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長寿の呪い

長寿の呪い 創世記5章22節から27節 

昨日は創世記の5章を読みました。聖書の中で一番無意味に考えられている系図と言われる箇所です。しかし、

この箇所程大切な事が記されている箇所は無いかと思います。無意味に見える名前と生きた年数が記されているだけの箇所だからです。

  しかし、これこそ重要な事なのです。人間所詮後代の人々にとって大切なのはその人がどんな人であったかと言うことではありません。その人のした善行も、偉大な業績も、地位も名誉も財産もその人が死んだ瞬間消えてしまうものだからです。そしてたといどんな立派な業績を残しても一世代が過ぎれば全く霧散して跡形もありません。しかし、その時に唯一残っているのはその人の子孫だけなのです。

 その意味でこの創世記の系図は生きている人に自分の人生で何を大切にして生きるべきなのかを教えるために記されている事は明白です。金儲けや学業をする暇があったら、もう少しましな子孫を残すために一寸で良いから時間をささげろと言っているのです。勿論、これは個人丈ではなく、国家や企業にも言えることかと思います。特に医療関係者には痛烈な批判です。死ぬべき人間のため無駄な治療や延命や介護をしている暇があったら、家族の中で尊厳在る人間の死を迎えられるように医療はその奢りを唾棄して、人間の死に完全に敗北している事実を受容して無益な金儲けの為の設備を廃棄することが肝要と思います。

 さて、余計な事はやはて今日の箇所をご紹介しましょう。

●以下・創世記5章22節から27節 ヘブル語原典直訳● 
22 ・そして彼は歩いた エノク(奉献) を その神ら 後 子を産ました事彼 を  メトシャラッハ(男の平和=繁栄) 3 百ら 年 そして彼は子を産ました 息子ら そして娘ら 
23 ・ そして彼が存在した 全て 日らの エノク(奉献)60 そして5ら 年 そして 3 百ら 年
24 ・ そして彼は歩いた エノク(奉献) を その神 そして 無い彼 として 彼が取った を彼 神ら
25 ・そして 彼が生きた メトシャラッハ(男の平和=繁栄)7 そして 80ら 年 そして 百の 年そして 彼は子を産ました を ラメク
26 ・そして彼が生きた メトシャラッハ(男の平和=繁栄) 後 子を産ます事彼 を ラメク 2ら 80ら 年 そして7 百ら 年 そして彼は子を産ました 息子ら そして 娘ら 
27 ・そして彼が在った 全て 日らの メトシャラッハ(男の平和=繁栄)60 9ら 年 そして 9百ら 年 そして彼は死んだ 

●以下・創世記5章22節から27節 70人訳ギリシャ語原典直訳●
22 ・ 彼は良く受け入れられていた も  エノク その 神に 共(後)に その 産む事  彼を その マスサラ 200 年 そして 彼は産んだ 息子らを そして 娘らを。 
23 ・そして 彼が存在した 全てらは その 日ら エノク 300 60 5 年。
24 ・ そして 彼は良く受け入れられていた エノク その 神に そして 無い 彼が見つけられている、それは 彼が変え置いた 彼を その 神。
25 ・ そして 彼は生きた マスサラ 100 そして 60 5 年 そして 彼は産んだ その ラメク。
26 ・ そして 彼は生きた マスサラ  共(後)に その 産む事 彼を その ラメク 800 2 年 そして 彼は産んだ 息子らを そして 娘らを。
27 ・ そして 彼が起きた 全てらは その 日らは マスサラ、 する所の 彼が生きた、 900 そして 60 9 年、 そして 彼は死んだ。

 聖書の箇所が長いので翻訳はやめて簡単に説明します。
この聖書箇所に登場するのは父親と長男で、父の名はエノク(奉献)子供の名はメトシエラ(繁栄)です。興味があるのは父親のエノクがこの子を生んでから後に、どういうわけか神様を信じ、神様の言葉に従った生活を始めます。

  そして、洪水前の世界では短命で365年で神様の所に行ってしまいます。父の無きあと、子供は聖書に記されている人間の中で一番長く969歳まで生きます。

  一見すると、父が短命で、子供が大変長生きしています。しかし、聖書を詳しく調べると面白いことがわかります。一番長生きした子供のメトシエラの死んだのは、あのノアの洪水の年に当たるのです。聖書は洪水当時世界が酷く堕落していたことを記しています。そしてその時に死んだメトシエラは洪水で神様に滅ぼされたと言うことを教えているのです。

  反対に、一番短命の父エノクは他の聖書の箇所で神様に喜ばれ生きた儘天に移された唯一の人間であることが記されているのです。

  結論です。長生きは神様の呪いで、短命は神様の祝福であると言うことがどうやら聖書が教えている結論でなのです。

  これもまた、聖書の教える原則に適応しています。その原則とは「人間の喜ぶ祝福は神様の呪いであり、人間の悲しむ呪いは神様の祝福である。」以上!

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獲得君(最初の苛め)

獲得君(最初の苛め) 創世記4章1節 

今日は昨日に引き続いて創世記の4章を読みました。禁断の木の実を食べたアダムとエバのその後が記されている箇所です。二人の長男カインが弟のアベルを殺害したことが記されている箇所です。この箇所を原文で読むと随分と考えさせられる事が沢山記されています。今日はその中で一番問題に思う事をご紹介しましょう。早速何時もの様に直訳を記します。

創世記4章1節、2節 ヘブル語原典の直訳 

04 01 ・ そして その アダム 彼は知った を ハバー 女彼 そして彼女は孕(はら)んだ そして 彼女は産んだ を カイン(?獲得) そして 彼女は言った 私は獲得した(カイテ) 男 を(?or対立してor一緒に) ヤハウエ  
02 ・ そして 彼女は加えさした に 産む事の を 兄弟彼 を ハァベル(霞or虚) そして彼が存在した ヘベル(霞or虚) 放牧するの 群れ(羊) そして カイン (?獲得) 彼が存在した 奴隷するの 地面 

創世記4章1節2節70人訳ギリシャ語原典の直訳 

04 01 ・アダムは も 彼は言った エバを その 女 彼の、 そして 共に取っ(妊娠し)たは  彼は子を産んだ その カインを そして 彼は言った 私達は子を産んだ 人間を 通して その 神。
02 ・ そして 彼は方に置いた 産むこと その 兄弟を 彼の その アベル。そして 彼が起きた アベル 牧者 羊らの、カイン も 彼が存在していた 自分の為に仕事するは その 地


ヘブル語原典の方を翻訳にしてみます。

創世記4章1節ヘブル語原典の翻訳

1節・そして、アダムは彼の女ハバと性行為をして、彼女は太鼓腹になりました、彼女が獲得(カイン)したのでその男の子を名を「私は神に敵対して獲得(カイン)した。」といいました。
2節・そして彼女は彼に兄弟を産んだ時、その子は「つまらない(ハァベル)」といいました。「つまらない(ハアベル)」は大きくなり羊の群れを放牧しました、兄の獲得(カイン)は地面の奴隷(農夫)と成りました。

  一般の翻訳とは随分と違うように訳出しました。それは、皆様に大切な事に気づいて頂くためです。そう、エバは神様に、反抗して自分が産んだ子を「私がこの子を獲得したのよ。」と言う認識で育てたのです。幼いころはさぞ大事に育てたでしょう。自分の力で生み出した自分の獲物だったのですから。

  と言うことは、この母親は、子供のためになにかをしてあげるのではなく、自分の為に子供を利用しようと言う視点で子供を育てた事が判明するのです。当然、そのように育てられた子供は物心がついた時に、母親の育児にきっと不信を抱いたことでしょう。何しろお母さんはその子どもを自己の目的の為に利用(活用)するばかりに熱心で、本当に子供の為に自分を犠牲にする事を忘れていたのですから。

  このエバの教育方針を現代風に言ってみるとその問題点が判明します。 「私が産み育てた子供はお母さんの成績なのだから、体格も、成績も、お行儀も人並み以上でなけれは困るわ!」
子供が小さい間は甘やかせるだけ甘やかし、その結果わがままに育て子供が大きくなり手に余るようになったころに、思い通りにならない子供に要求を突きつけ。
「こんな成績や学校ではお母さん恥ずかしくって表もあるけ無いは!」こんな言葉で育てられた子供はさぞひねくれることでしょう。子供が幼いころあれほど円満であった(子供は甘やかしただけなのだから当然)親子関係は子供が一人前になり親の期待も、子供の要求も野放しになった結果、相互の失望と批判が錯綜する事態を招くのは必然だったのです。

  育児に失敗し子供に失望した親が次の子供に顕著に現れます。いわゆる母親の燃え尽き症候群と言うわけで。第一子の教育に失敗したエバは「育児なんて何の意味も無いわ!」と言うことになり、次男の名は「つまらない」と言う名前にしてしまうのです。そして当然子供を放任してしまったのです。皮肉なことに悪い親が育児をするより何もしない方が子供は健全に良く育ったと言うことなのでしょう。

  この後、この放任された子供次男の「ハァベル=つまらない」君は「どうしたらお母さんの気が引けるか、お兄さんの気にいられるためにはどうしたら良いか?」と自分以外の人の心証を保たないと自己の生存が危ぶまれる状態に陥ったのです。その結果上手に人の心が悟れる様に成りました。勿論、神様の気に入られる事が何であるかは熟知して育って行ったのです。

 そして、その反対に母親の溺愛と偏愛にさらされて兄はわがままでお節介な上に不満だらけの親によって不信の中に育ったのです。 兄、「獲得」君はお母さんが何でもしてくれたので、自分からは努力をしない癖がついてしまっていたのです。 

  さて、このような全く相違した育て方をされた二人の子供が、一体どの様な生き方をしていくでしょう?
弟は人の心を掴むことが上手く、反対に兄は人に要求ばっかりして不満に満ちて生活していたのです。そして自分の思うように事が進まないと、悪いのは自分ではなく他人が悪いと考えるのは自然の成り行きです。

  そう、その結果、上手に人や神様の心を獲得する弟は、非常に目障りな存在で、苛め、抹殺する以外に自分のが認められ、自分の願いをかなえる術は見当たらなかったのです。

  それゆえ兄は弟を殺してしまったのです。今日の苛めの問題と全く同じ現象が最初の家庭の中の親子、兄弟の間で起きていたのです。此れが、善悪の知識の木の実をとって神様の前に罪を犯した人間の一番最初の不幸の始まりだったのです。その結果アダムとエバは、最愛の長男によって放任した次男を殺されたのです。彼らは同時に犯罪の加害者の親の苦しみと、被害者の親の苦しみとを味わい、また同時に一度に二人の子供を一人は死別によって失い、もう一人は二度と会えない生き別れの苦しみによって失う結果を学ばされたのです。

