事者達の自己認識とその客観性の整合です。簡単に言えば「教会の自己イメージの理想と現実」と言う事です。そこには必ず大きなギャップが存在します。そこでそのギャップの程度も見なければ教会を正しく分類したことには成りません。以下にその実際を記します。

●注意してください。書面や口頭では何とでも主張できます。

・そうなので。教会や教派教団の分類で最も難しいのはこの点なのです。

  教会の分類で、一番の問題は現実の実際が果たしてそれらの文書や口頭の主張と合致しているかなのです。それらの欺瞞を見抜くのは実は簡単です。「言う事、書いた事」をしっかり記憶し、「やっている事」と比較するのです。そうすればその教会や教派がどの様な存在であるかが判明します。たとえば、伝道する事を熱心に解き、熱心に伝道している教会があります。問題はそれが本当に人々を神様の救い導く為なのか、それともぼろぼろと脱落する入信者を補い莫大な教会の運営経費を捻出する為だけの偽善であるのか?しっかりと目を開いてやっている事を見てください。

  大抵の商品や団体の宣伝文句と同様に教会の能書きも理想と現実には大きな相違がある物なのです。

  その最たる例はローマンカソリック教会に見ることができます。何でも、「キリストから天国の鍵を与ったキリストの使徒の代表者ペテロが初代ローマ教皇でその後絶えることなく世界教会の首位にある」というのです。いちいち全てに反論するのも愚かしいのですが全て嘘です。
  「天国の鍵」の件ですがこの時のキリストがペテロを名指ししたと言う言葉はギリシャ語の原文では女性形なのです。明確な事は女性形のペトラは「岩」と言う意味でペテロ個人を指すのではなく、彼がイエスをキリストと告白したその「告白」その物を指します。そして、聖書のどこにもペテロが弟子の代表とは記していません。口先三寸でいい加減なお調子者として聖書はペテロの欠点を明白に記述し、そのペテロはローマ人の手によって犯罪人として処刑されています。その処刑者の末裔を名乗るローマ教会が自分達の先祖が処刑したペテロを崇めまつり、ローマ教会の首位性の根拠として担ぎ出すのはお粗末の限りです。
 それだけではありません、323年のミラノ勅令(寛容令)によって公認されたキリスト教会ですがその本部はコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に遷都してしまいす。西方ローマは東方ギリシャ教会の一地方に低落し、497年の西ローマ帝国の滅亡と共にガリヤやイスパニヤを除いたローマ市の教会は解散状態になり歴史からその存在が消えてしまいます。
   西ローマに教会が復興するのはコンスタンチノープルが陥落する1453年頃です。そしてこのころに、コンスタンチノープルを回教徒との戦争に援軍を出してやるから「ローマ教会の首位性を認める捏造文書の信憑性を認めろ」と脅迫する悪質な教団と堕落していました。そして、その要求を拒否したコンスタンチノープルに対して援軍を送るとした十字軍は、事も在ろうにコンスタンチノープルに攻め入り、貴重な聖書写本や、巻物、などの諸教会の宝物を略奪し、聖職者を皆殺しにし挙げ句に、美しく教養あるギリシャ貴婦人達を凌辱し、妾や奴隷や売春婦として売り飛ばしたのです。ローマ教会の戦利品となったギリシャの多種多様な文物が後に研究され文芸復興を未開国家イタリヤにもたらしたのです。
   歴史の事実を通して、言われている事と現実の整合性を見なければ本当の教会の真実は見えて来ない物なのです。 

  大変面倒かも知れませんが「記されている事、言われている事」を事実と照合すれば簡単に何が真実で何が嘘なのかは自明となります。

以上が大まかな教会の分類法です。

翻訳と誤訳

  昨日は「翻訳と解釈」と言う題でお話しました。今日は「翻訳と採算」とでも題したらより正確な題になるのでしょうがあえて「翻訳と誤訳」としておきました。

  何故、聖書翻訳に「解釈という名の誤訳」が入り込むのかを考えたいのです。そのために大変有名な聖書箇所を取り上げましょう。それは 新約聖書使徒の働きの2章にあるペンテコステの日の記録です。

  「ペンテコステ」などという一般の方には随分の馴染みの無い言葉を出しました。しかし、その言葉の意味は何と言う事はありません。ギリシャ語では単に「第50」という序数詞なのです。旧約聖書では「ハグ シャボット」で文字通りの意味は「7週の祭り」とか「五旬節」(7日×7週で49日の次の日にあたる第50日)と翻訳されています。これは古代イスラエルの民が出エジプト記やモーセの十戒でお馴染みの紅海が二つに割れた「エジプト出発日」(=過越の祭りの日)から数えて丁度50日目を意味しています。じつはこの日はユダヤ教では最も大切な日なのです。この日にシナイ山と言うところでモーセが神様から十戒を授かった記念のお祭りの日なのです。

  ですからギリシャ語の「ペンテコステ」とは 「律法授与記念日」を意味しているのです。

  新約聖書には、丁度この律法授与記念日にキリストのお弟子達がエルサレムの神殿近くに集まっていた所、突然に天から風が吹いてきて(ギリシャ語でもへブル語では風と霊は同語ですから「霊した」とも訳せる)、分かれた炎のような舌がキリストのお弟子達に留まり、一同が 「聖霊=プネウマ=風」に満たされたと言うのです。その結果、無教養な使徒団が外国語で話し出し、エルサレムに来ていた外国在住のユダヤ人たちが自分の住む国の言葉で語られる教えを聞いて驚愕したと聖書に記されているのです。

