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水星と金星の近接








水星と金星の近接

 やっと水星と金星の近接が見れました。今週はずっと4時起きしましたが見れたのは前回ご紹介した月曜とそして4日振りの今朝でした。丁度南東に薄雲がかかり金星はさすがに明るいので見えるのですが水星も見えたのはほんの一瞬でした。 最初の写真がそれです。

 少し時間が立つと高度が上がり見易くは成るのですが今度は空全体が黎明で明るくなります。その次の写真が6時頃の写真です。見にくいので文字を入れてみました。おそらくそれでも分からないのでもう一枚拡大したものをその次にアップして見ました。

  余分ですがその次写真は昨晩の土星です。相変わらずろくな撮影機材が無いので手持ちでぶれてます。

  その次の月は今朝早くの下弦で一番遠い所に在る月です。視直径は29′32″になっています。写っているのは雲の海の近くで左下の3つのクレーターはプトレマイオス(直径153km)やアルフオンス(110km)アルザケール(97km)です。

  最後の写真は撮影した場所です。教会の庭に続く小径の一番東がよく見えるポイントです。冬はイノシシにそして夏はマムシに要注意です。写っているのはセレストロンのC8(20㎝シュミカセ)とかすかな上弦の月です。

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ピラカンサ攻防戦




ピラカンサ攻防戦

 今日もヒヨ鳥が一日ピラカンサを守っていました。 一番最初の写真がそのヒヨドリの写真です。

さて、その次の写真は、ピラカンサを食べようとして遠くから様子を伺っている小鳥たちです。

そして最後が、ヒヨ鳥がいつも営巣する教会の玄関の金木犀と、その木の中にある巣の写真です。左上の▲に切り抜いた物かそれです。 

  おそらく、教会に長く暮らしているヒヨ鳥にしてみれば、教会の敷地は全て自分達の縄張りと言うわけです。一番最初の写真の右すこし上の上中程に影の様な物が有りますが、これはヒヨ鳥が近づいてきたメジロに向かってピーーーと突進している所です。 かわいそうに、小さなメジロ達は一目散に逃げていきました。この写真の向こうには良く繁った欅の木があるのですが、そこにもつがいのもうイッピキのヒヨドリが居ます。時々見張りを交代したり、ヒラカンサをついばんだりしています。一度に5~7個程の実を食べると、又定位置に行ってピラカンサの番をしています。

  今日は昨日に引き続いてピラカンサを巡って攻防戦を繰り広げている小鳥たちのご紹介でした。

熾烈な生存競争



熾烈な生存競争
 
 私がいつも仕事をしている部屋の直ぐ前に、ヒラカンサが赤く実をつけています。以前ご紹介しましたがこれは小鳥たちにとって、冬枯れのなか数少ない貴重な食料なのです。 

  番犬のラブがいる場所の前の柿の木の実が無くなっても、このピラカンサは私が仕事をしている為小鳥たちも敬遠していましたが、とうとう本当に他に食糧が無くなったのでしょう。沢山の小鳥たちが鵜の目鷹の目で狙っています。

以前の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/29741870.html

 この辺りで一番大きい鳥はカラスですが、私の見える所には来ません。その次に大きいのがヒヨドリです。 上の写真がそれです。

  私の部屋の目の前にある渋柿の木かその向こうのビワの木にヒヨドリがいつも居ます。そう、他の鳥がピラカンサの実をついばみに来ない様に見張っているのです。 小鳥がピラカンサに近づくと ピーーーとけたたましい声を出して、突撃! 凄まじい争いが日に幾度も繰り返されています。

  朝から夕方までつがいで交代の番をしています。お腹を減らしたかわいそうな小さいメジロが、ヒヨに追われて逃げていくのを幾度も見かけました。

  次の写真は、また別の小鳥が来て渋柿の木の上でピラカンサを狙っている所です。 ムク鳥の様でこちらはヒヨよりは少し小さいのですが、数が多いのでヒヨを追い払って餌にありつけた様です。

 今日は、一見、のどかで平和に見える小鳥たちの世界で繰り広げられている熾烈な厳しい生存競争のご紹介でした。

聖書語句索引(コンコルダンス)

聖書語句索引(コンコルダンス)

 さて前回は聖書の神聖と人間性の関係を通して聖書研究の基本をお話ししました。と言うことでこの「聖書の特殊性=人間の言葉であり同時に神の言葉である」ということが示している聖書研究の方法を具体的にご紹介しましょう。

  聖書の人間性と霊感と言う観点の関係を先ず見てみたいのです。

  ●まず聖書を人間的に見てみましょう。

 実際には聖書の書かれた時代を見てみましょう。

   初めの部分はモーセ五書が記された紀元前1400年ころからサムエルやダビデ、そして分裂王国時代さらにイザヤやエレミヤの活躍した預言者の全盛時代=最悪の時代、そして捕囚期、中間期、さらにはパウロの活躍した第一世紀中盤からヨハネの黙示録に至るほぼ1500年間という長期間です。

  ●次に書いた人物とその言葉を見てみましょう。

  上記にご紹介した長い時代に40人を超える聖書記者たちが聖書を記しましたが彼らが当時使っていた言語も、ヘブル語、アラム語、コイネーギリシャ語となります。ですから聖書は3つの言語(いずれも口語=会話体)にわたり、その語が離された年代はそれぞれヘブル語が約千年、次にアラム語部分が約300年で、最後のギリシャ語は70人訳を含めるとやはり300年となります。

聖書を書いた(記者)人達の人となりも大切です。聖書に収録編纂されている聖書を記録した人物たちの、職業も、王様から高級官僚や祭司レビ人という宗教家、漁師や天幕職人、医師、農業、奴隷、牧畜業、貴族、妃、妾、遊女、盗賊や異教の祭司等と実に多様で多岐にわたる職業の人物達の言葉が聖書に記されているのです。 

  ●最後に聖書が書かれた場所も見てみましょう。

  聖書が実際に書かれた国も遥か当方のペルシャからバビロン、シリヤ、バレスチナ、エジプト、小アジヤ半島、ギリシャを経て、イタリヤのローマに渡る地域で、これらが当時の主要世界全体に広がっていることに驚きます。

●結論

  お分かりでしょう、こんな長期に渡り、様々な立場の人々が全く何の連絡も打ち合わせも無く記録されたものが聖書という書物なのです。聖書を記した人たちは一部の例外を除いて、彼らは互いにそれぞれは人間的な共通性も脈絡も連絡そのものもありません。しかし、彼らは自分の記した言葉の中にその時代に既に記されていた聖書に介して 「聖書は神の霊感を受けて記された、神の言葉である。」と言う主張を随所に散りばめているのです。