苛めの原因は、苛められる側が正しく良いことをする事が原因なのです。と言うことは悪いことをする人間は苛められる心配はないのです。

 もし、いじめの原因が「自分より正しいものに対する憎悪に原因が在る」のだとしたら、苛めに会わないように子供を育てる方法がわかります。 お母さんが、子供を育てる時に「世の中の悪いことを認識して、子供を悪賢い子供に育てる」以外に世の中で苛められない子に育てる術は無いと言うことなのです。
★育児に関してはこちらの育児講座をご覧ください。 http://bible.ne.jp/ikuji/

消極思考の勧め

消極思考の勧め  創世記3章6節 

今日は創世記の3章を読みました。幾度も読んだ箇所ですが実に面白い聖書箇所です。有名なエデンの園でのエバとアダムが禁断の木の実を食べる箇所ですが、実に様々なことが明確に記されています。その中から今日は1カ所だけをご紹介する事にしましょう。上記の6節です。何時ものように以下に直訳を記します。

創世記3章6節 ヘブル語原典直訳 

06 ・ そして彼女が見た その 女 として 善 その木 に 食物 そして として 欲望彼 に その目ら そして 願わされる その木 に 分別させる事の そして 彼女は取った から 結実彼 そして彼女は食べた そして 彼女は与えた さらに に男彼女 共に 彼女 そして 彼は食べた

創世記3章6節 70人訳ギリシャ語聖書原典

06 ・ そして 彼が見た その 女が それは 良いを その 木を 中へ 食物 そして それは 喜ばれるを その 目らに 見ること そして 時機を得た 彼が存在し続けている その 下に知る事、そして取ったは その 実 彼の 彼は食べた。そして 彼は与えた そして その 男に 彼女の 共に 彼女、 そして 彼は食べた。

それぞれ翻訳にしてみます。

創世記3章6節 ヘブル語からの翻訳(意訳)

そう言われた女が見るとそれは食物には良い木でした。目で見ると喜びが沸いてきました。そしてその木によって分別出来るようになることを切望させられたのです。そして、彼女はその木の実をとって食べました。それだけではなく一緒にいた彼女の男にも与えたので彼も食べたのです。

創世記3章6節 70人訳ギリシャ語翻訳(意訳)

そして、その女はその木が良いのを見た。食物にも、また見れば見るほど目には喜びが沸いてきます。なるほどその木には完全な知識が備わっている様に思えたのです。女は手にもいだ木の実を食べました。そして女墓の所と共にいた彼女の男に与えたので彼は食べたのです。

  興味深いのは、この女には神様の言われた「善悪の木の実」の善の方だけが見えたと言うことなのです。確かにそれは一面の真実であったのです。問題はそのもう一面の「悪」が認識されなかった事にあります。最近のマスコミを始め、教育や司法、行政等世界の全てのあらゆる場面で此れと全く同じ思考形態か蔓延しているのではないでしょうか。

  特に、キリスト教会に置いてその傾向は顕著で在るように思うのです。そう、いわゆる積極的思考方の弊害です。物事には必ず「良い面」と「悪い面」が存在するのに、良い面丈を見て、悪い面を見ないと一体どうなるのかよくよく考えてから行動する事が大切であると思うのです。

 批判的、消極的、ネガテイブ等と言う烙印を押されるのを恐れて言うべきことも言えずに沈黙を自己に強いている人があまりに多いように思うのです。 

 このような肯定的思考方ばかりをしているといつか恐ろしい結果を招くことに気がつかなければ成りません。私が経験した恐ろしい肯定的思考方の問題を今日は最後にご紹介したいと思います。

  私の属するさる教団の近隣の教会の親睦の為の信徒向け合同修養会でのお話です。修養会の自由時間に近くの「湯ートピア」とかナントカ言う多様な温泉場をさらにアッピールして紹介しようと言うお話になったのです。

実は私たち家族は一足早く到着してそこへ行て来たばかりだったのです。そして、その中の在る湯船でとんでいない酷い目にあったのでした。そう薄暗い屋根のついた露天風呂の湯殿の中に幼い子供達とつかっていたときでした。ふと自分の回りの濁った湯を見ると何か白く細長い紐の様なものが沢山目に入ったのです。長いものは10㎝ぐらい、太さは1ミリ程度、屋根で暗かったので手ですくって明るい所に持って行ったのです。驚きました。手のひらにすくったのは何十匹と言う線虫だったのです。驚いて子供達を大きな湯殿から引きずり出しました。

そして家内にもそれを見せて、あわてて奇麗なシャワーを捜して頭も足もごしごしと洗いました。そして高いお金を払ったとその温泉場から更衣室へ行き逃げ帰ったのでした。

  保健所は一体何をしているのか?と思いました。この事をこの施設の管理者に言うべきか、あるいは.....と様々に思いましたが通報する事を止めました。法律で義務づけられている公衆浴場の決まりは厳しく検査されており、毎日湯船の水は全量入れ換えが決まりです。こんな酷い違法状態に何故?と思うと、その施設を設置運営管理している行政、さらにその監督官庁、またその施設の職員(当然公務員)たち全体の癒着か腐敗の構造的問題があることを思うと、こんな田舎で下手な事を言うと何が起きるかわからないと思い早々に引き上げて放置する事に決めたのです。

  その翌日にこの修養会がありその「湯ートピア」と言う施設がメインのお勧めコースとして参加者の家族連れの為に案内が成されていたのです。私がそれを知ったのは二日目の自由時間直前の牧師達の会合でした。まだ間に合うと思いあわてて昨日の一件をお話ししました。

すると一体どうなったでしょう? そこには修養会に参加した10数教会の牧師とその婦人達がいたのです。一瞬の沈黙の後、なんと! とんでもない発言があったのです。

「折角の修養会の雰囲気を悪くするから、その事は皆に話さないようにしてください。」と言ったのです。そして、誰一人その発言に異議を唱える人はありませんでした。

  私は思いました。万が一幼児があのような不潔な湯船で在の厖大な線虫が怪我や傷等から体内に入り、増殖して将来恐ろしい病気に発展する様な事が起きたら一体その責任をどう考えるのか。と思いました。そしてこのような発言とそれに同意した全員の牧師達に大変怒りを覚え、腹が立ちました。その牧師は教会成長やカウンセリングに積極的思考方などという非聖書的な運動に大層熱心で、信者さんも収入も多い方でしたがそれ以来疎遠にさせて頂くことに決めました。

  私は思うのです。教会員の家庭や幼い子供達の健康を犠牲にしてまで成長することが必要な教会とはなんだろうかと疑問を覚えた次第です。勿論私の教会から参加していた数組の家族には全員に個別にその「湯ートピア」の状況を知らせました。

  冒頭の言葉のように物事の良い面ばかりに目を取られていてはとんでもない間違った判断をくだし、その様な判断を繰り返すと将来とんでもない大きな災いを被る結果になると思うのです。

  今日は、物事の良い面だけを見るのは大変危険であると言うお話でした。

救助者(エバの誕生)

救助者(エバの誕生) 創世記2章18節 

今日は昨日に引き続いて創世記の2章を読みました。1章は天地の創造で、2章はその中からエデンの園とその中に置かれた最初の人アダムとエバの事が詳述されています。有名な箇所ですがその中から一つだけご紹介する事にしましょう。神様が一人でいたアダムの為に彼の肋骨を一人の女に仕上げると言う上記の箇所です。

 何時もの様に、先ず直訳をご紹介します。上はヘブル語の原典の直訳で下は、そのヘブル語を紀元前3世紀にエジプトのアレキサンドリアでギリシャ語に翻訳したもの(70人訳)の直訳です。

ヘブル語の原典の直訳
18 ・ そして彼は言った ヤハウエ 神ら 無い 善 存在する事 その 男 に 部分(分離)彼 私は作る に彼 救助 として 対面して彼

70人訳原典の直訳 
・ そして 彼は言った 主は その 神 無い 良いを 存在する事 その 人間を 唯一を。 私たちが作った(為) 彼に 救助を 下に 彼。 

翻訳にしてみます。

ヘブル語の翻訳
・神である主は言った。「男に部分が存在しないのは善で無い。私は彼に対等な救助者を作ることにする。」

ギリシャ語70人訳の翻訳

・神である主は言った。「人間が唯一なのは 良い存在ではない。私たちが彼の下に救助者を作ろう。」

一目して頂いてわかることですが、両者(ヘブル語もギリシャ語も)は原典では非常に酷似しています。翻訳と言うよりは「直訳」と言った方が良いぐらいの類似です。しかし、翻訳にするのは大変難しい箇所だと思います。まあそんなことは今日は置いておいて、注目頂きたいのは、神様が最初の女エバ(イブ)を作った目的ナノです。

  救助とありますがヘブル語では「エゼル」そしてギリシャ語では「ボエソス」と言う言葉なのです。どちらも「救助者」あるいは「助け手」と言う意味の言葉なのです。余分ですがギリシャ語の「ボエオー」は本来悲鳴をあげて助けを求める様を表します。此れが「ボエソス」になると「その助けを求める声を聞いて救助する」と言う意味になります。この場合はボエソスですから神様が女性を作られた目的は「男性が救助を求めて悲鳴をあげたのを女性が聞いて男性を助ける為に女性が作られた。」と聖書が記しているのです。ヘブル語でもその意味は全く同様です。ヘブル語の「エゼール」は「救い主」と言う意味なのですから。

  ここで質問です。助けられる者と助ける者、どちらが有能ナノでしょうか? 勿論 助ける物がより強く有能でなければなりません。とすると、聖書が女性に対して言っているのは「女性は男性よりも強く有能である」と言っている事になります。結構納得される方が在るのではないでしょうか。「戦後は靴下とナントカが強くなったのだそうですから??? 」

  冗談ではなく、聖書はどう見ても「そのように記されてある」のです。そしてヘブル語のエゼールには「援助者」と言う意味もあります。「誰かの側にいてその人が成そうとしていることに手を差し伸べる援助者」と言うことです。

  この言葉の意味は最近にわかに脚光を浴びている「介護」のあり方と似ています。そう介護は基本的に自立支援ナノです。「本人が出来ないことをしてあげる。」 のであって、「自分で出来ることなのにしもべとなって仕える奴隷や家政婦さん」では無いのです。

  これ以上書くとなんだかお叱りを受けそうなので今日はここまでにしておきます。

滞空霊

滞空霊 創世記1章1節 2節

きょうから旧約聖書を読み始めました。まず最初にヘブル語の方を読んでその後70人訳のギリシャ語で読みました。気になる言葉が在りましたのでご紹介しましょう。 

旧約聖書ヘブル語原典創世記1章1節 2節
直訳 
01 01 ・中で頭の 彼が創造した 神ら を その 天(空)ら そしてを その 地 
02 ・ そしてその地 彼女が存在した 混沌 そして 空虚 そして 暗黒 上 顔(面)らの 深淵 そして 息の 神ら 徹底的に滞空している 上 顔(面)らの その 水ら  

旧約聖書70人ギリシャ語訳創世記1章1節 2節直訳 

01 01 ・中で 起源 彼が作った その 神 その 不可視 そして その 地。 
02 ・ その も 地 彼が存在していた 非認識 そして 非下設営、そして 闇が 上に上方 その 非深淵の、そして 霊は 神の 彼は自分の為に上に運んでいた 上に上方 その 水。  

