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ユダの誤算

ユダの誤算 マタイの福音書 27章3節~5節

20日に読み始めたマタイの福音書、今日最後の章を読み終わりました。今日一番印象に残ったのは、イエスを裏切った事で有名な12弟子のユダの首吊り自殺です。

とりあえず原語のギリシャ語を直訳したものをここに紹介します。

直訳
03 ・その時 見たは ユダ その 側に引き渡したは 彼を それは 彼が下に判決された 配慮を変えさせられたは 彼は転じた その 30銀貨らを その 大祭司らに そして 長老等に 
04 ・言ったは、私は罪を犯した 方に引き渡したは 血を 罰を受ける事の無いを。その も 彼等は言った、何を 方に 私達? あなたが あなたが確かに見た。
05 ・そして 投げ捨てたは その 銀らを 中へ その 宮 彼は上に別れ(退い)た、そして 離れて来たは 彼は自分自身を絞め殺した。

翻訳
3・ユダはイエスが有罪にされ、処刑されることを見た。彼は驚いて銀貨30枚を大祭司と長老に返した。
4・私は罪を犯した、彼が罪に定められるはずが無いので引き渡したのに。大祭司達は行った「それが何だと言うんだ! 
5・ユダは宮でその銀貨を彼らに投げつけ、上に上がり首を吊って自殺した。

 不可解なことがあります。もし一般に言われている様にユダがイエスを銀貨30枚で大祭司らに殺されることを承知で売り渡し裏切ったのなら、自殺するのは不自然です。

 わかることですが、3節にある「転じた」そして4節の「罰を受けることの無いを」と言う表現が大切なことを教えています。ユダは大祭司にキリストを引き渡しても有罪にされまた、絶対に処刑される様な事は無いと思っていたことが伺われるのです。
  
 ユダの頭の中を見てみるときっとこうなっていたのではないでしょうか。

  イエスは正しい人で、大祭司達もきっとイエスを捕らえて尋問すると必ずメシヤである事がわかる。神に立てられた祭司様や聖書学者が間違っても、何の罪も犯していないこのイエスを間違っても処刑する様なことは絶対無い。だから私は、イエスがキリストであることが手っとり早く祭司様によって認められる為、イエスを祭司様の手に渡すのだ。それで銀貨30枚が手に入れば一石二鳥だ!! 」

  きっと、こういう物だったのではないでしょうか。だから、キリストを売り渡したのです。彼が信じていたのは「人間社会は健全に機能し、裁判では必ず正義が勝つ」という普通の日本人が持っている国家に対する認識と同程度の物であったに違いありません。

  しかし、真実は違ったのです。社会は聖書の言うように悪が支配し、多くの裁判は、悪が勝利すると言うことをユダは知らなかったのです。

  だから、彼はイエスキリストを銀貨30枚でうり、そして死刑か確定したのを見て、驚き。今までの自分の心の拠り所を喪失して死を選んでしまったのです。 

  今日は、キリストの教えを聞きながら、一般の社会で考えられている現世肯定の思考の中で理解したユダのお話でした。

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騒音のお話⑥

騒音のお話⑥ 私の運動の成果の記録です。1998年4月現在の状態 

 阪神高速道路池田線(延伸部分)は1998年4月2日供用開始されました。当地の高速道路には先進の自動車騒音対策が完璧に施工されています。

 川西市部分は猪名川第一橋梁東端より透水性舗装がなされています。 透水性舗装は本来騒音逓減を目的に開発されたものではありません。地下水の枯渇や雨水の河川集中による洪水等を防止するために開発されましたが、副次的に自動車騒音の逓減が見られます。

当協議会で川西笹山線の萩原大橋近辺の4箇所で一般舗装と透水性舗装の自動車騒音を官民境界で測定いたしました所、6デシベル~11デシベルの低騒音効果が有りました。これはA 特性でしたが実効値に換算すると、一般舗装に比較すると、実に1/5から1/10以上に騒音を逓減する効果が確認されました。

 次に、全区間の道路構造に「多継間連続PC桁」が採用されました。路面に舗装の継ぎ目が無く、その上低周波振動の発生がほぼ完全に近く防止できるものであり、外見も非常になだらかでスマートで美しくなっています。

  最後に、一部区間に高さ7メートル(約400メートル)でその他の箇所は全区間に5メートルの遮音壁が設置されました。遮音壁の材質は現在では透明ポリカーボネイトアクリル板です。それらの全区間に渡り遮音壁の上に2~3デシベルの騒音逓減機能をもつノイズデリューサーも設置されました。(橋梁部分は遮音壁は3メートル)この遮音壁+ノイズデリューサーの両者で約15デシベル(実効騒音は1/50以上)近い騒音逓減効果が期待されます。

  総合的に見て当地の高速道路には騒音の発生源対策並びに騒音の拡散防止が最新、最高の対策がなされた事になります。

実際にそれらが無い場合とは騒音を比較する事は出来ませんが゙環境基準は高速部分に関してはほぼ理想的な対策がなされた事になり、実際に低騒音舗装と多継間連続PC桁と遮音壁とノイズデリューサーの騒音逓減効果を合成すれば騒音は実効値で1/100以下と言う事が可能に思われます。

勿論、道路が無い場合よりは騒音は増加しますが、高速部分の対応としては現時点ではこれ以上の対策は無いと思われます。

供用後5ヶ月が経過しました。則道部分の通行量の増加と通過速度の上昇により地域の騒音は減少したとは言い得ません。高速道路の共用開始による騒音環境の悪化は避けられないものと認めざるを得ませんが、現時点に於ける現実的対策はこれ以上は望み得なかったと思われます。

騒音のお話⑤

騒音のお話⑤ 低周波空気振動について  
  低周波空気振動と言うのは耳慣れない言葉で。一般の騒音と同じ空気の振動では有りますか騒音計では測定を除外している部分です。周波数で表すと400ヘルツ当たりから0ヘルツまでの空気振動です。普通の風も空気振動ですかここでは問題にしません。

   これがなぜ問題なのかをすこし説明してみましょう。人間の脳波には快適な時や休らいだ時に出るアルフアー波と不快な時や緊張を表すベーター波があることは良く知られています。この脳波によって体の状態が調整されます。しかし人間が家庭でリラックスしている時に人間に緊張を促すベーター波と同じ周期の空気振動に身体がさらされるとどうなるのでしょうか。体が休みたい時に血圧や心拍が上昇し不安な状態や緊張に体が備えるのです。その症状は不眠、頭痛、吐き気や目眩です。それに耳鳴りや咳、等の感冒症状も加わります。

  これが低周波空気振動による公害の症状です。原因は耳や騒音計には全く感知しない低周波空気振動です。こんな事があるのかとお疑いの方もあることでしょう。このことに一番最初に気づいたのは何を隠そうアレキサンダーグラハムベルと言う人物です。彼は電話を発明した人物ですがその呼び出し音にどんな音を使おうかと様々な音と人間の関係を調査したのです。その結果一番早く電話の音に気がつき応答したくなる16ヘルツの周波数があることに気がつきました。そう、これが人体に緊張を与えるベーター波の周波数だったのです。ちなみに一番応答の悪いのがアルフアー波と同じ10ヘルツの音でした。

   それゆえ電話の呼び出し音は16ヘルツとなったのです。不思議なことあの電話のベルの音がなると緊張して受話器を急いで取ろうとします。眠っていてもベルのですぐに目が覚めるのはこうしたからくりがあったのです。

   しかし問題なのはこの周波数が冷凍機のコンプレッサーや工場のプレス等定常的に発生する場合です。特に高速道路や河川の橋梁で鉄桁の路盤がこの周波数で定常的に振動する場合です。その影響は振動原が巨大な上に影響範囲が大きく非常に深刻な公害を引き起こすのです。

  しかし残念なこと国や地方自治体には全くその問題に対する意識がありません。また音響の専門家でもこの低周波空気振動の怖さは十分に認識されていないのです。測定には特殊で非常に高価な装置が必要です。けれども精密騒音計があれば一応の測定は可能です。必要なかたは私までお知らせ下さい。具体的な情報をお知らせします。

騒音のお話④

騒音のお話(自動車騒音)④ 全ての数値は1998年における法律の値です。
  私は、箕面市の下止々呂美に生まれ豊中市の本町と蛍池に育ちました。本町2丁目では自宅前を阪急電車が走行します。居住後約1年で騒音は感じなくなりました。鉄道は夜間の通行がなく、同質同音量の騒音が毎回反復するため感覚が麻痺します。しかし、道路騒音は多種多様であるため感覚が麻痺しないで益々鋭敏化するのです。

  蛍池に移転し万国博の年に中国縦貫道が一部完成しました。阪神高速空港線も開通しましたがさしたる騒音や排気ガス等の公害はありませんでした。その後東京に7年静岡に8年居住し川西に居を構えました。その間、蛍池に帰るたびに余りの騒音と交通渋滞に驚かされます。自宅から中国縦貫までは約300mです。深夜「シュー」と言う音が気になって家人に尋ねますと、「あれは高速や?」と聞きその騒音の大きさと長さと騒がしさに驚きます。原因は大型車両が高速走行する時にほろやアルミコンテナの風切り音らしくおもわれます。大型車は深夜から未明に増加し、騒音も最大となり安眠できません。

  徐々に増加した騒音に住民運動は盛り上がらず完成後の高速に防音壁を設置することは困難なようです。現実に豊中市新千里東町2丁目の住民は中国縦貫道側近に入居以来25年間も運動して、漸く本年3月に高さ10m(垂直7m透明忍び返し3m)の2重の防音壁を片側200m程設置させたに止まつています。

  川西を通過する阪神高速は中国縦貫道以上に騒音と振動、排気ガスが深刻になると思われます。後、2年で高速が開通します。おそらく、今までの交通渋滞に川西を敬遠していた大型車両が開通後の高速道とその周辺道路に殺到するでしょう。その18年後に第二名神も開通予定です。下止々呂美と石道に出来るインターチエンジを経由して阪神工業地帯を結ぶ超大型車両が川西に殺到するでしょう。また兵庫県下や九州、信州等の地方農産物や水産物を満載する大型トレーラーが未明の高速道を唸りと轟音を五月山に轟かせて疾走するのは自明です。現在でも北海道ナンバーのトレーラーが舞鶴港でフエリーを下り未明に阪神地域に行き帰路も市内を多数通過しているのです。

  高速道路の公害対策は道路が完成してからでは出来ません。道路の完成によって確実に増加する大型車両とそれに伴う振動(低周波公害)排気ガス(洗濯物の汚れ、喘息)騒音(不眠症)光害や予想もされなかった周辺道路の渋滞や生活道路での事故の増加は確実です。現実に蛍池東町1丁目に居住した私の親戚が、交通事故で自宅玄関前で死亡しました。高齢者や幼児に犠牲が集中します。

  過剰設備や環境基準適合という行政のその場凌ぎの言葉に惑わされてはなりません。私たちが高速道路によって払う犠牲はなまやさしいものではないのです。私たちの生活の安全を行政まかせにしてはなりません。自らの生活を自らの手で守らなければ誰も私たちの生活を守ってはくれないのです。

騒音のお話③

騒音のお話③ 音をデシベル(dB)で計測する理由 全ての数値は1998年における法律の値です。

  音とは何でしょうか?手で触ることも出来ず、目で見ることも出来ません。しかし耳にははっきりと感じることが出来ます。その理由は音とは耳の鼓膜周辺の大気の圧力の変化だからです。その変化の原因には様々なものがあります。人間の喉にある声帯の振動(人間の声)や楽器の弦や膜や金属の振動であったり、自動車や飛行機のエンジンや車体機体の振動もあれば、巨大な車体等の物体の移動に伴う空気の振動や風に伴う対気圧の変動です。この振動を測定するには二つの要素を考慮しなければなりません。第一は振動する回数です。是を周波数といいます。また振動の幅で是を音圧と言います。この両方を合成して音として認識できるのです。音の発生の原因が物体の振動であることを思うときに小さい物体ほど振動の回数が多いが音圧は少なく大きい物体の振動ほど振動の回数が少なく音圧が大きいものです。                     

 さて、人間の耳の構造は別紙図解の如く、外耳→耳介、外耳道、鼓膜 
                          中耳→ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨、耳管 
                          内耳→蝸牛、三半規管

となっております。人体の仕組みは不思議なもので耳もその例外ではありません。音を聞く機能と平衡感覚を司る二つの機能が同居している器官ですが音を聞く機能に注目してみましょう。

  人間の耳は小さな囁き声から大きな雷の様な音までを関知する不思議な器官です。その音の圧力差は優に1兆倍を越えますが、是を同じ装置で対応するのです。その不思議なからくりの最大の特徴は中耳にあります。

  小さな3つの骨とそれをぶら下げる筋と筋肉です。これらが、小さな音では筋肉が緩んで鼓膜の音を拡大して蝸牛に伝えます。反対に大きな音では鼓膜に振動が感知されると瞬時に此の筋肉が緊張し大きな空気振動を数百億分の一に減衰させて蝸牛に伝えるのです。このような、不思議な人間の耳の機能に則した音の測定のために考案されたのが10を底とする常用対数値です。

  この数字のマジックにより、人間が感知する音の実際と、正直に音を計測する電気計測器の値を対数演算して値の変動を音が大きくなるほど鈍感にしたものがデシベルdBという計測方法なのです。

  ですから注意が必要です。耳が聞く音が10倍になったとき→人体がさらされている実際の音は数億倍になっているのです。そうして人間の身体はそのような振動や音波に対して頑強に造られてはいますがしかし、限度を越えてそのような音にさらされるのは健康上問題があることを考慮すべきではないでしょうか。

  特に、人体に聞こえない低周波部分の音は耳では感知されなくとも、脳内の圧力調整を狂わしたり、呼吸機能、心臓の鼓動を制御する器官に悪影響を及ぼすことが懸念されています。現在の低い医療水準では人体の精緻な統制機能を解明できません。したがって現在の医学で解明されないからと言って、医学を過信することは非常に危険です。

  むしろ、低周波が人体に微妙な変調を来す原因と考えられる以上速やかな因果関係と低周波症候群の予防措置と対策が検討されるべきではないでしょうか。
  医学的に解明されないと言って対応を遅らせるならば、九州の不知火海で起きた窒素水俣工場の水銀中毒事件に代表される、公害被害者に対する医学や、行政、は勿論、報道の立ち遅れという愚を繰り返すことにならないかと思わされます。(参考 岩波新書 水俣病 原田正純著 )
 