  「神が言われた。」「ヤハウエの御告げ」「主の宣告」「神の言葉を聞け。」などと連呼されているのです。

 ■バラバラに記された聖書の記録をあたかも聖書解釈の基本は聖書全体を神の著作物として一元的に扱います。■

 具体的には、使われている聖書の言葉の全てに対して、神の意志が表されているものとして同等の評価を与えます。ということは、聖書を研究するに当たって、誰のどの書物でどの時代の人であっても、その人のスキルや教養や霊性等のでその人の発言の評価やランク付けはしません。

  ●この前提があって初めて聖書語句索引の重要性が認められるのです。●

  そう、遊女の言葉も預言者の言葉もモーセやダビデや漁師や取税人の言葉も全て完全に対等に取り扱います。

 という事は聖書に使われている言葉の単語が大変重要な意味=その言葉の意味がどういう使われ方をしているかは、単に各個人モーセ、パウロ、ヨハネなどという個人レベルではなく、聖書全体のその語の用例を網羅しそれらを列挙して対等に扱い、その意味を確定するのです。

  ■語句索引の実際の使い方■

  具体的には、なにか一つの言葉を調べるとするならば、その語をコンコルダンス(聖書語句索引)で調べ、その語が使われている箇所を全て列挙し、それぞれの場所でどういう意味かを分析し、それらを統合してその語の聖書中における全体の意味とその部分に置ける意味を確定するのです。

  語句索引には日本語の訳語で作られたものや英語の物が有ります。大切なことは、それらの何語の聖書語句索引であっても、編集が聖書の原語(ギリシャ語やヘブル語)によって分類されている物でなければ無意味です。単に、何処に在るか分からない聖書の言葉を探す、索引ではありません。

  この神の霊感を受けた聖書のその当該箇所の言葉が、聖書の他の箇所ではどの様な使い方=聖書中での意味を調べ、分類し、その分類の中でその箇所が何に該当するかを自分で見つけるために最も大切な道具が聖書語句索引(コンャルダンス)なのです。

   ●これが、聖書解釈の一番最初に行うべき基本作業なのです。

 ★勿論、良い聖書用の原語のレキシコンには、当然全単語に対して詳細にこの作業がされています。 そして、その結果が使用頻度の多い順に分類されてレキシコンに記されています。

   しかし、いくら偉い学者がやってくれても、他人がしたものと自分がした物では得る物が違います。辞書をしっかり読みこなす事も大切です。しかし、辞書を編纂した学者と同じことを自分で実際にやり、その確認をしてみることがやはり聖書研究の第一歩なのです。 

 ★自分でこの作業をしてみる時、時間はかかりますが、随分と得ることの多い事が分かります。私も神学生の期間や牧師になって20年程は説教に当たっては必ず原典を読み全ての単語に対してこの作業をしてきました。徐々に調べる単語はへり、最近は殆ど必要なくなりましたがそれは長い蓄積が合ってのお話です。

 ■例えばヨシュア記のエリコの町の遊女「ラハブ」と言う言葉をみると先ず動詞形や名詞形に加えて固有名詞や女性名詞などがあります。初期の法則を当てはめると創世記6章15節の方舟の「幅」として使われています。それ以後町の「広場」になったり幕屋の「横幅」や宮やその備品の「横幅」に関して使われている事が分かります。それもかなりの幅広の物に使われています。ですから、もしかしたらラハブはかなり太めの女性で、そのあだ名が「太め」と言うことであったようです。エリコの町を彼女が裏切ってイスラエルの国に加担して売国奴となったけれども、それは彼女が住んだエリコの町で彼女がどのような立場にあったかを彷彿とさせてくれるのです。

  ★「太め=ラハブ」と言う呼び名や「遊女」と言う職業、そして聖書に記されたエリコの町での彼女と町の人のやり取りや、ためらいも無く町の人々を裏切る辺りから、彼女がエリコの町の中で決して幸せではなかったという姿が忍ばれます。

  職業や一族の町での孤立を思うと、遊女ラハブ(広いor太め)という名は蔑まれ陰口を叩かれていた女性であることを思わせます。この嫌われた女性が、唯一エリコの町で神様に選ばれしかも、イエスキリストの先祖として聖書に名を残していることが分かるのです。イエスキリストの先祖として登場する罪深い女性たち(ユダの子を孕んだ息子の嫁タマル、ボアズに夜這いをしたルツ、ダビデと姦淫したバテシエバ)の一人として聖書に遊女ラハブの名が記されている事の意味をより深く知ることが出来るのです。

  こんな風に聖書の言葉を一つ一つ原語からコンコルダンスで調べると、余程時間や能力があっても一週間に調べられるのはせいぜい1節程度となります。一節に登場する語は20~30あります。その一つ一つを調べるわけです。聖書中にその語が登場する回数は、千回程度の物や数百回程度の物、数十回、そして在る物は数回となります。

  それらをコンコルダンスで引いて、その登場する箇所の文脈を見ながら用例を分類するのは実に大変な作業です。そのような地道な原典聖書研究を20年、あるいは30年続けると自然に聖書に登場する大抵の言葉をコンコルダンスで調べ終えてしまいます。そうすると、ようやく聖書の中の一つ一つの言葉がどの様な意味の語で在るかという概要がおぼろげに掴めると言う事なのです。

  単語の意味が正確に掴めれば聖書解釈は殆ど出来てしまった様な物です。

  と言うことで今日は、「聖書が人間の言葉であり同時に神の言葉である。」という観点から聖書研究の実際の方法の第一歩=聖書語句索引(コンコルダンス)の使い方の簡単なご紹介でした。

水星と金星




水星と金星

今朝は頑張って5時起きして、水星と金星を眺めました。最初の写真は6時に自宅から見た東の地平線付近です。金星が分かりますが水星は小さいので分かりません。

  水星も見易い様に次の写真で拡大してみました。

  テレビのアンテナの右の大きい方が金星で左の小さいのが水星です。明日はさらに金星に近づき両者の離角は1°20″の見かけ上の最接近となります。

  この右手の西方の蠍座のアンタレスの近くには木星も元気に輝いています。その次の写真は木星です。

  ここ数日は晴れれば連日早起をする事になりそうです。

牧師執務室にある機材




 明朝は晴れそうなので、早起きして水星と金星の接近を観察したいと思っています。それに、畑の草取りや教会の周囲の藪もすこし手を入れなければなりません。一日野良仕事です。というわけで早寝しなければなりませんので今日は手抜きで、教会のホームページからの転載です。

  川西聖書教会の牧師執務室にある機材の一部を簡単にご紹介しましょう。 
先ず第一にご紹介するのはパソコンです。

  富士通の業務用FMV-W630と言うタワー型でもう4年になります。CPUはPentium4プロセッサ、メモリは1GB、ATI Radeon (TM)X800XTに加えてHDDフロントアクセスユニットが装備されています。教会の様々な週報などの印刷物は勿論、沢山在るホームページや北米のフィラデルフィアの会社に業務委託してあるサーバーもこれで管理しています。インタ ーネットには右の写真にある装置の先は光ファイバー回線でLANで接続しています。他に同じく富士通のライフブックが2台あり、一台はバックアップ用で、もう一台はモバイル専用にしています。レーザープリンターはMinoltaのMagicolor 2300DLで大変調子よく動いてくれています。