  そう2節に登場する [神の霊が「滞空」した]と言う箇所です。 ヘブル語で「ラハープ」とういう言葉です。猛禽類が上空で獲物を求めて滞空している場合に使われる言葉です。70人訳のギリシャ語はこの言葉を「上に運び続けている」とい言葉にしています。どちらにしても下降させる引力と上昇させる揚力を釣り合わせて空中に停滞すると言う意味のようです。 

 と言うことで此れは神の霊が天と地の中間に滞在している事を教えているのです。昔の科学者達が真空の是非を論じる際に「エーテル」と言う不可視の物質が全宇宙に充満しているという仮説を唱えましたが、丁度園そのように神の霊が「天=不可視的世界」と「地=可視的世界」の中間に存在していると言う意味の様です。

   

大淫婦バビロンの正体

大淫婦バビロンの正体 黙示録17章6節

今日漸く新約聖書を原典で終わりまで読みました。幾度か読んでいますので大抵の単語も語形も殆ど調べる必要も無くなり、何の感動も無く読み終えました。 10月20日にマタイの一章から読み始めましたので丁度66日かかった計算になります。確か宗教改革者のルッターが10週間で新約聖書を完訳したと言うことですからまあこれぐらいのペースで読んだのでしょう。勿論私は毎朝のデボーションに読んだ丈ですがルッターは丸一日を費やしたのですからゆとりを以て正確に翻訳を進められたと思います。  

さて今日ご紹介するのは上記の箇所です。

何時もの様に直訳です。文脈の前後の節も含めて記します。

黙示録17章5節、6節、7節 ギリシャ語原典の直訳

・ そして 上に その 額 彼女の 名前が 書かれていたは(を)、奥義が、バビロン その巨大、その母 その 売春らの そして その 嫌悪されるの その 地の。
06 ・ そして 私は見た その 女を 酔っているを 出て その 血 その聖らの そして 出て その 血の その目撃証人らの イエスの。そして 私は驚いた 認識したは 彼女を 驚きは 巨大は。
07 ・ そして 彼は言った 私に その使者は、通して 何か あなたが驚いた? 私が 私が言っている あなたに その 奥義を その女の そして その 獣の その 両手で持ち上げるの 彼女を、 その 持っているは その 7 頭らを そして その 10 角らを。

翻訳にします。
黙示録17章5節、6節、7節翻訳

5・彼女の額には名前が書いてありました。奥深いものです。「売春婦大バビロン、地に属する嫌悪されるべき。」6・そして私はその女が、聖徒たちの血と、イエスの目撃者達の血を飲んで酔っているのを見ました。私は彼女を見て、誰なのかその正体がわかった時には腰が抜けるほど驚きました。7節するとその天使が言ったのです。どうしてあなたは驚くのか? 私はその女の秘められた意味(奥義)を言っているではないか。その女や彼女を担ぎあげている獣は頭が7つと、角が10本のあるでしょう。

 注目するべきなのは黙示録を書いた使徒ヨハネが驚愕したこの大淫婦バビロンの正体です。この驚きは大淫婦が既知の女性であると言う事を表しています。此れが何を意味しているかは学者の間に全く異論はありません。続く7の頭が解決してくれます。そう9節に在るように「この女が座っている7つの山で明確です。このときキリスト教会を迫害していたローマ市が7つの丘の上に出来ていましたので、大淫婦バビロンはローマ帝国の首都ローマ市を表しているのです。
何故ローマと言う実名をあげなかったのかという理由は明白です。ローマ帝国の迫害下にその迫害する国のを名を大淫婦ローマとしたらますます迫害が激しくなるので、それを避けて此れを読んだキリスト者(当時のローマ帝国下のキリスト教信者はローマに祖国を奪われたギリシャ人が殆ど)には誰にでその意味がわかることでした。 
  しかし、此れだけの説明では何故使徒ヨハネが驚愕したのかはっきりしません。そしてこの手紙を読む人にも何の驚きも与えないのではないでしょうか。 
  しかし、注意して周辺の文脈を見るとさらにこの女の正体がはっきりと分かってくるのです。その正体を探る鍵は、4節に登場する言葉です。直訳を記します。

 黙示録17章4節直訳 

・ そして その 女は 彼が存在していた 纏っているは 紫染め布を そして 緋色を、そして 金箔を張られたは 金に そして 石に 価値あるに そして 真珠らに、 持っているは 杯を 金の 中で その 手 彼女の 一杯であるを 嫌悪されるべきものらの そして その 汚れらが その 売春の 彼女の、

 注目は5つの言葉です。紫染め布(プロフリュオン)赤(コッキノン)金覆われた(ケクルスメネー)宝石(リソーテイモー)金の杯(ポテーリオンクルシオー)。これらは旧約聖書の70人訳の出エジプト記の25章から30章に頻繁に登場する言葉なのです。そう出エジプトの時代の幕屋で贖罪の奉仕をした大祭司の服装なのです。
  と言うことでこの大淫婦バビロンはローマ市では有ってもローマ帝国を指しているとは考えられません。そう、ここで記されている言葉は明確に大祭司=神様の民の頂点に立つ大祭司を表している言葉なのです。おそらく此れはローマ市に本拠を置くキリスト教のある団体を表しているとみるべきでしょう。

  そして彼らが聖徒の血に酔っていると言う表現にも注目する必要があります。何でもローマのバチカンに本拠の在る宗教団体では殉教者の遺物には功徳があり、贖宥(しょくゆう)の効果云々と言う教義が在るそうです。此れに対抗してビッテンベルグ城教会の城門にローマンカトリックの贖宥(しょくゆう)に関する95ヶ条の提題をして宗教改革が起きた事は有名です。そして、日本にこの宗派の宣教が成された戦国時代の1597年に26人の処刑が市中引き回しの後長崎近郊で執行されました。そして問題は処刑の後の事なのです。

  処刑を見守っていたキリシタンの信者達が、刑場の冊を乗り越えて死者に殺到し、遺体を切り刻んで奪い合い功徳と贖宥(しょくゆう)の効力ある聖遺物として家宝や教会の宝物とするために遺体を死刑執行者の面前で争い奪い持ち帰ってしまったのです。流石にこのありさまは全国に報告され「キリシタン邪宗門」は不動の事実として続く徳川時代のキリシタン弾圧の原因となったのです。

  そう、「聖徒の血に酔うとは将にこのような教会の姿ではないでしょうか。

もうこれ以上記しません。大淫婦バビロンが一体誰であったのか、その正体を見せられた使徒ヨハネは腰が抜けるほど驚愕したのも致し方の無いことと思います。
最後にルッターによって始まった宗教改革の到達点と言われるウエストミンスター信仰基準(最も信頼されるキリスト教の信仰告白=英国宗教改革の成果でウエストミンスター神院で審議されたのでそう呼ばれる。その後ビッグベンで知られた国会議事堂で採択された)の信仰告白の第25章6節をご紹介しておきます。

六 主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。どのような意味ででもローマ教皇は教会のかしらではない。その反対に彼こそは教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに反抗して自分を高くするところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子である。

注釈・1517年のルッターの宗教改革に触発されローマ教会内で対抗宗教改革の旗手イグナチオロオラたちによって始められたイエスズ会の宣教師フランシスコザビエルが日本に宣教したのが1549年でした。ローマ教会内に健全な信仰のあり方を目指した人々ですが残念なことに今日紹介したこの部分はローマ教会の堕落に対する内部からの改革は不可能である事を明白にしていると思います。

ハルマゲドンの戦い

ハルマゲドンの戦い ヨハネの黙示録16章16節 

 今日はヨハネの黙示録の中程を読み進みました。ギリシャ語としては本当に簡単な箇所で、難しい単語も全く登場しません。殆どが70人訳の出エジプト記にしょっちゅう登場する単語ばかりで動詞の時制も分かりやすい物ばかりであっと言う間に読めてしまいました。

  7章の4節の14万4千人や13章18節の666の数字など良く知られた有名な箇所が在りましたがが、ただそれだけのことで特別な意味はそこには見いだされないように思います。と言うことで、最も有名なハルマゲドンの戦いの箇所を取り上げて、今日はお茶を濁すことに致しましょう。

ヨハネの黙示録16章16節 ギリシャ語原典の直訳
16 ・ そして 彼が集めた 彼らを 中へ その 場所 呼ばれている ヘブライ語 ハルマゲドン。

翻訳にします。

16・そして彼(龍=サタン)は彼らを( 14節の地の王達)を例の場所に集めた。そこはヘブル語でメギドの山(ハルマゲドン)と呼ばれている。

何の解釈も不要な単純明解な文章で解釈の余地は全くありません。あまり聖書をご存じ無い方の為に簡単にメギドの山(ハルマゲドン)について説明しておきましょう。

 この場所はケニヤからエチオピアを経てアカバ湾で北折れした紅海地溝帯(アフリカプレートとアラビアプレートの亀裂)が地中海に折れ込むヨルダン構造線の終端にあたります。当然のこととしてこの場所はアフリカ大陸からパレスチナを経由してアジアやヨーロッバに向かう南北の陸上通商路の東西に横切るリニアメント(構造線=谷筋)という地形になっています。

  と言うことは古代世界の貿易路を支配して富を得ようとする列強諸国が覇権を競い合う戦略(地勢学)上の重要拠点と言うことになります。と言うことでこの場所では常に戦闘が繰り返されてきました。聖書の中では士師記の4章にカナン(貿易商人の意味)人の王ヤビンとその将軍シセラをイスラエルの女預言者デボラとバラク(閃光の意味)が激突しカナン軍の900両の戦車を撃破し、イスラエルに大勝利をもたらしたという、古代イスラエルのカナンの地定住後の最初の総力戦の舞台となった場所です。そしてそれから約800年後イスラエル王国が分裂後南ユダ王国が独立した時代の最終王のヨシュア(ギリシャ名イエス)がこの地域に拡大するバビロン王ネブカデネザルの進出をくい止めるためにカルケミシの戦に向かったエジプト王パロネコの領土通過を阻止しょうとして、敗北を帰したイスラエル(正確には南王国ユダ)滅亡の戦争の舞台となった場所なのです。

  これがメギドの山(ハル=山、マゲドン=メギド)と言うことなのです。と言うことで地上の神の国の滅亡する戦いと言うことになります。
 と言うことでこのハルマゲドンの戦いが意味することは、この地上では「神様に従う勢力はこの世に属する神様を信じない異邦人との戦いに破れる」と言うことを教えているのです。そう、神様がおられ、神様が記された聖書の最後の結論は「神様がおられるから、神様を信じる人は神様を信じない悪の勢力に大敗を帰す」と言う事を教えているのです。

  じつは此れは最初の人間アダムとエバの堕落いらい、一貫して聖書が教えている基本原則なのです。
「神様がおられるからこの地上では必ず悪が勝つ、正義は負ける。」と言うことがハルマゲドンの戦いの意味することなのです。

