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淫乱教会

淫乱教会 Ⅰコリント7章39節 

今日は昨日に引き続いてコリント人への手紙の中程を読み進みました。昨日は5章で「父の買った女を買った息子」のお話でしたが、今日もその続きの箇所でした。5章、6章 7章と連続して教会内の乱れた男女関係が取り上げられています。邦訳では不品行などと訳出されている言葉が連続しますがギリシャ語の原典ではいずれもポルネイヤ=売春と言う単語が使われています。

  まあ、紀元第一世紀当時は「コリント風に生活する」とは「淫蕩な生活をする」と言う意味であった程ですから、その町にあった教会にその様な問題が起きるのはごく自然な成り行きであったのでしょう。

  昨日の続きの箇所である6章では、男女関係で教会内に訴訟沙汰があった事が知るされています。7章では「売春の故に各々自分の夫と妻を持て」(7章2節)と驚くべき勧めが記されますその後さらに離婚の条件が規定されていくのです。こんなことが裁判になる酷い教会があったことを聖書は赤裸々に記しています。そして、これは今日の世界のキリスト教会にとっても大変現実的な問題であることを正直に認める必要が在るでしょう。

  さてその男女関係の縺れを解きほぐした後に一連の問題の締めくくりに記したパウロの言葉を今日はご紹介する事にします。

  冒頭のⅠコリント7章39節です。

まず、直訳をご覧ください。

39 ・女は 彼が縛られている 上に どんなに大きい 定期間 あなたは生き続けている その男 彼女の。もし また 彼が眠りにつかされる その男、自由 彼があり続けている する所に 彼が願う 結婚させられる事、ただ 中で 主に。

翻訳・女はどれほど長い期間縛られて生きているでしょうか、その男は彼女の。もしも 彼が死んだなら、奴隷解放されます、 それこそ彼女が願い続けていた 娶らされる事です。

意訳・妻は長い間、夫に縛られて生きていきます。夫が死ねばやっと奴隷から開放されます。それが彼女が願い続けていた結婚されられる事(=念願の独身?)です。 

そして続く8章はコリント教会に厳然として存在したポルノ=売春問題の根本的解決方法を記します。そうコリントの教会の人々が毎日食べている神殿のお下がりの肉を食する事の抑制です。ご存じの通り肉食と人間の性欲は非常に深いつながりがあります。その根源となる肉食を抑制(コリントの町ではギリシャの神々偶像の神殿で礼拝と肉食と不道徳な行為がセットで成され神殿男娼を買う婦人や男衆[参考ローマ1章26~27節、]売春婦を買う旦那方で溢れていました。)する事を勧めて8章を閉じているのです。

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似た者親子のキリスト者

似た者親子のキリスト者 コリントⅠ 5章 1節 

今朝はコリント人への手紙の最初の部分を読みました。気がついたのは上記の箇所です。

とりあえずギリシャ語原典の直訳を記します。

05 01 ・全く 彼が聞かされ続けている 中で あなた方 売春、そして この様な 売春を こういう種類の 無いそして その 異邦人、 それほど 女を 在るを その 父の 持つこと。 
翻訳にしてみます。

なんということですか。あなたがたの中では異邦人も驚く様な売春が成されているとい事です。父が買った女(売春婦)を事も在ろうに息子も買っていると言うではありませんか。

じつは、コリント教会への手紙をパウロが記した最大の原因はこの問題であった様です。

第一と第二のコリント教会への手紙の中には実に嘆かわしい初代教会のクリスチャン達の問題行動が列挙されています。そしてそのクライマックスが13章に記されている「愛の讃歌」です。

コリント教会に欠落していた最大の問題は「愛」であったのです。

そして、これら全ては今日の日本や世界のキリスト教会にも当てはまる全く同質の問題だと思います。何故なら聖書の教える愛は自己の満足や利益では無く他者の利益の為に自己を犠牲にするものであり、これと全く反対のこと=自分の利益の為に他者=教会や他のキリスト者を利用=活用する事であったのです。

そういうわけでコリント人への手紙は本当にお恥ずかしい初代教会のあるまじき不道徳の羅列になっているのです。その事の報告を受けたコリント教会の基礎を据えたパウロは、その体たらくを嘆きながら在るべきキリスト者の理想を記したのです。そのために教会の理想と現実があまりにちぐはぐとなりこのような混乱した内容の手紙となっているのです。

献金の勧め

献金の勧め ローマ15章 25節から30節 

今日はローマ人への手紙を読み終わりました。様々に教えられる箇所が在りました。以前お話しした16章の「挨拶命令」もその箇所ですが( 記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/857729.html )、今日は上記の箇所をご紹介しましょう。

以下はギリシャ語原典の直訳です。


25 ・今 又 私が旅行する 中へ エルサレム 食卓給仕する その 聖ら。
26 ・彼らが気に入っている そして マケドニア そして アカヤ 献金を(共有) 何か 行うこと中へ その 乞食ら その 聖の その 中で エルサレム。
27 ・彼らが気に入っている また 、 そして 借金らが 彼らが在り続けている 彼らの、もし そして その 霊に属すること 彼らの 彼らが共有した その異邦人、彼らが借金し続けている そして 中で その 肉に属している 公民奉仕すること 彼らに。
28 ・この事 そういうわけで 上に完成さしているは、そして 封印した事 彼らに その 実を このを、私が確かに離れ来る 通して あなた方中へ スパニア。
29 ・私は知っている また それは 来ているが 方に あなた方 中で 満たされた物 祝福(良い言葉or献金) キリストの 私が確かに来る。

翻訳してみます。

25・これから私はエルサレムへ聖徒達の食事のお世話の為に向かいます。
26・ギリシャ人の(献金しないローマ教会への当てつけ)住むマケドニアやアカヤ地方では喜んでエルサレムの乞食に落ちぶれた聖徒の為に献金してくれました。
27・彼等が喜んで献金しましたが、借金を返したも同然です。何故なら霊的な事はエルサレム教会が献金してあなた方に宣教が出来たのですから、異邦人の彼らの負債を肉に属する(献金)で返して当然と考えるべきです。
28・そういうわけで封印された彼の果実である献金を確かに届けて終わってから、あなた方の所を通過してスペインへ向かう予定です。
29・私は期待しています。豊かな人が一杯集まっているあなた方(ローマ教会)の所を通るのですから、きっと献金に不足する様な事は決してないでしょう。

  かなりパラフレーズ(意訳)してしまいましたが原文のギリシャ語が読めれば誰でもはっきりとわかる言い回しで、パウロは飢饉や独立運動によってローマ帝国に経済制裁を加えられて経済的に破綻寸前のエルサレム教会の乞食に成り下がった聖徒(資産を教会に献金したのが最大の原因)たちに対する当然の異邦人教会の義務(エルサレム教会への献金)を端的に勧めているのです。  

聖書迫害

聖書迫害 ローマ9章31節 

今日読んだ箇所も随分様々な箇所が在りましたが、一番気になった箇所をご紹介しましょう。上記の箇所です。ギリシャ語の原文の直訳は以下の通りです。

31 ・イスラエルは 又 迫害(追求)した 法律を 義の 中へ 法律 無い 彼が先行した。
32・・通して 何 ? それは 無い 出て 信頼 反対に 様に 出て 行為の 彼らは向かって打ち付け

た その 石に その 向かって打ち付ける、

翻訳にします。

新約聖書ローマ人への手紙 9章31節 

31・イスラエルが追求したのは聖書の中へ、正しい聖書を、彼は先行しませんでした。
32・何故かって? それは信頼からではなく、行為から出発したからです。彼らはぶつかる石にぶつかったのです。

となります。全く意味不明ですが言っている事はわかる様な気がします。
上記の言葉を意訳した物を以下に記します。

聖書を追求する時に自分の生活や行いの手本として聖書を追求したからです。そう聖書は神様に信頼することが目的で記されているのに、聖書の教えている行いを実行することを求めた為に、岸壁に衝突して自滅してしまったのです。

これは昔の旧約聖書や新約聖書の時代だけではなく、今日のキリスト教会や多くのクリスチャンや一般の人々の聖書の読み方を間違えていると言う点で、共通している問題点だと思いますが如何でしょうか?