 その次はオーディオセットです。

  パソコンとデイスプレイの間に在るのがMaranthのプリアンプ3600Bです。ターンテーブルはVictorのJLB44でpickupはAudio-TecnicaとSonyのXL15を主に使っています。CDplayerはTEACのPD-H300、カセットデッキはTRIO KT-5P です。チューナは電波の受信状態が悪いので繋いでいません。メインアンプは LUXMANのMQ3600の真空管アンプとサブにLo-D HA-J1です。 メインスピーカーはオンキョウのモンスターケーブルを経由してTechnics SB-6 サブが同じく普通のモンスターケーブルでTANNOY の Mercury MX1に繋がっています。いずれも相当な年代物で出来る物は自分で調整し、難しい物は直ぐ近くに住んでおられるステレオサービスの今井さんにお願いしています。

最後はアマチュア無線のトランシーバーです。

右の写真のスピーカの上に在るのがそれです。井上電機製作所 などと言うと年が分かってしまいますが ICOM IC7105です。C1用の電鍵は大昔に清水市に本社のあった電通精機のNKY-4です。防衛庁規格大理石ベースの縦型電鍵で大変珍しい物です。 免許状が失効してしまい、今は送信出来ないので受信専用です。アンテナは12メーターhighの40メーターバンド用の逆L型λ /2の物で感度は良好です。倉庫にはさらに年代物の八重洲無線の最後の真空管トランシーバーFT-102やVFOが3台にカンテキ(?)も有りますがこちらはもう使う事は無いのでヤフオクにでも出品しょうかと思っています。

今週の直訳(歴代誌第二26章~29章)

今週の直訳(歴代誌第二22章~29章)

  今週の直訳も予定どおり進みました。以下が今週の直訳へのリンクです。

以下の4つはヘブル語原典から歴代誌第二26章から29章の直訳です。

http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch26.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch27.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch28.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch29.htm

以下の4つは同一箇所の70人訳ギリシャ語原典からの直訳です。

http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch26.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch27.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch28.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch29.htm

明日の礼拝のプログラムはこちらです。

http://bible.ne.jp/service/2008/02/24/

 ★今週、聖書原典を読んでいて、その中で特に一カ所興味深い箇所が有りましたのでご紹介します。

以下がその該当箇所のヘブル語からの直訳とギリシャ語70人訳からの直訳です。

■ヘブル語歴代誌第二29章22節
22 ・ そして彼らは畜殺した その 獣群(牛) そして彼らは徹底的に受け取った その祭司ら を その 血 そして彼らは撒き散らした その 祭壇 そして彼らは 畜殺した その 牡羊ら そして彼らは撒き散らした その 血 その 祭壇 そして彼らは畜殺した その 子羊ら そして★彼は撒き散らした その血 その 祭壇

▲ 70人訳 歴代誌第二 29章22節

22 ・ そして 彼らは生贄した その 子牛らを 、そして  彼らは受けた その 祭司らは その 血を そして 彼は方に注いだ(ヘブル語=撒き散らした)  上に その 祭壇。 そして 彼らは生贄した  その 牡羊らを、 そして 彼は方に注いだ(ヘブル語=撒き散らした) その 血を 上に その 祭壇。 そして彼らは生贄した の 子羊らを、そして ●彼らは周囲注ぎした(ヘブル語=撒き散らした)その 血 その 祭壇に。

★一体何が興味深いかと言うと ヘブル語■の ★の箇所の「撒き散らした」が70人訳の▲の ●の箇所には「周囲注ぎした」となっていることなのです。この部分(歴代誌第二29章の22節)のヘブル語の原典の原文は「彼は★「撒き散らした」なのです。直訳でこの前の方の節を含めて見て頂くとに「撒き散らした」と言う言葉3回連続して使われています。

所が、70人訳のギリシャ語は前2回は撒き散らしたなのに、三回目だけが 「彼らは周囲注ぎした」と言葉が変えられているのです。

その原因を見る為にこの第二歴代誌の22章の「祭壇の奉献」が最初の大祭司アロンによってなされた箇所のレビ記の8章19節のヘブル語原典を見てみると、何とそこだけ以下の様に★「祭壇周囲」と周囲と言う言葉が入っているのです。 そしてその箇所の70人訳にもやはり「周囲」と言う言葉が入っています。

以下参照。

■ヘブル語直訳
レビ記8章19節  19 ・そして彼は屠殺した そして彼は撒き散らした モシエ を その血 上 その祭壇 ★周囲 
▲70人訳直訳 
19 ・ そして 彼は屠殺した モーセ その 雄羊を、 そして 彼は方に注いだ モーセは その 血を 上に その 祭壇 ●周囲に。

★一体、この点の何が興味深いかお分かりでしょうか? そう、歴代誌第二の 22章をヘブル語からギリシャ語に翻訳したであろう人物は、単に「歴代誌第二ののヘブル語の原典だけではなく、それをレビの8章のヘブル語原典に合わせて翻訳した」と言うことなのです。

★これ、実は大変重大な事が分かるのです。「 70人訳の歴代誌の第二がヘブル語からギリシャ語に翻訳された時には、レビ記のヘブル語テキストが読まれているか、あるいは参考にされていた。」 という与え前のことが判明するのです。

事の重大性がお分かりでしょうか? レビ記はJEDP文書資料節では、典型的P資料で執筆されたのが一番遅い捕囚記後のかなり遅い時代ととされているのです。

  そして、70人訳の歴代誌は紀元前240年頃には訳出されていることが判明しています。 と言うことはJEDP文書資料節は、70人訳聖書の内部証言からみると、「怪しい仮説である」と言うことが判明していると言うことなのです。

  と言うことで、今週の聖書原典の直訳から当たり前のことがよく分かる興味深い箇所のご紹介でした。

満月 (月齢15)


満月 (月齢15)

 今日は満月でした。奇麗だったのでまた倉庫から望遠鏡を持ち出して覗いてみました。

 北米やヨーロッパでは今日は月食がみられた様ですが日本では見ることは出来ませんでした。

 月のおよそ6倍位北に離れた所で、丁度土星も奇麗に見えていました。今度の月曜日(25日)には衝(一番地球に近い所にくる)でこれから観測の好機を迎えます。

 撮影機材は以下です。
ビクセンの口径6センチ焦点距離900㎜の屈折
20ミリのアイピース倍率は45倍
ソニーのサイバーショットDSC-P-100 (5.1MP)
兵庫県川西市西多田 2008年02月22日 01時0分
 

聖書解釈の前提

聖書解釈の前提

  さて、今日は聖書を解釈するにあたって前提となっている「前提」のお話をしてみましょう。皆様は全世界のキリスト教会の基本信条であるカルケドン信条についてお聞きになった事がお有りでしょうか?