  と言うことで、この地上で勝利し,地位を得て、権力や富を得ている人々こそ悪魔その物かあるいはその手下かその仲間で、正しいことや正義を大切にする人々はその悪の勢力に立ち向かうことも出来ず必ず敗北すると言うことナノです。

  これが、聖書の教えているこの地上の結論なのです。勿論、黙示録を読み進めばわかることですが、「この世界の消滅後に神が新しい天地を再創造され、この地上で敗北した神様を信じる正しい正義の人々は祝福を与えられ、この地上で地位や財産や富を得た人々は地獄に落とされそこで永遠に苦しめられる」と黙示録に記されているのです。

チエルノブイリ(苦よもぎ)

チエルノブイリ(苦よもぎ)黙示録8章11節 

今日はヨハネの黙示録の前半を読みました。 日本語に翻訳されている聖書では理解困難な書物ですが、原文では殆ど疑問を持たないほど簡単なギリシャ語で記されています。今日はその中から有名な箇所の一つをご紹介しましょう。

上記の黙示録8章11節のニガヨモギと言う言葉の出て来る箇所です。何時もの様に直訳を記します。

ヨハネの黙示録8章11節ギリシャ語原典の直訳。 

11 ・そして その名は その 星の 彼が言われ続けている その アプティントス(苦い蓬→苦悩)は。そして 彼が起きた その 3度 その 水らの 中へ アプティントス(苦い蓬→苦悩)、そして 多くらが その 人間らの 彼が死んだ 出て その 水らの それは 彼らが辛辣にされた。

翻訳・そして(地上に落ちた)その星の名はニガヨモギと言われている。その時 1/3の水がニガヨモギになった。その結果、苦くされた水が原因で多くの人間が死んだ。

 チエルノブイリの原発事故が起きるまで、誰も本気にしなかったこの聖書箇所でした。しかし、あの原発事故以来一躍脚光を浴びました。ロシヤ語でチエルノブイリはニガヨモギの意味であったからです。
 
 そして、それ以来この聖書箇所は、事故かあるいは核ミサイル戦争の結果生じた原子力による放射能汚染を指していると解釈されるようになったからです。

  まあ、その解釈が妥当か否かはいずれ近い将来にわかることであろうと思います。

  余分ですが゛この箇所の一番最後の「苦くされた」と言うのはピクルスと言うギリシャ語で英語のピクルス(酸味の強い刺激性の在る漬け物)の語源となっている言葉です。

  案外知られていませんが、ギリシャ語は直接あるいは、ラテン語やフランス語を経由してそのままの意味で英語なっている物が沢山あります。その数ですがおそらく数千あると思います。以下に英語(日本語?)になったギリシャ語の(英語?)とそのギリシャ語の意味を矢印→の所にあげておきましした。

ミュージック→社交音楽
グラマー→書かれた物
アルゴン→不活性
ダイヤ→貫通
ホルモン→驀進
セイスモス→地震
プログラム→前に書いたもの
プロパテイ→前に歩いた
メラニン→黒
ボランテイア→財布
ホモ→同一
オリゴ→少ない
サイコロジー→生活
バイオ→生命
オプタ→可視
メトロポリス→母町
デモクラシー→民衆支配
アトム→非分割
パラボラ→側投げ
ヒポホタモス→馬河
マスマテイック→学ぶ
エクスタシー→忘我
タレント→重さ
マジック→魔術
クロック→時間
メタ→変換
モノ→唯一
ドナー→与える
メラニン→墨
ケノス→空虚
トラウマ→傷
エゴ→私
イデイヤ→個人の
エバンゲリオン→良い知らせ
オート→彼自信
プロト→第一
スコップ→掘る
スキャンダル→罠
シルク→絹
ストール→長服
ストマ→口(胃)
テクノ→職人
フアルマシイ→魔法薬

ほんの一部ですが今日はここまでにしておきます。

天地の開き

天地の開き 黙示録 3章17節 

今日はヨハネの手紙の第Ⅱ 第Ⅲ ユダ書と黙示録の3章を読みました。これらの箇所のギリシャ語は結構難しいのですが各章の分量が少ないので沢山進んだ様な気持ちになります。

さて、今日気になった箇所は上記の箇所です。早速何時ものように直訳を記します。

黙示録 3章17節 ギリシャ語原典の直訳

17 ・それは あなたが言い続けている それは 富者が 私が在り続けている そして 私は富んでいる そして 無い 欠乏が 私が持ち続けている、そして 無い あなたが知っている それは あなたが あなたが在り続けている その 惨めは そして 哀れは そして 乞食は そして 盲は そして 裸は、

翻訳にしてみます。

それなのにあなたはこう言っています。「私はお金持ちで、その上困っている事が何も無いほど豊かだ。」そしてあなたは実際には、自分が惨めで、哀れな上に、乞食で目も見えず裸であることを知らない。

  これは、使徒ヨハネが小アジア半島にあったラオデキヤの町の教会に宛てて書き送った箇所です。この町は大変裕福でした。しかし、使徒ヨハネはその町の教会が自分達に対して持っていた自己認識がとんでもない間違いだとわからせるためにこの部分を記しました。

 人間が判断している評価と神様の前の評価が正反対であることを教えています。と言うことで人間の価値判断や評価と神様の価値判断や評価とは、まさしく天地の開きがあることを知ることが大切です。

偽善の構造

偽善の構造 ヨハネの手紙第Ⅰ1章 10節

今日はヨハネの手紙第一を読み終えました。簡単な単語と文法ばかりなのですぐに読めてしまいました。しかしその手紙の内容はかなり重要な事を多く含んでいます。その中で一番大切だと思った箇所をご紹介しましょう。何時もの様に如何に上記の箇所の直訳を記します。

ヨハネの手紙第Ⅰ1章 10節直訳 
10 ・もし 私達が言った(為) それは 無い 私達が罪を犯している、偽りを 私達は作り続けている 彼を そして その 言葉は 彼の 無い 彼が存在し続けている 中に 私達。

翻訳にします。

もし私たちが「私は罪を犯していない」と言ったら偽りを作り続けるのです。そして、そんな事を言う人の中には神(=聖書)の言葉は存在しないのです。

 さて、この聖書の主張は実に単純明解です。この言葉が理解できると次の様な考えが理解できる様になります。

   「神の言葉を持つ(読む)人は自分が罪人であることを知っている。」

そして反対に、

    「神の言葉(聖書)を読まない人は自分が罪人であることを知らない。」

と言う事なのです。この言葉をあなたの回りの人々に適用してみると面白い事がわかります。

  そう、クリスチャンでちゃんと聖書を読んでいる人は、クリスチャンになった後の今も、自分が罪人である事を知っている。と言う事なのです。

  そして聖書をろくに読まないキリスト者は、私は罪の無い、聖くされた人間だと本気で信じているのです。

籤引き

籤引き 第Ⅱペテロ1章1節 ペテロの絶筆 

今日はペテロの手紙第Ⅱを読みました。この手紙を記して間もなく、使徒ペテロは残忍なネロ皇帝の迫害によってローマで刑死した事が分かっています。その事を小説にしたクオバデス「=主よ何処へ行きたもう」はあまりにも有名です。さて、今日はこの手紙の中で一番重要な箇所をご紹介したいと思います。それは冒頭の第一節です。早速何時ものように直訳を記しましょう。

01 ・シモン ペテロ 奴隷は そして 使徒は イエスの キリストの そのらに 同じ価格を 私達に籤で当てたらに 信頼を 中で 義 その神の 私達の そして 救い主 イエスの キリストの 。 
翻訳にしてみます。

シモンペテロは奴隷、イエスキリストの使徒が、その同価値の私たちに信頼の籤を引き当てたらに(手紙を送ります。)私たちの神の義の中でそして救い主イエスキリストの。

翻訳にしてもあまり直訳と代わりばえがしませんが、言っていることを理解するためにはこの方が良いかと思います。

大切な点がいくつか記されています。

一番大切なのは、「私たちが同価値である。」というペテロの主張です。何でも、ペテロを殺した人たち(ローマの市民)がペテロを殺してから300年程後になって、「筆頭使徒のペテロがローマの最初の司教=教皇であって、ローマ教会こそ世界の全ての教会の首位に位置する。」という教義を捏造してローマカソリック教会が出来たと言っているようです。しかし、当のご本人ペテロは全く違うことをここに記しています。それは「使徒ペテロもローマの教会のクリスチャンも同価値である」と言うことです。キリストが幼い子供を真ん中に立てて弟子達を教えたように弟子達に首位も下位もありません。 と言うことです。従って世界の教会にはどの教会が優位でどれが下位などと言うのは基本的にまともな教会が言うべきことではないのです。結構クリスチャンにはこんな基本も知らないで、あそこの教会は良い、こちらは悪いなどと平気で言っている人を見かけますが実に嘆かわしい堕落した信者達の暴言です。

  教会で大切なのは集まる人間の種類や多少では無く、礼拝している神ご自身の価値がそこに集う人々の●頭と●心の中でしっかり認識されているか否かと言う点にあるのです。その様な根本的な認識が欠如して建物の優劣や、教会のプロパガンダ(捏造された政治的宣伝)的な歴史等に加えて自分の偏狭な絶対化された価値観で教会を品評し良い教会悪い教会、大きい、小さいなどと言っている教会は教会という名よって呼ばれるに相応しくない人間の集まりにすぎません。

さて、次に大切なことは「信頼の籤を引き当てた」と言う言葉です。この信頼と言う言葉は一般に「信仰」と間違って訳出されている言葉ですが原文の正しい意味は「信頼」です。そしてこの大切な「信頼」は「人間の側の意志や努力によって獲得できる物ではない」という主張がここに記されている「信頼」と言う言葉の正しい意味なのです。
(参考URL http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/688353.html

ですから、大切なことは「教会や教会に出席している人を評価出来るのは●神ご自身のみの専有事項●である」と言うことなのです。そして「神様が教会を評価される基本」はその「神の選びの根本の認識の有無」ナノです。すなわち、神様が教会とその中に集う人を選ばれたのは、「御自信の恵みを全被造物に開示するため」でその為に、神様は「あえて選ばれる者の資質を考慮しない」と言う「大きな気前よさ=恵みと寛大さ」をデイスプレイするためにあえて無能な人間、あるいは少なくとも無作為に抽出した(ランダムに籤を引いた)とこの箇所は教えているのです。

 神様の立場に立って言うならば、神様が信頼を与えた人間は「誰でも良かった。」と言うことなのです。能力があるからとか貧富や教養学識地位財産に全く無関係に神様が全くランダムに選ばれた人間に、神様は「信頼」を与えたと言われているのです。
  
  神様御自信の側から「ご自身を信頼する事」を与える人を神様が籤引きで選ばれたと言うことです。人間の側が自分の知識や意志で神様を信頼することを選んだのではないのです。 

神様が人を選ばれた時に「人間には一切の条件を要求しななかった」と言うことが大切なのです。神様は神様を信じる人をえり好みされず、善人も悪人も考慮せずに不作為に選ばれたと言からです。神様を信じている人に対してはこれは誇りを喪失させる言葉です。何故なら神様はその人を「選ばれた」のでは無く籤引きで選ばれたと言うのです。あたった人は単にラッキーと言うこと以外の何の意味も無いと言う事を明示しているからなのです。