 問題なのは、そのあとの使徒ペテロの言葉なのです。新約聖書、使徒の働きの2章38節の訳文を引用します。

1・新共同訳「賜物として聖霊を受けます。」
2・新改訳「賜物として聖霊を受けるでしょう。」

以上の二つの訳は明確な誤訳です。正しい翻訳は 

3・口語訳「聖霊の賜物を受けるであろう。」
4・岩波訳の「聖霊の賜物をうけるであろう」

です。もうこれは明確です。なぜなら原文のギリシャ語では聖霊は属格(=所有格=の)、賜物は対格(=目的格=を)ですから逆立ちをしても「聖霊の賜物」なのであり反対の「賜物の聖霊」とは訳せないのです。

正しい翻訳は「聖霊の賜物を受ける」なのです。
  
 なぜ、比較的新しい「1」と「2」が間違って訳出し。より古い口語訳「3」が正しく訳しているのでしょうか。そして、なにかと批判されやすい「4」の岩波訳も正しく訳しています。

  じつはこれは誤訳では無いのです。

  その理由を説明しましょう。聖書を翻訳し出版するには、莫大な資金が必要な事は皆さまご存じでしょう。 何しろ分量が厖大で翻訳費用も校正費用も、それに紙代や印刷代に加えて保管する倉庫代も馬鹿になりません。聖書を出版するには誰かがその費用が回収出来るまで立て替えなければならないのです。そしてもし、出版された聖書が売れなかったらどうなるでしょうか。
  誰がその負債の責任を取るのでしょうか? 教会? 教団? 出版社? 印刷会社? 翻訳者? 聖書協会? 宣教団体?
  誰もそんな莫大な損失を取る事は出来ません。ですから出版される聖書は必ず全ての教派教団、を越えて広く諸教会に受け入れられなければならないのです。しかも、出版される前に、確実に。

  と言う事は始めに結論が在るのです。その結論に向かって様々な教団教派がその翻訳を受け入れられる為に、それぞれの教派から翻訳委員会の委員が選出され、翻訳の方針や翻訳者の選定がなされます。 そして訳されてきた原稿が翻訳委員会で審議されるのです。その段階で自分の教派に都合の悪い言葉があったら密かに申し出て削除や変更が求められます。そして都合のいい様に=その教派が歓迎される様に翻訳が覆されてしまうのです。

  上記の「使徒の働きの2章38節」もその様にして改竄された翻訳箇所の一つなのです。そして、この相違には看過出来ない重大な問題が隠されているのです。この二つは、よく似た翻訳ですが意味は全く違います。神様を信じる人が神様から頂くのが「聖霊」か 「聖霊の賜物」かの違いです。別の相応しい言葉に置き換えると「全地球を含めた全宇宙を受ける」とするか「信仰」を頂くと言う以上の大きな相違が在るのです。何故なら聖書の教える神の霊=聖霊は神様ご自身と同質で天地創造の主体であり全宇宙よりも大きい存在だからです。

  このような改竄を要求した教団や教派がどこなのかは私は全く存じません。

  しかし、この聖書箇所はどんなに研究しても

1・新共同訳「賜物として聖霊を受けます。」
2・新改訳「賜物として聖霊を受けるでしょう。」

 とは出来ないし、してはならないのです。これは単に私の推測ですが、このような翻訳を歓迎する神学が在る事は知っています。一般的にウエスレー派とかメソジスト、そしてそれらの教派を批判した人々が創出した発展的教派であるペンテコステ派とかカリスマムーブメントと呼ばれる教派です。 

  それらの教派は互いに相手を否定しているのですが同じ考え方をしています。その特徴は、いずれも信仰体験を大切にする事です。その体験は 「聖め体験」とか、「聖霊体験」とか様々に言われている体験を教派の基本教理に据えているのです。歴史上で唯一「体験」を教理にした所に、この教派最大の問題があります。神様を体験するわけですが、それが神様の体験である事を誰が認証するのかと言う問題が惹起されるのです。人間の体験を神学の対象にしそれが神様の直接介入によって個人になされた神的体験であると誰が認証できるでしょう。またその体験が真実かあるいは口から出まかせの嘘かはたまた夢かなどいう人間の感情や心の変化を誰が客観的に判別できるでしょう。はたまたその様な体験が事実であったとして、その体験が一体その人の人生やまた周囲の人にどれだけの意味を持っているのでしょうか。端的に言って自己満足以外の何物でもありません。

  その様な体験を総称して、「聖霊のバプテスマ」と言っています。しかしその体験が神から来る聖霊の体験か、あるいは単なる感情の昂りか、あるいは精神異常か、はたまた悪霊に因る物であるのかはご当人にもまた教会も判別できないのが実際なのです。また「聖霊のバプテスマ」と言う言い方も誤解を与えるものです。本来ギリシャ語で「バプテスマ」と言う言葉は「浸す」と言ういみです。と言う事は自分の中に聖霊が来るのではないのです。聖霊の中に自分が行くのです。聖霊を太平洋に置き換えると良く意味が理解できます。私の中に太平洋が入る事は出来ません。私の中に来る(飲む)ことの出来る太平洋の水はせいぜいコップ一杯の180ccの塩水で太平洋の一部分でそれは決して太平洋と同じではありません。
聖霊のバプテスマと言う表現の正しい意味は聖霊の中に自分が浸されて消えてしまう、あるいは見えなくなってしまうと言う事なのです。

   実際これらの聖霊体験と言われている事柄を冷静に分析すると、それらの4種類(神霊体験、感情の昂り、精神異常、悪霊原因物)が判別不可能なほど斑にそれらの教派に見かけられます。