ひょっとしたら

ひょっとしたら ローマ5章7節 

今日読んだローマ人への手紙で気になった箇所をご紹介しましょう。上記のローマ5章7節です。何時もの様に直訳です。 

07 ・ひょっとしたら そして 故に 義 ある人が 確かに彼が死ぬ。故に 上にそして善 あるいは だれか 無茶をして 死ぬ事を

翻訳・ひょっとしたら、正しく在ろうとして誰か死ぬ人があるかもしれません。あるいは誰かが無理に善を成そうとして(死ぬ人が在るかも)

なかなか難しい文章の連続ですが、どうも原文の意味はこの手紙の全体で一般の翻訳の様な解釈では納得できないような用語や文法になっているようです。 一連のローマ人への手紙の邦訳は根本的に翻訳され直した方が良いのではと、かねがね思っています。この手紙は他のパウロの手紙とは相当異なった内容の様なのです。何しろ唯一、一度も行ったことの無いローマと言う町に当てて書いた丈に他の手紙の様に具体的問題が少なく、観念的、あるいは抽象的内容が多くなって居る為かと思います。 

パウロの現世批判

パウロの現世批判 ローマ人への手紙1章23節から32節 

 使徒の働きを読み終えて今日からローマ人への手紙です。ローマ人べき手紙は使徒の働きの19章21節あたりで小アジアの中心都市エペソかマケドニアあたりで記したと思われます。なかなか手応えの在る文章で相当力を入れて記したのが原文で読むとビンビンと伝わってきます。今日は少し長い箇所なので直訳丈ですがご紹介したいと思います。以下が使徒の働きの1章の23節から32節でユダヤ人のパウロから見たエペソ人や不道徳極まりないコリント町の様子やローマの伝聞をもとにして異邦人社会の性的錯綜を糾弾した非常に辛辣な文章の箇所です。

ローマ人への手紙1章23節から32節直訳 

23 ・そして 彼が異変させた その栄光 その 不朽の 神の 中で 同様の 似姿 朽ちるの  その 人間の そして 鳥らの そして 四つ足らの  そして 這う物らの。 
24 ・この故に 彼が引き渡した 彼らを その 神が 中で その欲望ら その心らの 彼らの 中へ 汚れ その 正当な価値に認められない事 その  体らを 彼らの 中で 彼ら、 
25 ・かかる所の者らは 彼らは取り替えた その 真実を その神の 中で その 偽り、 そして 彼らが畏怖させられた そして 彼らは雇われ働きした その  被造物らに 側で その 創造者、する所は 彼がで有り続けている 祝福 中へ その 永遠ら。アーメン。
26 ・通して この事 彼が側に引き渡した 彼らを その神が 中へ 欲情 不価値な。 所らが も そして 雌らが 彼らの 彼らは取り替えた その本能を 使用を 中へ その 周囲の 本性、   
27 ・同様に も そして その 雄ら 置き去りにしたら その 本性を 使用を その 雌を 彼らは欲情で火がついて 中でその 激しい欲望 彼らの 中へ 互いらに 、 男らが 中で 男ら その 不作法を 結果をもたらしている(下に仕事する)らが そして その 逆報酬を するところを 彼が欲する その 踏み迷いの 彼らの 中で 自分自身等 受け取っているらが。 
28 ・そして 丁度同じように 無い 彼らが試験した その 神を 持つ事 中で 特定知識、 彼が引き渡した 彼らを その 神が 中へ 不合格した 理性、行う事  その 無い 適しているらを 、
29 ・満ちているらを 全て 不義に 邪悪に 貪欲らに 悪に、 満杯らに 妬みの 殺人 対抗意識  騙し 悪念、 陰人身攻撃 、
30 ・悪人呼ばわりら 、神憎みら 、乱暴するら、自分を人以上に見せる等、尊大ぶるら、発明者ら 悪の、 両親に 不従順ら、 
31 ・道理のわからないら、契約に不忠実なら 、自然の愛情欠くら、哀れみの無いら。
32 ・懸かるところのものらは その 義とされる事 その神の 識別するら 、それは その が その かくの如きらを 行っている 価値がある等 死の 彼らが有り続けている 、無い 法律 これらを 彼らが行い続けている 反対に そして 彼らは全く是認し続けている その 行っているらに。 

難船

難船 使徒27章29節

今日はやっと使徒の働きを読み終わりました。昨日は6章読めましたが今日は昨日の2倍の1時間もかかって漸く27章と28章を読み終えました。新約聖書に出てくる程度の単語や変化形は大抵辞書を見なくとも簡単にわかるのですが今日は辞書と首ッ引きでした。何しろ航海用語の連続でしかも滅多に使わない難船の状況描写ですから歴史上の文献でも滅多に登場しない単語の連続でした。まあこれらの単語はヨナ章以外ではお目にかからない語ばかりですから仕方がありません。とりあえずどんな状態であったのかをご紹介する為に使徒の働き27章の29節の直訳をご紹介する事にしましょう。

29 ・恐れたらは も 無い どうして 下に でこぼこ(岩礁) 場所ら 私達が落ちて外(航路外)に出る 投げ捨てるらは 錨の 4の 彼らは祈っていた 昼を 在らされる事。

翻訳にしますと 

 岩礁が在るのではと恐れて 航路を逸脱している場所であったので4つとも錨を打って夜明になるのを彼等は祈願していたのです。

となります。耳慣れた言葉も此処ではそのままては意味が通じないので辞書を調べて航海の言葉として理解する必要があり大変時間がかかりました。こんな大変な箇所は新約聖書では他にはありませんが70人訳の申命記や出エジプト記ではさらに難解な記述で解読するのはたいへん面白い所です。今日は難解な難船の箇所のご紹介でした。

パウロの弁明

パウロの弁明 使徒26章 2節

ユダヤ地方総督フェストとアグリッパ王と王妃の前でのパウロの弁明 

今日は使徒の働きの26章迄読みました。今日の箇所には幾度もパウロの弁明が登場したのですかいずれも見事なギリシャ語で弁舌爽やかと言う感じでした。その一つを今日はご紹介しましょう。以下は直訳です。

直訳・2節 ・関して 全てら 所の 私が訴えられ続けている 下に ユダヤら、王よ アグリッパよ 、私が支配されている 私自身を 恵まれたを 上に あなた まさにあろうとしているが 今日 弁明する事、

翻訳にします。

全てに関して 私が告訴されています、ユダヤ人達に。王 アグリッパよ、私は私自身が支配されています。恵みを それはあなたによって 将に今日弁明できるのです。

まあ、こんな感じでしょう。上手に自分がアグリッパ王に弁明できることを恵み=光栄といって王のご機嫌取りをしているのです。まあ弁明するのに最初に反感を得てしまっては、結果が見えてしまうからです。
  こんな所に、パウロの巧みな話術の一端が見て取れます。

教会解散

教会解散 使徒19章40節 
今朝は使徒の20章まで読み進みました。様々に面白い箇所が在りましたが表記の箇所をご紹介しましょう。
何時もの様にまず直訳です。

40 ・そして また 私たちは危険の中にいる 告訴される事 存在の  関して その 今日の 、誰も無い 責任を問われるべき 存在している 、関して 所の(無い) わたしたちが確かに内在力する 言葉を 関して その 不穏な集会 この。 そして これを 言いながら 彼が解いた その 教会(エクレーシア)を。