 これは使徒後教父の時代にキリスト教会が直面した異端アリウス派と正当派アタナシウス派がその正当性を争って開催した世界的なニケヤ会議(325年)318名の代議員を擁しコンスタンチノープルの対岸ビテュニアのニカイアで開催された教会会議の、後130年を経た451年に600名の主教が参集してカルケドンで数次にわたり開催された大きな教会会議で採択された信条です。 

  カルケドンの教会会議の議場で話し合われたのは「キリストは人間であるのか神であるのか」という極初歩的な問題であったのです。まあこの点に関しての詳細はあまりに膨大なため割愛して、結論だけを以下にご紹介します。

  カルケドン信条最重要部抜粋

 そ(キリストの神性と人性)は、混淆せられず、変更せられず、分割せられず、分離せられずして承認せらるるべきなり。

 「こんなワケワカメの信条になんの意義があろうか。」と言わないでください。実はこれがやはり現在においても、キリスト教の聖書学、組織神学、教会論、はたまた伝道学においてもやはり最重要な認識の基本であることに変わりは無いのです。いやむしろ、今日こそこのカルケドン信条の結論こそはその重要性を増しているのです。

 今日は、聖書解釈の前提をお話しするのが目的なのですが、まずこの信条で示された、「キリスト論」の結論を「現実の教会論」に当てはめるとどうなるかを、一言でご紹介して本論に入りたいとおもいます。

  このキリスト論に関するカルケドン信条を教会論に当てはめてます。

 これは「教会とはナンゾヤ」という認識の原点なのです。カルケドン信条の文言の「キリスト」を教会に置き換えてみるとその重要性が分かります。

  そうキリスト教会は「全き神の教会」であり同時に「全き人間の教会」であり、その「神人の両性質は混ざらず、変更も、分割も、分離も無い。」ということなのです。

  すこしこれを 具体的にしてみましょう。神の教会の神性には「教会の完全性、聖性が要請」されます。即ち「キリストの教会に罪や汚れや誤謬はあってはならない」のです。しかしそれとうらはらに教会の人間性には、「キリスト教会の不完全さ、罪、汚れ堕落、犯罪など」が含まれ間違いだらけの教会がそこには明示されています。

  この信条によると「このキリスト教会と神性=聖さと 人間性=堕落は全く反対のものであるにも関わらず、混ざらず変更されず、分割も出来ず分離も出来ない。」と言うことを教えているのです。 

  しかし、多くのクリスチャンはこのカルケドン信条の意味することに無頓着です。教会や聖職者やそこに集う信徒に神性=聖性=完全を要求してしまい。現実の人間的醜さや欠点を許容する事が出来ない事が多いのです。またその反対に教会が堕落した人間の集団であることにだけ囚われて、聖い神の教会出あることが分からないのです。 

  なにも知らずに教会に集う初心者には「現実の教会の醜さ」は幸か不幸か隠れています。しかしどんな立派に見える教会でもそこに集う年数を重ねれば何処の教会も欠点や問題だらけであることが判明します。 その時が、この信条の出番なのです。現実の教会にいかなる人間の罪が如実に露呈していてもその不完全な教会が完全な聖いキリストの教会であることをこの信条は教えているのです。 

 この基本を知らない愚かで無知な信者は「この教会はキリストの聖い教会ではない。」と判断して批判し理想の教会を求めて地上の教会を彷徨い歩き、次から次へと教会を取り替え引き換え、その過程で出席する教会の欠点や不完全さや怠惰をあげつらい悪魔(=サタン=中傷する物の意)になって次から次へと教会を破壊しながら教会を渡り歩く問題信者になってしまうのです。

  そう、このカルケドン信条はそのような理想の教会と現実の教会の関係を定義しているのです。 カルケドン信条の文言を現実の教会に適用すると「どんなに不完全で汚れたキリスト教会であっても、それはキリストの十字架の贖いの故に神の目には完全で全く傷の無い聖なる教会と見なされている。」という信仰告白に取り替えられてしまうのです。そして同時に、「どんなに完全で聖く見える教会も神の目には間違いだらけで神髄まで頽廃した不完全な人間の集い」にすぎないのです。

 これがこの「キリスト論=キリストは神=完全か、人間=不完全かその関係は何か」という教会の最重要な問題に対する結論の実際の信仰生活における意味ナノです。

  さて、ここまでお話しするとこのカルケドン信条が聖書解釈にも関係していることがすこしご理解頂けたのではないでしょうか。

 そうこのカルケドン信条を聖書に当てはめると聖書の解釈に関する明快な回答が示されているのです。

■聖書は神の言葉かそれとも人間の言葉かという二律相反の疑問に光を与えます。 

  結論はお分かりでしょう。そう「聖書は全き神の言葉で、同時に全き人間の言葉」なのです。この両者の関係はカルケドン信条のごとく「混ざらず変更されす分離されず分割分離は出来ない」と言うことなのです。
 
●だから聖書もキリストや教会と同じく「神性=完全性」と同時に「人性=不完全性」が同居していると言うことなのです。

  これが、じつは聖書解釈の前提なのです。「聖書は神の言葉であるから、完全で基本的に不完全な人間には理解不可能な天的で崇高で完全な物」なのですが、同時に「聖書は人間の言葉なので様々な相違や欠陥が見られるが、人間の普通の文学的手段を通して解釈し理解できる」と言うことなのです。

( 注:聖書の完全性と無誤性に関してはあくまでも「霊感をうけた預言者や使徒の自筆による原典」に限定して論じられています。その自筆原典は喪失し現存するのはあくまでも人間が書写した写本で、この写本には当然、転写ミスや虫食い部分の復元ミス等の間違いが存在します。)

 だから聖書解釈には普通の一般の文学と同じ方法論「=歴史的文法的な知識とその適用をもって理解できる。」ということがこのニケヤカルケドン信条の聖書解釈への適用ということなのです。

 ★ということで、この聖書を理解するには人間の理性で、まず語学を習得し、著者の預言者や使徒の生い立ち性癖、言葉の用法などを知り、更に彼らが生きた時代の一般教養と文化、地理、政治、宗教的実情を知り、そして初めて人間の言葉として記されている聖書の記述の理解を行う事が大切です。

★しかし、同時に神の言葉ですから、その記述されている出来事や文言を通して全智全能の神が何を人間に啓示されているかをしる為には、やはり天的な啓示、あるいは霊の閃きを与えられた者のみがそのみ言葉を正しく知りまた伝える事ができるということなのです。