 その結果、聖霊体験なる神秘主義を受容する教会はいずれも信仰体験の真贋論争が原因となって分裂に分裂を重ねる宿命に在ります。 あまり具体的にすぎるので問題ですが、英国メソジスト教会の分裂、旧日本ホーリネス教団の分裂、旧フリーメソジスト教団の分裂、カリスマムーブメントのヘンテコステ系諸派の際限の無い分裂等の例を上げるまでもない衆知の現実です。
  多種多様な教派の中に混乱は増大しているのです。因みに、今日社会問題いや犯罪となっているキリスト教カルト集団は殆どこの流れの教会です。その代表例としては昨日も言及した京都の「聖神中央教会」や「摂理」の牧師にる犯罪が上げられます。そして、それはカルトと言う範疇の問題ではありません。この教派全体に共通する問題なのです。あまりに事件が多いので上げきれませんが新聞紙面を賑わした物の一部だけをご紹介しましょう。30年程前にの牧師による信徒殺害事件が起きたのは福島県のI市のT教会はメ●●●●系教会でした、更に今から15年前日本のキリスト教界を失望さした著名な伝道者とピアニストの姦通事件もホ●●●系の教会の牧師です。最近では、●の子供達のK.E.牧師による児童強姦事件もやはりホ●●●系のなのです。確かに伝道熱心で良い働きも在るのですがそれ以上にこの教派は重大な犯罪の温床ともなっている事は否定できません。

  その原因は自明です。牧師は「本物の聖霊のバプテスマ」を受けた聖人だから「間違いを犯すはずが無い」という当のご本人と、周囲の人々の間違った信頼が、無防備で悪質な誘惑に陥らせ、誘惑に負けた牧師とその周囲が執拗にそれを認め無いと言う周囲の無知によって問題の深刻化を引き起こしているだけのことなのです。

  初めから、『「牧師も人間」気をつけないといけないわよ』と回りの信徒が注意すれば、いくら牧師が私は「聖霊に満たされた」などと言っても意に介さないで事件が未然に防げるのです。 

  それゆえに「聖霊を受ける」という考え方その物が間違いなのです。その様な間違った人間の思考に合わせて聖書を改竄するから当然の報いがそれらの教派に呪いや災いをもたらすのです。その結果他のまじめな多くのキリスト教会の宣教をぶち壊しにする悪質な大事件が引き起こされるのです。「ボタンのかけちがい」が始めに存在するのです。間違っ考えに聖書を合わせようとする所から混乱が生じます。それゆえにこの「聖霊のバプテスマ」あるいは「聖霊の賜物」の真贋老論争がこの教派の宿命となってしまいました。そして、この教派の開祖アルミニウスとその信奉者であるジョンウエスレーの影響下に在る英国メヌソジスト教会は、この聖霊の賜物の真贋論争で分裂を繰り返し混乱を世界のキリスト教会に提供しています。
  考えてみればその間違いは明白なのですが、どうもこの教派に属する人々は理性よりも感情(気持ち)や体験を重要視する為思考する事が罪悪とされる傾向があります。

  「聖霊のバプテスマ」と言うのは、このウエスレアン教会に源流を発する全ての教派の体験を教理化した物なのです。 
  
 そしてこの冒頭の聖書翻訳はこの教派に対する聖書翻訳委員会のスタンドプレーなのです。ですからこれは誤訳ではありません。聖書の販売実績を上げる為に、ウエスレー神学に立つ教会や、カリスマムーブメントの教会の教えに出版された聖書が受け入れられる為に間違いとわかったう上で翻訳事業の採算の為にこう訳しておられるのです。ご存じの通り「キヨメ」うんぬんの神学の立場では「聖霊は神様の賜物」なのです。」この間違った訳を原典通り 「聖霊の賜物」と訳すとどうなるでしょうか。当然その立場の教会は翻訳を受け入れず、販売実績が落ちてしまい利益が減るだけではなく採算が取れなるなる危険が生じるのです。

 そしてこの教派は宣教熱心で信者の入れ代わりも激しく、従ってこの教派に聖書翻訳が受け入れられるか否か聖書翻訳の採算の可否を握っているのです。

  もし、聖書翻訳を改竄しなければ存在できない様な神学があるならその様な神学や教派は所詮神様から来た物ではありません。アルミニウスと対立したベザが神学論争に勝利したと言う故事を学ぶまでもなく間違いです。そして改竄までして採算を重視する聖書翻訳のあり方は改められなければ成りません。

翻訳と解釈

  「翻訳と解釈」とは、また随分と大上段に構えた題です。今日は、そのことを考えてみましょう。この題で一番最初に頭に浮かぶのは、新約聖書ローマ人への手紙の16章です。
  ギリシャ語の原文でこの箇所を読んでみると、ασπασαθε(アスパサスセ)と言う単語が連続しているのです。3節、5節、6節、7節、8節、9節、10節(2回)、11節(2回)、12節(2回)、13節、14節、15節、16節にあり5節以外は節の冒頭に位置しています。同じ単語が16回も連続するのは異例中の異例です。しかも、ギリシャ語には英語の様な語順は無い為冒頭にある単語は強調を意味しているのです。 
  この、ギリシャ語 アスパサスセ の基本原形 は ασπαζω=私は挨拶する(安否を問う)と言う意味で、全く解釈不要のごく一般的な単語なのです。そして問題は何かと言うと、これらの16回が全て二人称複数の命令形なのです。しかも、アオリスト(不定過去)と言う時制なのです。この語を日本語に訳すと「あなた方は挨拶しろ」となるのです。しかも、ギリシャ語のアオリスト時制は非常に強い意味があり、その上に命令形で冒頭ですから三重に強調されています。
  ローマの教会のメッセージを記した手紙の最後に最も大切な事として著者パウロが非常に重要な、言葉として、16回も連続して使用しているのです。考え得る限りの非常に重要な意味をパウロがこの語に置いている事は否めません。
  強い語調で幾度も繰り返して、大きな声で強く「あなた方は挨拶しろ」と言うこの言葉には、重大なメッセージが間違いようも無く、明白に記されているのです。
 最近は日本でも職場や学校、地域などで挨拶の励行が奨励されていますが、「挨拶しろ」などと言う命令をしたなんて話はあまり聞きません。
  しかし、聖書のこの箇所は明確に強い命令形です。当然この部分を英語や日本語に訳した翻訳は命令形になっているだろうと思って調べてみると、いずれも原文とは全く異なった文章に訳しています。全ての翻訳が「よろしく」なのです。しかも、パウロがそのようにローマの人々に依頼しているかのように訳出しています。