翻訳にします。
40・そして私たちは今日のことで告訴される危険があります。この非公認集会について誰も責任を取れません。そう言って彼は その教会(エクレーシア)を解散した。

  一般に教会と訳出されるエクレーシアと言う言葉ですが、ここではキリスト教会ではなくエペソの劇場で成された無届けの市民集会に使われています。本来の意味は「外に呼ばれた」という意味で、聖書が記された当時は普通に使われる単語でした。

神にされた人

神にされた人 使徒14章11節

今朝読んだ聖書の箇所で目に留まったのは上記の箇所です。早速直訳を記しましょう。

11 ・所のら も 群衆ら 見ていた その 彼が行った パウロが 彼らが持ち上げた その 声を 彼らの ルカオニア語 言いながら、その神々 似させられて 人間ら 彼らが下った 方に私たち。

翻訳にします。

使徒14章11節・ パウロが行った事を見た群衆は叫び声をあげた。ルカオニヤ語で 神々が人間の様になって私たちの方に下られた!

  「神が人間に成る」と言う発想はいかにも聖書らしい記述です。一般では「人間が神になる」あるいはされる事が殆どでしょう。実際この場合も人間に過ぎない使徒パウロが足萎えを癒したのを見た群衆に神にされてしまったようです。

目から鱗

目から鱗 使徒9章18節 

今日は使徒の働きの9章まで読み進みました。様々に面白い箇所が在りましたがパウロの目から鱗の様な物が落ちたと言う箇所をご紹介しましょう。

まず何時もの様に直訳です。

18 ・そして 直ちに 彼らが離れ落ちた 彼の からその目ら 様な うろこ 、彼が 再び見えた も 、そして 立ち上がって 彼が 浸された 、

翻訳にします。

すると彼(パウロ)の目から鱗の様な物が落ちた。彼は再び目が見える様になり、立ち上がった彼(パウロ)は、すぐに水に浸(洗礼)された。

鱗とはギリシャ語でレピデスと言う言葉で「剥がれた外皮」を指します。パウロがキリスト教徒は迫害してダマスコ途上で神の顕現に遭遇して目が見えなくなっていたのが一体どんな様子であったのか少し参考になる記述です。

  おそらくあまりの明るさに目の表面の膜が白濁しそれが剥がれて見える様になったと言うことの様です。これが角膜なのかあるいは単なる目の表皮なのかわかりませんが、鱗では無く、白濁した鱗状の皮であった事だけは確かです。

  諺に「目から鱗が取れる」と在るのですからきっとその様な出来事が他にも沢山あったのでしょう。余分ですがアレルギー性結膜炎になった時、目脂が一杯たまって目が見えなくなり、目脂の固まりが目にできて朝目が開かなかった経験があります。もしかしたらその様な物であったのかも知れません。

 今日はパウロの改心の箇所から「目から鱗」のお話でした。

箝口令

箝口令 使徒4章18節  

 今日は使徒の働きの最初の所を読みました。気になった箇所をご紹介しましょう。
使徒4章18節です。何時ものように直訳です。

18 ・そして 呼んだらは 彼らを 彼らは側で使者(戒告し)た その一切 音を発する事  無いも 教える事 上に その名 その イエス。

上記の直訳を翻訳にします。

・彼ら(大祭司ら)は  彼(使徒)らを戒めて言った。「一切 イエスと言う名によって、物を喋る事も 人を教えることもしてはならない。」

  当時のユダヤで、イエス(ヨシュア)と言う名は非常に一般的な名前でした。「主は救い」と言う意味ですかそれを喋るなと命じた記録はなかなか滑稽です。「人の口に戸は立てられない。」と昔から言われていますが出来もしない命令をした当時のユダヤ教指導者の狼狽ぶりが如実に現わされている記録です。
  キリストを処刑した大祭司達にとって、キリストの復活とその名による奇跡が使徒達によって成されたことは合ってはならない事で、一切認められないことであった事がわかります。

キリストの反撃

キリストの反撃 ヨハネの福音書 18章22節23節 

  ヨハネの福音書、ようやく全巻読了しました。3日で読めるかと思いましたが、4日かかってしまいました。一番手間取ったのは17章です。ギリシャ語自体は決して難しくないのですが、同じ単語が時制や人称、態を変えて次から次へと登場するのです。うっかりスラスラと読んでいると一体何が言われていたのかが、わからなくなってしまう為です。もう一度文脈の最初に戻って読み直しましたが、一体何のことか判然としない箇所が多くて大変手間取りました。特に「与える」と言う事を意味するデイドオミが、17章丈で17回登場します。これにも参りました。2節には「あなたが彼に与えていたもの(生命)を、彼が彼らに(永遠の生命を)与える(為)である。」とありますが、考えると一体何の事を言っていたのか、本当にわからなくなる「迷路の様な文章構成」になっているからです。

 まあ、いつかこれを精密に訳出してみるのも、面白いだろうと思います。しかし、相当手間取りそうなので別の機会にご紹介する事にします。

  と言うことで今日は、上記の箇所をご紹介することにしましょう。先ず何時ものように直訳です。

ヨハネの福音書18章22節23節直訳 

22 ・ これらを も 彼の 言ったの 一 傍に立っているは その 漕ぎ手らの 彼が引き渡した 棒で殴る(平手打ち)を その イエスに 言ったは、このように お前は答え続けている その 祭司長に?
  
23 ・ 彼は答えさせられた 彼に イエスは、 もし 悪いに 私が喋った、お前は目撃証言しろ 関して その 悪。もし も 良いに、何を 私を お前は皮を剥ぎ続けている?

翻訳にします。

22節・イエスがこれらの事を答弁していると、側に立っていた大祭司の下っぱがイエスを棒で殴りつけて言った。「お前は大祭司様に、なんという態度で答えるのだ!」
23節・するとイエスが彼に返答した。「何か俺が間違って答えたか? お前は間違いを証明出来るのか。何が間違っていたか言って見ろ。言えもしないくせに、よくも俺にこんな大怪我をさせたな。」

 となります。一般的なキリストのイメージを壊す様な翻訳ですが、原文の意味を訳出すると、この様になるでしょう。おおよそ巷のキリスト教会で成されている「キリスト教は愛の宗教」というプロハガンダ的キリスト教イメージとは全く正反対です。原典に見るキリストの姿はまるでやくざの親分以上にドスが聞いて、凄味が漂っているやりとりです。

  おそらくその場にいた多くの人々は、毅然としたキリストの反論にたじたじとして、以後は借りてきた猫のように恐れをなして、このキリストの裁判の成り行きを見守っていたことでしょう。

  裁いている大祭司とその手下は、人間の権威を微塵も認めないキリストの威信の絶大さに逆上して、死刑を急いだ様子が手に取るように、克明に記されていることが大変教えられる所です。

口先の慰め

パラムソス(口先の慰め) ヨハネの福音書 11章19節

今朝は原典通読はヨハネの11章から16章を読みました。その中で一際心に残ったのは上記の言葉です。早速何時もの様に原典から直訳した物をを記します。

ヨハネの福音書 11章19節

直訳・19 ・ 多くらが も 出て その ユダヤら 彼らが来てしまっていた 方に その マルタ そして マリヤ 為に 彼らが傍に作り話した(励ます)(為) 彼女らを 関して その 兄弟。 