  この二点、神様の教会にとって断じて忘れてはならない基本中の基本なのです。

人間は神の創造物

人間は神の創造物 Ⅰペテロ2章13節~15節  

今日はペテロ第一の手紙を読みました。何時も気になっているのが上記の箇所です。早速直訳を記しましょう。

13 ・あなた方は下に任じさせられろ 全てに 人間に 創造に 通して その 主。 であっても 王に 様に 優越しているらに、
14 ・であっても 総督に 様に 通して 彼 送らされているらに 中へ 弁護(復讐)悪を行うらの  称賛を も 善を行うらの。
15 ・それは この様に 彼があり続けている その 意思 その神の、善を行っているらを 黙る そのを その 愚からの 人間らの 知られていないらを。 


翻訳にしてみます

13節・あなた方は主を通して創造された人間の下に自分を任じなさい。上に持っている王であっても。
14節・総督に対しても主を通して彼が送られているかの様に、悪を行う者らを報復し、善を行うものらに称賛して 
15節・それは神の意志がこの様にあるからです。善を行っているらを黙らせ 愚かな人間らの知られていないらを。

となります。一寸理解しにくい表現になっていますがわかることは、社会の上に立つ王や、総督に従えと言っている分けではないと言うことのようです。

この文脈のまとめである17節の直訳と翻訳を最後に記します。

直訳・17 ・全てらを あなた方は価格しろ、 その 兄弟達の集団を あなた方は愛し続けろ、 その 神を あなた方は恐れさせられ続けろ、 その 王を あなた方は価格し続けろ。 

翻訳・17節・あなた方は全ての人を評価評価=本来は「値踏」の意味)しなさい。そしてあなた方は兄弟達の集団を愛し続けなさい。そしあなた方は神を恐れさせられ続けなさい。そして、あなた方はその王を評価評価=本来は「値踏」の意味)し続けなさい。

・ローマ帝国時代に翻訳された「皇帝=王を尊ぶや敬え」と言うヨーロッパの御用教会(=典型が英国国教会=ケンブリッジやオックスフオード大学の推奨訳)の王政時代の遺物的翻訳やその影響下にある全ての邦訳と、ローマ皇帝に迫害されていた初代教会の原文の意味することが大きく異なっている(正反対な)のは当たり前のことです。

罪の妊娠

罪の妊娠 ヤコブ1章14節15節 

昨日今日とヤコブ書を読みました。このヤコブの手紙を記したのは使徒のヤコブでは無くイエスキリストの弟のヤコブです。驚くべき事に彼のギリシャ語は相当な物で他の使徒やパウロなどよりも格段に格調の高い言葉を駆使しています。おそらく新約聖書中では一番立派なギリシャ語でしょう。あの宗教改革者ルターが藁の書簡と酷評したことで有名手紙ですが、ルターが言ったのは「ガラテヤ書などの福音云々の書簡に比べるならば」という前置きが合っての言葉です。しかし、そうはいってもルターの語学力を持ってしてもやはりもこの手紙は難解であったのでそう言ってしまったのではと思います。

ヤコブが、立派なギリシャ語を話した理由は明解です。イエス一家は長男キリストの誕生(クリスマス)後あの残忍な ヘrode(投稿忌避文字で改竄)王の幼児殺戮を逃れるためエジプトに下った事が記されています。と言うことは当然あの世界の七不思議に登場するアレクサンドリア大灯台があった当時に兄のイエス共々幼少期をその洗練された最も正確なギリシャ語本場で教育を受けて育った事になります。
  
 その学費は貧しいヨセフとマリヤの元に託された当方の博士達の黄金、没薬、乳香の処分で十二分に可能であったでしょう。  

 というわけで福音書が記された最初の原語が何かと言う学者の議論がありますが、確かなことはキリスト昇天後の初代教会のだれよりも優れたギリシャ語をヤコブの兄であるイエスキリストが話していたことが忘却されて議論されているのは不思議な現象です。
まあ余計な事はこれぐらいにしておいて今日の箇所を見る事にしましょう。   

ヤコブ1章14節15節ギリシャ語原典の直訳
14 ・各自 そして 彼らが試みる 下に その 自分の 欲望らの あるべき場所から引き出され そして 餌で釣られて。
15 ・さらに その欲望が 捕まえる事 罪を、 そして その罪が、完全に型造られる 彼が妊娠して出産する 死を。 

翻訳にしてみます。

ヤコブ1章14節15節翻訳
14・ 人間は試験されると自分の欲望に支配されて、本来の場所から引きずり出され、そして餌に釣られてしまうのです。
15・ さらに その欲望が 罪を妊娠させ、そしてその孕んだ罪が臨月を迎え、やがて死を産み落とすのです。

  本当に、ヤコブは使徒達には無い分かりやすく赤裸々な表現で人間の罪に誘惑されるありさまを描写しています。
 

鋸刑死

鋸刑死 ヘブル人への手紙11章37節 

漸く、ヘブル人への手紙を読了しました。一番印象に残ったのは上記の箇所です。直訳を記す前に背景をすこし説明しておきましょう。

 ヘブル人への手紙はローマ帝国配下の属国ユダヤがことも在ろうにローマに反逆し独立運動に対するローマ世界への見せしめとして徹底的に殲滅させられる直前に反乱軍に加わろうとする初代エルサレム教会に当てて記された書簡です。残念なことにエルサレム教会もそしてユダヤの国も反乱軍鎮圧に乗り出したローマの将軍(後に皇帝)テイトウスによって殺戮されてしまいました。

  その様な状況下で記されたこの手紙には悲壮なものが満ちています。その悲壮さの最たる物を記したのがこの箇所なのです。何故、このような悲壮な体験をさせられた人々が存在したのかがじつはこのヘブル人への手紙の記された目的なのです。さて、前置きはこれぐらいにして何時もの様に直訳を記しましょう。

ヘブル人への手紙11章37節 直訳 

37 ・彼らは石で打たれた、彼らは鋸でひかれた、中で 殺人 剣の 彼らは死んだ、彼らは周囲に来た 中で 羊の皮、中で 山羊ら 獣皮ら、遅れてくる(乏しい)らは、狭く(迫害)されたらは、悪を持った(虐待された)らは、  
38 ・する所らの 無い 彼が存在している 価値が その 世は、上に 荒野らに 彷徨わされたらは そして 山らに そして 岩穴らに そして その 裂け目らに その 地の。

翻訳にしてみます。

37節・彼ら(旧約時代にイスラエルの国に対する神の言葉を預言した預言者達)は石打刑に処され、また鋸で切り裂かれ、剣で暗殺されました。彼らは粗末な羊や山羊の毛皮を纏い、貧窮し、その上に迫害され、また虐待を受けました。
38節・この預言者達にはこの地上に存在する価値の無い者と見なされたのです。その結果彼らは住む場所を追われ、荒野を彷徨い、山に逃れ、岩穴や断崖に隠れ住んだのです。

  じつに、旧約聖書を記した預言者達がその働きに対する報復としてイスラエル民族から加えられた仕打ちを見事に言い表しています。凄まじい迫害を乗り越えて預言者達が聖書の言葉を生命と引き換えに残したことが要約されているのです。余分な事かと思いますが、鋸で胴体を分断されたのはあの預言者イザヤです。また毛衣をきて荒野に住んだのはあの預言者エリヤです。そして水牢に投げ入れられたのは預言者エレミヤでした。
  そう、イスラエルの国が神様の戒めを反故にして、周辺諸国の不道徳をまね、経済成長至上主義を選択し、道徳や公平な裁判を放棄して、悪徳政治家や汚職官僚の言いなりになって貿易や産業の振興政策を推進し、強欲宗教家に金で神の祝福を曲げさせて不正な利得を神の祝福と宣言させていたのです。

  その様な、巨悪と似非宗教家に対して物申した預言者達が当然のこととして、受けた報復が上記の聖書箇所に記されている事なのです。

  そして歴史は神様の言葉を反故にし、神様が遣わされた預言者達を迫害した報いとして、イスラエルと言う国は二度に渡って消滅したのです。紀元前587年バビロンのネブカデネザル王によって国家は破綻消滅し、その後 600年かかってギリシャ帝国時代にローマに加担して属国として復活したイスラエル(ユダヤ)は僅か100年を経ずして預言者でありメシヤであるイエスキリストを処刑した40年後に、再びローマによって国家が消滅します。 

 ここで、このような過去の預言者達に対する仕打ちが記されているのは、イスラエルが如何に神様の言葉を無視してきたかを思い起こさせるためだったのです。

  そして、今回(ヘブル人への手紙執筆当時)もイスラエルが間もなくローマによって消滅させられることを国民に伝える為に記されているのです。 

  イスラエル民族が過去において預言者に加えた犯罪的迫害が、民族の上に臨み、ローマによってイスラエル国家とその指導者、宗教家、事業家が全ての地位と財産を失い、自分達が迫害した人々と同様の屈辱と艱難を味わうことを警告しているのがこの箇所なのです。

  本当に聖書は史実として今日の国家に対して有益な事(未来に起きること)を的確に記しているかと思います。勿論、正しく聖書が読まれていて始めてこのような理解に至れるものですが? 

聖書の間違い

聖書の間違い ヘブル書9章4節 

今日は新約聖書のヘブル人への手紙の10章まで読み進みました。単語も、また語形も頻度の少ない物が多く幾度か辞書を引く事になりました。新約聖書の中ではヤコブ書の次にギリシャ語の難しい箇所に当たるかと思います。

 問題に感じたのは上記の箇所です。何時ものように直訳を記します。
ヘブル書9章4節 直訳 
04 ・金を 持っているは 祭壇 そして その 木箱を その 契約の 周りを隠されている あらゆる方角から 金に、中で 所 土器壺は 金は 持っているは その マナ そして その 杖は アロン その 生え出たは そして その 平石板らは その 契約の、

翻訳にしてみます。

金の祭壇とそして 全面を金で覆われた契約の箱、その中には マナの入った金の壺、そして芽を出したアロンの杖 そして 契約の平石板 が入れられていました。

一体何が、問題かと言うとこの箇所の記録にはかなりいい加減な事が記されているのです。まずこの箇所の背景を簡単に記しましょう。

この箇所は旧約聖書の出エジプト記25章から30章に記されている移動式神殿「幕屋」の聖所の中の備品が記されているのです。聖所の中は前方の聖所とその後方の至聖所に区分されていて、このヘブル書9章には奥の方の至聖所に置かれている備品が記されているのです。

その事を踏まえた上で問題点を記しましょう。何が間違いかと言うと、以下の三点です。

第一に問題なのは「金の祭壇」です。旧約聖書を読めば自明のことなのですが、この金の祭壇は旧約聖書では至聖所ではなくその前の聖所に置かれていると言うことなのです。(参照出エジプト30章5節)