  原文からはどんなに複雑で高度なギリシャ語の高等文法を適用しても不可能な訳文になっています。

  何故でしょうか? 原因は明白です。以下の様な物でしょう。

  全世界そして、ヨーロッパキリスト教世界そして、ローマンカソリック教会の源流たる初代ローマ教会において、キリストの使徒にして初代ローマ宣教者であるパウロが、「挨拶しろ」などという人間の基本的素養に関して命令される様な失態は存在してはならない。

 と言う事ではないでしょうか。そうして、このような「よろしく」と訳している全世界の殆どのキリスト教会も同様の意見なのです。

  キリストとその使徒達によって形成された初代教会は神の愛とキリストの聖なる贖いによって、地上に出現した理想郷であり、完全無欠でなければならない。その様なキリスト者の理想たる初代教会に、使徒パウロが事もあろうに、「お前らは挨拶しろ」などと「どぎつい命令」をしなければならない様な不和や無視が教会内に存在するはずが無い。故に、これはアオリスト形の二人称の命令形ではあるが、そのまま訳すのは適切ではない。「よろしく」と意訳する以外に解釈の可能性は存在しえない。
  以上が、パウロが記したこのローマ教会の手紙の末尾のασπασαθε(アスパサスセ)という厳しいパウロの命令をそのまま訳出しない根拠です。

  それで、良いのでしょうか? 

  判断は、ローマ教会の信徒が「挨拶する様に命令されている対象の名前」を詳しく見てみると、真実が見えてきます。そうなのです。「挨拶しろ」と言われている人々の名はいずれも「奴隷名」「黒人名」「貧困者名」などて殆どがローマ人ではなく敗戦国のギリシャ人や被支配民族名なのです。

  とすれば素直に、ローマ教会では最初から「貧民や民族に対する根深い差別があり、キリスト教会内で挨拶もされない被差別階級が存在していた」と言えるのではないでしょうか。しかも、その差別され挨拶されていない人々はパウロの息のかかった、信仰的に優れた人たちでした。彼らには残念な事に世の人々が評価する様な家柄や地位に加えて教養や財産というローマの人々から評価(認められ=挨拶)される為に必要な資質を持ち合わせていなかったのです。
  そのことを考慮して、「世界の首都に集まるエリート集団やローマ貴族の富裕層にありがちな根深い差別がローマ教会内に根深く存在した」と認めれば、なにも無理して厳しい命令を「よろしく」などとでたらめに訳出する必要は無いのです。

  それに、他の聖書の箇所を見てもこの箇所の異常性は顕著です。新約聖書にはこの「ασπαζω=私は挨拶する(安否を問う)」という言葉は60回使われています。そのうち命令形はローマ人への手紙の末尾の16回以外ではパウロ書簡などに6回を散見するのみです。
  それらの書簡も内容と比較するとローマ人への手紙と同様の問題=「差別あるいは無視」がローマ教会外の初代教会内に存在していたと見られます。

  たかが挨拶の問題なのですが、これは単に此処だけの問題ではありません。聖書全体を翻訳する時に全く同じ前提 = (完全無欠の理想たる初代教会願望=信仰?)がキリスト教界全体に暗黙の了解として存在しているのです。その結果、聖書が明確に記している初代教会の不祥事やあるまじき堕落の実体が、聖書翻訳の所々で明確に記されているのに、それらが全て曖昧に訳出される結果をもたらしているのです。

  そして、その様な「キリスト教会理想郷願望=信仰」は現実のキリスト教会の内部の腐敗や堕落から目をそらせる結果を招いているのです。その妄信の帰結として、現実の世界の殆どのキリスト教会内部の問題は看過され、潜在化して偽善となり慢性化して末期的な犯罪となって顕在化し醜聞(=摂理や京都聖神中央教会などの不道徳犯罪を蔓延させ、それを筆頭に各個教会内部の欺瞞や教団教派宣教団体に加えて米国ネオコンや韓国与党に見られる宗教と政治の癒着など)を世界中で引き起こしているのです。

   初代教会も現代教会もそこに集うのは人間です。たとい、キリストの救済に与っていたとしても所詮罪人の集団です。世の常識が支配する地上の世界です。唯一の相違点はローマで処刑されたことで著名な使徒ペテロが言う様に「彼(=パウロ)は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(Ⅰペテロ3章16節)」か、初代ローマ教会が成した様に、「この聖書の言葉を曲解せず、また個人的な批判とせず、神の言葉として受け入れ、問題の人に改善か追放の選択を余儀なくさせた」かの相違なのです。
 
  このローマ人への手紙の16章に名が残されている人々が中心となって、堕落した初代ローマ教会を改革しパウロの手紙を神の言葉として後世に伝えたのです。

  今日は翻訳と解釈と言う題でしたが、聖書を原典で読む事は様々な人間の営みを排除して真実を見抜く目を養う事になります。そしてローマ教会の最初から現在の全てのキリスト教会全体の内部に厳然として存在している根深い差別や偽善体質に光を当て、聖書の真実な主張を知る第一歩の学びでした。