騒音のお話②

騒音のお話② 環境騒音の問題点 全ての数値は1998年における法律の値です。           

 1)デシベルの問題。

1.電話技術者が電話事業の経済性の追求の為に考案、導入した理論や技術を人間の環境保全のために借用することの危険性。

2.人間の聴覚という個人差の大きい能力を標準化し一律にその規準で行政が全ての国民に強要される危険性。

3.騒音の音質や音量をマイクで電気的に測定し、標準化しサンプリングしているため実際の人体にどのような刺激を与えるかなどという研究が全くなされていない。

対策→対数表示では実際の被害状況を認知できないので環境基準の夜間(住居地域)の40dBを1Aとして音のエネルギーをその何倍かで表示しては。
例:要請限度の最大値80デシベルがその1万倍であるから10000Aとする。

2)A特性の問題                        

1.人間の耳の周波数特性と電気的音波の計測とを整合するために無条件にA特性を規準にして騒音を測定することは実際に人間体が被暴する音波を正しく表記出来ない。

2.特に人体に悪影響を与える低周波をカットオフするため被害の実態にそぐわない低いレベルに測定結果が出やすい。

3.自動車や工場から出る、騒音は特に人体に聞こえない超音波や低周波部分の成分が多量に含有されるため実際の被害を掌握しにくい。

対策→   超低周波域   0~20Hz
      低周波域   20~90Hz
      人間の可聴域 90~1万2千Hz              
       超音波域 1万3千~5万Hz   

等に測定区分を設定し域毎に細かく環境基準、要請限度を設定する必要がある。

3)要請限度の問題

  良好な住宅地に道路が完成すると同時に要請限度が大幅に自動的に引き上げられる。道路開通以前には45dBであっても完成と同時に住民に何の通知も報告も無く、60dBに変更される。その要請限度の倍率は50倍以上。

   昨日までの環境基準も35dBが50dB(2車線を越える道路)になり実質騒音の環境基準は50倍以上となる。しかも、その変更の範囲は「道路に面する地域」と言うことで兵庫県の道路対策課に直接電話で聞くと「道路の騒音の届く範囲は全て道路に面した地域となる。」と言うとんでもない回答が帰ってきた。唖然とするこの言葉に日本の道路行政の実態を見た思いがする。

  即ち、道路が出来ればその道路の直近であろうが100km離れていようが住宅地では夜間60dB、昼間では75dBまで我慢するのが当然と言うことであった。
  このようなからくりが在ることは一切住民には知らされず。そのような限度が有ること自体も知らされていない実態は悪質であるとき言わざるをえない。

4)行政の姿勢と広報の問題

   苦情対策におざなりな資料が用意されるだけで、真摯に住民の健康と被害の軽減に役立つ情報が公開されていない。現在のように中央省庁に権限が集中し地方分権が進まず、3割とも4割ともいわれる地方自治の現状では、道路建設に伴う予算のばら蒔きと利権、それに伴う地方公務員の天下先の確保の実態を思うときに、構造的欠陥をおもう。

   正確な環境被害の実態(兵庫県下では主要幹線道路周辺における環境基準達成率は1.2%未満→川西市土木部道路課長 溝口氏)要請限度違反ヶ所80%以上と言う現実を前に根本的改革の必要を痛感する。

5)住民の無関心と行政への盲従

  当該、要請限度を越えた騒音地域に居住する人々の騒音に対する関心は総じて低い。其には主に3つの原因が存在すると思われる。

I・道路開通当初は道路の状況は良好で、通過車両は少ない。しかし、高速道路の延伸  に伴って徐々に通過車両は増加するが、更に全線開通に伴って大型車両等も  増加するが、そのころにはすっかり耳が騒音に慣れていて。(実際には四六時中70dB近い騒音に曝されるので難聴が進行している可能性が高い。                   

 II・開通後の道路の通行量の増加と同時に、住民の高齢かが進み、感覚が全体に衰え  意欲も減退し、行政に抗議する意欲も能力も減少していく。同時に都市化が進行し  住民間のつながりが希薄になり、騒音問題が近所の話題になったり、自治会の組織率  も甚だしく低下し、歯の抜けるように地域住民の逃避が進行して、被害が顕在化しにくい。

III・実際に被害に苦しむ人が存在しても、其を集約し行政当局に要請するだけの余力の  ある人がいない。また行政も、そのような苦情に真剣に対応せず只、苦情として市政  に反映されることが少ない。結果として逃げだす以外に解決はなく、その際。不動産の価格に影響するため、騒音問題が表面化することを極力回避する。

実際に、今回の測定結果を踏まえて池田市域の自治会長10か所に電話をしたが騒音が問題となるのは池田市神田の宮之原自治会のみであった。

 川西市域の2 自治会に連絡したが現実に高速の騒音を問題にしている自治会は無かった。但し、当該地域は全域、大阪空港の騒音対策助成金対象区域であり、殆どの地域が個別に防音助成工事を実施している事も大きく影響している。
 

騒音のお話①

騒音のお話① 全ての数値は1998年における法律の値です。(私たちの運動の結果環境基準その物が環境庁によって酷く改悪されました。)

  騒音の測定には現在「デシベル」(記号dB)と言う単位が使われています。以前は「ホン」と言われていましたが実質は同じもので計量単位令の改定によるものです。

  さて、騒音の測定に使われるようになったデシベルと言うのはその名の示すとおり電話の発明者アレキサンダー・グラハム・ベルの名を取ったものです。そうして、実際の音の計測には現在「ベル」の1/10の音を規準とする意味でデシベルを用いています。 

 簡単に、デシベルと言う単位の生い立ちを説明することとしましょう。

  このデシベル(dB)は電話で機械的に発生した人間の言葉の再生音の電力消費量と人間が耳で聞く音量感覚が余りに相違するので人間の聞こえ方に合わせた音量の計測のため考案された測定単位です。

  これを数式で現すと音圧レベル(x)を人間の聞こえる最小のA1 と今実際に聞こえる音A2 の比で現すと。

X=10 log10 A2/A1   (dB)となります。

  このデシベル(dB)と言うのは以上でわかるように電気技術者が用いた特殊な専門用語です。最近は様々な所で使われています。この単位の特徴は「対数」で底を10としますので一般の単位や数字の感覚で理解するととんでもない事態に至ります。

   以下に、一般の数字の感覚とデシベルで表現される騒音の値がどれほど異なっているのかを具体的に示して見ました。

  まず基本となる者は何かと言うことをご説明します。「0デシベル」と言うのは平均的な「人が耳で感じることの出来る最小の音」を現しています。そうしてデシベルと言うのはこの音を規準にして対数値で実際の音を現すのです。ここに、実際に測定される音をデシベルで現し、同時に音の絶対量の実際の大きさを対数を用いないで現してみましょう。

人間が聞こえる最小限の音が      0デシベル 10の 0乗 = 1 
  その音の     10倍の音を 10デシベル  〃  1乗 = 十 
           100倍の音を 20デシベル  〃  2乗 = 百 
          1000倍の音を 30デシベル  〃  3乗 = 千 
         10000倍の音を 40デシベル  〃  4乗 = 万 
        100000倍の音を 50デシベル  〃  5乗 =十万 
       1000000倍の音を 60デシベル  〃  6乗 =百万 
      10000000倍の音を 70デシベル  〃  7乗 =千万 
     100000000倍の音を 80デシベル  〃  8乗 = 億  
    1000000000倍の音を 90デシベル  〃  9乗 =十億  
   10000000000倍の音を100デシベル  〃 10乗 =百億  
  100000000000倍の音を110デシベル  〃 11乗 =千億  
 1000000000000倍の音を120デシベル  〃 12乗 = 兆
10000000000000倍の音を130デシベル  〃 13乗 =十兆倍の音を表します。

 お分かりでしょうか。騒音の測定結果が僅か10デシベル違っただけでも、器械が測定している音の大きさは10倍に、30デシベルの差があるとそれは1000倍も測定結果が違っていることを示しているのです。しかし、人間の耳には器械ほど大きく違いがわからないように錯覚しているのです。

  もっと別な言い方をすると。  3デシベル毎に  約 2倍の音になり 
                 6デシベル毎に  約 5倍       
                10デシベル毎に  約10倍の相違が隠されているのです。

ですから、良好な住居区域の深夜騒音要請限度(第一種区域夜間)の 45dBと
 2車線を越える道路に面した商工業地域(第3・4種区域夜間)の 65dBには

 実際の音の大きさは   100倍の開きがあるのです。しかし、デシベルの値では 20しか違わないのです。

 また、要請限度を遙かに越えた夜間  75dBの場所は、               
   静かな住宅街の環境基準、夜間   35dBの
何と10000倍の音に耐える事が強要されているのです。 この事実を思うとき環境基準や、要請限度の重大な意味がわかります。要請限度とは法律で定められた住民が自動車騒音を我慢し受忍出来る限度の最大値でありこれ以上の音にさらされることは法の許す範囲を遙に逸脱しているのです。

  もし、受忍限度を3デシベル越えるなら、受忍限度という巨大な騒音を2倍にしたものを我慢させられているのです。

  この事を、分かりやすく説明するために、買い物の価格に対する消費税の税率に例えてみましょう。

  環境基準と実際に聞かされる要請限度を越える音を1万円の買い物に対する消費税額の5%=500円に例えてみましょう。良好な住宅地の環境基準は夜間35dBです。その我慢の限界である
                要請規準は夜間40dB。この町にに不幸にして2車線を越える道路が建設されたとします。その結果、その地域はその道路のために要請規準が40dBから60dBに無断で引き上げられてしまうのです。

環境基準35dB=要請限度40が道路によって→60dBに変更(60dBは35dBの実効値の500倍になる)

 消費税5%=500円×500=25万円となります。法外な税金です。誰がこんなひどい税金に我慢できるでしょうか。これが、1万円に対する不当な税額となり、購入物の25倍=25000%の消費税に我慢できるでしょうか。         

 この事が、35デシベルの環境基準の人が60デシベルの要請限度に耐えていることを消費税に例えた説明なのです。

・もしあなたが、1万円の買い物をして法律で500円の税金をとられるのは我慢できるでしょう。しかし、25万円も税金を取られて黙っていますか。

騒音の値が35dBから60dBに引き上げられることは実はそれと全く同じ酷い扱いを許容しているのです。何という酷い法律又環境政策の実態でしょうか。

私たちが生活する静かな室内が20デシベル程度。静かな住宅街の深夜の風や梢の音が30デシベル程度です。さて、騒音等の環境基準とされる60数デシベルと言う数字はこの静かな室内とは40デシベル違いです。しかし、実際の騒音は何と1万倍以上になっているのです。デシベルはそのような数字のからくりがあるのです。

問題はそれだけではありません。騒音を測定する装置には聴感補正特性スイッチ(フアンクションダイアル)が一般的に装備されています。これは、人間の耳の実際の聞こえ方に合わせて1000ヘルツの音はそのままですがそれよりも高い音と低い音を測定しないように操作がされるのです。

特に問題なのは騒音を測定するときに用いるA特性です。10分の1の周波数(約100ヘルツ)の音は-20デシベル。すなわち100分の1にして測定します。さらに約 30ヘルツの音は-40デシベル。すなわち一万分の一にしか測定しないのです。そうしてそれ以下の音は人間に殆ど聞こえないとの理由で測定されません。怖いのはその低い周波数です。

  特に人間の耳には全く聞こえない20ヘルツ以下の音を超低周波と言います。これが全く測定されないのです。特に高速道路ではこの超低周波が発生します。この人間に聞こえない音は波長が20メートル以上もあるためコンクリート防音壁を簡単に突き抜け防ぐ手だてがありません。しかも、この超低周波が長期間人間に加えられると50デシベル(普通の騒音計では測定不可)程度という騒音の環境基準の十数分の一で不眠症や
頭痛を引き起こします。また70デシベルを越えると耐えられない程の激しい苦痛を引き起こします。しかも、この超低周波は普通の騒音のように慣れることが無く、逆に時間とともに益々敏感になり被害が大きく成るのです。そうして専門家以外にはその原因すら把握できないのです。 

以下に環境騒音の問題点を書き記しましょう。

悪と善の錯綜

邪悪と善の錯綜 マタイ20章15節 

直訳・それとも 無い 合法 私に 願うこと 行うこと 中に私のもの らに 私の?  か 目に あなたの 悪が ある それは私の善 が有ること。?  