第二に問題なのは「契約の箱の中身」の金の壺です。旧約聖書にはこの壺は明確に契約の箱の側、すなわち外に置かれていたと記されています。(参照出エジプト16章34節)

第三に問題なのは 同じく「契約の箱の中身」の芽を出したアロンの杖です。基本的に羊飼いの杖は長いので箱の中に収まり切らないのです。そして、歴代誌第二5章10節にはこの「契約の箱の中には二枚の石の板以外は入っていいなかった」と明記されているのです。

この幕屋の契約の箱の中の備品に関しては、明確な聖書の記述の矛盾です。そして、少なくとも旧約聖書の記述にはどこにもこのヘブル書の言っている幕屋の中の備品の位置や、契約の箱の中身に関して、上記3点は明白に相違しているのです。

  おそらく、ヘブル人への手紙の著者が思い込みで間違いを記したとしか考え用の無いのが結論です。
幕屋に関しては次のリンクを参照してください。

http://bible.co.jp/tabernacle/

そして、唯一の説明は、「このヘブル人への手紙の9章の幕屋の記述は、旧約聖書の時代の事ではなく、旧約聖書の幕屋の喪失とその後の神殿の破壊後に再建された新約聖書時代のヘロデの神殿において制作された神殿の至聖所はその様な構造で、そして契約の箱には金の壺と芽を出したアロンの杖が納めるられていた。」と言う苦肉の説明を支持する事以外には手の打ちようが無いのです。

まあ、その様な無理な解釈や説明を弄する以前に、どうも、この件に関してのヘブル人への手紙は不正確であると結論せざるを得ないと思うのです。それが故にこのヘブル人への手紙は聖書聖典に加えるかどうかで随分と揉めたそうですから、少なくとも初代教会の教師たちはこのような矛盾を熟知していたことがわかります。

そして、残念な事に聖書の多くの間違いを指摘する多くの書物にこの箇所の問題や矛盾をあげている著者を私が見たことが無いのはこれもまた寂しい事かと思います。

今日は、聖書の記述の矛盾点に関してでした。
 

信仰の初歩の放置

信仰の初歩の放置 ヘブル人への手紙 6章1節から3節

今日はヘブル人べき手紙の前半を読みました。記されている内容は結構難しいのですが、分法的にはかなり簡単な語法が使われていて、旧約聖書の70人訳の単語に慣れていると簡単に読み進める聖書箇所です。

さて何時もの様に、まず上記の箇所の直訳を記しましょう。

06 01 ・この故に 放置したらは そのを その 最初 その キリストの 言葉を 上に その 完成物を 私達は運び続けている(為)、無い 再び 基礎の 下に投げたらは 思考交換を から 死人らの 働きらの、そして 信頼の 上に 神、
02 ・浸すらの 教えの、置く事の も 手らの、再び立つの も 死者らの、そして 裁きの 永遠の。
03 ・そして この事 私達は確かに行う もしほんとに 彼が上に回転する(許す)(為) その 神が。

問題に思うのは一番最初の「放置したらは」と言う言葉です。この言葉は一般に罪の「赦し」と訳されるアフイエーミと言うギリシャ語なのです。しかし、そのように訳出するとこの文脈でも話が通じなくなるのです。そう、「放置する」と正しく訳出すると前後関係と上手く意味が通じます。

  と言うことで、他の箇所もじつは「放置」と訳出する事が必要なのです。聖書に記されている罪の「赦し」はじつは赦しと言う意味ではなく、「放置」=「そのまま残しておく。」と言うことなのです。それが聖書が言っている救いの意味なのです。

  そういうときっと「では一体何が救いなのか?」とお叱り受ける方が在りそうなので、もう少し説明しておきます。そう、聖書は神様による罪の刑罰からの救いを教えているのですが、罪を処理すると刑罰を与えなければならなくなります。だから、人間の罪をキリストの十字架の刑に免じて、そのまま放置しておいて下さるのです。

  これが聖書の教える救いなのです。人間の犯した罪が消えるなどと言うことはあり得ない非現実だと聖書は教えているのです。しかし、神様はその罰を与えることを避けるためにあえて人間の罪を放置していて下さるのです。これが聖書の教える本当の罪の刑罰の永遠の滅びからの救いの意味なのです。

嘘つきのクレテ住民

嘘つきのクレテ住民 テトス1章12節13節

 今日はテトスの手紙とピレモンの手紙を読みました。沢山面白い箇所が在りましたが気になる上記の箇所を今日はご紹介しましょう。

何時もの様に早速直訳を記します。 

12・彼は言った ある者は 出て 彼ら、自分は 彼らの 預言者、クレテらは いつでも 嘘つきら、下に 野獣ら、腹らは 無価値なら。  
13 ・その 目撃証言は 彼女の 彼がで有り続けている 真実。通して する所らを 罪状を あなたは非難し続けろ 彼らを 容赦なく、為に 彼らを健康にし続ける(為) 中で その 信頼、

翻訳にしてみます。

12・クレテ出身預言者のある人が言いました。」クレテ人は嘘ばかり話して、まるで獣で、その腹は怠惰。
13・その預言者の証言は本当なのです。だから彼らの行状は容赦せずに批判しなさい。(神様への)信頼の中で、彼らが少しは健全に成るためです。

  まあ、使徒パウロの発言です。こんな酷い事を思いながら、パウロはクレテ島の宣教をしたのです。そして、その町に残した弟子のテトスに、こんな酷い連中が集まっている教会の運営が思うようにならないのは当然だからとこの手紙を送ったのです。
  
  考えなければならないのは、やがてクレテの人々を酷く侮辱したこの手紙が、彼らにも読まれる様に成ったことです。こんなふうに言われたクレテの教会のクリスチャンは一体どんな気持ちになったでしょう?

  けれども、これが真実であったが故に、クレテの教会の人々はこの手紙を廃棄せず、神の言葉として受け入れ、世界中の教会で読まれることを良しとしたことも本当に教えられます。

パウロの絶筆

パウロの絶筆 Ⅱテモテ4章 

今日は、第Ⅱテモテを読みました。これは使徒パウロの最後の手紙です。この手紙を書き終えた直後、あの残忍なローマ皇帝ネロによって無実の罪で処刑された事が知られています。

とりあえずこの手紙の最後の部分の直訳をご紹介しましょう。

01 ・私は動かぬ証拠を挙げて目撃証言し続けている 面前で その 神の そして キリストの イエスの、 その まさにあろうとしているの 裁く事 生きているらを そして 死んでいるらを、そして その 顕現を 彼の そして その 王国を 彼の。 
02 ・あなたは宣言しろ その言葉を、あなたは側に立て 都合の良い時に 時宜を得ない時に、あなたは咎めろ、 あなたはその等価値を割り当て(非難し)ろ、あなたは側に呼べ、中で 全て 容易に怒らぬこと(寛容) そして 教え。 
03 ・かれが確かに在る そして 定時が その時 その 健康であるの 教えの 無い 彼らは確かに忍ぶ 、反対に 下に その 自分の 欲望の 彼ら自身らに 彼らは確かに寄せて積み上げる 教師らを くすぐっているらは その 聞く事を、
04 ・そして から 一方 その 真実を その 聞く事を 彼らは確かに離れ転じる、上に も その 作り話しらを 彼らは確かに横道にそらされる。 
05 ・あなたは も あなたは正気でい続けろ 中で 全て、あなたは下に苦しめ、業を あなたは行え 福音伝道者の、その 食卓給仕を あなたの あなたは完成しろ。 
06 ・私は そして 既に 私は献酒を注ぎ続けている、そして その 定時は その 上に開放される(世からの出立) 私の 彼が上に立っている。 
07 ・その 良いを 戦闘競技を 私は戦闘において戦っている、その 競争を 私は終にしている、その 信頼を 私は見張りをしている。  
08 ・残っているは 彼が閉じ続けている 私に そのは その 義の 花輪を、懸かる所は かれが確かに引き渡す 私に その主が 中で あれらの その非、その 義は 判決の、無い 唯一 も 私に 反対に そして 全てに その 愛しているらに  その 顕現を 彼の。
09 ・あなたは急げ 来る事う 方に 私 早く。
10 ・デマス そして 私を 彼が放棄した 愛しているは その 今の 時代を、そして 彼は行かされた 中へ テサロニケ、クレスケー 中へ ガラテヤ、テトス 中へ ダルマテヤ。 
11 ・ルカ 彼がであり続けている 唯一 共に 私。 マルコを 連行するは さあ 共に あなた自身、 彼がであり続けている そして 私に 良い使用が 中へ食卓奉仕。
12 ・トキコ も 私が遣わした 中へ エペソ。
13 ・その 外套を 所の 残した 中に とろあで 側に カルポ 来るは あなたは運び続けろ、そして その 書を、取り分け その 羊皮紙らを。 
14 ・アレキサンドロ ス その 青銅職人は 多く 私に 悪を 彼は行為で立証した。彼が確かに引き渡す 彼に その 主が 下に その 働き 彼の。
15 ・所は そして あなたの あなたは監視し続けろ、非常に そして 彼が逆らって立った その 私達に 言葉らに。
16 ・中で その 最初の 私の 弁明に 誰も無い 私に 彼が登場した、反対に 全て等は 私に 彼らが放棄した。 無い 彼らに 彼が見なされよ。
17 ・その も 主は 私に 彼が側に立った そして 彼が中で内在力した 私を、為に 通して 私 その 宣教が 彼が全て運び切られるため そして 彼らが聞いた(為) 全てをその 異邦人、そして 私が自分の所に引き寄せら(救出さ)れる 出て 口 獅子の 。
18 ・彼が確かに自分の所に引き寄せ(救出す)る 私を その 主が から 全ての 働きの 邪悪の そして 彼が確かに救う 中へ その 王国 彼の その 上に不可視を。所に その 栄光 中へ その 永遠 その 永遠の。アーメン。
19 ・あなたは安否を問え プリスカ そして アクラ そして その オネシフルの 家を。
20 ・エラストは 彼は中に留まった 中に コリント、トロフイモ は も 私が残し去った 中に ミレト 弱かったを。
21 ・あなたは急げ 前に 嵐が 来る事。彼が挨拶し続けている あなたに エウブーロス そして プーデス そして linos そして クラウデイア そして その 兄弟らが 全て等が。
22 ・その 主が 共に その 霊 あなたの。 その 恵が 共に あなた方に。

注目は16節です。この部分だけ抜き出して翻訳してみます。

まず直訳です。

16 ・中で その 最初の 私の 弁明に 誰も無い 私に 彼が登場した、反対に 全て等は 私に 彼らが放棄した。 無い 彼らに 彼が見なされよ。

翻訳 私の裁判では私を弁明する為に証言に登場した人は誰もありませんでした。それどころか全員が私を見捨てたのです。彼らが(罪に)皆され無い様に(願います。)