  ですから、「聖書を理解しようと心ざす者」はこの「両方の資質を会得する必要」があります。

  聖書言語=ギリシャ語とヘブル語に関するほぼ完全な素養と熟練、そして当時の文化習慣や地理、経済、政治生活全般に対する素養を習得することです。しかし、それらが完全に出来たとしてもそれは聖書理解の端緒を得たに過ぎません。今の時代、そこに生きる人たちに聖書が教えている「神様の言葉=意志」を教えるには、どうしても神様と霊的な関係が健全に維持され、神様に啓示を受けて示されて初めて人々に聖書を聖書相応しく語り伝えることが可能となるということなのです。

  そして注意しなけならないのは前者=「聖書の人間性」は人間の理解や知識によって判断することが可能です。しかしもう一方の後者=「聖書の神性」である聖書=神様の意志がその人を通して語られているか否かは神様ご自身以外の何者をしても知り得ることは出来ないと言う事なのです。

  大抵私たちはこの聖書解釈の二面性のどちらかだけに目を奪われ勝ちです。実際にはその「神性、人性の両面性がバランスよく満足されて初めて聖書解釈が出来ている」と言うことなのです。

 こんな不可解な事(=聖書が神の言葉であると同時に人間の言葉である)なんてとても信じられないと言う方の為に、不適切かも分かりませんが簡単な例をあげて見ましょう。

  ここに理想の一枚の紙切れがあるとします。その片面に「聖書は神の言葉」と書いて下さい。そしてその裏面に「聖書は人間の言葉」と書いて下さい。さてこの一枚の紙の表と裏を混ぜて下さい。この一枚の紙の表を裏に変ええて両方裏にして下さい。この一枚の紙を表と裏に分けて下さい。できますか?理想の紙と言いましたがそれは薄いけれども表が裏に映らないほどに字が書けるといういみです。理解できなくとも現実の世界にはこの様な二律相反の実相が沢山存在しているのです。たとえば、私は親にとっては子供であり子に取っては親なのです。私の親の部分と子の部分は分けれないのです。

 聖書の解釈も同様です。聖書は一般の書と同じく人間の言葉です。人間的聖書語学や背景に関する研鑽学位知識に対する無視も偏重も問題です。しかし、聖書は同時に神の言葉と主張しているのです。だから、聖書を単に人間的方策だけで解釈する事は出来ません。 もう一方の霊性には柔和や祈り深く神秘的という一面に対する理解と資質が必要なのです。その両面の何方に対しても無視したり、偏重する事は明白な間違いナノです。
  
  聖書を正しく解釈するにはこの二面性とそのバランスが大切であるということを知って極端な聖書背景知識語学の偏重や無視をさけ、また霊性に対しても軽視や偏重をさけてバランスのとれた聖書解釈を志すことが肝要なのです。

聖書解釈の原則

聖書解釈の原則

 聖書解釈にはいくつかの原則があります。以前ご紹介した「初期の法則」さらに「啓示の漸進性」などですがそれに加えて「聖書の自己完結性」と言うのがあります。それは「聖書を解釈する最終的権威は聖書自身である。」と言うことなのです。何か難しい言い方をしましたが、端的にいえば「聖書は比類なき権威があるためこれを評価するに足る他の文献など存在しない。」と言うことなのです。 

 まあお釈迦様が産まれてきたときに片方の手で天を指し示し、もう一方の手で地面をさして「天上天下唯我独尊」とのたもうたと言うのと同じ意味で、「聖書は聖書によってのみ解釈されなければならない。」と言う聖書解釈の基本原則かとおもいます。

  聖書は宗教の教典としての点だけを捕らえても、世界三大一神教(ユダヤ教、キリスト教、回教)の教典としての地位は歴史的に見ても、また信者数をみても比類ない権威は不動です。

 実際問題、この聖書に比類されうる古典は世界のどこにもありません。質、量、を初め、考古学的例証の厖大さに加え、発見された現存する聖書自体の写本群の質と量と膨大さに加えて世界的影響力の過少をみても、世界のどの国にも聖書に比較し得る程の権威在る書物は存在しません。翻訳の膨大さに加えて講釈や引用の膨大さも他に類をみないのです。だから聖書を解釈するに足る、あるいは絶対的基準となる標準的聖書解釈の著作物はユダヤ教の長い歴史を含めて歴史上に登場して来なかったと言うことなのです。

  この「聖書を解釈するには聖書以外に何物も無い」と言うことがお分かりいただけたかと思います。

  だから、この「聖書は聖書によってのみ解釈されなければならない。」のです。所でこの聖書解釈の基本原則は、具体的には「聖書の難解な箇所の意味は同様の他の聖書の記述によって解釈する。」と言う事になるのです。

  実際にその具体例をふたつご紹介しましょう。最初は「ケルビム」次が「終末論」を例にしてご説明します。

  聖書にしか登場しない「ケルビム」とは何かと言う疑問に対しては、まず聖書の中に在る関連記事を列挙することから始めます。

  ケルビムの聖書中の関連箇所は以下です。

  創世記3章24節、出エジプト記25章18~20節、35章37~39節、列王記第一、6章23~28節、歴代誌第二 3章10~12節、イザヤ6章2~3節、エゼキエル書1章4~14節、9章1~10章22節、黙示録4章6~8節 です。

  これらのケルビム(ケルブの複数形)に関する聖書箇所全てを総合してみるとこうなります。「ケルビムとは一体で2顔6翼の全面が目で覆われ、2体で対をなす人=人、獅子=王、牛=僕、鷲=神の四面の有翼天使である。」という風に関係箇所を通覧して異動を調整し総合して理解するという方法をもって通常聖書は解釈するのです。

  聖書解釈に関しての問題は何処と何処を関連箇所として抜粋するかと言うことが問われてくるのです。ケルビムであれは事は簡単ですが、もう少し複雑な問題の解釈となると事は単純ではありません。先ず最初の問題は何処を関連箇所とするかが大問題です。

  その関連箇所の選択も問題ですが、関係あるとした関連箇所の相互の関係を整理して纏めることは決して簡単ではありません。かなり煩雑になってしまう場合が殆どです。

  その最大の混乱はもう一つの箇所「終末論」に見ることが出来ます。

  終末論に関する聖書箇所の主要部分はだいたい以下です。 

  ダニエル書やエゼキエル書に加えてマタイの福音書の24章、テサロニケ第一5章や、黙示録、これらは厖大な箇所になるためそられの箇所の関連づけはかなり混乱し一致すくなく相違が顕著です。聖書の終末論は聖書解釈上で最も不統一な見解がなされています。

   一番問題になるのは、その聖書の終末論の中心と成る千年王国をどう位置づけ、どう考えるかと言う点に絞られます。

  この千年王国という神が支配される国に関して、大きく異なった3つの理解が有ります。それらを大まかに順次記して見ましょう。 

まず最初にご紹介するのは■ポストミレ(千年期後キリスト再臨派)で第一次世界大戦前のヨーロッパ特にルッター派のドイツ国教会やカトリック教会の支配するフランスやイタリヤに隆盛を究めました。