翻訳・当たり前では無いのかな、私自身の物を私の願い通りにする事は? その私の善があなたの目に悪く見えたとしても。

  今日はマタイの18章から20章を原典で通読しました。沢山教えられる箇所が在りましたが、一番大切と思ったのは上記の箇所です。

 何気ないキリストの言葉ですか普遍的真理を的確に明示しているのです。何が真理かわかりますか。

 そう、聖書が常に言っている事は「神様の善、は常に人間の目に邪悪であり、人間の善は常に神様の目に邪悪である。」という当たり前の事なのです。

  こんな、当たり前のことは説明する必要の無い事で、聖書に親しんでいると誰でもわかることなのです。

  わからない方の為に一言だけ説明をしておきます。聖書に登場する最初の人間アダムとエバに関して記された創世記3章をご覧頂くと明解です。

  あのエデンの園にあった禁断の木の実は別名「善悪の知識の木」と言われていました。神様は善悪を人間が知ることは悪い事なので、「食べるな」と言う命令をしました。しかし、女が見るとその善悪の知識の木は「食べるのに良く、目に慕わしい」とと記されています。 そして、人間の視覚、触覚、嗅覚、聴覚で集めた情報を総合して理性で最も正しい判断を下しました。その結果はどうだったのでしょうか?神様の命令と反対で「食べた」のです。そして、全人類は堕落し世界の滅びが神様の決定となったと聖書は教えるのです。

  その後の、この二人の生活と長男カインの弟アベル殺しに始まる人類の憎しみと報復の連鎖によって、神の言葉が正しかった事を聖書は記しています。これ以外にも同様の主張は頻繁に聖書に登場します。

  この事がわからない方の為にもっとわからなくなる説明をして見ることにします。

  聖書が記している神様の御心は何かご存じですか?そう聖書には「天地が滅びる」と明記されています。とすると神様の御心は「何ですか?」という質問に対する答えは明解です。「神様が創造されてこのかけがえのない天地を滅ぼす=破壊する事です。」その理由は、人間が堕落して神様の作られた世界が棄損されたので天地を更新する事なのです。と言うことは、人類が堕落した現時点における神様の意志=御心は自然破壊と言う事になります。環境汚染、温暖化、自然災害の増大、これらは聖書の教えによれば神様の御心と言うことになります。

  そして自然保護や環境保全は神様の御心を妨げる事に繋がるのです。ですから結論を記しておきます。「神様の御心がこの地上になると言う事は、この地上が人間の破滅に向かう方向に必ず進む」と言うことなのです。

  誤解の無い様に聞いてくださいね。私は環境問題には随分と取り組んできました。地域の開発や汚染、公害に関しては様々な測定や観測、そしてそのデーターを持って環境庁長官にまで面会に行きました。しかし、それらは神様の御心と反対である事を知って行ってきたのです。

  私の陳情は1997年10月7日の事でした。国土交通省扇千景大臣、環境庁大木長官、日本道路公団の藤井総裁に提出しまた。そして私の陳情で要求した環境問題に関する環境庁の改善策が次年度の国会に提出され殆どなんの審議もされることなく本会議を通過しました。そして更に92年4月にも最悪の改悪法律が施行されました。一体何がどうなったかわかりますか。一点だけ数値を上げさせて頂きます。

  私が当時住んでいた地域の住民団体の騒音担当の役員として、地域の騒音が環境基準を越え、要請限度も越えている違法状態の実体を資料化し、違法状態の改善を要請し、現状の高速道路騒音の改善策を要請しましたが結果は次の様な物でした。 

  夜間を20時から08時では無く22時から06時に時間短縮する。更に要請限度を10デシベル緩和する(=騒音が百倍になっても違法状態無くなる。)という馬鹿げた改悪でした。そして、その全国的な環境基準の大幅な改悪、それも世界的に見て並外れたゆるやかな基準を更に改悪したのです。しかも、こんな馬鹿げた改悪に対して一切マスコミで報道がなかったのを見て、あきれました。何の為にマスコミは在るのか、ジヤーナリズムは死んだと確信しました。以前からその事も知っていましたので私は30年前から一切テレビは見無い様にしています。

その中には名神、中国道の防音設備の設置も要望してありました。当時は遮音壁が殆どなかったのですが、あれから10年の間に私が要望した以上の7mでは無く10mから14mの巨大な万里の長城のような景観を著しく損なう遮音壁が延々と設置されています。企業の収益に役立つことは役員や高級官僚の天下り先で儲かるので文句無しに実現したのです。しかも、見苦しい程に

  そして、実は私はそうなるであろうことを陳情前に予想していたのです。何故なら聖書の言葉には私が善と思う、良い環境の保全は神様の御心ではないと知っていたからです。 

  そう、私たちの国の環境行政も、そしてマスコミも知らずにこの天地を破壊すると言う環境の悪化が現実となる為に神様の御心を行う様に運命付けられていたのです。

  余分なことですが、その事を事前に察知していたので私は自分達の生活と環境を守る為に、私達の住む地域に関しては、今後、国の環境基準が改正されても現行の(1997年時点の施行法律)が適用されると言う、地域住民、建設省、阪神道路公団、川西市長の4者協定による環境保全目標値を設定して置きました。 

 正しい聖書の知識は本当にいろいろなところで実際に役に立つものです。そう、聖書が言っている様に人間の悪は神様の善なのです。

サロメと生首

サロメと生首 マタイ14章8節

聖書を読んでいて、考えさせられる箇所の一つが上記です。とりあえずこの聖書箇所の直訳をご覧ください。

08・その も 唆されたは 下に その 母 彼女の、あなたは与えよ 私に、彼は言った、ここへ 上に 薄皿 頭を ヨハネの その 浸すの。 
09 ・そして 悲しまされたは その 王 通して その 誓いら そして その 共に上に横に寝るらは 彼は口頭で指令した 与えられる事。
10 ・そして 送ったは 彼は打ち首した その ヨハネを 中で その 牢。 
11 ・そして 彼は運ばれた その 頭 彼の 上に  薄皿 そして 彼は与えられた その 少女に、そして 彼は運んだ その 母に 彼女の。

洗礼者ヨハネは牢に捕らえられていました。その原因はこの時代のヘロデ王(アンテイパス)が自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを横取りしたのを咎めたのが原因でした。このヘロデ王が開催した大宴会で踊りを披露したヘロデヤのサロメと言う美しく若い娘がいました。あまりに評判がよかったのでヘロデ王は何でも褒美を取らせると大見得を切ったのです。そのサロメが踊りのその褒美に申し出たのが「洗礼者ヨハネの首」だったのです。
  
 そこに列席したもの一同が、どれほど驚いたかは聖書に一切記されていません。即座に獄屋で洗礼者ヨハネの首は跳ねられました。そして、血の滴る生首が、美しく飾られた盆に乗せられてその宴会場に運ばれたと言うのです。

  気になるのは、その生首が乗せられた盆と訳出されている言葉です。直訳では薄皿と訳出した「ピナキイ」と言うかわいらしい言葉なのです。これは御馳走を盛り合わせる美しい大皿でおそらく銀製品であったと思われます。当然のこととしてその生首の回りには美味しそうに見せるサラダ野菜に美しい香りのただよう花も飾られていたでしょう。あまりにちぐはぐなその取り合わせに驚きます。

  思えばヘロデ王家の初めからおぞましい出来事の連続でした。あのクレオパトラとアントニウスの連合軍とオクタビアヌスとの決戦に両者から援軍を要請され、それを両者に援軍として通告して戦場に向かい、合戦に遅れるという手口で勝敗を確認してから勝者オクタビアヌスに取り入り、ユダヤの王として独立を褒美に獲得したヘロデ大王の息子であるヘロデアンテイパス。ヘロデ王家に吹き荒れる権力闘争や政略結婚の謀略の浅ましさに苦言を呈した洗礼者ヨハネの首が、その宴会の余興の褒美に見せ物として、美しく食卓に飾られたトレーで着飾った人々の間を通り抜けて、美しい一人の娘の前に運ばれると言う現実は、本当に考えさせられます。 

  今日は、美味しい御馳走が美しく盛り合わされる「ピナキイ=薄皿」に盛り合わされた洗礼者ヨハネの生首と言うなんともおぞましい聖書の記述の紹介でした。 

The Longest Day

The Longest Day  地上最大の作戦 とは 有名な第二次世界大戦でヨーロッパをナチスドイツ占領下にあったフランスの首都パリを開放し連合国側を勝利に導いたといわれる1944年6月6日に決行されたノルマンディ上陸作戦です。これと同じ戦略で朝鮮戦争時のマッカーサーによる仁川上陸作戦です。いずれも、敵支配下のに中央戦線を開始し敵戦力を南北に分断、補給線を絶ってのち、手始めに南部を掃討し、その後北部戦線を開始すると言う戦法です。

 しかし、これが聖書の教える占領の基本原則であることはあまり知られていません。

今日は、この領土占領の定番であるこの戦記が記されている聖書箇所をご紹介します。

 旧約聖書ヨシュア記 4章~9章中央戦線 10章南部戦線、11章北部戦線 となります。
11章以降24章まではゲリラ化した先住民との掃討戦となります。

  早速、その経緯をご紹介しましょう。映画十戒で有名な紀元前1440年のモーセによってエジプトを脱出したイスラエル60万の軍団は最初南部から「約束の地カナン」を攻略します。しかしイスラエル軍による南部からの攻撃は防備が堅く断念せざるを得ませんでした。モーセはやむなく、死海を大きく迂回してアラビヤ砂漠の過酷な行軍を経て、死海北端のエリコに面したヨルダン川河口に進出します。
  この間に40年を要しモーセは占領の準備を万端整えた時に勝利を目前にして死を迎えます。その後を引き継いだのがヨシュア(ギリシャ名イエス)です。彼はモーセの死後ヨルダン時、ヨルダンを渡河し、中央戦線を開始します。その時迎え撃つカナンの地の全国家による大カナン連合が結成されます。
  しかし、自分達の地域が戦場になり、その損失を懸念するカナン中央のギブオン地区がイスラエル軍に講和し、戦線を中部から問う裂けることを画策したので。この裏切りを見た南部5の都市国家は、自らに迫る脅威を払拭する為に、寝返ったギブオンに対峙し包囲を固めます。ギブオンの救援要請にヨシュアは電撃進攻を開始します。虚を疲れた南部連合は敗走し、たちまちの内にカナンの地南部をイスラエル軍は掌握します。見せしめに南部連合の首長は虐殺してしまいます。

 あわてた北部の諸都市国家は連合軍を結成して大挙し、南に向かって進軍を開始したのです。しかし、イスラエルの北部と違って中南部はより険しい山岳地帯でした。そこに、騎馬隊と二頭立ての戦車で進軍したのです。山地ではイスラエルの歩兵の方が身軽で機動力に優れていたため、北部諸国家連合軍はイスラエル軍の前に呆気なく撃破され、敗走したのです。

  この、戦争の最も重要な戦闘はやはり、南部連合を迎撃し撃破した、ヨシュアの電撃進攻でした。聖書ではこの日に「太陽が一日天に留まった」と記されています。 

ヨシュア記10章13節 直訳は以下です。

・ そして彼が黙った その太陽 そして月 彼が自立した まで 彼が復讐する 民族 敵するら彼 何故無い 彼女  刻まれたは 上 書物の その 真っ直ぐ(ヤシャル) そして 彼が自立した その太陽 中で半分の その 空 そして無い 彼が強いる 行く事の として 日 全部  

以下は古代ギリシャ語訳旧約聖書70人訳の直訳

・ そして 彼が立った その 太陽 そして その 月 中で 立つ まで 彼が防御した その 神 その 敵らを 彼らの。 そして 彼が立った その 太陽 下に 真ん中 その 不可視、無い 彼が前に来た 中へ 西 中へ完成の 日の 一。

  これが有名な「一番長い日=The Longest Day 」と言われているのです。あのノルマンデイ上陸作戦の映画の題名はこの聖書のヨシュア記の10章13節が起源というわけです。

  これは、今日に至るまで、領土占領の基本戦術です。もし太平洋戦争末期に連合軍による日本上陸作戦が展開されていたならば、この戦術によれば日本を中央部の太平洋側と日本海側に橋頭堡(拠点)を築き、そこから内部に空挺部隊と地上軍による進攻を進め(戦線拡大)、両者によって日本を東西に分断して、まず南西部に向かって掃討戦を展開し、同時に九州にも上陸作戦を展開して東西から日本西部を制圧します。しかる後に、北海道に新たな部隊を上陸させ、中央部の軍事境界線から軍隊を東進させそれにと呼応して南進する北海道上陸部隊とともに首都東京に迫ると言う筋書きになります。ですから、もしその様な事態を想定するならば、最も重要な戦略拠点は日本中央部で縦断戦術が可能な舞鶴、名古屋のラインが最重要な日本本土防衛戦略拠点となり、おそらくその場合の天下分け目の決戦「一番長い日=The Longest Day 」は1600年の関ヶ原の古戦場に展開されることになったでしょう。


  今日は、聖書の中でイスラエル最大の戦争をご紹介しました。

聖書は戦争の記録

聖書は戦争の記録

  今日は昨日のお話を更に続けてお話ししたいと思います。多くの方はキリスト教が平和思考の宗教だと思われている様ですが、キリスト教国が過去に成してきた歴史を見てみるとその認識はとんでもない間違いだと言う事にお気づきになるでしょう。また、宗教改革の旗手であったルッター自身も凄惨なドイツ農民戦争に加担している現実にも目を向けなければ成りません。

  今日は聖書のお話ではなく、聖書が実際に教えている戦争に対する主張に気がついた経緯をご紹介することにします。

 以下はその経緯です。

  私はその昔、NTTなる公社に奉職しておりました。自分で言うのも何ですが、親が心配するほどくそまじめな青年でした。朝礼では国旗、社旗に向かって社歌を高らかに歌うくそまじめ青年だったのです。そんな折り、社内で募集された交通安全標語に応募したのです。私が応募した「貴方の安全は私の安全」という標語の説明文を目にした担当者が、わざわざ私を訪ねてきました。「君はクリスチャンか?」というのです。その理由を聞くと、「同じ趣旨のことが聖書に書いてある」というのです。この一言が聖書に興味を持ったきっかけです。
 
  そのころ自宅近所に教会が移転してきたのです。早速教会に出向きました、そこでは3人の米国人宣教師が教えていました。しかし、その教えの内容など全く要領を得ませんでした。どうしても納得出来ない事が多くあったので、学びたいと思い神学校なる存在を知り、その短大の夜間の部に通うことにしたのです。しかし、聖書学は思いの外学習する分量が多く、これは片手間では駄目だと悟りました。様々な反対を押し切り職を辞して、当時東京国立にあった神学校に入学を決意したのです。貯金と退職金をつぎ込み、ようやく4年間の学びを終えました。しかし満足な知識に至りませんでした。そこで更に上級の神学校に進み更に3年の学びを終えました。その卒業の前年に牧師が留学してしまっい困っていた静岡県の教会から要請され、また所属していた教団の理事会にも請われて田舎の教会の牧師に就任したしだいです。

  それ以来、牧師として奉職していましたが、私の一貫した思いは信徒の教化育成や宗教活動や社会奉仕では無かったのです。(大抵の牧師さんは信徒に喜ばれ、地域に貢献する立派な志をもたれている様です。)しかし、私はそのような信徒の教化育成という働きよりも、もっと基本的な「聖書には何が書かれておりそれは何を意味しているのか?」と言う事に関心が向いてしまっていたのです。毎日のように信徒に説教するのですが、大抵の牧師さんのように、信徒を励まし教会を大きくする勤めよりも、聖書の記述を原文で探究し、その言っている事を人が分かろうが分かるまいがそんな事は全く気にせずに、ただ「聖書に書かれている事とその意味」を探求してきたのです。

   そして、邦訳聖書を幾種類も通読し、現在までにその通読回数は百数十回に及びました。勿論、英訳や邦訳にはあきたらず原語で読みようやく聖書の大半を読破するに至りました。ここまでで、最初に聖書を手にしてから約30年近く立っております。こうしてようやく聖書の言っていることが明確に把握出来るようになったと自認するに至ったのです。