翻訳にします。

19節 ・多くのユダヤ人達がマルタとマリヤに、(死んだ)弟についての「いい加減な気休め」を言う為に来ていた。

随分と普通の翻訳とは異なった訳にしました。勿論普通の翻訳が間違っていると言うわけではないのですが。原典で聖書を読むと一味も、二重味も違った、全く異なった記録に圧倒されるのを知って頂きたいからです。

一般の翻訳では全て「慰める」となっている言葉ですか原典では 「パラムソオ」と言うギリシャ語が問題なのです。

これは二つの言葉の合成語で、前半は「側で=周辺事項」と言う意味です。問題は後半です。「ムソオ」と言う言葉で一般に寓話と訳出されます。そうあのイソップ寓話の寓話です。これは実際には現実ではない人

間の思いつきの口先だけの言葉を表しているのです。

両親に先立たれ、残れた二人の姉と弟の三人家族で、下の弟が病気で死んでしまった時に、弔問に訪れた人々の励ましを聖書は事もあろうに「いい加減な気休め」と言う言葉で表しているのです。

本当に聖書の記述には目を剥く程教えられます。

真実がキリスト教

真実がキリスト教 ヨハネの福音書7章7節 8章40節 

  今日はヨハネの福音書の10章までを読みました。本当にヨハネの福音書は簡単な単語ばかりなので楽しく読めました。早速今日の箇所から大切なことを見てみましょう。何時もの様に直訳を記します。

  7章7節 ・ 無い 彼が内在力させられ続けている その 世は 憎む事 あなた方を、 私を も 彼が憎み続けている、 それは 私が 目撃証言し続けている 関して 彼 それは その 業が 彼の 邪悪 彼が存在し続けている。

  8章40節 ・ 今 も あなた方は探し続けている(orろ) 私を 殺す事、人間を 所は その 真実を あなた方に 私が話している ところを 私が聞いた から その神。このこと アブラムは 無いと 彼が行った。

翻訳にして見ましょう。

  7章7節・世はあなた方を憎むことが出来ません。しかし、世は私(キリスト)を憎み続けています。その理由は、私は世の業が邪悪で(世の存在その物も邪悪で)あると証言し続けているからです。

  8章40節・あなた方は私を殺す為に捜し続けている。その理由は私が神から聞いた真実を話しているからだ。アブラハムはこのような事はしなかった。

  今日は、何故キリストが十字架で処刑されたのかの原因を知る為に最も良い箇所です。それは「真実を話したから」だと言うのです。そして私は今日でも、誰でも、もし真実を話したらみなキリストと同様に殺されるだろうと思っています。

  難しいキリストの教え等、聖書に記されてはいません。聖書が記しているのは「真実」であってその記録が聖書だと言っている丈なのです。そして、明白なことは聖書の記者(預言者とも言う」はことごとく処刑された事実が判明しています。

  キリストの使徒も全員処刑されました。ただこのヨハネの福音書を記したヨハネは入獄中に高齢で死んだようで、処刑はされなかったようです。

  「本当の事を言う。」「ただこれだけの事で人間は必ず殺される」と聖書が常に記していると言うことなのです。キリスト教とはそれほど単純で明解な教えなのです。

  真実と真理の訳語の問題に関してはこちらをご覧ください。
  真実・URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1197041.html
  実言・URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/746266.html
  


  

人を信頼しない神

人を信頼しない神  ヨハネの福音書 2章23節から25節 

  今日からヨハネの福音書を読み始めました。5章まで読みましたが、今日の箇所で中心となるのは上記の箇所です。早速直訳を記してみましょう。

ヨハネの福音書 2章23節から25節直訳 
23 ・ 様に も 彼が存在している 中で その エルサレム 中で その 過越 中で その 祭り、 多くらが 彼らが信頼させられた 中へ その名 彼の、 
24 ・ 彼が も イエスが 無い 彼が信頼している 彼を 彼らに 通して その 彼 知っている事すべてらを、  
25 ・ そして それは 無い 欠乏が 彼が持ち続けている事 為 何か 彼が目撃証言した(為)関して その人間の。彼は そして 彼は知っていた 何が 彼が存在している 中で その 人間。

・翻訳にします。

23・彼(イエス)がエルサレムに滞在した過越の祭りの期間中に、多くの人々が彼の名に信頼するようになった。
24・しかし、イエス自身は、彼らを知っているが故に彼らを信頼する事はなかった。
25・それは、人間に関して誰かに目撃証言をしてもらう必要は無い上に、人間の中に何が存在しているかを良く知っていたためだ。

  面白い表現です。「人間はキリストを信頼したけれども、キリストは一切人間を信頼しなかった」と言うのです。
 
 そう「人間を信頼してはならない」と言うのが聖書の大原則なのです。今日の箇所では沢山人間の証言が登場します。特に5章ではベテスダの池で38年間病気であった人の癒しが登場します。そして大切なのは5章の16節です。ユダヤ人たちが「誰が安息日の禁を犯す事をそそのかしたのか」と言う質問に答えて、「犯人はイエスだ」と癒された当人が、癒したキリストを告発する場面が登場します。

  これらの一連の記述で聖書が明示していることは、「人間は信頼できない」いや「信頼してはいけない」という聖書の基本スタンス=性悪説なのです。

第七の言葉

第七の言葉 ルカの福音書 23章46節 

7日に読み始めたルカの福音書、今日24章を読み終わりました。原典で読むと興味深い箇所が沢山在りますが一番心に残った上記の箇所をご紹介しましょう。

何時もの様にまず直訳を記します。

46 ・そして 声したは  声に 大きいに その イエスは 彼は言った、「 父よ、 中へ 手ら あなたの 私は側に置く その 霊 私の。」この事 も 彼は言っているは 彼は息が外に出た。

 キリストが十字架に張りつけられて死ぬまでに語ったとして聖書に記されている7つの言葉の内の一番最後の物です。早速翻訳にしてみましょう。

大きい声がした。それはイエスが言ったのであった。「お父さん、あなたの手の中へ 私は近くに置いておきます。その霊を 私の。」 この事を言っている間に 彼の息が果ててしまった。

  わかることですが「キリストの霊は父なる神の御手の外に置かれた」と言うことが記されているのです。大変重要な記述です。「神の手を離れた」と言うことは「地獄に落ちた」と同等の意味を持っていると考えるべきです。
  
  キリストの十字架の贖いはキリストの霊が地獄に下り、そして3日目に地獄からこの世に甦り、さらにその後天国に上ったと言うことです。

  それは、私達人間が全て地獄に落ちるべき存在であるが、イエスキリストに信頼する者は、地獄から天国に移されることを示しているからです。

 明日からはヨハネの福音書を読みます。ヨハネは大変簡単なギリシャ語で記されていますので、きっとルカよりも相当短い日数で読めてしまうと思います。

やもめの献金

やもめの献金 ルカ21章1~3節 

 何時も読む度に考えさせられる聖書の箇所です。牧師になって早25年人さまの献金で教会の一切の事業展開と生活を委ねる身になって、ことさらそう思うようになりました。余計な事はこれぐらいにして、早速直訳を記してみましょう。

ルカによる福音書21章1節から3節直訳。
01 ・見上げたは も 彼は見た その 投げているらを 中へ その 神殿宝庫 その 無償の賜物を 彼らの 裕福ならを。
02 ・彼は見た も 在る やもめを 日暮し労働を 投げ入れた女を そこへ レプタ(薄貨幣)を 2、 03 ・そして 彼は言った、真実に 私は言い続けている あなた方に それはその やもめは 彼女は その 乞食は より多くを 全てらの 彼は投げた。

さっそく翻訳にしてみましょう。

神殿の大きな献金壇を見上げる場所でイエスは、お金持ちの献金の様子を見た。すると、彼の目の前で在る日雇い労働をしながら暮らしているやもめが小銭を2枚ばかり献金した。すると彼は言った。真実を言うが、この乞食をしているやもめは誰よりも多く、全財産を投げ入れた。

  興味深いのは、「一番貧しいやもめが一番沢山献金した」というキリストの評価です。人間は常に見える絶対量で評価しますが神様の評価は「当人の許容能力に締める比率」であると言う事が教えられているのです。

  と言うことは、神様が人間を評価される時に常にこの原則が適用されるのです。一体どういう結果が起きるでしょうか?