  当然のことでしょう、もうネロ皇帝はキリスト者の首領とおぼしきパウロの判決は最初から有罪と決めていたからです。もし、無罪の証人となれば必然的に偽証罪に問われ、当然犯罪の確定した人と同罪にされて死刑を免れないことが自明であったのです。 
  まあそうとは分かっていても、誰か一人ぐらいはパウロの無罪を証言してパウロと同様に処刑される覚悟の出来た人がいても良かった様に思います。

  しかし、その様な正しい事のために生命を張るようなキリスト者はローマの町の教会には一人として存在いなかったと言う事実は本当に重い物があると思います。そして、それは連綿と今日に至るまでローマ教会を始め世界の諸教会受け継がれて居るのです。そう、キリストの裁判の席で、弟子達が全員逃げて以来の教会の伝統なのです。誰一人、正しいことのために生命を張るものはいないと聖書が教えているのです。勿論イエスキリスト以外にですが。

親の救い

親の救い テモテ第Ⅰの手紙2章15節 

今日はテモテの手紙に入りました。読んでいてサッパリ分けのわからない箇所が在りましたのでご紹介します。まず直訳を記しましょう。

テモテ第Ⅰの手紙2章15節 
直訳15 ・彼が確かに救わされる も 通して その 実子親、もし 彼らが留まった(為) 中で 信頼 そして 愛 そして 聖 間 正気。

翻訳にします。

彼が確かに救われます、子の実の親となる事を通して、もしも彼らが信頼と愛と聖の中に正気の間に留まれたなら。

  となります。一体何が言われているのか実に難解です。一般の翻訳は随分と手を加えています。彼は最初の女エバによって代表される全女性に解し、実子親という言葉を「子を産む」と解釈しているようです。まあそうかもしれません。

  しかし、そんな無理な解釈を加えなくても、もっと素直に原文を読む事が良いと思います。

彼は男も女も含めた「人間一般」と考え、子供の親となり信頼と愛と聖の中に正気の間に留まり続けることを通して神様に救って頂けるということでは無いでしょうか。

働かざる者食うべからず

働かざる者食うべからず テサロニケ第Ⅱ3章10節

  今日はテサロニケ人への手紙第Ⅱに読み進みました。有名な聖書箇所が在りましたので原典の意味をご紹介しましょう。何時もの様にこの聖書箇所のギリシャ語原典をその儘日本語にした直訳を記します。 
テサロニケ第Ⅱ3章10節原典直訳 
・そして また それは 私たちが 方に あなた方、 この事 私たちが戒告し続けている あなた方を、 それは もし だれか 無い  彼が願う 働く事 無いまた 彼が食べる事。

 意訳にしてみます。

そしてまた私たちがあなた方の所に滞在していた時に指図しておきました。働く事を願わない者がいたら、彼に食事を食べさしては成りません。

 当時の教会では愛餐会が一般的になされていました。その食事目当てに教会に来る不届き者が沢山存在していたようです。この事はその様な人が居ることを思うと大切な事だと重います。働こうとして働けない人や、働いても食事もままならない人に対しては教会が会食に無料で参加を提供するのは当然です。しかし、不心得な神を恐れない怠け者に対して、その怠惰を助長させるような人は食事会から締め出すことを命じたのです。

最後にこの文脈にある怠惰な人々への教会の対応を記した箇所の直訳と翻訳を記します。

テサロニケ第Ⅱ3章14節直訳
14 ・もし また だれか 無い 彼が聞き続けている その 言葉 私たちらの 通して その 手紙の、これを あなた方は目をつけ(注意)続けろ、無い 一緒に混ぜ合わせる事 彼に、ために  彼が恥じ入らせられる為に。

上記のテサロニケ第Ⅱ3章14節翻訳

14節・もしこれでも私たちの手紙の指示に従わない者がいたら、あなた方はそいつをマークし、誰も交際しては成りません。赤面させるためです。

犬の尻尾振り

犬の尻尾振り テサロニケ第一の手紙3章3節 

パウロの獄中書簡もピレモンを残して読み終えました。今日はテサロニケ第一の手紙を読みました。色々と面白い箇所が在りましたが、その中から面白い表現の箇所をご紹介しましょう。早速何時もの様に直訳を記します。

テサロニケ第一の手紙3章3節直訳 

・その 誰も無い 犬が尾を振られる(迷わす)事  中で その 苦しみ この様な、 彼らは そして あなた方は知っている それは 中へ この事  私たちは自分のために置いた。

翻訳にします。(括弧内は原文に無い補足)

このような苦しみの中で惑わ[原文の意味→犬の尻尾振りさせ]られる者が誰も無いように。彼らに(ついて)は あなた方が知っているでしょう この事の(防止する)ために私は(前もって)置いておきました。

 このテサロニケの手紙で一番目についたのは γινομαι(に成る)と言う言葉でした。この第一の手
紙丈で12回使われていてしかも前半に集中しているために大変目につく言葉でした。この言葉が示しているのは入信したテサロニケの町のクリスチャン達の入信前後の変化が明確であった事を示しています。

  そしてこの手紙が後半に移る場所が先程の「犬の尻尾振り=惑わされる=ギリシャ語でσαινωサイノー
」と言う単語なのです。

 「犬の尻尾振り」とは大変的確な表現です。我が家にいる大きなラブラドールですが、この犬が人を操縦する見事な腕前には日々感心しています。これと言う人がいるとすぐに背中を下にしてお腹を出します。そして、目を丸くしながら尻尾を大きく左右に振りまくります。すると大抵の人は様相を崩して「いいこ! いいこ!」とお腹を撫でさせられています。「犬の尻尾振り」は実に巧妙に人に取り入り、尻尾を振った人に対して絶対的恭順を表明しているようですが、実際は心をすっかり犬に赦してしまう対価を支払わされているようです。

  初代教会では、迫害や困難の中で迫害されたくないために、迫害している人々に妥協したり、取り入ってしまう危険が満ちていました。その結果、妥協した人はたちまち信仰を捨てしまうばかりではありません。裏切り者に成っただけではなく、迫害する人々に教会の内部情報を提供してしまうように成りました。このようなラプシイと呼ばれる棄教者が初代教会に沢山起きた現実を思う時に、この「犬の尻尾振り」に注意するように入信したばかりのテサロニケの信者に注意したパウロの気持ちが、よくわかる気がします。

  今日は「犬の尻尾振り」という面白い表現の箇所のご紹介でした。

中中上通中

中中上通中 コロサイ1章16節

今日はコロサイ人への手紙を読みました。3日前から読み初めたパウロの獄中書簡の一つです。今日はその中から上記の聖書箇所をご紹介しましょう。先ずは何時もの様に直訳を記します。

16 ・それは 中で 彼 彼が創造された その 全ては 中で その 不可視ら そして 上に その 地、その 見えるものらを そして その見えないものらを、もしなら 王座ら もしなら 主であることらは もしなら 原始らは もしなら 権限らは。その 全ては 通して 彼 そして 中へ 彼 彼は創造された。

翻訳にしてみます。

16節翻訳 見えない物も地上の物も万物は彼の中で創造されました。見える物も見えない物も、王座も君主も古代も権限も。全ては彼を通して、彼の中へ 全てが創造された。 

ここではかなり面白い言い回しが成されています。そのポイントとなるのが冒頭の 「中中上通中」と言う言葉なのです。これはギリシャ語に置いて大切な前置詞の意味を使われている順に訳してみた物なのです。

  いずれの前置詞も「彼=キリスト」に対して使われています。この前置詞の部分丈を抜き出して記してみるとけっこう、こ聖書の箇所が言っている事が明白になります。 「彼の中で、不可視の中で、地上に、彼を通して、彼の中に万物は創造された。」と言う神様の創造の手段や領域や範囲を前置詞で規定しているのです。

犬に注意

犬に注意 ピリピ人への手紙3章2節3節

今日はピリピ人への手紙を読み終えました。色々と面白い箇所が在りましたがその中から上記の箇所をご紹介したいと思います。

何時もの様に、ギリシャ語原典からの直訳を以下に記します。

ピリピ人への手紙3章2節3節直訳

02 ・あなた方は見続けろ その 犬らを、あなた方は見続けろ その 悪らを 働き手(農夫)らを、あなた方は見続けろ その 下に切り(割礼主義者?)を。 
03 ・私たちは そして 私たちは存在し続けている その 周囲切り(割礼)、そのらは 霊に 神の 雇われ働きするらは そして 誇っているらは 中で キリスト イエスの そして 無い 中で 肉 説き伏せているらは、 

翻訳にしてみます。

あなた方は注意しなさい、その犬らに、それは 悪の働き手で 同時に 下切り(割礼主義者)です。
私たち(こそ)は 周囲切り(割礼)として存在しています、それらは 神の霊による 雇われ働き手で そして キリストイエスの中で誇る者です、そして肉(割礼の事)で納得していません。

  注目は2節の中に三度登場する「あなた方は見続けろ」と言うパウロがピリピの教会の人々命じた命令です。ピリピの人々が注意しなければならないのは「犬」=「悪い働き手」= 「下切り(割礼主義者)」として繰り返されている人々の事なのです。この人々はパウロが伝道した諸教会に布教してくれるエルサレム教会からやって来るキリスト教徒をユダヤ教徒たちの事なのです。クリスチャンをユダヤ教に改宗させて、ユダヤ人に課せられたエルサレム巡礼の要求と神殿への献げ物の義務を布教していたのです。そのためにユダヤ教徒に改宗する通過儀礼の儀式として割礼を受けさせようとしていたのです。

  なにしろ、このころのエルサレム神殿は参拝者の激減による収入不足の回復のために、世界中にユダヤ教徒の宣教師を派遣していたからです。手っとり早いのはパウロが大量に獲得した大量のギリシャ人キリスト者に割礼を受けされ、ユダヤ教徒化してエルサレム詣でをさせることでした。

  と言うことで、気をつけていないと、いつの間にか宗教家達の生活レベルの維持のために似非宗教に入信させられる危険が常にあることを知ることが大切です。

  パウロはその様な働きをしている人々に対してユダヤ人として最大の侮蔑的言葉である「犬」という激しい批判の言葉を使った箇所のご紹介でした。

相応しい囚人

相応しい囚人 エペソ4章1節 

今日はパウロが獄中で記したと言われるエペソ人への手紙をよみました。気になったのは上記の箇所です。何時もの様に直訳をまず記します。

01 ・私は側へ呼び寄せ続けている そういうわけで あなた方を わたしが その 囚人の 中で 主 ふさわしい 歩いた事 その 呼ぶ事の 所の あなた方が呼ばれた、

翻訳にしてみます。

主にあって囚人である私パウロがあなた方にお勧めしています。 あなた方が召された神の招きに相応しく歩むことを。

 誇り高い大都市エペソの町のキリスト者達に、事も在ろうにパウロは囚人である事を自慢して、「あなた方も私の様に生活しろ」 と勧めているのです。そして、「あなた方を召された神の召し」とありますがこの招かれた方は当然、「犯罪人として十字架で処刑されたキリストの召し」となります。