   聖書を読み続けてきて現在の到達点は次のような認識です。それは、「聖書とはイスラエル民族の遭遇した壮烈な戦争の軌跡である」という簡単なものです。

  簡単にその意味を説明する事をご容赦ください。聖書の創世記の初めにまず、イスラエルやアラブ民族の父祖アブラハム(民族の父祖の意)が登場します。彼は当時チグリス・ユウフラテス河口にあったウルと言う近代都市国家の支配者の跡継ぎでした。政略結婚で腹違いの自分の妹サラ(女王と言う意味)と結婚します。しかし皮肉な事に世継ぎが生まれ無いため、腹違いの弟に王位を奪われ、失脚し流民となってメソポタミヤからパレスチナに移住します。そして落ちぶれて流れ行った辺境の地もまた戦乱の地でした。彼は王として受けた軍隊を動員する能力に秀でていたため、幾度かの戦乱に勝利し、その地域の支配者どして君臨します。その孫の時代までなんとか持ちこたえますが日照りによる飢饉がおこり、一族は落ちぶれてエジプトに移住します。
 
  そしてあの有名なモーセの時代となります。モーセは奴隷民族イスラエル人の子供でしたが捨子にされた時、幸運にもエジプト王フアラオの王女に拾われ実子として養育されるのです。おそらく王女にはそのような策謀が必要な立場にあったようです。王族として軍事、行政、司法に関する帝王教育を受けたモーセですが40歳の折り、迫害される同胞の悲惨を目の当たりにして、迫害するエジフト人を一刀両断し、その殺人が発覚し逃亡します。そして40年後このモーセがエジプトに帰還し同胞を奴隷状態から開放します(モーセの十戒)。そしてイスラエルエジプト移住後400年間も定住していたカナン人やエモリ人を抹殺する精神的準備にを完遂するのです。その間、モーセは3度にわたるクーデターを経験します。しかし、彼は反対者を殺戮し軍事力によって危機を切り抜けます。そしてモアブ、ミデアン、バシャンといった周辺列強諸国に攻め入り見事に圧倒的な勝利を勝取ります。なぜならモーセは当時最新のエジフト兵法の専門家であったからです。

  このあとの時代もイスラエル民族が遭遇した戦争は数えきれません。ヨシュアの時代、サウルの時代、ダビデ王、からあの南ユダ王国滅亡の最終戦争と言われるメギドの山(ヘブル語でハル=山・メギド=優秀→ハルマゲドン)の戦いで戦死(BC606年)したヨシャ王にいたるまで戦乱に次ぐ戦乱で聖書は埋尽されています。ダビデ王朝の滅亡後も、バビロンやエジプトにユダヤ人は奴隷として離散し行った先でまた、約束の地カナンに残留したり帰還したユダヤ人たちは世界情勢の谷間で戦乱に明け暮れます。

  バビロン帝国、メドペルシャ帝国、アレキサンダー大王とその死後後継将軍たちの時代に戦乱に巻き込まれるのです。(この時代の戦争の悲惨さは聖書外典=ヘブル語では無くギリシャ語で書かれている・ヨセフオスのユダヤ戦記に詳細に記されています。)

  さらに時代は進んで聖書の舞台の地はクレオパトラとシーザー、アントニウス、そしてオクタビアヌス(アウグスト皇帝)たちの勢力抗争の舞台となり、ようやく新約聖書の時代が到来します。

  以上から言える事ですが、聖書が記されているすべての時代の中でイスラエル民族が平和であったのは僅かです。その僅かの平和な時代の約50年間が新約聖書の舞台です、キリストの宣教と十字架と復活後、ペテロやパウロが活躍する頃には戦乱の足音がしていました。彼らがローマのネロ皇帝の迫害で処刑されるとほぼ同時に、ユダヤ独立戦争が勃発しイスラエル民族の祖国はテイトウス軍によってローマに反逆する物への世界への見せしめに完全に破壊され蹂躙され、悲惨な2000年に及ぶ流浪が始まるのです。

  以上、述べたとおり、聖書が記していることは明確に「戦乱」、只唯一「戦乱」です。これがユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教(聖書の主要部分モーセ五書が聖典)の教典として自宅で毎日読まれ、教会やモスクで日々朗読され、説教されているのです。

  こんな書物を学んでいるからこそ、平和の大切さや愛をキリスト教は語るのですが、それは聖書の教えの(内容でも又分量的にも)主要部分では決して有りません。人々の心を和ませるキリスト教の教えの前後にはこんなおぞましい悲壮な戦争の事実が浅ましく赤裸々に記されているのです。「一人残らず殺せ、焼き払え」そして凌辱や、略奪の応酬がなんの装飾も無くサラリとさりげなく記されているのです。そしてこの書物=聖書が語っているのは、残忍な人間の本質=原罪であり、そのような人類の罪悪から国家や財産や愛する者とその権利守る為に、よくよく、軍備を怠らず、敵に隙をあたえず。また戦争に負けても、必ず何時か、たとい2千年の後にでも祖国を復興し復讐する術を連綿と子々孫々に至まで教育し続けているのです。

  このような戦争が書かれている聖書で世界の多くの国の家庭や学校もまたあらゆる儀式などで教化育成されています。キリスト教国では、生まれたばかりの幼児洗礼の時から結婚式、葬儀にいたるすべての機会に教化育成の為に聖書が登場しています。聖書から語られる宗教家の口から出るのお話の内容はいつも愛や平和等のテーマばかりで誰の耳に甘いお話です。しかし、その語られている聖書の前後は悲惨な戦争の記録ばかりなのです。

  こんな有効な軍事教育が在るでしょうか。聖書は宗教の教典として神からの愛の手紙などと称して全くその中身を秘匿されて確実に世代から世代に伝承されているのです。日本人はこの事実に目をとめなければなりません。私たちの隣国は世界で最も熱心なキリスト教徒が過半数を占めているのです。そして反対の隣国アメリカは世界最強の軍事超大国なのです。こんな現実をしかと認識して、しかる後に日本の安全保障は論じられ無ければなりません。そう、一神教とはそういう戦争の出来る宗教なのです。

  宗教が政治に介入せず、人間の善を鼓舞し、安らぎの源となって欲しいという多く人々の心情は理解します。しかし、人間が住むこの現実の世界では宗教が戦争に関わらないで存在する事は、現実にはあり得ない机上の空論以下の理想論なのです。

植民地用キリスト教

植民地用キリスト教 と本国用キリスト教 キリストと剣 
マタイ10章34節 

・無い あなた方が見なした それは 私が来た 投げた事 平和を 上に その地。無い 私が来た 投げた事 平和を 反対に 剣を。

翻訳・あなた方は私が地上に平和を投じる為に来たと見なすな。私が来たの剣を投じる為だ。 

  なにか、一般のキリスト教のイメージを破壊するラデイカルな翻訳に成りました。しかし、紛いも無い、聖書が記しているキリストの言葉です。

 私は、以前から不思議に思っている事が在るのです。それは「どうして日本に来た宣教師はいずれも無抵抗、平和主義を唱えているのに、彼らを送り出している本国の教会やその国家は戦争ばかりやっているのだろか?」と言う事なのです。

  世界のキリスト教の国を見てください。いずこも、戦争が得意です。一番代表的な国家はアメリカ合衆国と英国ではないでしょうか? 特にアメリカのブッシュ政権がご存じのネオコン(ネオコンサバテイブで新保守派=キリスト教右派)に支持基盤がある事は衆知の事実です。 実は、私の所属する教派は米国のネオコンその物でその代表的教派なのです。 

  ご存じの通りブッシュ大統領は有名なネオコンの典型的伝道者であるビリークラハムの説教を聞いて入信した熱心なキリスト者と言う事です。私の修士論文は「ビリーグラハムの伝道説教の宣教学的分析」でした。実は私が卒業した神学校(大学もある)はビリーグラハムと神学校(ホイートン大学)の同信の親友で同級生でもあるドナルド・イーホークが創立した学園だったのです。
  どういう経緯なのか知りませんが驚いた事があります。例の9・11テロの直後日本の警察の本署から私の牧師をしている今の教会が「アメリカの関連施設としてマーク」されていたのには正直驚きました。その電話で、「お宅は異常が無いか」という確認の連絡が入ったのです。
  この教会を開拓した、宣教師もホイーソン大学の、ビリーグラハムの後輩にあたる宣教師でした。

  ですから私は日本における数少ない正真正銘の筋金入りのネオコン教会の牧師なのです。その特徴はというと簡単です。キリスト教原理主義です。それは、口先ではない聖書を本当に原典で研究し、聖書から説教し、聖書に従う事を目的とする教会を目指しているのです。 

  その立場からキリスト教会を見る、どうもおかしいのです。本国ではネオコンは戦争遂行者です。しかし、あたかも日本の教会には植民地用のキリスト教であるかのように、戦争放棄、愛、平和主義が要請されているのです。いやそのように日本語の聖書は翻訳されているのです。ヨシュア記の11章14節など原文で見るとほんとうに凄まじい記録です。
  一例として以下に原文をそのまま日本語にした直訳を記します。「・ そして 全ての 略奪品の その城塞ら そのこれら そして その 家畜 彼らは強奪した に彼ら 息子らの イスラエル 薄い を 全ての その男 彼らは撃ち殺さした に口の 剣 迄 彼が根絶さした彼ら 無い 彼らが残さした 全ての息する」となっていますが、翻訳聖書ではかなり、ソフトに訳出されています。 

  私の様に聖書をヘブル語やギリシャ語の原文で読んでいると、どうしても翻訳を読んでいる人の様に平和主義者には成りません。聖書は何処を見ても戦争の記録ばかりだからです。旧約聖書は殆ど全て戦争の実録です。その証拠にイスラエルと言う国家がいかに戦争が上手であるかを見ると、自明の真理です。 
  新約聖書も大きな戦争と戦争の狭間に記されています。聖書に出てくる地名の殆どはアントニウスとオクタビアヌスの権力闘争の舞台です。そして、聖書が記されている70年代はユダヤのローマからの独立戦争の真っ只中でした。その様な事を踏まえて今日の聖書箇所をご覧ください。やはり「キリストは地上に剣を投げ込む為に来た」と記されているではありませんか。

  その様なわけで、私はどうも、欧米から派遣されてきた宣教師は日本やアジアの各地に植民地様のおとなしいキリスト教を布教したが、本国はいずれも本格的な戦闘的なキリスト教(聖書の教え)があって、二重構造になっていると思わされているのです。

左の頬を向けろ

 左の頬を向けろ マタイ5章39節 

  今日はご有名なイエスキリストの教えを、ご紹介する事に致しましょう。

「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい。」と言う言葉です。まず文脈全体の直訳をご覧ください。

新約聖書マタイの福音書5章38節から42節直訳。

38 ・あなた方は聞いた それは 彼が言われた、眼を 対して 眼 そして 歯を 対して 歯。
39 ・私は も 私は言い続けている あなた方に 無い 逆らって立つ事 その 邪悪に。反対に 懸かる所の者は誰でも あなたを 彼が棒で殴り続けている 中へ その 右 頬を 〔あなたの〕、あなたは振り返れ 彼に そして 他を。
40 ・そしてその 意志しているに 裁かれる事 そして その 下着を あなたの とる事、あなたは放置しろ 彼に そして その 服を。
41 ・そして 懸かる所の者は誰でも あなたを 彼が確かに用事に人を使う  ミリオン(1.5キロ)一、あなたは行き続けろ 共に 彼 二。 
42 ・その 要求するに あなたを あなたは与えろ、そして その 意志しているを から あなたの 利子をとって金を貸す事 無い あなたがから離れて転じさせられた。

  面白いですね!  ギリシャ語の原文の本来意味は「右の頬を棒で殴られたら」と言うことです。確かにかなり後期には平手打ちをも意味しましたが、やはり原文は棒で殴られたと言う意味と取った方が良いでしょう。 
  なにかキリスト教と言うと、旧約聖書の「目には目、歯には歯」と言う報復の論理と違って「愛と無抵抗」が売り物になっています。しかし、原文のギリシャ語で聖書を読むとその様な「愛と無抵抗」はキリストの教えではない事は自明です。

  今日の箇所で重要なポイントがあります。それは一般の翻訳で「しかし、」あるいは「反対に」と叛意接続しに訳出されている言葉はその様は訳し方は間違いである事を示しています。

  この接続しは短い「δε=デ」と言うもので「順接」を表しています。この接続しに叛意をもたせるには何処かに 「μεν」と言う小辞が必要なのです。しかし何処を見てもその様な物はありません。 

 ですから、この箇所は「あなたがたは目には目、歯には歯というとこを聞いています。だから私は言います。.....」と訳されるべき文脈なのです。

  さて、そうすると今日の箇所の「棒で頬を殴る」と言う表現が生きてきます。その様な酷い暴力にひるむことなく。「良くやったな、こちらの頬も殴ったらどうだ!」と言う意味で左の頬を相手に示しなさいと言う事になります。

  続く40節もなかなか意味の在る文面です。これは裁判になっている状態を前提にしています。ですからここで言っているの、下着で裁判までする人に対しては取らせて(原文は「放置しろ」となっています。)とする人には、「それを放置しなさい。また上着も」。となります。

  さらに続く、41節では「強制労働又徴用」と言う言葉が使われています。これは軍隊などで力ずくで人に権利を正当に踏みにじる行為を指しています。当時のユダヤや地中海世界は全て、強大な軍事大国ローマの植民地でしたから、極普通に市民が経験していた現実だったのです。

   その制限は1・5キロであっとた言われています。そのような「横暴な勝者による不法な強制徴用に対しても、それをものともせずに倍の3キロ思い戦争物資を運んでやれ。」と言う意味なのです。 

 そして、最後の42節では「要求する人がいたらやれ、そして あなたから借りる事(or利息を取る事)を願っている人を、あなたは返すな。」となります。これをどのように訳すのは難しい所ですが。原文のままで通じますので変に翻訳しない方が良いかと思います。
  とするとこの42節の箇所は「くれと言う人にはやれ、そして借金を願う人は追い返すな。」と言う意味です。

  わかりますね。「目には目」と言う事であなたが「目を人から取る」立場ではなく、人があなたから「復讐に目をよこせ」と言う人がいたら 、あなたは「目をその人に上げなさい」と言うのがこの箇所の意味です。

  と言う事で問題は自分が復讐される側においてこの文脈を読むとギリシャ語の原典そのままで何の解釈も必要なく理解できるのです。 

  ここだけではありません。多くの聖書翻訳が沢山このようなボタンのかけ違いをしているのです。

嘘の勧め

嘘の勧め  マタイ5章11節 

直訳・祝福されているらは あなた方はであり続けている その時 彼らが叱責した(為)あなた方を そして 彼らが追求したため そして 彼らが言った(為) 全てを 悪を 下に あなた方の 〔嘘をつくらは〕の為に 私。