  参考の為に、以下に出来るだけ原典に忠実で在ろうと努力している翻訳(WEB)へのリンクと、今日の箇所の英訳部分を参考の為張りつけておきます。

(The World English Bibleはパブリックドメインです。)http://www.ebible.org/bible/web/Romans.htm#C16V1
16:3 Greet Prisca and Aquila, my fellow workers in Christ Jesus, 16:4 who for my life, laid down their own necks; to whom not only I give thanks, but also all the assemblies of the Gentiles. 16:5 Greet the assembly that is in their house. Greet Epaenetus, my beloved, who is the first fruits of Achaia to Christ. 16:6 Greet Mary, who labored much for us. 16:7 Greet Andronicus and Junia, my relatives and my fellow prisoners, who are notable among the apostles, who also were in Christ before me. 16:8 Greet Amplias, my beloved in the Lord. 16:9 Greet Urbanus, our fellow worker in Christ, and Stachys, my beloved. 16:10 Greet Apelles, the approved in Christ. Greet those who are of the household of Aristobulus. 16:11 Greet Herodion, my kinsman. Greet them of the household of Narcissus, who are in the Lord. 16:12 Greet Tryphaena and Tryphosa, who labor in the Lord. Greet Persis, the beloved, who labored much in the Lord. 16:13 Greet Rufus, the chosen in the Lord, and his mother and mine. 16:14 Greet Asyncritus, Phlegon, Hermes, Patrobas, Hermas, and the brothers who are with them. 16:15 Greet Philologus and Julia, Nereus and his sister, and Olympas, and all the saints who are with them. 16:16 Greet one another with a holy kiss. The assemblies of Christ greet you.

冷淡か沸騰

  昔からキリスト教会というのは「温かく居心地の良い所」と相場が決まっている様です。しかし、聖書を原典で読んでいると聖書が教えている理想の教会は現実の教会と随分と異なっていると感じる事がしばしばです。
 もちろん、聖書を原文で読んでいなければ、そんな事は感じないで過ごしてしまったことでしょう。
 今日は、キリスト教会が神様の言葉である聖書の要求から、如何にかけ離れているのかを考えさせられる聖書の箇所をご紹介しましょう。
 考えさせられる言葉は、新約聖書黙示録第3章15節と16節に書かれている、「生ぬるい教会ではなく熱いか冷たいかであって欲しい」と言う言葉なのです。そして一般にこの聖書の言葉から「キリスト教会は温かく在るべきだ」というふうに思われている様なのです。
 良い教会は「熱心で神様の愛で温かく居心地の良い教会」であると考えられやすいのですが聖書のギリシャ語の原文から示される、理想の教会のあり方は随分と極端なのです。
  すこしこの事を説明してみましょう。黙示録で問題にさている教会は、今から2千年前の小アジア半島にあったラオデキヤと言う町にあった教会なのです。注目しなければならないのは、この教会に対する「生ぬるい」というキリストの叱責の言葉です。
  そしてあるべき教会の姿として「熱いか冷たい教会」である事が教えられています。しかし、この箇所を原文のギリシャ語で読んでみると随分と様子が違うのです。
 「生ぬるい」と訳されているのは「クリアロス」というギリシャ語なのです。この「クリアロス」というギリシャ語は「生ぬるい」と言う意味はありません。『暖かい』あるいは『温める』と言う事を意味しているのです。文脈からみてわかる様に「心地の良い温かさ」を指しています。これを「なまぬるい」などと訳するのは原文の意味を損ね、誤解を生み出すものだと私は認識しています。参考の為に一般の邦訳の訳語を記します。新共同訳→なまぬるい、口語訳→なまぬるい、新改訳→なまぬるい、岩波→生暖かい。
 この箇所の原文が言っている、「神様が嫌われている教会の状態」は「生ぬるい教会」ではありません、「クリアロス」と言うギリシャ語で示されている唾棄すべき教会の状態は「暖かい」教会なのです。
 聖書の原文はどう見てもその様にしか読めません。人間が理想とする「温かい教会」こそが聖書がここで唾棄すべき「悪しき教会」のあり方なの。そして聖書があるべき教会の姿として明示されている教会のあり方は「冷たい」か「熱い」教会なのです。
 そして、この「熱い」と訳されているギリシャ語の原文は「ゼストス」でこれは「熱い」と言う意味では決してありません。それ以上の言葉で「沸騰している」という言葉なのです。「手もつけられない熱さ」を意味します。もう一つの神様の期待されている教会のあり方は「冷たい」です。これはギリシャ語の「プスコイ」で「冷え切った状態」や「冷淡である事」を意味します。

 と言う事で、人間が期待している教会のあり方と、神様が聖書の中であるべき姿として教えられている教会のありかたは、文字通り天と地ほどかけ離れているのです。
  温かい教会を期待しているのは単に人間でしかありません。神様が期待されている教会のあり方は「冷淡であるか、手もつけられない火傷する程の熱く沸騰した教会」だと聖書は教えているのです。