 と言うことで、「聖書が勧めていることをまともに行えば、誰でも囚人になる」と言う意味になります。そして私はそれは今日でも真実で変わりは無いと思っていす。

  けれども実際、「キリスト者が牢屋にぶち込まれた。」という話しは最近聞いたことがありません。もし聖書の言葉が正しいとすると、「最近のキリスト者は召されたキリストに相応しい生活をしていない。」と言うことになります。勿論この私を含めてのお話です。

  と言うことで、聖書は基本的に反社会的な傾向の在る書物である。と言うことを考えさせられました。勿論そんな事になら無い様に、ちゃんと聖書が今の時代に受け入れられ、評価される様に翻訳されている事が今日の世間で迫害されていない教会が存在できている原因一つではないかとかねがね思っている次第です。

参考聖書箇所 マタイ10章22節、24章9節、マルコ13章13節、ルカ6章22節、21章17節、ヨハネ15章18節、25節、17章14節 などなど、聖書は教会やキリスト者が健全であれば必ず世界中で憎まれると言う事を幾度も明記しています。但しそれは犯罪行為の故ではなく、「世の中の間違いを明確に指摘する」という聖書の主張を明示した結果の必然だと言うことです。逆にいうと教会やキリスト者が世=世界から憎まれないのは、聖書が正しく訳出されてないために聖書を正しく知らない事の必然的結果なのです。もし、原典で聖書が正しく読まれたら「聖書翻訳の間違いを指摘したが故に、先ず第一にキリスト教界から憎まれ排斥される」はずです。

聖書の見識

聖書の見識 ガラテヤ3章8節 

今朝はガラテヤ書を読み終えました。その中で一番教えられたのは上記の箇所でした。

何時もの様直訳をまず記します。

08 ・前に見ているは も その 聖書は それは 出て 信頼 彼が義とし続けている その異邦人を その神が 彼が前に福音した その アブラハムに  彼らは確かに中に祝福される 中であなた 全てら その 異邦人を。

翻訳にしてみます。

聖書は前に見ています。聖書が信頼によって異邦人を義とし続けています。神がその為に「全ての異邦人はあなたの中で確かに祝福されると」して、アブラハムに福音を伝えました。 

  何を教えられたかと言うと、「聖書が前に見ている」と言うことです。聖書は「神の目撃証言=証」と言われていますが、キリストの福音がアブラハムに語られている言葉の中に明確に明示されていると言う主張なのです。

  と言うことで聖書は記された時代が、遡る(古い)箇所も、新しい箇所も同質の意味であり、内容がそれぞれに合致していて、矛盾が無いと言う事なのです。

三度目の正直

三度目の正直  Ⅱコリント12章20節から13章1節 

今日、コリント人への手紙の第Ⅱを読み終わりました。第一同様酷い内容の手紙だと思います。とりあえず直訳を記します。

Ⅱコリント12章20節から13章1節 

20 ・私は恐れ続けている そして 無い どうして 来ているが 無い のような 私が願い続けている私が見た(為) あなた方を、そして私は 私が見つけられた(為) あなた方に この様なを 無い あなた方が願っい続けている、 無い どうして 争い、妬み、憤怒らが、贈賄手下作りらが、悪口らが 蔭中傷らが、高慢脹れらが、騒乱らが。 
21 ・無い 再び 行くの 私の 私が低くなるを 私を その 神が 私の 方に あなた方、そして 私が嘆き悲しむ 多くらを その 以前に罪を犯していたらの そして 無い 悔い改めるらの 上にその 汚れ そして 売春 そして 淫放 所に 彼らが行為した。
13 01 ・3 を この事 私が来る 方に あなた方。上に 口 2 目撃証言の そして 3 彼が確か
に立たされている。

意訳にしてみます。

20・私は今も恐れています。それは、私が来ているのに、私の願っていないあなた方を見る事になりはしないかと。きっと私を見るあなた方も期待外れでしょう。あなた方が私に見て欲しくない争い、妬み、憤怒、贈収賄仲間、悪口、陰での中傷、高慢、騒乱らが!
21・二度と行きたく無い、私の恥に成るからです。神が私をあなた方のことで。また私が嘆き悲しむでしょう。以前から罪を犯していて、悔い改めない人らが、平気で汚れて、そして売春、そしてまだ行っている淫蕩。
13章1・あなた方の所に来たのはこれで三度目です。二度三度目撃証言が一致すれば 罪状は確定です。

まあ、酷い記述ですが素晴らしい事があります。コリントの教会の信者達はこんな酷い、自分達の教会を侮辱するパウロの手紙を神の言葉として受け入れ、それを教会への神の言葉として礼拝で皆の前で朗読してそれを一同で聞き、それだけではなく、こんな恥さらしの手紙を、こともあろうに筆写して近隣だけではない。世界中の教会の同信の人々の前に開陳して恥を晒して、自分達の真実を暴いたパウロの教えに従うことを決意し、それを公にしたのです。

今日のキリスト教会を始め、どこかの国の政治家や、県知事さんなどとは本質的に違った神様を恐れる心を彼らが持っていた事に本当に感心させられます。自分の恥をさらけ出しても神様の言葉を正しいとしてそのまま受け入れる姿勢がが健在だったのです。今日の教会にも少しぐらいはその心意気が残っていて欲しいものだと思います。

悲しみの手紙

悲しみの手紙  Ⅱコンリト7章8節 

 今日読んだ聖書箇所で気になる箇所をご紹介します。それは上記の箇所です。何時もの様に直訳を記します。

08 ・それは もし そして 私が悲しませた あなた方を 中で その 手紙、無い 私が心を入れ換えさせられ続けている。 もし そして 私が心を入れ換えさせられていた。( 私が見続けている それは その 手紙 あの もし そして 方に 時間 彼が悲しませた あなた方を)、

翻訳にします。

私はあなた方を悲しませました。その原因は前に書いた手紙ですが、今も私の心は全く変わりません。もし(事実に反する仮定=未完了形)そして私が心を変えさせられていたら(そんなことは絶対にない)[私は実続けています それはその手紙が もし(事実に基づいた仮定=アオリスト形)暫らくあなた方を悲ませた。

気になることは何かと言うと、パウロがここで言っている「コリントの人々を悲しませた手紙」は何かと言うことなのです。私の知る限りキリスト教の聖書学者の主張は、第一の手紙の後にパウロが「悲しみの手紙を記した。」と言うものです。しかし、以前に記した様に第一コリントの手紙は、原文で読む限りコリントの信者の不道徳や恥と成るべき堕落を列挙した物でした。と言うことで何も「悲しみの手紙」あるいは「涙の手紙」が他に存在する必然性は無いと言うことなのです。

  第一コリントの手紙が正しく翻訳されていたら、誰が読んでもこんな酷い批判の手紙を事も在ろうにキリスト教会の信者当てに記すなんて言うことは、正常な感情では不可能です。コリント教会の創立者パウロにとってあの内容は十分に「悲しみと涙の中でしか書きえない」手紙だからです。

  コリント人への手紙第一がその様な酷い手紙であることを認めない神学者が多いのですが、それが、理解できないのはおそらく、学者さんには大変大変失礼ではありますが「全くギリシャ語の読めない、あるいは理解できない」で神学をされていると言うこと以外、原因は考えられません。

そしてこの事自体も非常に悲しい現実です。このような今日のキリスト教界のお粗末な現実もまた、深い悲しみと涙なしには告発は出来得ません。

石に刻まれた文字

石に刻まれた文字  Ⅱコリント3章7節 

今日から朝によむ聖書箇所が第二コリントに入りました。気になったのは上記の箇所です。以下に直訳を記します。

新約聖書 Ⅱコリント3章7節 (ギリシャ語原典の直訳) 

3章7節・もし また その 奉仕 その 死の 中で 文字ら 彫りつけられた 石に 彼がならされた 中で 栄光、 どうして 無い 内在力されること にらみつける事 その息子ら イスラエル 中へ その 顔 モーセ 通して その栄光 その顔の 彼の その 無用にされている 

翻訳にしてみます。

もしも、石に刻まれた文字の栄光の中で死の奉仕が生じさせられた。その結果、イスラエルの息子らをじっと見つめる事さえできなかった。モーセの顔の中に、彼の顔の栄光の故に、 その機能を停止されているを。

・これでは全く意味不明の文章ですから意訳します。

モーセによって石に刻まれた文字の栄光の中では死に奉仕する結果が生じたのです。モーセの顔があまりに輝く物だから、イスラエルの人々はすっかり気持ちがくじけてしまったからです。 

  わかりますか一般の翻訳は「モーセの消え去る栄光」などと意訳していますが、原文はそれほどモーセに対して否定的ではなく、その権威を認め肯定的にモーセを記していると言うことです。

  新約聖書対旧約聖書と言う概念は聖書のどこにも存在しないと言うことで、新約聖書=旧約聖書と認識することが聖書を理解する上で一番大切なポイントです。

パウロの教会伝道

パウロの教会伝道 コリントⅠ 15章1節

やっとコリント人への手紙第一を読み終えました。今日の箇所もコリント教会の様々な問題が扱われていましたが一番驚いたのは上記の箇所です。何時もの様にギリシャ語原典からの直訳を以下に記します。

15 01 ・私は知らせ続けている その あなた方を、兄弟ら その 福音が 所の 私が福音した あなた方を、 所の そして あなた方が受けた、 中で 所の そして あなた方が立っている。

翻訳にします。

 私は今もあなた方兄弟達に福音を伝え続けています。この福音は私が福音を伝えたのと同じ福音です。あなた方はこの福音を受け入れ、この福音に立っています。

  一見なんの不思議も無い福音=聖書の救いを記しているパウロの言葉ですが、良く考えるととんでもない事が記されています。そう、キリスト教会の信者さんたちに、福音を伝えているのです。 同様の記述は同じ使徒パウロがローマの教会に送った手紙の1章にも記されてはいます。ローマに対してはパウロが一度も訪れていないのですからまあ福音を伝えても不思議は無いのですがコリント人への手紙で福音を伝えると言うのはどう見ても異常です。

  なぜならそんな基本はクリスチャンであれば誰でも重々熟知しているべき事だからです。と言うことはコリント教会の信者達は、この基本中の基本が分かっていなかったとパウロは判断している事がわかります。そうでしょう、教会内の酷いトラブルや不道徳を見ても自明です。また、聖霊の賜物と称して自己満足の異言と言う恍惚状態に浸る悪習慣が教会内に蔓延していた現実(12章)からも自明です。そればかりではありません。13章に記した愛が売り物であるはずのキリスト教会に愛を教えているなどおよそ教会として、お粗末な限りです。その挙げ句がこのパウロによるコリント教会への福音の再宣教なのです。おそらく基本をすっかり忘れて、枝葉末節にこだわっている原因がここにあったとパウロは判断したのでしょう。基本が分かっていないから、あるいは忘れてしまったか、はたまたそんな物には無関心であったのかもしれません。

  11章ではコリント教会はお金持ち専用のレストランに成り下がっている事が記されています。問題の本質はやはり基本の欠如にあるということなのです。本当に大切な事は一度聞いたら忘れることの無い様にしたいものです。

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