今日はキリストがお弟子達に教えた山上の説教の9つの祝福の教えの最後が目に留まりました。 何が問題かと言うと最後から3つ目の「嘘をつくらは」と言う言葉です。殆どの翻訳がしている訳でいいと思うのですが、この箇所を単純に読んでみるとこうなります。 

翻訳・ あなた方は祝福されています。あなた方が批判された時、そして 迫害された時、そしてあなた方の下に全て悪と言った時、私の為に嘘をつくらは  

  となります。 もし上記の様に原文をそのままに読むなら、「私の為に嘘をつく人たちは祝福されている」と言う意味になります。どう考えてもモーセの十戒の「偽りの証言の禁止」と整合性が無くなるので。一般の邦訳は「ありもしない事(=嘘で)悪口雑言を言われる人は祝福されている」と訳出しています。 

  私は何もあえて、それに反論をしているわけではありませんがこれはこのギリシャ語のテキスト本文の解釈の一つに過ぎないと思っています。 
  
  ではもし、私が記した様に、「私の為に嘘をつく人たちは祝福されている」とすることも特に問題はないと私は思っているのです。 

  何故かと言うと、それは十戒の理解に関わっているのです。十戒が禁じているのは嘘をつく事ではなく、偽の目撃証言です。と言う事でそれは裁判の席で誰かを有罪に落とし入れるために成される偽証言の事なのです。十戒が普段私達がついている嘘を禁じているわけではないと言いたいのです。

  誤解の無い様にしてください。私は嘘を言っても良いと言っているのではありません。「モーセの十戒」が禁じているのは嘘ではなく「偽の証言」で嘘と「偽目撃証言」は本質的に異なった物だと言っているのです。

  「何が違うか」というと、全く違います。何よりも動機です。それは嘘は自分の利益、不利益に関する場合です。また人を騙したりする為の物ですが、それは騙される側にも責任の一端はあります。 

  しかし、「偽の目撃証言」は違います。何の罪も無い無実の人を犯人に仕立て上げ、多くの場合死刑の判決を導き出す手段なのです。聖書が禁じて入るのはこちらの方なのです。 

   とするともしかしたら、「神様の利益の為に嘘をつく人が祝福されている」と言う読み方も一概に否定できない物である事が分かってくるのです。

   ただ、その様な翻訳をする事は誤解が生じるので止めた方がよい事は確かです。 

イナゴと蜂蜜(ヨハネの食べたのは蝗の佃煮)

イナゴと蜂蜜  マタイ3章4節 ナザレを見捨たイエス マタイ4章13節 

 今朝、ギリシャ語で聖書通読をしたのはマタイの3章と4章でした。面白い箇所が在りましたのでご紹介します。
  先ず第一はマタイ3章4節です。ギリシャ語原典からの直訳は以下です。

・彼は も その ヨハネは 彼は持っていた その 着物は 彼の から 毛織 ラクダの そして 帯を 革製の 回りに その 腰 彼の、その も 食料 彼がであった 彼の イナゴ そして 蜂蜜は 野は(を)。

 考えさせられたのは、洗礼者ヨハネの服装と食物です。ラクダの毛の着物ですから、かなり高級品でした。やはり大祭司の家のご出身だけあってこれが普通だったのでしょう。しかし、問題は食物の方です。イナゴと野蜜と言う事ですか一体どんなふうにして手に入れてどんな風に料理して食べたのでしょうか?

 私の想像ですが、イナゴはおそらくヨルダン川の周辺の草原、当時はまだ大草原(ヘブル語ではアラビヤ)が残っていました。当然稲科の植物が多いでしょうからそこには沢山のイナゴが生息していたことでしょう。特にイナゴの産卵場所は砂地ですからヨルダン川流域ではいくらでも採れたと思われます。

 次に野蜜ですが、これは原文では野の蜂蜜ですから、ヨルダンの密林にいた野生蜜蜂の巣から掻き採ったとするのが妥当でしょう。勿論、紀元前7世紀の段階でギリシャには養蜂家がいた様ですから、ヨハネがその様な養蜂の技術や知識を持っていたとしても何の不思議もありません。

  さて、次は料理法です。それぞれをそのまま生で食べたと言うのも一つの考えです。しかし、違うだろうと思います。何故なら蝗と蜂蜜を少量ずつ採って食べるのは結構大変だからです。私の子供時代はまだ終戦直後でしたから初秋に良くイナゴ取りをして佃煮にした食べた記憶があります。以下に簡単に料理法を記しましょう。
  
  先ず野にいるイナゴを袋か籠に取ります。網で取らなくても手でいくらでも採れます。取った蝗はそのままでは直に死んで腐りますか調理します。まず鍋にお湯を沸かします。そのお湯をなにかでグルグルかき混ぜながらイナゴを中に放り込みます。何故水をかき混ぜるかわかりますか? そう、イナゴは水に浮く上にハネ足で水から飛びだして茹でれないのです。だから水を回してイナゴの目を回してお湯から飛び出せない様にするのです。

 茹でるとイナゴは奇麗な赤色になります。そして水を捨てて鍋に残ったイナゴに蜂蜜をかけてそのまま水分を飛ばすと、イナゴに飴状になった蜂蜜が上手く絡まり美味しい佃煮が出来上がります。

  これは、大変美味しい上に、タンパク質もビタミンもカルシウムもたっぷり含んだ滋養在る食品の出来上がりです。しかも、壺などに入れると長期保存が出来ます。形はグロテスクですが味は最高です。一度試されるとやみつきになる事請け合いです。 

さてもう一カ所は マタイ4章13節です。以下はそのギリシャ語原典からの直訳です。

 ・そして 後に残したは その ナザレを 来たは 彼が定住した 中へ カペナウム その 側に湖 中で 境界 ゼブルン そして ネフタリム。

  驚くべき言葉があります。二番目に登場する言葉です。ギリシャ語のカタレイポー と言う言葉で、文字通りに訳すと、「見捨てた」となります。と言う事はイエスキリストはご自分の産まれ育った町を「見捨てた」と言う事になります。

後に、この町の会堂で説教した折り、町の人が怒り出し町の立っている崖からキリストを突き落とそうとする出来事が記されています(ルカ4章28節)わかる事ですが救われる見込みの無いよほど罪深い不信仰な人々が住む町だったのでしょう。

マリヤの夫ヨセフの怒り

マリヤの夫ヨセフの怒り マタイ1章20節 

  昨日は黙示録の最後を取り上げましたが、今日は聖書の通読が最初に戻ってマタイの福音書の1章と2章の中からすこし気になる所をご紹介したいと思います。 

  冒頭のマタイの福音書1章の20節です。まずギリシャ語の原典を直接日本語にした直訳をご覧下さい。

20節直訳 ・これらを も 彼の 思案させられたの 自分の 使いが 主の 下に 夢 彼が 照らされた 彼に 言っているは、ヨセフよ 息子は ダビデの、無い あなたが恐れさせられる(為) 受け取る事 マリヤを その 女 あなたの、その そして 中で 彼女 産まされたは 出て 霊 彼が存在し続けている 聖の。

  これは、ヨセフの許嫁のマリヤが懐妊した事をしったヨセフの事が記されている箇所です。気になるのは4番目の語で 「思案させられた」と言う意味の言葉です。

  ただ、ギリシャ語で見てみると「ενθυμηθεντεs」と言う言葉なのです。分解すると以下の様になります 
・εν接頭前置詞→「中で」という領域を表す。
・θυμη語幹→「激しい怒り」を意味する言葉 
・θεντεs動詞の語尾→「アオリスト、受動分詞、属格、単数、男性形で→させられている男」と言う意味。

  問題は語幹です。激しい怒りを表す言葉なのです。 さらにこの言葉を詳しく見てみましょう。

  この語の原形は「θυμουμαι」と言う能動形欠如動詞で、やはり「激しく怒る」と言う意味なのです。

  と言う事で、ギリシャ語の原文が示しているのは、ヨセフが覚えが無いのに妊娠して大きなお腹をしているマリヤに対する激しい怒りを表しているのです。

  マリヤに裏切られたと思っていたヨセフの自然な、そして当然の感情なのです。

  と言う事でもし、神様の御使いがヨセフに現れて事の次第を納得させなければ、当然の事として、ヨセフはマリヤを訴え、石打ちの刑にした事がわかるのです。

原典通読完了

原典通読完了 新約聖書 黙示録22章21節  新訳聖書2度目の読了

 昔は毎日、日本語に翻訳された聖書を通読していました。新旧訳聖書の通読回数が100回を越えたあたりで読んでも殆ど新しい発見が無くなってしまったので、最近は翻訳を読むのを止めてギリシャ語や70人訳とヘブル語の原典を通読しています。日毎に2章ていどを原文で読むのです。新約聖書なら殆ど辞書が不要なのでどうしても新約聖の通読に傾きがちで、今朝ようやく、今年になって二度目の新約聖書原典通読を終えました。
 聖書の最後の言葉を今日はご紹介する事に致しましょう。  
  
 直訳・その 恵み その 主の イエスの 共に 全てら。

  翻訳すると 主イエスキリストの恵みが 全てらに。と成るのですがこの箇所には写本の本文に様々な異同が在るのです。それを、まずご紹介しましょう。

  最後の部分が問題なのです。 

  先ず古代のコプト語訳聖書にはこの21節が全て除外されていて、20節で聖書が終わっています。
フアミリー46と言われる小文字写本群には 「主のイエス キリストの」 とキリストが追加されています。 
  ブルガタ訳やシリヤ語訳等の古代訳には 「私たちの主 イエス キリストの 」と私たちが追加されています。
  シナイ写本と云う定評在る写本には最後に「共に 全てらの 聖らの アーメン 」と恵みの範囲が聖徒=信者に限定される言葉とアーメンと云う言葉が追加されています。

  さて、以上の事を踏まえて、使徒ヨハネが書いた最初の黙示録の原典はどうなっていたのかを考えてみる事しましょう。

 わかる事ですが、シナイ写本に追加されている「言葉は明らかに教会の都合の良い言葉」ですから、後代の追加として原典にはなかったと言えるでしょう。

 そして、当然「私たちの」と云う ブルガタ訳やシリヤ語訳の翻訳は教会の意向に合わせた翻訳者のスタンドプレーと思われます。 

と言うことで結論は 「主イエスの恵みが全てと共に。」だろうと言うことになります。 

  そして問題はこの文章には動詞が無いと言うことなのです。主動詞が無い文章はそれを補わないと翻訳に成りません。 一番考えられる言葉は存在し続けている。と言う ギリシャ語のBe動詞です。

  とすると 「主イエスの恵みが全てと共にあり続けている。」となります。

  次に考えられるのは、祈願文として翻訳することです。 更に考えられるのは 場合で翻訳は 「主イエスキリストの恵みが全てと共にあれ! 」となります。

そして更なる問題は 「共に」と訳出している前置詞「メタ」の翻訳です。この言葉には

「真ん中に」「共に」「に対して」 「によって」と言う4種類の意味があります。 どの意味に訳すかはむつかしいところです。

  最も普通にこの箇所を翻訳すると 「主イエスキリストの恵みが全てらの真っ只中に存在し続けている」となります。

  わかりますか、翻訳すると言うことは原文が持っているこれだけ多様な意味合いのほんの一部分しか表せないのです。 だから原典で聖書を読むと非常に新鮮で、常に新しいことを見いだす発見が尽きないのです。

第二の死

第二の死 火の湖 黙示録20章14節

 聖書が教えている事は端的に言えば人生は死で終わる物ではない。その向こうに生命と死があると云うとです、その事を教えているのが冒頭の聖書箇所です。いつもの様にギリシャ語の原典を直訳して見ましょう。

直訳 ・そして その 死は そして その ハデス(見えない=黄泉?)は 彼らは投げられた 中へ その 湖(or池) その 火の。これは その 死 その第二 彼が存在し続けている、その湖 その火の。  

  火の海と云う言葉がありますが、聖書には地獄として登場します。上記はその箇所です。しかし、良く見るとこの火の海に「死とハデスが投げ込まれる」場所なのです。これを聖書は第二の死として記しています。

 と言う事でわかる事は死の向こうにさらに死が在ると云う事です。 と言う事は死の向こうには生命も在ると云う事なのです。 

 コリント人への手紙の12章の1節~10節を見るとパウロが伝道活動の初期に、ルステラという南ガラテヤ地方の町でユダヤの同胞に石打ちにされた時のいわゆる臨死体験が記されています。(使徒の働き14章19節20節)
  ただ、残念な事に大抵の人は死んだらもう二度と現在生きている世界に戻る事は出来ないし、生きている人は生きている限り死の世界にいく事は出来ないと云う事なのです。 
  
  と言う事はその様な経験をした人の話を聞くか、あるいは聖書を学んでそこから死後の世界の事を学ぶ以外に方法は無いと云う事なのです。

聖書誤認の基本

聖書誤認の基本 ヨハネの第3の手紙5節、6節 

聖書を原文で読んでいると考えさせられる事は尽きません。今日も、一カ所面白い聖書の箇所をご紹介することにします。それは新約聖書のヨハネ第3の手紙5節です。

先ずいつもの様に直訳をご紹介しましょう。

05節 ・愛されているよ、信頼を あなたが行い続けている 所は もし あなたが働いた(為) 中へ その 兄弟ら そして これが 外国らを、

06節・その 彼らが目撃証言した あなたの その 愛に 面前で 教会の、これを 良い あなたが行い続けている 方に遣わしたは ふさわしい その 神の。

さて、この箇所で注目するのは 「もし」と言う仮定をあらわす言葉です。この言葉は接続法を伴って用いられ 条件文で、5節は「もし○○したならば」となります。す。そして続く6節には帰結文となり「成るであろう」 と言う事なのです。 このギリシャ語の基本的な文法に従ってこの聖書箇所を翻訳してみましょう。 

5節(条件文・もし行ったならば)→・ 愛されている人よ。する所はあなたがもし行い続けている信頼(の業を)兄弟や滞在者におこなったならば。
6節・(帰結文・したでしょうに)→・教会の真ん中であなたが行った愛餐の食事は、神の価値ある使者達に良い業を行い続けていると目撃証言したでしょうに。

と言う事になります。と言う事はこのヨハネの第三の手紙の著者は、この手紙の受取人に対して、「あなたは良い事を行った」と誉めているのでは無いのです。

 原文が行っているのは。条件文ですから、「もしあなたが良い事を行っていたなら」つづく帰結文では「それを見た人々がそれを目撃証言したでしょうに」「本当に...残念でしたね」と言う事なのです。