捏造された聖書

  最近「捏造された聖書」という翻訳本を読みました。「原典 ユダの福音書」の編著者の一人B.D.アーマン氏が著者です。元の英文の書名は「イエスの誤引用」ということで、その筆頭がマルコ2章23節から28節の「イエスの弟子達が安息日に麦畑で空腹を癒す為に麦の穂をむしり食い、ユダヤ律法の禁じている安息日の禁を犯した時の問答」を上げています。
  問題点は、ユダヤ人指導者の違法指摘に対して、キリストが「旧約聖書の第一サムエル記21章1節から6節を誤引用した」と著者のアーマン氏は言うのです。
  アーマン氏の指摘する、キリストの誤引用は「大祭司アビアタル」となっているが旧約聖書は、その時の大祭司はアビアタルの父「アヒメレク」であったと言うのです。(注アビアタルはある翻訳ではエブヤタル)
  ところで一体誰が間違っているのでしょうか? アーマン氏の指摘通りキリストが間違えたのでしょうか? まあ明確に分かる事を見ていきましょう。注意して聖書を見ると、サムエル記のどこにもアーマン氏ご指摘の『アビアタルの父「アヒメレク」が大祭司』であったとは記してありません。では誰が一体大祭司であったのでしょうか?
  同じ旧約聖書の、サムエル記第一の14章18節をご覧いただくと正解が分かります。当時の大祭司はキリストが引用されたアビヤタルでもなく、アーマン氏が主張されるアビアタルの父「アヒメレク」でもありません。 当時の大祭司は大祭司の装束エポデを着てウリムとトンミムを使えたアヒヤだったのです。(サムエル記第一14章18節)
  当時の大祭司アヒヤが住んでいたのは、アビアタルとその父アヒメレクが住んでいたノブでは無く、シロと言う町でした。(サムエル記第一14章3節)
  当時、イスラエルは初代サウル王が支配していました。しかし、旧勢力の祭司達との権力の確執があり、サウル王朝は衰退します。その後に、ダビデが王朝を築くのです。この間、祭司団とサウル王家とダビデ王家の間には、複雑な権力闘争が展開します。ここで問題にしているのは 「大祭司が誰か」という事なので、大祭司が何処にいたかを見ましょう。ヨシュアの時代以後は、シロにあった神殿(当時は幕屋)は、サウル王朝の衰退に伴って、安全なユダ部族の町バアラ(第二サムエル記6章2節)に疎開していました。
  当然、大祭司はその場所にいた事になります。問題のアビアタルはダビデに協力し共に王朝を建て上げてようとしますが残念な事に旧勢力の祭司団の協力は得られません。当然、大祭司には成れません。
  彼はダビデと協力して幾度かダビデの町(エルサレムの前進)を首都とするため幕屋の中心にあった契約の箱をエルサレムに移そうとします。しかし、旧勢力(=祭司たち)の抵抗があって、なかなか実現しません。(歴代誌Ⅰ13章1節から14節 )漸くの事でアビアタルが同族の祭司達の協力を取り付け、大祭司ツアドクを中心にした(歴代誌Ⅰ15章11節)ダビデ王朝と祭司集団の連合が実現します。(歴代誌Ⅰ15章1節から16章43節) 
  そして、その後アビアタルの実子の「アヒメレク」(=アビアタルの父の名と同じ)が大祭司となるのです。(第二サムエル記8章17節)
  と言う事で、残念な事にアーマン氏の言われている様に『アビアタルの父「アヒメレク」が大祭司』であったとは聖書は記していないのです。
  確かにキリストが引用された言葉にある「アビアタルが大祭司のころ」は旧約聖書に言及の無い言葉です。同時にアーマン氏の言われる『アビヤタルの父「アヒメレク」が大祭司』も聖書の誤引用なのです。 
  さて、こうなるとキリストの引用された言葉が「誤引用」云々以前に、誤引用だと主張される当のご本人、アーマン氏の引用された言葉こそ「誤引用」で、「足もとをしっかり固めてから聖書を批判なり批評して頂きたい」と言いたくなります。
  きょうは、大変お粗末なお話でした。 余分ですが、以上のダビデ王朝形成期の聖書の複雑な記述から分かる事ですが、メシヤのプロトタイプとされるダビデ王朝の本当の立役者は、アーマン氏が大祭司では無いと主張される「祭司アビアタル」である事は自明です。おそらく、アロンの子孫で祭司となった多くの祭司達の中で、「最も大きな業績をイスラエルの歴史に残した祭司」であったと言えるでしょう。
  そして聖書の「大祭司」と言うへブル語は 「ハコヘーン ハガドール」です。その意味は 「その祭司 その大きい」です。おそらくイエスキリストが アビアタルを 「大きな祭司=大祭司」と言われたのは実に適切な引用であった事が分かります。そして、大祭司でない『アビアタルの父「アヒメレク」』を大祭司であると誤引用されたアーマン氏こそ「捏造された聖書」ならぬ「聖書を捏造」された事になります。
  そうなのです。一番の間違いは、アーマン氏ご自身が聖書もろくに読まないで、思い込みで本を書いておられるという点に在るのではないでしょうか?

「言葉」という言葉

昨日は聖書に使われている信仰と言う訳語が不適切だと言うお話をしました。ギリシャ語ではピステウオー 、へブル語はアマンと言う言葉でした。今日はもう一つ別の大切な言葉についてお話ししましょう。それは「言葉」という言葉についてです。
 ★旧約聖書において「言葉」の代表的同義語(シノニムス)には、「アマール」 「ダバール」 「ミラー」のという3種類の「言葉」と訳される言葉があります。
 ●同じように新約聖書には言葉の代表的同義語として、「レーマ」 「ロゴス」 「ムソス」と3種類の「言葉」と訳される「言葉」があるのです。
 ややこしいですね。一つ一つ説明しましょう。
1・ 最初のへブル語(旧約)の「アマール」は「言った」で新約では レーマ(話された言葉)に該当します。
2・次のへブル語の「ダバール」は「実言」と言う意味でで新約では「ロゴス」に該当します。
3・そして最後のへブル語「ミラー」は「虚言」という意味で新約では「ムソス」に該当します。
 これらは、英語や日本語に訳された聖書では、いずれの言葉もほとんどの場合に「言葉」と全く同じ訳語が当てはめられています。しかし、訳された聖書では、同じ「言葉」であっても原文では明確に違う「言葉」が使われているのです。
これらの言葉を単に辞書(古語の場合はレキシコンと言う)で調べると大抵「言葉」と同じ訳語になっています。しかし原文が違う言葉ですから当然異なった意味の単語のはずです。それを調べるのは結構面倒です。その言葉の意味を特定するのはその言葉がどのような文脈で使われているかを調べます。
実際にはそれらの「言葉」をコンコルダンス(語句索引)という道具を使って「文脈でどの様な意味を持っているのか」=(言葉の用例)を分析するのです。するとそれらの言葉は明確に区分されている事が分かります。
以前紹介した、私の大好きなイソップ寓話で「寓話」と訳されている言葉はギリシャ語の「ムソス」と言う言葉なのです。この「寓話」とされている「ムソス」と言う言葉は「虚言」という意味、イソップ寓話には対応する事実は存在しないことを明示しているのです。
  そのことを踏まえて、大切な事を知らなければ成りません。それは聖書が最も多く用いている「ダバール」と「ロゴス」と言う言葉に関してなのです。これらの 旧約聖書の「ダバール」や新約聖書の「ロゴス」はいま紹介した「虚言」の反対の「実言」と言う意味です。と言う事はこの言葉「ロゴス」と言う単語が使われている限り、聖書に記されている「言葉」その物には、必ずその言葉に対応する「出来事」が史実として存在しなければなりません。
  もし、歴史上にその事実が存在しないと結論されるなら、そのダバール又はロゴスを用いて聖書に記されてある以上、その聖書その物の信憑性が疑われる事になります。聖書がその歴史的事実の目撃証言(ヘブル語エド、ギリシャ語マルテュリオーと言う言葉でいつかこの言葉も紹介したいと思います。)というスタンスは瓦解してしまうのです。
 聖書で「実言」と言う意味の用語が使われていたら、その言葉で記されている聖書の記述には、その記述に符合する史実がなければならないのです。
もし歴史の事実に符合しない記載が「ダバール」や「ロゴス」という用語で記されていたらどうなるでしょうか。聖書はほとんどの場合に「ダバール」または「ロゴス」と言う言葉を使っていますので。聖書には「でたらめ」が書いてあると言う事にならないでしょうか。そこにもし、人間の創作や想像による記述がなされていたとしたなら「聖書なんて全く信用出来ない」と言う結論を導き出してしまうのです。
  聖書が「ダバール」や「ロゴス」を用いて記している部分は、史実でなけれはならないのです。