  今日、ご紹介したやもめの献金は今日の日本の通貨ではおそらく5円玉2枚程度と考えて良いのではないでしょうか。とするとこの女性は立ったの10円の投資で神様から100点満点の評価を頂けたのです。本当に素晴らしい事だと思います。

  しかし、私はそうは行きません。今財布の中にあるお金、それに預貯金の全て、さらに有価証券や受け取れる保険金の満期額を全部加えてそれを献金したとして、果たしてこの女性と同じ100点満点がもらえるでしょうか? 答えはおそらく、「 × 」だと思います。車や、持ち物等の動産不動産も加えて献金しないといけませんから30点ももらえないのが正解ではないでしょうか。

  と言うことで、能力や財産が少ないと言うことは人間の視点からは大変不利益な事なのですが、神様の視点からは大変有利なそして有能な資質を備えている事を意味しているのです。

  これは資産の問題丈ではありません。時間や、才能や、資質にも言えます。と言うことは人間的に見て有能で多くの資産を持っている人が神様からこの貧しいやもめが頂いた評価と同じ評価を頂くことは、現実には不可能なことだと言わなければ成りません。

  さて、その様な事を踏まえて、「献金」というお話に戻りたいのです。私が牧師となって長く皆様の献金状況を観察してきて、この「やもめの献金」に教えられている基本原則は真実だと思うのです。

  何が真実かを言いましょう。「お金持ちの人は神様には献金する絶対量その物の額が少ない。」という現実ナノです。そして困ったことに「貧乏人(私も含めて)ほど、神様に献金する金額その物が多い。」と言う現実の教会の献金の実体なのです。
  
  私の今まで関わってきた全ての教会でこの事は真実です。ですから私は教会では献金のお話は一切し無いことにしています。ナゼかわかりますね!  献金のお話をすると、貧乏な人たちが喜んで献金を増やして下さるのです。そして、「高額所得者の方は反対に献金を少なくするどころか、しなくなります。」

  だからその様な矛盾の増大を避ける為に、教会では一切献金のお話をする事を止めたのです。

 私は思うのです。お金持ちの人はどこかで知っているのです。「自分が神様に評価されるには1千万や一億の献金ではだめだ。だから献金は止めておこう。そんな無駄な金があったら投資に回そう。」

 反対に貧しい人々も分かっているのです。「こんなお金があった所で地上ではろくな物は買かえやしない。しかし、神様にささげたら天国で幾倍もの価値に変換され大変有利だ。得をする。」

  本当に、献金は聖書に記されているとおり、貧しい人たちが豊かに献金し、教会は運営されて行くものナノです。そして、おそらく慈善活動や、福祉活動の資金においても同じ傾向が見られることと思います。
  
  と言うことは、大口献金を目当てにした慈善活動は遅彼早彼破綻すると言うことです。

針の穴と駱駝

針の穴と駱駝 ルカ18章25節 

今朝、聖書を読んでいて目に留まったのは上記の箇所でした。様々に解釈されるのですがギリシャ語の原典からわかることをご紹介しましょう。

まず何時もの様に直訳をご覧ください。

25 ・よりたやすい労力でできる そして 彼がであり続けている ラクダを 通して 開口 縫い針の 通り入る事 それとも 富者が 中へ その 王国 その神の 中へ入る事。

 これは、裕福な青年がイエスキリストに「どうしたら天国に行けるか?」と聞いた時に「モーセの十戒を行えは行ける」と回答すると彼は「そんなことなら若い時から皆守ってきた。」と答えたのです。勿論、彼にとって真実を答えたつもりだったのです。その自分が正しいと言う思い込みの酷さを諭す為に、「そうか。一つ足りないことがある。それはあなたの持ち物を全部売り払って乞食に施せ」と諭した時に、そばにいた弟子達が驚いていたのでその弟子達を諭す為に言われたのがこの言葉です。

翻訳してみましょう。

25節 富者が神の国に入るよりは、駱駝が縫い針の穴を通り抜ける方がより苦労無く出来る。

となります。と言うことで不可能なことがより簡単だと言うことは、「天国には地上でお金持ちや地位、名誉、財産をもっている人が入れることはあり得ない」と言い換えて良いでしょう。

 もっと言葉を変えて言うと、この地上での人間の祝福は神の前の呪いで、人間が呪われていると実感していることそこが神の前に置ける祝福だと言うことが正しい事がわかります。

 おそらく、この点が今日の全ての宗教家や信者さんたちの頭の中の常識と正反対と言えるでしょう。こんなことを議論するのは無意味ですが、神様に祝福されたことが明確に聖書に記されている全ての人々の地上で生きた現実の様を見ると自明です。モーセ=批判続きで結局葬儀もされず墓も作ってもらえなかった。サムエル=生涯巡回祭司として貧窮し結局国民に愛想を尽かされ、サウル王を擁立させられその子孫は路頭に迷った。イザヤ=鋸で体を二つに剪断して殺された。エレミヤ=生涯偽予言書呼ばわりされ晩年は入牢させられ、貧民と共に行動しエジプトで不遇の生涯を閉じた。キリストを始め、パウロ、ペテロ他の使徒の殆どは宣教地て犯罪人として刑死した。

 これ以上具体例をあげるのも無意味かと思いますが、聖書の言っていることは確かにその通りなのだと思わされます。

弟子の条件

弟子の条件 ルカ14章26節

「キリスト教は愛の宗教だ」と言うのが一般的な教会の売り言葉かと思います。しかし、聖書にはそんな簡単に理解できるような教えはありません。私が今朝読んだ聖書の箇所にもその様なことが書いてありました。  まず何時もの様に直訳を記します。

新約聖書ルカの福音書14章26節 

・もし 誰かが 彼が来続けている 方に 私 そして 無い 彼が憎み続けている その 父を 自分の そして その 母を そして その 女を そして その 実子を そして その 兄弟を そして その 姉妹を、まだ も そして その 生活を 自分自身の、無い 彼が内在力させられ続けている である事 私の 弟子の。

翻訳にしてみます。

・もし誰かが私の方に来たいなら、彼が父や母や妻や実子や兄弟や自分の生活その物もを憎まないなら、彼は私の弟子であることは出来ない。

 随分とややこしい言い回しですが、論旨は明白です。「キリストの弟子に成るには、自分の父、母、妻、実子、兄弟、自分の全生活を憎むことが必要だ。」と言う事なのです。

 これを、「キリストを愛する愛に比べるなら」と言う説明で解説しているひとがいました。それも、確かに解釈の一つですが、此処で考えさせられるのはやはり、神様の教えとこの世の常識は完全に乖離していくと言うことではないのでしょうか。
 

邪悪な弟子

邪悪な弟子 ルカ11章13節 

今日は、ルカが記したキリストの一連の教えの箇所を読みました。その中でやはり気になるのは上記の箇所です。主イエスがご自分の弟子達を前にして語った教えです。

  とりあえず何時ものように直訳を記します。

13 ・もし そういうわけで あなた方は 邪悪らは 存在しているらは あなた方は知っている 与えられたものを 善らを 引き渡す事 その 実子らに あなた方の、どれだけ大きな ますます その 父は (その)出て 不可視 彼が確かに引き渡す 霊を 聖を その 求めるらに 彼を。