  面白いですね。「批判の文面」がどういうわけか「称賛の文面」に誤訳?それとも改竄されてしまっているのです。

  問題は間違いがここだけならば良いのですが、どうも、聖書の翻訳はどこも彼処もこのようなボタンのかけ違いの連続です。 

  原文を読む限り初代教会はさして誉める所の無い教会であった事は自明なのです。まして今日の教会は尚更堕落して誉めるどころかしっかりと聖書を学んで叱責を受け取らないと堕落は際限の無いものとなってしまいそうです。 
  今日は、翻訳されている聖書の所々に見られる、誤訳の基本。叱責を全て称賛と取っているボタンのかけ違いのご紹介でした。

死装束の御子

 棺桶に寝かされた死装束の御子 キリスト ルカ2章12節 

 今日は昨日お話した続きです。
直訳 ・そしてこのこと あなた方に その印 あなた方は確かに探し出す 胎児 包まれて  いる そして 安置してある 中に 飼い葉おけ

  有名な羊飼いに対する天使のキリスト降誕の御告げです。しかし、この言葉には不思議な クリスマスのメッセージが込められているのです。

  昔お話ししたクリスマスのメッセージを転載します。

最初のクリスマスの夜、夜番をしている羊飼い達の元に突然天使の軍団が現れた。その時、羊飼い達に示されたキリストの 「しるし」 は実に意味深い。それは「布にくるまって  飼い葉桶に 寝ておられる」というものだ。

  いったいこの 「しるし」 にはどのような意味があるのであろうか。

最初の言葉はσπαραγανω(ギリシャ語スパラガノー)で「布にくるまって」と言う意味のことばだ。
新約聖書に2回だけ使われている言葉だが、この幼子の運命を明示している。当時の葬儀の習慣を見てみるとその意味が分かる。そこには大変不気味で不吉な意味が込められている。

   彼が約33歳のおりに十字架に処刑された時、その意味が明確になる。それは当時の普通の人々の死装束であったのだ。

そればかりではない。

次の言葉は「飼い葉桶」と記されている言葉だ。がこれは当時一般的に木ではなく、石で出来たお棺を意味しているのだ。

  そればかりではない。

最後の「置かれていた」と言う言葉は「安置されていた」と訳されるべき言葉だ。なんと驚くべき「しるし」であろうか。事もあろうに若夫婦に与えられた嬰児がその様な装いで石のお棺に安置され、しかもその場所は家畜小屋であったという。

イスラエル地方に於いてそれは普通、がけ下の洞窟を意味した。墓地と同じ場所である。

   ここに明白な事が分かる。み使いによってこの幼子に与えられた「しるし」とは全て死を明示するものであった。この「しるし」こそがキリストの運命を明示しているのだ。

   「全人類の罪をその身に受けて十字架上で処刑される」と言う受難のキリストだ。

その様な不思議な「しるし」の意味を当時最も人々から蔑まれていた職業であった貧しい羊飼いたちはは知る由も無かったであろう。この幼子に与えられた救い主、キリストの職務がどのように残酷なものであったかを。

全ての人々を「罪とその刑罰である永遠の滅」から救うためにこの幼子はこの地上に来られた神御自身であったのだ。この幼子の人生がどのように苦難に満ちたものであるかも理解出来なかった。それゆえに単純に御子キリストの降誕を喜び祝うことが出来たのだ。

しかし、神ご自身がその様な覚悟を持って人となられたことを私たちは知らなければならない。その意味を知るときクリスマスに対する考え方を変える必要を自覚する。

  聖書全体が主張している人間の罪はその際限を持たない腐敗の極みである。自助努力では到底達成できない罪の完全な赦しと永遠の命を付与するために、神ご自身が全人類の身代わりの死を選択されたことをこのキリストの印は示している。

  クリスマスはその様な厳粛な人間の罪とその結果の不幸や死を真摯に直視し、そこに示される人間の罪性を受容し、その人間を救うために神ご自身が人として受肉されたことの意味を味わう時である。

  それゆえ歴代の教会ではこの期間を悲しみの期間とし断食を奨励し、結婚式等の祝い事を自粛した。クリスマスはメシヤ(救世主)=キリストの降誕を祝う季節等では決してない。

  己が罪性を見定め、その運命が全人類の滅亡であることを聖書が主張していることをと考え、キリストがその様な運命を背負って十字架にかかられたのは、全ての人間が神様の定められた十戒を尊重し、浮かれ羽目を外した快楽から遠ざかり、自律と改悛の情を保持して、一瞬一瞬を心の中まで見透かし、浅ましき心をかな
ぐり捨てて日々を神様を恐れ罪を遠ざけて、聖く生きるためだ。

   キリストが十字架で処刑され、葬られた後、墓参りをした弟子たちは、あの死に装束が体を包んだままの状態でもぬけの殻になっていたのを目撃した。キリストが死から戻られた現場に遭遇し、その目撃証人とされたのだ。あるものは腰を抜かし、慌てふためいたが、弟子たちの心中は人間に罪と死に対する勝利をキリストが獲得されたことに圧倒された。

   誰でもこのイエスキリストの十字架の贖いに信頼するなら、無条件でその生涯に犯した全ての犯罪と罪が帳消しにされ、誰でも天国に行くことが出来ると聖書は教えている。

  クリスマスの短い期間であるが聖書の伝えるキリストのメッセージに心を止め人生を深く考える期間としたい。

元のページの URL http://www.ny.airnet.ne.jp/bible/bible/KBC/christmas/setukiyo.htm

契約の櫃


聖書用柩=契約の櫃=聖書の棺桶 黙示録11章19節 

原文で聖書を読んでいると驚くような記述に良く出会います。冒頭の箇所もそのような箇所の一つです。

とりあえず原文を日本語にした直訳をご覧ください。 

新約聖書黙示録 11章19節 
直訳・ そして 彼が開かれた その 宮が その神の [その] 中で その不可視、そして 彼が見られた その柩が その契約の 彼の 中で その宮 彼の。そして 彼が起きた 稲妻らが そして 声らが そして 雷らが そして 地震が そして  雹が 巨大が。
  
驚くべき言葉は「柩」という言葉です。言ったい何の柩かと言うとそれは聖書用の柩なのです。 
この容器の中にはいったい何が入れられていたかと言うとモーセの十戒です。
参考・詳細は以下をご覧ください。
十戒 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/2277787.html
解説 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/2366928.html
要約 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/2437888.html  

新約聖書のヘブル人への手紙9章4節の翻訳をご覧頂くといずれの翻訳でも、この棺桶の中にはマナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板の三種の神器が入れられていたと記されています。しかし、同じ事の記されている旧約聖書の記録は少し違っていてモーセによって十戒が記された「二枚の石の板」のみが入っていたと(旧約聖書歴代誌Ⅱ5章10節)明示されています。と言う事でごき棺桶に入っていたのは聖書の一番中心の十戒のみであったのです。
当然の事ですかアロンの杖は長すぎて、切断する以外にこの箱には入れる事が出来ません。そして、出エジフトの時代に荒野でイスラエル民族を養うために神様が降らせたと言う「マナ」に関しては、旧約聖書16章34切に明確に「契約の箱(棺桶)の前に置いた」となっています。

と言う事でこの棺桶に入れられていたのは十戒のみと言う事なのです。そして此の棺桶はモーセが十戒を神様から授かる前に準備されていて彼は、授かった十戒の石の板をそこに安置したのです。(旧約聖書出エジプト記25章16節、40章20節)

わかる事ですが、聖書は初めから神様の掟である十戒の為に棺桶を用意し、その棺桶には金で作られた重たい蓋がされていたのです。

人間にたとえて言うならば、産まれたばかりの赤ちゃんを棺桶に入れ蓋をしてその蓋を釘付けする様なものです。わかる事ですが神様は旧約聖書の律法授与(ヘブル語ペンテコステ)の日以前から、この十戒を葬り去るおつもりであったと言う事です。

もし、この十戒に照らし合わせて人間を裁くと全ての人間は神様の掟の違反者として死刑にされなければならない事になるので、神様はその初めから罪在る人間を生かす(=放置する・説明URL:

http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1154299.html )ことを表明しておられたのです。その意味で新約聖書以上に旧約聖書は神様の罪の放置(普通には赦しと誤解されている)を明確に示されているのです。

余分ですが、先程お話しした産まれたばかりの赤ちゃんを棺桶に入れて蓋を釘で留めると言う例えが示しているこの聖書=十戒の棺桶の意味を、明日は新約聖書から見てみる事にします。

666

666 獣の彫り込み印 黙示録13章18節 

今日は、黙示録で有名な666の数字に関してお話したいと思います。
これは冒頭の新約聖書の黙示録13章18節に出てくる有名な数字です。まず直訳を記しましょう。

直訳・ ここへ その 知恵が 彼が存在し続けている。 その 持っているは 理解を 計算しろ その 数を その獣の、 数は そして 人間の 彼が存在し続けている。そして その数は 彼の 600 60 6。  

数字 666 ですが前後関係からわかる事は「人間の数」だと言う事です。古代において数字は単なる数というよりも特定の意味を表す為に使われました。特にヘブル語では顕著で、3、7、10は完全数として神とその属性を表す為に用いられました。 そして 此の666と言う数字もその視点から見ると明確にです。聖書で「6」と言う数じは、神を表す完全数「7」に一つ足りない数ですから、不完全数で「神に似せ(偽)て作られた人間」を人間を表します。そして問題はその不完全数を3回重ねますので人間を完全数=神にすると言う意味です。 

  これは、現在に生きる私たちには何の意味か理解に苦しむのですが、この黙示録が記された当時の人々には自明のことでした。

  黙示録を記したのは老齢の使徒ヨハネですが、彼は当時小アジア半島のエペソと言う大都市に存在した巨大な教会の牧師をしていました。そして、彼はパトモスと言う流刑の島(黙示1章9節)に遠島にされていたのです。その理由は良く知られていますが当時の世界を支配していたローマ帝国の皇帝ドミティアヌス(在位81~96年)が現人神とされ、皇帝礼拝の神殿がこのエペソに建立されたのです。その皇帝礼拝を拒否する事を教えた為、老齢の使徒ヨハネは迫害されて島流しにされていたのでした。

  この人間を神とするドミテイアヌス帝を奉った神殿に行かない様に、教会の信徒にお話ししたいのですが、そうすると更に迫害が厳しくなります。そこでその事を聖書をよく知っているキリスト者にだけその意味がわかる様に黙示して記したのが此の黙示録なのです。

ハルマゲドンの戦い

ハルマゲドンの戦い 新約聖書黙示録16章16節 

昨日は、千年王国と言う大変シビアな教会の神学問題を取り上げました。しかし、聖書をギリシャ語の原文で読んでいるとそんな物が実際に歴史上に実現すると聖書が主張していないと言う事でした。きょうはそれと関係しているもう一つの終末論の問題を取り上げましょう。それは冒頭のハルマゲドンと言う言葉です。
  いつもの様にこの言葉の出ている聖書箇所のキリシャ語を日本語に直訳してみましょう。 

直訳・ そして 彼が集めた 彼らを 中へ その 場所 呼ばれている ヘブライ語 ハルマゲドン。 
 よく話題にされるこのハルマゲドンは「世界最終戦争」などと訳出されているのですが、聖書が言っているのはハルマゲドンがヘブル語であると言う事です。と言う事でこの言葉が出てくるヘブル語の旧約聖書をひもとくことに致しましょう。

 列王記第Ⅱ23章29節で平行記事が歴代誌第Ⅱ35章22節です。そこに登場するのはメギドと言う山の名なのですが、これをヘブル語にすると山は「ハル」そして山の名は「メギド」ですから ハルメギド となります。このヘブル語をギリシャ語に音写するとハルマゲドンと言うわけです。 

  イスラエル民族にとってこの山の名は忘れることのでない悲しい場所なのです。最初の出来事はイスラエル最初の王サウルが先住民族の残党ペリシテ人の王と戦った場所なのです。そしてサウル王はメギドの山の隣の山まで逃げてギルボア山でその3人の息子諸共敵に殺害されたのです。(サムエル記第Ⅰ31章1節から8節)そして、次にこのメギドの山が登場するのはイスラエル民族が立てた最後の王ヨシュア(ギリシャ名イエス)の時代です。紀元前606年にバビロンの王ネブカデネザルの拡張を防ぐ為カルケミシの戦いに向かうエジンプトの全軍を率いる王パロネコがユダヤを通過しょうとしたのです。これを阻もうとする弱小国家ユダヤのヨシュア王はこのメギドの山(ハルマゲドン)に陣取って当時世界最強のパロネコの率いるエジプト軍を迎え撃ち、呆気なく敗退しメギドの野で費えたのです。 その結果、パロネコはネブカデネザルとの決戦に遅れを取り、誰もがまさかと思った新興国家バビロンのネブカデネザルに破れ、覇権をバビロン奪われ世界の歴史の転換点となったのです。

  以後、イスラエルには敗退するエジフト王パロネコによる急こしらえのにわか傀儡政権に移行し、さらにその後を追うネブカデネザルによって退位させられ別の新たな傀儡政権が立てるられます。しかし、歴史の転換を認識しないユダヤ民族はエジプトとの同盟を期待して、バビロンに対する反逆を重ね主権を喪失しバビロン捕囚に見舞われ国家は70年に渡って消滅し、以後も独立を喪失し続く覇権国家の属国として民族は悲哀を嘗めなければならなくなるのです。そして、新約聖書の時代を迎え紀元70年にはローマに反逆してユダヤは紀元1948年に至るまで約2千年間民族国家としては歴史から消失するのです。

  その原因となったユダヤ国家の最終戦争の場所がこのハルマゲドン=メギド山なのです。そして、そこで死んだのはユダヤの最後の王ヨシュア=イエスであったというのです。

  黙示録16章16節に続く聖書箇所を見ていくとこのハルマゲドンで戦う中心権力として19節に「バビロン」が登場します。そう、あのヨシュア王の死後に当時の全世界、特にユダヤ民族に圧政をしいた覇権国家の首都の名です。聖書はこの覇権国家の首都に対して「神の激しい怒りの杯」を与えることが記されています。