今日は聖書に使われている「言葉」という意味の旧約と新約のそれぞれ対応する3種類の言葉についてでした。

信仰と信頼

信仰(×)と信頼(○) 

 国際化と言う言葉を良く耳にします。同じ世紀に生きる者同士でも言葉の壁を越えて、交流を深めるのは難しい物があると思います。そのことを思うと、風俗習慣だけではなく時代が2千年も異なる聖書を現代の人々が正しく理解できる様に翻訳するのは不可能ではないでしょうか?
 
  原典で聖書を読んでいて理解する事の難しさに良く直面します。漸く、何とか理解したと思った所で、これを翻訳にするとなると本当に難しい物があるかと思います。

 特に神様や信仰のお話になると難しさも大変な物が在る様に思います。その様な難しさを考えさせられる事を一つご紹介しましょう。

●抄訳聖書の冒頭に誤訳として紹介 

実は聖書で基本的な言葉である「信仰」と訳されている言葉なのです。「抄訳聖書」という一風かわった翻訳が「いのちのことば社」から発売されていますが、その冒頭に在る緒言にも、そのことが詳しく取り上げられています。

「英訳のbelive(信仰)という訳語をギリシャ語ピステウオー(信頼)に当てはめる選択は誤っている」という主張です。F.E.Sと言うイニシャルの米国の著名な神学者の意見ですが、私も全く同様に『信仰』言う日本語を聖書の翻訳に登場させるのは聖書を読む人々に大きな誤解をもたせるのではないかと思っています。

 聖書の主張している最も大切な主張は、「神様や聖書に対する「『信仰』」ではありません。そうではなく、「聖書や神様に対する『信頼』」なのです。

 この事をもう少し具体的に説明してみましょう。「信仰」と「信頼」の違いをまずみましょう。

●信仰と信頼は全く別の意味

信仰は信じる人の心の問題で「鰯の頭も信心から」と言われるように信じる側が主体です。しかし、信頼という言葉は信仰とは違います。信頼は信頼する側に責任があるのではありません。信頼する側には一切の条件は不要(無条件)ですが、信頼される側(神様と聖書)には『信頼に足る真実な信頼出来る実際の内容』が要請されているのです。

●旧新訳聖書原典の用語では明確に一致

 今問題にしてきたのはギリシャ語のピステウオー(信頼)という意味の言葉でした。このピステウオー(信仰)の訳語の是非の論議は、新約聖書のギリシャ語の翻訳の問題だけでは収まりません。その言葉は旧約聖書にも登場します。創世記の15章の6節で中で「アブラハムが神様を信じた」という原語はへブル語のアマン(アーメン)です。この言葉も普通に信仰と訳されています。しかしこの言葉のへブル語の本来の意味もやはり『信頼』と言う意味です。

 聖書が繰り返し教えている「神様を信じる」と訳出されている事は実は全て「神様を信頼する」と言う意味なのです。

●信仰と信頼は正反対の意味

  聖書が教えているのは「信仰」という人間の信仰する側の感情や心情の問題ではないのです。聖書が繰り返し人間に要求しているのは、「信仰などという人間の主観ではなく、事実か記された聖書や存在される見えない神様に対する信頼」なのです。

その違いの大きさがお判りして頂けるでしょうか? 不等号「<」(より大きい)側を表す。

そう信仰は、信仰する側 >> 信仰される側 と言う関係ですが、
信頼では逆に 信頼する側 << 信頼される側 という関係になります。

 これを極端に表現すると そう、

 そう信仰は、 信仰する側 >> 0(無) が信仰の実体で、
信頼では逆に  (無)0 << 信頼される側 が信頼の実体という関係になります。

●聖書は明確に信仰を否定し信頼を要求している。

『聖書の教えているのはこの後者の信頼』なのです。教会学校にくる幼児に「信仰って何?』と質問したら、きっと『実際はそうではない事をそうだと信じる事です』と回答するでしょう。日本語や英語に訳されている「信仰=belive」は本来「信頼出来ないものを信じる」と言うのが正確な定義なのです。