翻訳にします。

13・あなた方が、邪悪な者として存在しているのはご存じの通りだ。そうではあっても、自分の子どもには善を成すものだ。だとしたら、天の父(神)は どんな人間であっても神を求める人に聖霊を渡して下さらないだろうか。(いや、必ず下さる。)

  問題はこの言葉が最初に言っているご自分の弟子達に対して「あなた方は邪悪な者として存在し続けている」という部分です。

  此処にも記されている聖書の最も大切な前提なのです。それは「全ての人間は神の前に邪悪な存在である。」という紛れもない聖書全体の主張の根幹なのです。注意してください。人間同士を比較して、良い悪いと言っているのではありません。「聖書の教えに照らし合わせて、その高い道徳基準の前に、合格=罪無しとされる人間は皆無である。」というごくあたりまえのお話しなのです。

  この前提が認められて始めて聖書の全体の教えや主張が意味を成してくるのです。

役立たない農夫

役立たない農夫 ルカ9章62節  

今朝読んだ聖書の中で、面白かったのは上記の言葉です。まず直訳を記します。

直訳 ・彼は言った も その イエス、誰も無い 上に投げたは その 手を 上に 鋤 そして 見ているは 中へ その 後ろ 役に立つ 彼が存在し続けている その支配に その神の。

翻訳にします。 
 
・その時、イエスは言った。「手に鋤を握ったままで、過去ばかり見ている人は、見えない国の支配に役立つものは一人として無い。」

 野良仕事を良くしますが、なかなか重労働です。「過去」ばかり見ているとはなかなか面白い表現です。

 これから先の事を考えて始めて作物の実りの為に、鋤に力がはいるものです。

黄金律の誤訳

黄金律の誤訳 ルカ6章 31節

今日はルカの福音書の山上の説教の箇所を読みました。その中で最も有名な教えは黄金律と言われるルカの福音書6章の31節です。
 この箇所に関しては以前にも、旧約聖書の方からの問題点を記しました。以下をご覧ください。
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/611722.html

今日は、この箇所その物の翻訳上の問題を見る事にしましょう。

いつものようにギリシャ語の原語をそのまま日本語にした直訳を記します。

・そして 同じように あなたは願い続けろ 為に 彼らが行い続けている(為) あなた方に その 人間らが、あなた方は行い続けろ 彼らに 同じように。

これを翻訳にしてみます。

・人々があなた方に行おうとしている事を、全く同じように人々に行えるよう願い続けなさい。

となります。一般の翻訳と原文は大きく異なっているのです。何が違うかわかりますか。

そう、一般の翻訳は「自分のして欲しいことをそのまま人に行え」ですがギリシャ語の原文は全く反対です。

「人があなたにしようと願っていること(悪)を、同じようにあなたも人に(報復)出来る様に願え」となるのです。

  これは悪を成そうとする人間に対する最大の抑止力になります。聖書のこの原文の教えは、人間の世界が報復によって悪の蔓延を防止する必要があることを示しているのです。悪には厳罰をもって望まないと、世の中の悪は留まる所を知らず増大して行くことを示しているのです。

 もう一点、大切なことがあります。それは「同じように」という同等性です。報復をエスカレートしてはいけないのです。「公平に見て正当な報復をする節度と実力が整うよう神に願い続けなさい。」と言う事なのです。それは旧約聖書の大切な教え、「目には目、歯には歯」と言う正当な報復の論理と全く同質な教えがキリストの当然の教えなのです。

  勿論この(悪)を(善)に置き替えてもかまいません。その場合(報復)は (お礼)になるでしょう。しかし、「あなたに良いことをしてくれた人にお返しをしろ」とキリストが教えたなどど言うのはあまりに一般の当たり前の常識です。あえてそんなことをキリストが教えたとする事はかえって不自然です。

  ですからこの聖書箇所が言っている事によって聖書全体には、ある前提が存在していることが判明するのです。一般の翻訳はいわゆる人間が良い存在であること=性善説が前提になって訳出されています。


  そして、聖書の原文は「人のする事が全て悪である」だからあなたも「人があなたに加える悪に対して報復出来るように準備しておけ。」と成るのです。これは全ての人間の本質がが悪である=性悪節と言うことになります。そう聖書の前提はこの性悪節になっているのです。ですから聖書全体から判断しても、またこの箇所のギリシャ語の原文をみてもその事=性悪節が聖書の主張である事は明白です。  

  原文で読まなければこんなことはわかりませんが、本当に聖書の基本を踏まえない方が翻訳したとしか思えないのが多くの翻訳の実体です。

 更に詳しくは以下をご覧ください。

参考URL http://bible.co.jp/bible/nt/goyaku.htm

聖書朗読

聖書朗読  ルカ1章4節 

毎朝の原典通読が今日からルカによる福音書になりました。出だしの箇所に大切な事が記されていましたのでご紹介します。

新約聖書ルカの福音書1章4節直訳 

・為に 特定の知識 関して ところの あなたが下に音にされた 言葉らの その倒れない。

  きっとこれではサッパリ意味が通じないので翻訳にします。

翻訳・私(パウロの従医ルカ)が(福音書を記したのは、キリストに関する)確立されているところをあなたが聞ける為です。

  大切な事は「下に音にされた」と訳出したギリシャ語の「カテエクセース」と言う言葉です。原形は「カテヘコー」で二つの語の合成動詞です。最初の「カタ」は「下する」と言う前置詞です。後ろの「ヘコー」は音がする」と言う動詞です。この言葉が意味していることは「音声に変換する。」といういみです。

  大切なことが含まれている事がわかりますか。そう、聖書に関する基本点が明記されているのです。

★ 聖書は音声にして耳から効く為に記されている。★ 

  と言う事なのです。何が大切かお判りでしょうか? 聖書は文章になっていますがその文書は自分で文章として読む為の物ではなく、誰かに朗読してもらって耳から音で聞く為に存在している。と言ういまから2千年い前の常識なのです。

  目で文字を読むのと、耳から音声で聞くのと何が違うのかお判りですか。そう、文章は一般に抽象概念を伝達し理解する為のものです。しかし、当時の人々は殆どの人が文字を解することがありませんでした。多くの人は耳から聞いた言葉を直接情景に変換して事実として認識するのです。

  聖書は旧約聖書も新約聖書も「文章として記るされた物ではなく、耳から音声で聞く普通の話しことばである」と言う事なのです。

エフオーボント ガル

エフオーボント ガル 「彼らは恐れていた そして」マルコ16章8節

  マルコの福音書を今朝読み終わりました。大抵の翻訳に上記の16章8節の後に、短い末尾や長い末尾などが追加されて翻訳されていますが、ギリシャ語の原文にはその部分はありません。

  ではなぜ、そんな部分が翻訳されているのか不思議に思われるかたがおられるといけないので簡単に説明しておきます。

  マルコの福音書はイスカリオテのユダがイエスを裏切った事で有名な最後の晩餐が行われた豪壮な邸宅のお坊ちゃんであるマルコが、それから30年後にローマで使徒ペテロの口述筆記で記した物なのです。
  ローマで記されて居るのにギリシャ語であるのは不思議ですが、極当然の成り行きでした。彼らがローマでこの福音書を書いていた当時(おそらく紀元64年)にはラテン語を解するローマ人のキリスト者は本当に稀であったからです。ローマの教会に集まるのは殆どがギリシャ人だったのです。ギリシャ人達が祖国を捨てローマに流れてきた原因はギリシャの国家の滅亡でした。戦争で100年程前にローマに国家を侵略されたギリシャ人達が生活に困り食を求めて大都市になっていたローマに流れてきていたのです。彼らの身分は奴隷が圧倒的でカタコンベやスラムに暮らす難民達が当時の教会の中心メンバーでした。勿論ローマに魂を売ってお金持ちになっているギリシャ人も教会に集ってはいましたが一部でした。
  そして、この当時はあの残忍なネロ皇帝がローマ大火の火付けの嫌疑を張らす為に、クリスチャンをスケープゴートにして迫害していたのです。