  そして17章の9節に進むとこのバビロンと言う都市が7つの山の上にあると記されています。そうこれはローマの事です。ローマ帝国の首都は7つの丘の上にある事は良く知られています。と言う事はこの黙示録が記された当時には滅亡していた古代の覇権国家バビロンの事を言っているのではなくとうじ全世界に覇権をたくりましていたローマを言い換えている事がわかります。なぜならもし当時にローマに対して不利益を発言が当局に訴えられると有無を言わさず敵性宗教とされてより一層迫害が酷くなる事が自明であったからです。そして18章2節では、このバビロンが倒されるる事を記しています。そして、その黙示録の18章では覇権の結果えられる繁栄や富が滅ぼされる事を教えているのです。

  以上のことから、このハルマゲドンの戦いは地上の国家によって引き起こされる世界最終戦争では無いと言う事がわかります。そう、富、繁栄、自己実現などという世俗のや物質文明と拝金主義に対抗して、神様の言葉と人間として正しく生きる清貧の間の葛藤を象徴して、人間が覇権国家に象徴される繁栄とその原動力である個人の一人一人の心の欲望と戦う「心の中の戦争」と言っている事がわかるのです。そしてそのハルマゲドンの戦いこそ今日の世界が飽くことなく追求する繁栄に対抗して、神の戒めを守って清楚に生きるキリスト者のなすべき見えない心の中の欲望との戦いなのです。

千年王国

千年王国 ヨハネの黙示録11章15節 (20章1~6節)

以前、キリスト教会の分類という話をしました。参考 URL:http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/942292.html

  歴史と教会政治と神学傾向という3種類の指標がある事をみました。今日は神学傾向の中で特に顕著な教派の特徴が現れる「終末論 = 黙示録に記された千年王国」に対するとらえ方をみてみましょう。
 とりあえず冒頭の新約聖書の最後の書である黙示録の11章15節を直訳してみます。

直訳・ そして その 第7の 使者が 彼がラッパを吹いた。 そして 彼が起きた 声らが 巨大らが 中で その不可視 言っているは、彼が起きた その王国が その 世の その 主の 私たちの そして その キリストの 彼の、 そして 彼が確かに王する 中へ その永遠 その 永遠らの。 

  上記を普通の文章に原典をそのまま日本語に素直に訳してみます。

翻訳・それから第七の使者が戦闘ラッパを吹き鳴らした。すると見えないところで大声が起きた。その声が言った「私たちの主の世の国が起きた、キリスト自身の、そして彼が確かに永遠に支配する。」

一般の邦訳と違う箇所がわかりますか? そう、一般の邦訳を引用すると著作権云々の問題がありますので違いだけを説明しましょう。

  いずれの英訳も、邦訳も、原典では「私たちの主の世の国が起きた、キリスト自身の、」となっている物をそうではなく「この世の国が私たちの主キリストの物となった」と訳出しているのです。これはかなり意図的で強引な翻訳です。

  なぜこのような翻訳が成されてしまったのかを説明する事にします。その説明にはどうしても次事を理解して頂く必要が在るのです。それはキリスト教会の諸宗派の顕著な特徴が出る組織神学という学問のなかでも一番混乱している「終末論」という物なのです。
 
  この終末論はかなり煩雑な物なのですが、簡単に分類すると3種類になります。それらは1・「千年王国前キリスト再臨説」= プレミレ と2・「千年王国ごキリスト再臨説」=ポストミレ と 最後が 3・無千年王国説 = アミレ と言う物なのです。 ここで「ミレ」と略しているのは「ミレニアム=millnnium=千年間」の略です。以下に簡単に説明してみます。

1)千年王国前キリスト再臨説(プレミレ) この立場は一般に昨日お話ししたアルミニウス、ウエスレ、聖霊派といわれる教会が主に主張しています。
  その内容はキリストが再臨して後千年間世界を支配され悪が活動できない祝福の時代があると言うものです。この立場は聖霊派の分裂に象徴されるように多種多様に分裂していて纏めようもありません。特に契約期分割説(デイスペンセーション)と言われる人々は終末論の議論が活発でタイムテーブルを作って聖書の預言通り歴史は動いていると主張してその舌の根が乾かない内に、不都合が生じてその主張は修正に継ぐ修正を余儀なくされています。

2)後千年期説(ポストミレ)この立場は一般に理性を絶対化している自由主義神学の教会に歓迎されています。理性が支配するユートピアがおこってその後にキリストが再臨される問う言うものです。しかし、第一次と第二次大戦の現実をみて今はこの立場を公に主張するグループはありません。 

3)無千年期説(アミレ) 聖書に記されている千年は「完全な支配」を象徴しているだけで現実の年数では無いとします。

 さてでは先程の聖書の原典が言っている事は一体どれに一番整合しているでしょうか。

もちろん 3)の アミレ(無千年王国説)です。

何故ならば、ヨハネが語っているのは「この世が主(キリスト)の物になった」と言うのではなく、「主の世」とあるように初めから全世界は主(キリスト)の所有であり「その国は永遠=過去も、現在も、未来もキリストが常に支配しておられる」と言う意味なのです。

  ですからこのヨハネの黙示録が原文で主張しているのは旧約聖書と同じに、世界は神によって作られ、常に支配され神の御心=意志だけが全地代を通して実現しているとういう主張になるのです。

私は当然アミレの立場です。なぜなら原典のギリシャ語やヘブル語で聖書を読む限りそれ以外の立場はあり得ないからです。 

ヨハネ3章16節

ヨハネ3章16節 

・ この様に そして 彼は愛した その 神は その 世を、 それは その 息子を その 一人子 彼が引き渡した、為に 全て その 信頼しているは 中へ 彼(神)無い 彼が滅びた(為) 反対に 彼が持ち続けている(為) 命を 永遠の。

翻訳・神は跡取りの一人息子と引き換えに世を愛した、この神に信頼している者は滅びない、永遠の生命を持つ。

一般の邦訳とは随分と違いますがこれがこの聖書箇所の正確な意味です。

一例にWEBを引用しておきます。
For God so loved the world, that he gave his one and only Son, that whoever believes in him should not perish, but have eternal life.

 この箇所は随分と昔から論争を引き起こしてきた箇所なのです。この論争は最初アルミニウスとテオドールベザという人たちではじめられました。
 いつ頃かというと日本では大阪夏の陣で豊臣家が滅んで徳川第二代将軍の秀忠の時代のお話です。オランダの南西部にあるドルトレヒトで開催されたドルト会議がその舞台です。1618年11月13日から翌年5月9日までかかって、当時は宗教改革の直後で改革派(プロテスタント)のオランダ国内外の教会の代表やプロテスタントの諸国から正式に国家使節として派遣された18名を加えた102名の代議員によって154回の会議が開催されました。

  アルミニウス派の5条項に対してベザに代表されるカルバン派の5主題が議論され、代議員数で圧倒的であったカルバン派の主張が採択されました。同時にアルミニウス派の5条項は異端として排斥される事が決したのです。

  お互いが論じ合った5つの問題はここでは取り上げませんが、簡単に言うと神様の救いは本人の「自覚的信仰が条件」なのかそれとも「神様に信頼している事実だけが問題」なのかといってよいでしょう。

  以前お話しした信仰か信頼かと言う議論とほぼ同じ問題であったのです。
参考URL http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/688353.html

  まあ、結論が出された物はそれで良かったのですが、問題が残りました。アルミニウス派の人々はドルト会議は不公平な多数決であり無効であるとして、一向に信仰のあり方を変える事をせず、ますます増長して自分たちの教理を布教したのです。そして此の流れの中から英国のジョンウエスレーが登場します。

 確かに、ドルト会議の進行方法には問題がありましたがやはりこの問題の解決は会議ではなく、聖書の正しい理解によって決着されるべきでした。そして、今日の冒頭の聖書箇所もやはりカルバン派の主張が正当である事を示しています。

  何故なら、救いの条件としてこの聖書箇所で聖書の原典が主張しているのは、人間が「神様の遣わしたキリストを信じる」事ではなく「神御ご自身に対する信頼の有無」を示しているからです。

 日本語に訳された一般の邦訳聖書や英訳を見るとジョンウエスレーの系統が強く、ウエスレー派やホーリネス神学や聖霊派の主張に都合良く訳出されています。しかし、問題はギリシャ語の聖書原文がなんと主張しているかが問題解決の基本原則なのです。
  
  このヨハネの福音書3章16節が明確に示している事は「キリストを信じる」とう言う行為が救いの条件だとここで言っているのではないのです。

  神に信頼している者が滅びないで生命を持つ為に「御子を世に遣わされた事実」を神の愛の具現的証拠として読者に提示しているのです。

  そして継続する18節により詳しくこの事が説明されています。そこには「神の一人息子の名前に信頼しない者は既に裁かれている」いう言葉に注目しなければ成りません。神の一人息子の名前はご存じの通り「イエス」です。そして、その言葉の意味が大切なのです。

  聖書の中で最初に「イエス」という名前が登場するのは出エジプト記の17章9節です。旧約聖書がギリシャ語に訳出された70人訳をみると、ヘブル語のヨシュアと言う名前はイエスと訳出されています。と言う事で神の一人子の名とはヨシュアを意味するのです。そしてこのヨシュアと言うヘブル語は「ヤハウエ」が「救い」と言う意味なのです。やはり、ここでも「神様の救いを信頼する事」が聖書のいう救いなのです。と言う事で人間の側の信仰が救いの条件では無い事がわかるのです。「神様の御業」に対する信頼が救いの原則である事がわかります。

 神様の救いが先行的に存在し、そのためにキリストが遣わされて十字架で処刑され贖いを完成されましたが。その神の子イエスと言う名前の持つ意味は「神が救ってくださる」という意味であることが大変重要なのです。その意味で旧約聖書が教えている救いも、新約聖書が教えている救いも全く同質の救いであることがわかります。 
  
 この箇所に例を見るまでもなく、多くの聖書箇所がキリスト教の各宗派の神学に合致するように訳出されるのは仕方が無い事かもしれません。と言う事で、出来る人はギリシャ語やヘブル語の原典で聖書を読めるようになる事は大切な事なのです。 

羊飼いと狼

  今日は有名なイソップ寓話の「羊飼いと狼」をギリシャ語の原文から訳してみる事にします。
羊飼いの悪ふざけ(No318)

直訳  羊飼いが引き出していた、彼の群れを村から前の方に。止まっていた、気晴らしを利用することに。そして、村人たちに「たすけて」と叫んで言った。「羊たちに狼らが入りこんだ。」そして二度三度、驚いて村を出た、そして飛び出した。その上、笑って解散した。

  最後が起きた、真実に狼が臨んだ。そして引き裂いた彼らの群れを、そして羊飼いは助け求めた。村人たちを呼んだ。その人々は彼に答えて何時ものようにふざけた。関心を示さなかった。そして、こうして彼らの羊たちが奪われることが起きた。

  この言葉が示しているのは、この事を受ける、嘘つきはまた真実を言うときも信じられない。

意訳   

 羊飼いが羊を村の囲から放牧地の方に連れだす時に、よく悪ふざけをした。それは「助けてくれ!狼が羊を襲っている」と言って村人を驚かして、駆けつけた人を馬鹿にすることであった。しばしば騙されていた村人も次第に馬鹿らしくなっていた。そんなときに突然、狼の群れが出てきて羊に襲いかかった。羊の群れは散々に食い荒らされた。羊飼いは慌てふためいて村人たちに叫び助けを求めたが、誰一人耳を貸すものはなかった。そうしてとうとう羊飼いは群れの羊を全て失ってしまった。              
 この話が教えているのは「いつも嘘をついているひとは、真実を話すときにも信じてもらえない」と言うことです。

奇跡は自然現象

奇跡は自然現象 ヨシュア記3章16節
意訳 「流れ下るヨルダン川の水は遠くの土の突端の場所で堰止られ(原文は周囲壁=城塞)、大草原の在る塩の海に流れなくなったので、イスラエルの民はエリコに面する場所で渡河を完了した。」

  始めて聖書を読まれた方が、「こんな不思議な事は信じられない。」というお話を良く耳にします。詳しく聞いてみると大抵「奇跡」が信じられないというのです。今日紹介する場所もその様な箇所の一つです。

  前後関係は以下のリンクを参照下さい。 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1944624.html

  簡単に前後関係を説明しておきます。これは紀元前1400年の旧暦4月9日の出来事です。モーセによってエジプトから引き出されたイスラエルの民は、先祖アブラハムが住んでいたパレスチナに帰還します。しかし、イスラエル民族が飢饉でエジプトに避難しその後400年の後には多くの民族がそこに城塞都市を築いていました。最初南から先住民を追放しようとしますが果たせず。40年の間荒野を放浪する結果となります。高齢となったモーセは死の直前に継者をヨシュア(ギリシャ語に音訳するとイエス)にパレスチナ(当時はカナンの地と呼んだ)攻略の方策を授けます。それは南端からの進んで全パレスチナ連合軍その総力戦を回避し、遠くアラビヤ(大草原の意味)を迂回してパレスチナ中央部に進出しパレスチナの中央部分に軍隊を進め、敵勢力を南北に分断し、強力な南部連合軍をまず掃討し、その後に北部戦線を展開することでした。

  そして、今日紹介するのはそのパレスチナ分断戦略の橋頭堡となる、ヨルダン渡河の事なのです。今日のヨルダン川は水量も少ない小河川ですので簡単に渡河できると考えられます。しかし、今から3400年前は全く様相が違いました。今日のヨルダン川の水量は表流水の殆どは上流で農業、上水、工業等の用水として取水されています。しかし、ヨルダン川流域総流量年間10億㎥と言われます。(シリアに源流を持つバニ川は1億4000万㎥、ゴラン高原に源流ダン川は2億5000万㎥、バニアス川は1億2000万㎥。ティベリア湖よりも下流でヨルダン川に流れ込むヤムルーク川4億2000万㎥。それ以外にかなりの表流水やワジがありますので約年間10億㎥は控えめな数字です。)そして、これらのの殆どは初冬の11月から3月にかけての雨季に集中します。と言う事でヨシュアに率いられたイスラエル軍団がヨルダン川を渡河した季節は洪水期で渡河など不可能に近い状態でした。