  この終末論の立場は、要するに「全世界にキリストの福音が宣教され建てられた教会は健全であり続け、ユートピア=千年王国が出現し、その後キリストが再臨し、福音によって救われた地上の全人民は新しい天地にそのまま移される。」 と言うものでした。まあ別の言い方をすると万人救済論に近く、一番人間に受け入れられ喜ばれるものでカソリック教会やバルト、ブルトマンに代表される自由主義キリスト教もほぼこの立場に分類できるかと思います。

  しかし、残念なことに第一次世界大戦を経験し悲壮な戦場となったヨーロッパのキリスト教国、特に激しい戦闘が行われ戦場となったドイツやフランスに加えてイタリヤ、スペインでは戦争によって、このユートピア思想があまりに現実離れした単なる理想論である事を思い知らされました。そして、もはや現在においてこのポストミレの立場を21世紀に至っても堅持表明しているキリスト教会は存在しないと言うことができるかとおもいます。

 第二は、その第一次世界大戦以前にはあまりはやらなかった■プレミレ(千年紀前キリスト再臨説)ですが、あの世界大戦で地上の地獄を経験したヨーロッパキリスト教国は「現在、あるいはある時代が艱難期であると主張するプレミレの解釈に傾倒しました。特に第一次世界大戦で直接戦場とならなかった戦勝国英国や米国にこの教えは広まりました。

  そして、英語圏の国で、あまりにこの教えはが流行って、大戦後の疲弊したキリスト教国にリバイバル(信仰大復興)が起きたため、他のキリスト教会との差別化による信者獲得競争が生じてしまいました。その為神学(聖書解釈の差別化)が教派宣伝=信者獲得に利用されました。 

  そのポイントは千年王国と艱難期の関係で以下の3つの解釈がなされたと言うことなのです。 

  ● 艱難期前キリスト再臨説では、神様に従う教会は艱難期前に空中再臨したキリストによって空中軽挙され艱難期を経ずして新天新地に移される。そして残された不信仰者は艱難を通して悔い改め入信に導かれる。とう言うものが主流です。

  ●艱難期中キリスト再臨説は、教会はある程度艱難期を経るが破綻前にキリストが再臨されるというもので他は艱難期前キリスト最隣接と同様か、あるいは地上に千年王国が建設され平和が実現すると言うものです。

  ●艱難期後キリスト再臨説でこちらは地上の教会は艱難期をへて後キリストが再臨され地上に千年王国が作られると言うものです。これらに空中軽挙の有無による差別もなされ各教派、牧師によって実に変幻自在の解釈がなされています。

  以上が、千年紀前キリスト再臨説(プレミレ)の概略です。 実際にはこれらの順序はバーツ(再臨、艱難期、空中掲挙の有無、サタンの呪縛等々)の配列順序には数学的に可能な限りの多様性が開花して、まるで百花繚乱の様相です。

  こちらのプレミレは最初に申しましたように英国系の教会(聖公会、アルミニウス主義、ホーリネス、メソジスト、聖霊諸派=カリスマムーブメント系)教派に多く見られます。その特徴は英語に翻訳された聖書を読み続けている教派と言う点に見いだされます。英語はギリシャ語やヘブル語と時制概念が大きくことなる為、そのようなプレミレ諸派に見られる時間配列の厳格化(原文にはそんな記載は無い)による多様な聖書理解が成立してしまうためと思われます。

  最期に残っているのが■アミレ(無千年王国キリスト再臨説)の立場です。こちらは簡単で千年王国も艱難期も無い。逆に言うと、いつでも=全時代はキリストが完全に支配される千年王国で、それは人類歴史の初めから現在に至り存在している。また同時に艱難期=信仰者がいわれなき苦難を受ける時代も最初の人間のアダム誕生とその堕落後のカインによる弟アベルの殺害以来、悪による善に対する地上での勝利は連綿と現在に至り地上に出現(=艱難期)していて、突然のキリストの再臨によって現天地は終わる言う物です。

  ちなみに私はこのアミレの立場を取っています。こちらは大体カルバン派、ウエストミンスター信条を表明して、原典による聖書解釈を実際に進めている教会に多くこの傾向が見られます。

  他にも、この様な解釈の相違によって種々雑多なキリスト教の教派が存在しています。ただ、これらの教派の特質はそれぞれの教派が普段読んでいる聖書の言語がなにかと言う点で分かれているというのが基本です。

 ポストミレはヨーロッパの母国語(ドイツ語、フランス語、ラテン語系=イタリヤ、スペイン、ボルトガル等)に訳されて聖書が読まれた結果。

  プレミレは英語に聖書が訳出されそれが読まれた結果。

  アミレはヘブル語やギリシャ語の原典で聖書が読まれた結果と言うことが出来ます。

  まあ、そこから分かることは聖書解釈は、一体何語に訳出された聖書を読むかと言うことが問題になっていることが分かるのです。余分ですが日本語の聖書は英米の聖書協会の資本で英訳に準拠して訳出されていますので日本語の聖書を読んでいると何時の間にかプレミレにされてしまいます。

  以上ご紹介した終末論に関する多様な解釈に関する結論は明白です。終末論で一致しているのはキリストが再臨されると言う点だけで後は様々な立場の人々によって、全く異なった理解がされ、これらを話題にすることは多くの教会でタブーとなっていると言うことです。

  まあ、この終末論に関して牧師さんや、教会や学者さんに神学の議論を吹きかけるとひどい中傷や排斥の仕打ちを被る可能性が大きいので、触れないと言うことが現在の諸教派、教団間の不文律紳士協定となっているほどです。


  結論は明確です。「聖書は聖書によって解釈する」そして出来れば「ギリシャ語とヘブル語の原典で読む」と言うことが最終的に聖書解釈の到達点と言うことです。

破壊的聖書批評学の目的

破壊的聖書批評学の目的

 先日、このブロクにいわゆるJEDP文書資料説を信奉しておられるかたのコメントがありました。結構この問題の本質を神学や聖書学の神髄と誤解している方がありますので、此処にそれらの破壊的批評学の真の目的を簡単にご紹介しておきます。

 この破壊的聖書批評学は「聖書を歴史的に検証する。」と言うのが宣伝文句となっています。その「歴史的に検証する」と言う事を彼等自身に当てはめてみると事の本質が理解できるかと思うのです。

  まずこの「JEDP文書資料説」を歴史的に検証してみましょう。

 これらは18から19世紀に生きた牧師になり損ねたヘーゲルに端緒を発するドイツ観念論の聖書学への適用です。これらが自然科学に当てはめられたものが進化論、更に社会学に当てはめられたものがマルスクレーニンによる社会主義思想です。お分かりの様にこれらはいずれも行き詰まってしまいました。 進化論は現在はキヤタストロフイック「=激変論=地球外天体と地球との遭遇による激変」による生態系の変化の評価に直面し、過去の斎一論(隕石や彗星衝突の証拠が地上に無い)と言う学説が1990年代に始まったチクシュルーブクレーターを初めとする超巨大衝突痕跡の発見により、根底から見直しを迫られています。