  迫害当時のローマ教会の設立者とされるパウロと復活の証人として当時ローマに滞在していたペテロほぼ同時に承継されました。ペテロはキリストの受難と復活の証言の全てをこの福音書に記録し終えたのです。そして、そそっかしいペテロらしくここまで記録し終えた直後にネロ配下のローマ官憲に拘束され処刑されたのです。

  マルコが口述筆記したペテロの証言には随所に「すぐに」と言う言葉が登場します。かれのそそっかしい生活にも原因が在るでしょが、それ以上にペテロには官憲による処刑が切迫していたがゆえに「直ちに」を連発して福音書を記したと思われるのです。

  そしてペテロはローマ人に捕らえられ、伝説では逆さ十字架刑にされて刑死したと言われています。そしておそらくマルコがペテロから聞いて書き記せたのはこの16章8節でギリシャ語の原典では「エフオーボントガル」迄なのです。この部分を訳すると「彼らは恐れていた そして」でしり切れトンボなのです。

 そして、それから300年程後にローマがキリスト教国になってから、この部分の体裁を整える為に短い末尾や長い末尾やが捏造され、それが今日に至っているのです。

  ですから、マルコの福音書は16章の8節で終わりです。そこから後は聖書の本文にはありません。そして、この不自然な終わり方こそが大切なのです。何故なら、ここにこそペテロが生命を賭して記したキリストの生涯と教えと受難と復活が記されており、その事が事実であることを彼の生命と引き換えにしたことを如実に記録しているからなのです。

アラバストロン 雪花石膏薬瓶

アラバストロン 雪花石膏薬瓶 新約聖書マルコの福音書14章3節

今月になって読み始めたマルコの福音書も明日には読み終えそうです。原典で読んでいて気にかかるのは上記の高価なナルドの香油が入れられていた自然石の薬瓶のことです。以下に直訳を示してみます。

マルコ14章3節直訳

・そして 存在しているの 彼の 中で ベタニヤ 中で その 家 シモンの その 皮むき病 下に寝るの 彼の 彼が来た 女が 持ったは 雪花石膏薬瓶を 塗油の ナルド(甘松香)の 信頼に足るの 多関税の。へし折ったは その 雪花石膏薬瓶を 彼は下に注いだ 彼の その 頭。 

・説明も加えながら翻訳してみます。

エルサレムのすぐ近くのベタニヤと言う町で恐ろしい皮膚病にかかっているパリサイ人シモンの家の晩餐会の時でした。美しい石膏薬瓶を持った女が入ってくるなり、イエスの側に行きいきなり薬瓶をへし折ったのです。紛れもない甘松香をイエスの頭に注いだのです。

 となります。この薬瓶はさぞ美しい物だったのでしょう。雪花石膏と言うのですから白と赤が鮮やかに縞模様を成してしっとりとした半透明の石膏の小瓶だと思います。当時の良家のお嬢様がお嫁入りに持参するお道具の一つでした。青年男子一年分の年収に匹敵する時価であったと記されています(5節)から相当見事な物であったことでしょう。

  何故、この女がこんなことをしたのかは他の聖書箇所を比較検討すると分かってきます。平行記事と呼ばれるルカの7章の37節によると「罪深い女」と知るされています。 おそらく売春をしていた様です。 別の平行記事であるヨハネの福音書の12章を見るとマルタの妹マリヤと言う名前の女であることが記されています。弟が病気で死んでイエスが甦らしたラザロの下の姉と言うことになります。 
 
  とすると何故マリヤが自分の大切な嫁入り道具をイエスにささげたのかがわかります。
第一に、弟ラザロを生き返らせて頂いたお礼と思われます。
第二に、両親が早死にして女二人で弟を成人させる為にマリヤが出来た仕事が売春であった事もわかります。
第三に、売春をしていることが知れ渡っていた為普通の結婚は望みえない事もわかります。
第四に、何時もイエスのお話を聞いていたので十字架で処刑されると言う話を知っていたと思われます。

  おそらくマリヤは、イエスが処刑される前にせめて死体に塗る防腐剤(松脂)として葬儀のつもりであったがゆえに涙を流しながらこの行為に及んだ事がわかります。

  政治的メシヤをイエスに期待していた良く惚けの弟子達には、全く意味不明の行為であったのは自明です。しかし、子供3人を残して早死にした両親の無い三人の家庭では当時の女性の社会的地位から見て売春以外に生きる術が無いことを悟って、その道に進んだマリヤにとってキリストの罪の贖いの為の死の教えは身につまされて聞き入っていたに違いありません。本当にこの聖書の記録は、生きると言うことは何かとを考えさせられる箇所です。

障害者差別

障害者差別  マルコ10章48節 

  今日の朝、私が読んだ聖書の原典の箇所にもまた、昨日ご紹介したのと同じ言葉が登場してきましたので見てみることにしましょう。直訳は以下の通りです。

・そして 上に価格したは 彼に 多くらが 為に 彼が黙った(為)。所は も 多くに 益々 彼は叫んだ、息子よ ダビデの、あなたは哀れめ 私を。

  最初に登場する、上に価格は昨日紹介したギリシャ語のエピテイマオーです。エルサレムに上るイエス一行の道に置かれていた盲人バルテマイが「哀れめ!」と大声でイエスを呼び求めたのに対する、周囲の人々の行為がこのエピテイマオーで表されています。

  翻訳ではタシナメタ(新改訳)、叱りつけ(新共同)、しかって(口訳)等となっています。盲人のバルテマイに対する周囲の人々の頭の中の考えが見えてくる言葉です。

  「お前は罪の中に産まれた盲人の分際で、俺達でさえお会いできないイエスにお前が大声で呼ぶとは何事か。身の程を知れ!!」という気持ちであったのでしょう。人々がバルテマイに下していた人物評価に照らし合わせて、それと相違する言動に対する人々の当然の制止であったのです。

  その事を踏まえて上記の節を翻訳してみましょう。

翻訳・そして多くの人が彼を当然の如く黙らせようとした。その盲人は沢山より激しく叫んだ。「ダビデの子よ、お前は俺を哀れめ。」

 問題のエピテイマオーを「当然の如く」と訳出しました。人々が抱いている他者に対する価値観に対して全くひるむ様子も無く、叫び続けたバルテマイの境遇の哀れさがひしひしと伝わっている言葉がこの箇所の「上に価格=エピイテイマオー)」と言う言葉だと思います。

上に価格

上に価格 マルコ8章30節から33節 

今日はマルコの8章を読みました。考えさせられたのは「上に価格」と言う言葉です。説明の為に直訳を記します。 

新約聖書マルコの福音書8章30節から33節 

30 ・そして 彼は上に価格し(命じ)た 彼らに 為に 誰も無い 彼らが言い続けている(為) 関して彼。
31 ・そして 彼は始めた 教える事 彼らに それは 必要である その 息子が その 人間の 多く苦しむ事 そして 離れ(失格)試験される事 舌に その 長老ら そして 祭司長ら そして 書記ら そして 殺される事 そして 共に 3 日ら 上に立つ(甦る)事。
32 ・そして あからさまに その 言葉を 彼は喋っていた。そして 方に取ったは その ペテロは 彼を 彼は始めた 上に価格(叱る) 彼に。 
33 ・その も 振り返えさせられたは そして 見ているは その 弟子たちを 彼の 彼は上に価格し(叱っ)た ペテロに そして 彼は言った、お前は去れ 後に 私の、サタン、それは 無いあなたは考え続けている それを その 神の 反対に それを その 人間らの。