  さて、その様な状態で歴史はイスラエル軍団がヨルダンを渡河しエリコを攻略出来た事が分かっています。そのヨルダン渡河の聖書の記録です。以下は直訳です。

直訳・ そして彼らは自立した その水ら その 下るらは から に 上部へ 彼らは立った 積み重ね 一 遠くさした事 非常に 中でアダム(人=地面) その 城塞 所は 脇(横面)の ツアレタン(尖った) そしてその下ったらは 上 の 神 その アラバ(大草原) 海の その塩 彼らが完全に満たした 彼らが断ち切ら(契約をむすば)れた  そしてその民 彼らは越えた 対面して イエリコ 
ここで聖書が記しているのは、ヨシュアに率いられたイスラエル軍団が増水したヨルダン川を渡河したした事実です。その場所は世界最古の都市エリコに面したヨルダン川の死海河口近く(当時)の事です。ここで注意して頂くのはヨルダン川の水が止められた場所を示す「アダム」と言う地名です。これは最初の人間「アダム」と同じ言葉で「土」あるいは「地面」その物を意味するヘブル語です。そして、ツアレタンと言う言葉にも注意して頂きたいのです。「尖った」と言う意味の言葉です。この場所はイスラエルが渡河した場所から約30㎞上流の渓谷部を指す言葉なのです。そして、この場所はヨルダン川の蛇行部分で、今日でも増水した川の水によって地面が大きくえぐられ、その先端がヨルダン川に崩落し土塁を築いて一時的にヨルダン川を堰止めることがあります。と言う事で聖書の原文はその様な自然現象がイスラエル軍団の渡河と同時に始まり、終了と共に終わったことを記しています。

  と言う事でこの出来事は何の不可思議さもない当たり前の出来事と見る事が妥当です。そして不思議なのはそのタイミング丈の問題です。その様な、あまりにイスラエルに都合良く自然現象が起きたタイミングはどうしても説明不可能です。しかも、その正確な時間まで秒単位で察知してヨシュアが軍を進めることは今日の近代土木工学や河川工学を駆使しても不可能でしょう。合理的な結論は一つ。「神様がおられてその様な自然現象をイスラエルに都合良く起こされた。」という事ではないのでしょうか? と言う事は神を信じている人には「不思議な神の業」ですが、神様を信じていない人には「自然現象が只の偶然で都合良く起こった」と言うだけの事なのです。そして、聖書が記している他の全ての奇跡も同様です。病気が直る人、死人が蘇生する事、そして昨日のエリコの巨大な城壁がくずれた事も同様です。神さまがそれをされたとする人には明らかに「奇跡」ですが、神様を信じない人には、すべてなんの不思議も無い普通の偶然の自然現象がたまたまその瞬間に発生した丈の事なのです。

と言う事で結論です。神様が存在しなのであれば、聖書に記された「奇跡は自然現象」です。そしてもし、神様が存在すれば「自然現象は全て奇跡」となるのです。何故なら、「奇跡が全て自然現象」であると言う事実は、そのままで「自然現象は全て奇跡」であるという事実の証明ともなるのです。

エリコ攻略

エリコ攻略 ヨシュア記6章20節

以前「赤い紐」のところでお話しした続きです。

参考 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1944624.html

ヨシュアがエリコ偵察に遣わした斥候が遊女ラハブの売春宿の窓に結びつけた「赤い紐」は原文では「測量紐」である事をお話ししました。 今日は、その赤い紐が役立つ日の事をお話ししたいと思います。
 あの偵察がおそらく1400年の陰暦の4月3日の三日月の日でした。エリコの売春宿の窓から逃れた二人の斥候は山地に3日身を隠し、探索隊がエリコの城塞に引き上げてからヨシュアの元に無事帰還しました。その事を報告したと訳出されていたのがヘブル語では「セフエル」と言う言葉でした。

  セフエルというこの言葉は本来「数える」と言う意味で正確な文書による報告を意味します。おそらく彼らは測量したエリコの城塞の詳細構造や都市の内部の様子を積算(セフエル=数え)して正確に報告したのでしょう。

  難攻不落の城塞都市であったエリコの攻略にヨシュアが神様に示された方法は実に簡単な物でした。

「契約の箱を担いだ祭司12名と角笛を吹く祭司7人が6日間毎日エリコの城塞の周囲を一周し、七日目には7回周囲を廻り、その後に鬨の声をあげる」というだけです。全くおとぎ話のようなふざけた戦略に見えますが、その結果はエリコの城壁が崩壊すると言う結果をもたらしました。

 聖書研究に熱心なグループではまことしやかに「これはヨルダン地溝帯のプレート境界地震だ」と言うのですがあるいはそうかもしれません。しかし、聖書に記されている記録には一言もその様な自然災害を忍ばせるものはありません。冒頭のヨシュア記6章20節には単純明解に「城壁が崩れた」とだけ記されてます。

  私はそれ以上何の解説も不要であると思います。その理由を説明しましょう。ヒントは実はあの測量用の「赤い紐」なのです。ヨシュアは40年前に、出エジプトの直後の12人の偵察隊のメンバーでした。あの時、ヨシュアとカレブ以外の10人の斥候たちは、「カナンの地攻略は不可能」と主張しましたが、ヨシュアとカレブは「簡単に出来る」と対立意見をモーセに具申しています。そして、今回の偵察ではカナンの地の代表都市城塞のエリコの城壁を測量させ防備の状況を正確に報告させたのです。

  ヨシュアが自分が40年前に見たカナンの地の巨大な城壁を再度調査させた目的と理由は明解です。見かけは大層立派な城塞都市ですが、現実にはかなり無理な構造でおそらく地震などが無くても城壁が自然崩壊する事故は頻繁に起きていたと思われるのです。

そしてその脆弱性を熟知したヨシュアは40年の間に世代交代した若い指導者たちを説得するためにあえて第三者に城壁の詳細な構造を調査させその実態を目に見える形にして報告させたと言うことなのです。

そして、イスラエルの全軍はヨシュアが示した一見愚かと思える戦術で難攻不落の大二重城壁のエリコ攻略を実行に移したのです。緻密な計算に基づいていたのです。城壁の周囲を威嚇しながら回る作戦は敵の戦意を消耗し味方の被害を最小限にするために大変有効な攻略方法であった事がわかります。

 エリコの城塞の防備にあたっている市民たちにとって、ヨシュアの率いる60万近いイスラエルの軍隊とその最精鋭にあたる約5万のルベンやマナセの正規軍に加えて、連日の祭司や契約の箱の周回は本当に不安を増大させた事と思います。エリコの市民は町の城壁が外からは大層頑丈に見えるけれども実態をしるエリコの人々の心はもはやこれまでと恐怖に苛まれ覚悟を決めていた事がわかります。

そして当初は理性的になりをひそめていた住民たちもイスラエルの心理戦の手中にすっかり陥り動揺し、理性をすっかり消失して城壁の脆弱性を気にする余りエリコの住民達はパニック状態に陥り、何もしないでいることができず、必死になって投石用の厖大な石材を城壁の最上部に運びあげてしまった事でしょう。当然攻城に対して煮えたぎる油を浴びせかける為に大釜や燃料も城壁の上に運ばれていたのです。

それが数日も続き、更に7日目にはいよいよ攻め入ると思わせられ、更にいっそう防御用の資材を城壁の屋上に配備し、同時に多くの兵士がそこに集まったのです。そして、イスラエル軍が時の声をあげる夕方近くには、城壁の安全荷重を遙に越える物資がそびえる城壁の最上部では過剰に積み上げられていたのです。

あとは大きな声をだしてエリコの住民を震え上がらせると更に多くの兵士が城壁に登り過大な加重が城壁にかかると、当然城壁は厖大な荷重に耐えかねて自然崩壊を起こしたと言うことなのです。

  と言う事で、エリコの城塞の城壁の崩落は極当たり前の出来事でした。 

それを緻密な計算で察知し、測量までして7日で崩落するとおっしゃった神様の言葉の真意を理解してその通り行動を命じ反対する人々を上手く説得したヨシュアは流石です。

  もちろん、人間が最善を尽くしていくら計算してもそれがその通り現実になる確立は僅かです。しかし、神様の言葉通り、聖書はその事が現実となってエリコの2重の難攻不落の城壁が呆気なく崩落した事を記しています。本当にこんなもろいということをヨシュアが40年前に看破していた眼力には恐れ入るばかりです。

  今日の、国家の防衛戦略や企業の宣伝文句などもその内実を知らない物にはエリコの城壁の様鉄壁の守りと移るかもしれませんが、案外世の中、見せている外見とは裏腹にその内部や現実の実力はお粗末なものが多いのでは無いでしょうか? このエリコの城塞の城壁の崩落は現在の様々な最先端技術などという事柄にそのまま当てはまる物のようなきがして成りません。 

http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1944624.html

パウロと教会の衝突

パウロと教会の衝突 第Ⅱコリントの1章13節

さて、今日は昨日に引用した第Ⅱコリントの1章13節に目を向けてみる事に致しましょう。
じつはこの箇所もたいへん分かりにくい書き方がされているのです。見ていきましょう。

13 ・無い[又はする所(男or 中性)の]そして 反対に 私達が書き続ける あなた方に 反対に または する所(中性)らを あなた方が上に(再び)知り(読み)続けている それとも そして あなた方が上に知り(特定知識し)続けている、私は願い続けている も それは 迄 完成らを あなた方が確かに自分の為に上に知(特定知識す)る、

前回分かりにくい箇所をご紹介しましたが、今日はその続きの箇所です。翻訳では「読んでわかる事以外は外は書いていない。」と訳出されるのですか原文ではどう見てもそんな簡単ではありません。 

WEBも以下の様に訳出しているのですが
For we write no other things to you, than what you read or even acknowledge, and I hope you will acknowledge to the end;

素直に読むとこの様になります。

そして 何と私たちがあなた方に書いていないのに 反対に あなた方はある事を読み続けている そうか あなた方が知り続けている。私が願っているのはあなた方が完全になるまで自分の為に確実に知り続けて欲しい。

これも、どのように訳すのが良いのか本当に混乱してしまう記述なのです。

しかし、このような書き方にはわかる事があります。まるで国際紛争の調停文書か、歯に絹を着せた奥歯に物の挟まった書き方なのです。と言う事は言うべき事をはっきり言うと問題がより深刻になるので、このような湾曲した表現で分かっている人にはわかるように、わかりたくない人には他の解釈が可能な様に記したのでは無いでしょうか。

と言う事で、この書き方からわかる事は「パウロとコリントの教会には大きな対立が存在していた」と言う事なのです。第Ⅰコリントの手紙が「もし誰かが主を友としないなら、呪いが存在し続けろ」(16章22節、私訳)と言い切って手紙の末尾を締めくくったぐらいですからその対立は相当深刻な物であったのは自明です。

そして、原文で見ていくとパウロとコリント教会の衝突は相当に深刻で激しい物でした。 そして大切な事はパウロはその様な衝突をしてまでコリントの教会を矯正しようとした事です。そしてコリントの教会もパウロの痛烈な批判の言葉を人間の言葉としてではなく、神の言葉として受け止め、受け入れ、自分たちの間違いを改善するべくパウロの言葉を神の言葉として広く諸教会に公開したのです。その意味で聖書には、今日の多く教会はじめ、社会全体が忘れている他者に対する叱責や矯正の為にリスクを犯しても発言するあるべき人間の素晴らしい生きざまを見る事が大切です。何故なら、人間は信仰や改心の体験丈ではその生きざまに何の改善もなく、厳しい聖書の言葉による矯正が肝要だからです。

聖書の改竄 本文復元

聖書の改竄 本文復元 第二コリント1章11節 

  聖書を原文で読んでいると分かりやすくなる所もありますが、反対にサッパリわからなくなる箇所も結構在るものです。上記の箇所もその様な箇所の一つです。 

  実はこのコリント人への手紙の第二の1章はギリシャ語の原典が大きく損壊されている箇所なのです。特に6節から15節にかけては、修復しにくい問題箇所が連続しています。

なぜ、こんなにギリシャ語の本文が壊されているのかその原因ははっきりしません。

 しかし、わかる事はこの箇所は大変理解の難しい記述になっているのです。

 今日は試しに11節を取り上げて、如何にこの聖書箇所が原典のギリシャ語で理解しにくいかを見てみましょう。 以下は、この箇所を語順そのままに日本語に置き換えた直訳です。 

Ⅱコリント1章11 ・供に援助しているは そして あなた方の 上方に 私達の その 請求、為に 出て 多くの 顔らの その 中へ 私達 賜物 通して 多くの 彼が感謝させられた為  上方 私達の。

 分かりにくい文章である事がお判り頂けるでしょうか? まずはっきりしないのは主語です。おそらく冒頭に出て来る「共に援助している」という主格単数男性分詞と思われます。 

  次に明確にわかる事は述語=動詞は「彼が感謝させられた為」という接続法3人称単数受動態アオリスト形です。残りは前置詞句ですので全て主動詞を限定していることばです。

  この第二コリント1章11節を翻訳にすると以下のようになります。   

翻訳・私たちが請求したのは、あなた方以上に援助しているひとが感謝させられた為でした。多くの顔から出て、私たちの賜物の中へ、通して多くの、私たちの上方へ、

  わかる事ですがこの手紙の読者であるコリントの人たちに対しては、誉めると言うよりも叱責を意味する内容である事が自明なのです。所がその様な文面はやはり多くの人々の心証を害する結果となったのでしょう。 
  それゆえこの部分を恥とする(後代?)コリント教会のクリスチャン達の誰か、(おそらく教会の指導的立場に在る人々の誰か?)によってパウロの厳しい叱責を都合良く言い換える為に、写本の書き換えが成されたのではないでしょうか。

 13節にパウロは「あなた方が読んで理解できる事しか書いていない」とただし書きを入れているのですから、この部分がパウロの自筆のままで在ればおそらくこんな難解な文章ではなかったと思われます。 

  もちろん翻訳聖書にはそんな難解で複雑な事は注釈や注解にも一切記されていませんが、実際に原文を読んでいると悩まされる問題の聖書箇所なのです。しかし、このような箇所こそ私たちが聖書を学ぶ為に重要な事を教えてくれるのです。

  それは聖書は大変な古典であるとうい事です。そして立派な古典であると言う事も知らなければ成りません。その立派な古典というのは、沢山の人間の手をへて様々に書写され、また改竄され、さらには翻訳されていると言う事を意味するのです。此の、聖書が正しく翻訳される為に、パウロの自筆の原本がどの様であったかを確定復元する事自体、大変な難作業なのです。もちろん、このような問題箇所は聖書にそう多くはありません。しかし、無視出来るほど少ないわけでもありません。まだまだ聖書に関してはわからない事が多くあり、完成された完全な翻訳なんて言う物が存在することはあり得ない状態が真実なのです。皆様もぜひ、原典で聖書を学び関連の出版物をぜひ多く購入し、聖書研究者を力づけ励まし、更にいい加減な研究をしていると叱責できるぐらいの意識を醸成される事をお勧めします。 

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