 聖書が要求している「神様への信頼」はこんないい加減ででたらめな「信仰」ではありません。

●信頼は完全な神が全的堕落した人を救済する根拠。

 聖書の基本は「本当に真実(歴史上の史実)だからそれを信頼しなさい」と言う意味なのです。ですから

★「信頼する側」には一切の資質や条件は要求されません。そんな物は不要なのです。しかし、

★「信頼される側」には完全が要求されるのです。

聖書が記している神様を信じる(正確には信頼する)と言う事は「信頼される神様の側に完全」が要求されています。

  それは、同時に「信頼する側の人間には何も要求されていない」

ことを示しているのです。だからキリストは処女マリヤより神の子として誕生され、十字架で人類の罪の贖いを完遂し、人間が何の行いも無しにキリストに信頼するだけで良いという聖書の教えの今本がこの「信頼」と言う用語の重要な理由なのです。

  ★逆に言うと「人間には自分が『無価値である事を認める事』が神様を信頼する為に必要不可欠」なのです。

■だらか、全的に堕落した人類は完全に信頼出来るキリストの十字架の贖いによっのみ救われうると言う聖書の根本がこの信頼の訳語にかかっているのです。

▲逆にいうと「信仰」と訳出する翻訳は究極的にキリストの贖いを否定してしまっているのです。 

 少し難しくなりましたが今日は聖書で非常に大切な用語は信頼で(ギリシャ語のピステウオー=信頼=へブル語のアマン)あるというお話でした。

神の愛

「旧約聖書は律法(ユダヤの掟=法律)で人を裁き、新約聖書には神の愛が書いてある」という偉い牧師さんのお話を聞いた事が在りました。まあ、いろいろな方が牧師さんになられるのは良い事かと思いますが旧約聖書にも神様の愛が書かれています。いやむしろ、新約聖書で言われている殆どの事は旧約聖書とほぼ同じだと思っています。 一例を上げてみましょう。

レビ記19章18節です。
ヘブル語の原典には(原語のへブル語聖書を語順そのままに日本語にしてみます=直訳)

★・無い あなたが復讐する そして無い あなたが維持する を 息子らの 民あなた そしてあなたが愛する に 共にいるあなた として からあなた 私が ヤハウエ 

70人訳は (これも原語のギリシャ語を語順そのままに日本語にしました=直訳)
●・ そして 無い あなたが確かに出て義(報復)する あなたの その 手が、そして 無い あなたが確かに激怒(復讐)する その 息子らに その 民の あなたの そして あなたは確かに愛する その 近いを あなたの 様に 自分自身。 私が 私が存在し続けている 主。

これは旧約聖書レビ記の19章の18節で、新約聖書と全く同じ様に「隣人愛」について教えている所です。それぞれを日本語に翻訳してみましょう。

へブル語の方は、
★・あなたは復讐してはならない。あなたはわたしヤハウエ(神名)があなたにした様に あなたと何時も一緒にいる家族や同族を愛し続けなさい。
ギリシャ語の方は、 
●・あなたは自分の手であなたの同族達に正しい報復は出来ません。反対にあなたは自分自身の様にあなたの一緒にいる国の人たちをしっかりと愛しなさい。神である私自身が言っているのです。

旧約聖書のヘブル語の訳ではハッキリしませんが、70人訳の方は新約聖書の主張にそっくりです。と言う事で新約聖書も旧約聖書も全く同じ様に神様の聖や義や愛を教えている事が分かります。
そればかりではありません。この前後の文脈を見て見ると面白い事が分かります。それは、旧約聖書をギリシャ語に訳した70人訳聖書で用いられているギリシャ語の訳語は新約聖書に良く登場する言葉ばかりなのです。特に新約聖書で重要だとされている用語はこの70人訳のギリシャ語訳の旧約聖書と殆ど同じなのです。
具体例を上げましょう。たとえば旧約聖書の「罪の赦し」は70人訳に「アフイエーミ」というギリシャ語で訳されています。そしてこの言葉の意味には「赦し」という意味はありません。「放置」と言う意味なのです。
 新約聖書も旧約聖書もこの「アフイエーミ」というギリシャ語をつかって罪の赦しを教えているのですが、その本当の意味は英訳や邦訳聖書が用いている訳語の「赦し」が正確な訳語ではないことが判明します。聖書が教えている贖いとは「罪の赦し=罪の消滅」ではなく、「罪の放置=請求権の放棄」と言う意味なのです。新約聖書も旧約聖書もこの「アフイエーミ」というギリシャ語を使って教えている教えは「罪が消えてなくなる」のではないのです。新約聖書も旧約聖書もこの「アフイエーミ」というギリシャによって神様が罪に対する刑罰の要求を放置してくださると神様の恵みを教えているのです。
  この様に旧約聖書が今から2300年程前に、エジプトのアレキサンドリアと言う町でへブル語からギリシャ語に訳された時に、使われたギリシャ語は、私たちが手にしている新約聖書のギリシャ語の用語とほとんど同じなのです。ですから新約聖書が旧約聖書よりも優れていると言う事は全くありません。新約聖書がイエスキリストのお弟子(使徒)達によって記された当時、新約聖書の言葉もギリシャ語に訳された旧約聖書も当時の人々には内容的にほぼ同質だったのです。

  ただ残念な事にへブル語原文から英語や日本語に訳された旧約聖書とギリシャ語原文から英語や日本語に翻訳された新約聖書の訳語の整合がなされていない為に、翻訳だけを読んでいると新約聖書と旧約聖書が全く違った様に感じているだけの事なのです。

 聖書を分かりやすく箇条書きしたと言われるウエストミンスター信仰基準に言われているように「新約と旧約は同質の契約が違った時代に存在していた」と言う表現が本当に正確なのだと言うと事なのです。これに反対して新約聖書と旧約聖書が異質だという立場をとるキリスト教会の教派が在りますが、その原因は簡単です。聖書を原文で読む努力を怠っている丈の事なのです。

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