 社会学も共産主義は最も進んだ物々交換に始まる人間社会の究極の理想どころか最悪の経済システムとして破綻してしまいました。そしてこの思想で唯一幅を効かしているのがヴェルハウゼンに始まったJEDP文書資料説に見られる宗教学的進化論(素朴なアニミズムが進化し、中央聖所が出現し、最終的にヒエラルキーの発達した祭司階級が出現するように進化する。」という観念的信仰理解なのです。

  以上のご説明によって、これらの破壊的聖書批評学に対して、反論する事自体がお粗末であることがお分かり頂けたかとおもいます。 

 さて、今日皆様にこの問題を取り上げて見たのは、それらの表象的な破壊的聖書批評学の批判をするためではありません。

最初に申しましたように、「破壊的聖書批評学の真の目的」をご紹介すると言うことなのです。

それは、この批評学が始まった当初の時代背景を歴史的に考証すること..皮肉なことにこの方法が破壊的聖書批評学の方法論なのですが、これを「破壊的聖書批評学自身に当てはめてみる。」とことは単純明解になると言うことなのです。

事の始まりは一人の人間でした。ユリウス・ヴェルハウゼンなんて言うお名前は大抵の方はご存じ無いかとおもいますが、要するにこの破壊的聖書批評学の教祖様と言うことで良いかと思います。

 お名前から分かるように20世紀初頭にドイツの名門ゲッチンゲン大学で教鞭を取った旧約聖書学者です。

さて、大学の教授は一体何で生計を建てているかはご存じでしょうか。大学のお給金、そして講演料、更に出版する本の印税です。そしてこの当時のドイツは第一次世界大戦前で中東全域を支配していた同盟国のオスマントルコと大変良い関係に有りました。しかし勃発した第一次世界大戦で連合国に敗北してしまいました。

それまでドイツの大学は友好関係にあったオスマントルコ帝国の広大な領土にある中近東に学術調査隊を派遣して、様々な文献や、遺跡を発掘しそれらを祖国に持ち帰り、或るものはオークションで現金に換え、また或るものは国威高揚のために博物館に納入されていました。そして意味不明の文書やオストラカはドイツの諸大学..ほとんどは国教であるルター派の神学大学に持ち込まれ、そこで解読され、翻訳出版し大学の教授を初め学的権威によって優秀な学生を世界から集め隆盛を究めていました。しかし、中東の支配権を振興英国に奪われドイツの大学は貴重な収入源となっていた中東の考古学的文物を入手出来なくなってしまったのです。

  これはドイツの大学やその経営者達にとって死活問題でありました。そして教授達も本を出版して設けることが出来なくなり、大学から支給される僅かなお給金以外に収入は無くなり生活が苦しくなってしまったのです。

 どうしたら、「考古学的調査無しに本を書きそれが売れるか?」というのが当時のドイツの聖書学者たちの根本命題でした。 

それを解決したのがスーバースターのヴェルハンゼン教授だったのです。彼は手元にある聖書のテキストを適当なキーワードであるJEDPと言う単語で勝手に聖書を分解して新奇な学説を吹聴しました。そして、戦勝国である連合軍側の敵英国の大学であるオックスフオードやケンブリッジを初めとする諸大学の教授たちが入手するパレスチナの考古学てき発見を、無力化し、自分たちの権威を維持し、なお金儲けが出来る方便を発明したのです。

それがこの、破壊的聖書批評学の発端です。だから実際には時代考証、あるいは考古学的と言う見せかけとは裏腹に、一切の考古学的な発掘や検証を経ずしてこの学説は構築され、まさしく観念的な人間の思い込みや想像に基づいて聖書をセンセーショナルに分解し、既成の神学者が批判に対抗する為に上手に本を買わせて儲けるという神学版錬金術の暴挙だったのです。

  さて、この問題がドイツ一国丈の問題であればさほど影響は広がらなかったのですが。中東を支配していた英国も徐々に中近東の支配権を喪失し、皮肉にもドイツが経験した轍が巡ってきたのです。

  多大な犠牲によって連合国が入手した中東の支配権は瞬く間に、中東諸国に民族主義が台頭します。その結果いくら、謀略を駆使しても、中東からじわじわと締め出されて行きました。最終的には、第二次世界大戦によって英米はドイツ同様にすっかり中東の権益を喪失してしまったのです。その回復の為になされているのが現代のイラクやアフガンへの再侵略と言うことです。

 その様な時代の流れの中で、第一次世界大戦の戦勝国の英米の諸大学は折角ドイツの諸大学から奪い取った豊富な考古学的資料の入手権を瞬く間に失う悲哀を嘗める結果となったのです。

豊富な考古学資料をネタに、ドイツの観念論を否定していた保守的な事で知られた英米の神学者たちも、たちまちドイツの神学者と同じ問題=考古学的な資料が入手出来ないので本が書けず収入が無くなると言う死活問題を抱えるに至ったのです。

  しかし、彼らにはありがたいことにドイツの学者たちが作りあげた破壊的聖書批評学がありました。これさえ導入すれば、考古学的資料が無くとも次から次へと斬新な新説が作れ、その新説が破壊的で既成概念を打ち壊す可能性が高ければ高いほど、それだけ書いた本が良く売れるという希望がありました。そして第一次大戦後、中東の権益の喪失にしたがって瞬く間に英国、そして米国の諸大学はこの観念論的聖書批評学の採用に踏み切って行ったのです。

  あの20世紀初頭におきたプリンストン大学の自由主義神学の嵐の背景には背に腹は代えられない経済事情があったのです。今まで英米の伝統的保守派の人々には残念ながら多くの若い神学者達に生活を支えるだけの出版物を維持する事は出来ませんでした。その結果ハーバード、プリストン、エール、と言った保守派の牙城であった名門大学の神学部の実権は瞬く間に自由主義と呼ばれる観念的聖書学派に席巻されてしまいました そしてそれに遅れて日本の東京神学大学や青山、同志社と言った多くのアジアのミッション立の神学部を持つ諸大学にこの流れは波及して行ったのです。

だからこの学派は豊かな生活の原資となる本を売る為に新奇な学説を次から次へと創出し、収入源の枯渇を回避しているにすぎないのです。冒険家が冒険をやめると生活できなくなるので危険を承知で新たな冒険に挑むのと次元は全く同じ事なのです。
 
  もうここまで書けば、事の真相はお分かりでしょう。破壊的聖書批評学は初めから、聖書研究や真理探求が目的ではないのです。新奇な学説を吹聴して、地道な実地調査を省いて、手軽に新学説を構築し、「自分の本を売らんかな」という学者たちの錬金術の秘策と言うことなのです。