  30節と32節と33節に原文ではエピテマオー(上+価格)と言うギリシャ語が使われています。しかし、翻訳は皆違う単語に訳出されています。たとえば新改訳では 30節は「戒める」 32節は「いさめる」33節は「叱る」となっています。しかし、原文ではいずれも同じ単語なのです。

  その様な例は聖書の他の言葉にも沢山ありますが、翻訳聖書ではまさかこれらの単語が原文で同じ単語であるとは夢にも考えられません。

  そして、このエピテイマオー「上に価格」もその例に漏れず出て来る箇所毎に訳され方が違うことが多いのです。この言葉は原文の直訳に示した通り「上に価格」と言う意味なのです。分かりやすいように説明して見ましょう。

  この言葉は合成語で二つの単語から構成されています。前の方の言葉は「上に」は文字通り「上に来させること」を意味する前置詞です。そして、問題は後ろから合成される「テイマオー」と言う言葉です。これは聖書の中で本当に様々に訳出される言葉です。ある箇所では給料、報酬、尊敬、叱る、と成るわけで本当に困った言葉なのです。しかし、この語の本当の意味を理解すると全てが納得できます。

  それは「価格」としましたがその価格とはとは貨幣経済の発達した現在の言葉の意味です。物々交換が主体であった古代の意味は随分と違っているのは当然の事なのです。大量生産や通商の未発達の時代のことですから基本的に商品に価格は存在しません。物の価格と言うのは物々交換ですから現物を目の前に置いて売り手と買手が駆け引きをしながら交渉して決めるものが価格ナノです。
  ですから聖書が記された当時に置いては「価格」という一定の値段が存在することは無く、購入する人の商品につける評価が価格となるのです。

  とすると、エピテイマオー「上に価格」が物に当てはめられると価格です。しかしこの言葉は人間が行った全ての行為に対しても用いられるのです。人間の行った行為に対して評価するとどうなるでしょうか。良い行為は「誉める」「評価する」「尊敬する」となります。しかし、それを悪い行為と判断すれば当然「叱る」「非難する」「諫める」等となるのです。

  したがって、この言葉自体には叱ると言う意味は無く、その人の頭の中の「理想=在るべき期待される人間の当然の義務」による、他者の行為の評価を意味する事になります。実際に、このテイマオーは牧師給(二倍にする、Ⅰテモテ5章18節19節)主人を尊敬する(同6章1節)誉れ(同16節)両親を敬う(マルコ7章10節)などと頻繁に登場していますがいずれも訳される言葉は違うのです。そして、このテイマオーと言う言葉のギリシャ語における本来の意味は、厳密には「正当あるいは健全に評価する」と言う意味なのです。

 今日は大変ややこしいけれども面白い、聖書の時代の常識「上に価格」の意味のお話でした。

開耳解舌

開耳解舌 マルコ7章34節35節36節  

今朝は、マルコを福音書の7章まで読み進みました。沢山考えさせられる箇所が在りましたがガリラヤ地方に帰られたイエスの元に連れて来られた、耳が聞こえず話せない人が癒された箇所をご紹介しましょう。
  いつものように先ず直訳をご覧ください。

34 ・そして 上を見たは 中へ その 不可視 彼はうなった、そして 彼は言った 彼に、エパタ、これは 彼が存在し続けている あなたは通し開かされろ。
35 ・そして 〔すぐに〕 彼らは開かされた 彼の その 聞く事らは、そして 彼は解かれた その鎖その 舌の 彼の、そして 彼は喋った 真っ直ぐに。

 翻訳にしなくとも、直訳で十分に意味が通じる箇所だと思います。 

  気になったのは一番最後の言葉です。「真っ直ぐに」と言う意味のギリシャ語で「オルソース」という言葉です。「正確に喋った」と言う方に訳した方が良いかと思いますが、実に驚くべき記述です。

 ところで気になるのはその後なのです。36節の直訳を以下に記します。

36 ・そして 彼は使命を委任した 彼らに 為に 一つも無い 彼らが話し続けた(為)。どんなに大きいも 彼らに 彼は使命を委任していた、彼らは ますます より一層 彼らは宣教していた。

翻訳が必要かと思いますので訳してみます。 (括弧無いは訳者による補足説明文)

 36節 そして 彼(イエス)は彼ら(聾唖者を連れてきた人々)に 「一つとして話すな」と言う使命を与えた。しかし これほど強く(他言しないよう)要求されたのに、彼らは反対に(この出来事の一切を)言いふらした。

考えさせられるのは人々はイエスに病人を直すことを要求し、その要求が聞かれ、障害が癒されたのに、人々はイエスの要求には一切耳を貸そうとはせず、反対に言いふらしたと言う点です。

 自分勝手な群衆の姿にあきれます。そして当然その中には、癒された当人も含まれると思われることです。
  本当に、聖書は人間の浅ましさを赤裸々に記録している書物だと思います。 

原典通読の勧め

原典通読の勧め 旧約聖書 ヨシュア記14章6節

★聖書を読んでいて思うことですが、原典が普通に読めるネイテイブのユダヤ人には聖書は面白いだろうと思うことが良くあります。私が今朝読んだ聖書箇所にもその様な所を見かけましたのでご紹介します。


ヘブル語原典直訳 
・ そして彼らが近寄った 息子らの イエフダー に イエホシュアッハ 中で その ギルガル そして 彼は言った に彼 カレブ(犬)息子の イエフネ(顔する?)  そのケニ あなたは あなたは知っている を その 言葉 所は 彼が徹底的に言葉した ヤハウエ にモシエ 男の その 神ら 上  故にら私 そして 上 故にらあなた 中で カデシ バルネア 


  これを固有名詞も訳して記してみます。 

・「転がした」で「主を褒め称えよう」の息子達が「主は救い」に近づきました。そして「顔」の跡取りの「鍛冶屋」人の「犬」は言いました。あなたは知っているでしょう、「有って在る」が「聖所バルネア=牧場or神名 」で「引き出し」に言った言葉を。

  固有名詞を元の音に戻します。

・「ギルガル」で「イエフダー」の息子達が「イエス」に近づきました。そして「イエフネ」の跡取りの「ケニ」人の「カレブ」は言いました。あなたは「知っているでしょう、「ヤハウエ」が「カデシ・バルネア 」で「モシエ」に言った言葉を。


  まあ、上記の箇所には少し意味に問題の在る所もありますが、聖書を原文で理解して読むとこんな風な意味なのです。すごく具体的で子供でも理解できような、まるで絵本を読んでいるような感覚なのです。その他の箇所も原文で読むともっと分かりやすいのですが、ここにそれをくどくどと記すのは無意味かと思います。

それだけではありません、原典を音読するともっと意味が伝わってくるのです。あまり音は正確ではありませんが大体の感じを知って頂く為に以下をご覧ください。 

 ・バイグシュー ベニー イエフダー エル イエホシュアッハ バギルガル バヨメル エロー カレブ ベン イエフネ ハッケニズ アター ヤダタ エト ハダバール アシエル デイベル ヤハウエ エル モシエ イーシ ハエロヒーム  アル ホドター ベアル オドテカ バカデシュ バルネアー 

 口に出して読んでみると誰でもわかることですが、大変見事に韻が踏まれていて本当に素晴らしい文章です。そんなわけで聖書は、今から3400年も昔の大変な古典です。これを正確に翻訳する事など絶望的な事であると認識頂ければ幸いです。

 今日は、原典で聖書を読むことの面白さの一面をご紹介しました。   

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