そして、彼らの商売の片棒を担いでいるのが保守的な神学大学の学者達です。彼らの急進的でセンセーショナルな攻撃によって自分達が記した退屈な保守的な神学書も売れ行きが伸びるといううま味を知ってしまったからなのです。

  まあ言うならば、批評学派も現代版の北王国アハブ王の時代にバアルに仕えた400人の預言者達と言うことができるでしょう。一部を除いて、彼らの殆どは信念など毛頭無く、自分の収入と出世の為になら、いとも簡単に主義主張を変える強欲なご都合主義者にすぎないのです。 ゛

  その証拠に、この学派の書物はいずれもページ数のわりに価格が高く設定されています。中身ではなく見かけが立派です。そしてその本を書いている人たちも肩書が立派です。しかし、肝心の本の中身はお粗末ナノです。

 こんな、似非学者の言うことを真に受けて、肩書や地位に見る目を幻惑させられ、その主義主張に翻弄され高価な著書を買わされるのは愚の骨頂です。

  誰もこんなお粗末な本を買わなければ忽ち、彼らは生活に困窮し、大学の教授の本来の職務に戻ることでしょう。真剣に地道な考古学的発見にショベルを握り炎天下に肉体労働に従事し汗を流し、古文書の解読に勤しむ事でしょう。

こんないい加減な見え見えの商業主義の神学書を買う人間がいなくなりさえすれば、間違った方向に進んでいる神学等の学問も、本道である歴史的な考証をへた健全な学門への回帰が進むこと間違いなしです。そして心ある者達が心を合わせて、そう祈り続けたいものです。

預言の実際(エレミヤ書)

預言の実際(エレミヤ書)

  さて今日は、前回お約束したように実際の預言者の活動をエレミヤ書を通してご紹介してみましょう。エレミヤ書はイスラエルとユダ王国の歴史の中で最大の山場である「王国の消滅」を実際にリアルタイムに表出している典型的預言書です。

 歴代の聖書研究者は預言者エレミヤに対して「悲劇の預言者」などという形容あるいは称号を与えるほどに預言者の典型あるいは預言者が人々に疎まれると言う、預言者の宿命を明示してくれています。実際にエレミヤ書を原典で読んで見るとヘブル語の原典も70人約のギリシャ語も大変優しい言葉でつづられています。確かに預言者エレミヤは王や国家の指導者たちに厳しい断罪と滅びの宣告という厳しい預言をさせられましたが、彼自身は優しい言葉使いをする方だったのです。ですから言語からみると、初心者向けに最適な書物です。新約聖書のヨハネの福音書や創世記の前半とエレミヤ書の70人訳のギリシャ語は同程度のレベルで初級者でもほとんど辞書無しで読めます。 

  しかし、実際にこのエレミヤ書を理解するのはヨハネの福音書以上に難解です。それは以前お話しした啓示の漸進性と言う原則に縒る通り、旧約聖書でもかなり終わりの時代に啓示されたため旧約聖書中でも最も高度な内容が含まれているからです。

  さて、能書きはこれくらいにしておいて実際にエレミヤ書が書かれた様子を年代順に再構成して以下にご紹介します。エレミヤ書はエゼキエル書とほとんど同時期に記されていますので「エゼ」と略記したものはエゼキエル書、「エレ」と略記したものはエレミヤ書となります。それから同時期の記録としては列王記第二がありますのでこちらは「2列」とそしてエレミヤ記より約200年後の記録ではありますが歴代誌第二は「2歴」と略記しておきました。 

 預言者エレミヤの時代と預言

BC698・マナセ王の即位・・
   ・老預言者イザヤを鋸で切断処刑 2列21:1ヘブル11:37、イザ3:16
BC65?・エレミヤの預言活動開始 エレ1-20章 日照りの預言エレ15:4
BC640・アモン王即位 2列王21:19 2歴33:21
BC639・ヨシュア王即位 2列王22:1 2歴34:1
   ・エレミヤの預言活動、25~26章、47~48章
BC606・ハルマゲドンの戦いにてヨシュア王戦死
   ・エホアハズ即位
BC605・カルケミシの戦いにてバビロン帝国のネブカデネザルが勝利
   ・敗走するエジプト王ネコによるエホアハズ連行
   ・エルヤキム(エホヤキム)即位(ネコによる改名擁立)
   ・エレ27:1、エホヤキムにバビロンへの降伏勧奨 
・■第一回捕囚ダニエル連行 ダニエル1:1
    ・バビロン捕囚70年の預言 エレ25:1、11節
BC601・エレ35:1、36:1、45:1、46:1、36:9
BC600・エレ22:13~23
BC598・エホヤキン即位 (エホヤキム王のバビロン連行)
BC597・マタヌヤ(ゼテキヤ)即位 エレ21:1、37:1、39:15、
   ・エレ38:6、エレミヤの●マルキヤの穴への投下、28:1、49:34
   ・■第二回捕囚エレ29:2、52:28、エゼキエルのバビロン連行
   ・エレ37:21エレミヤ、エベデ・メレクが救出、監視の庭、
BC594・エレ22:18~19、36:30
BC593・5月、エレ28:1、偽預言者ハナヌヤへの死の宣告
      エレ29:1~24~31、偽預言者シエマヤとの対立
BC592・4月5日エゼ1:2、エゼキエルの預言活動開始
BC591・6月5日エゼ8:1、エゼキエルにエルサレムの罪が啓示される
   ・エジプト王サンテイコスがエチオピヤに戦勝 エレ27章から29章
   ・親エジプト派の偽預言者とエレミヤ対立 
BC590・5月10日エゼ20:1 家の長老の来訪と預言
BC589・10月10 エレ39:1ネブカデネザルのエルサレム攻撃開始
   ・平行記事→エゼキエル24:1、2列25:1
   ・エルサレム包囲の一時解除 エレ34:21、37:5、11
   ・エルサレム再包囲 エレ37:16
BC588・エレ32:1→ 土地の権利証の売買
   ・エレ34:1→ゼデキヤ王へ敗北予告と奴隷解放と中止
   ・エゼ29:1→エジプト40年の荒廃預言
   ・10月12日→ラキシ、アゼカの陥落、エジプト援軍の退却
   ・エレミヤの哀歌 エレ34:7、4:1-5、5:22
BC587・3月1日 エゼ31:1 パロの滅亡の預言
   ・4月9日 エレ39:2 ★エルサレム陥落★=2列25:3~7
   ・5月7日 2列25:8 詩篇137:1-9・エルサレム神殿の破壊(ネブカデネザルの19年)
   ・5月10日エレ52:1、29、12、■第三回バビロン捕囚
BC586・1月15日 エゼ32:17 エジプトの墓化の預言
   ・12月1日 エゼ32:1 エジプト王パロの為の哀歌
BC581・エレ52:30 残留ユダヤ人の去就 エレ39:10 2列25:12
   ・エレ40:1 エレミヤの●釈放とバビロン総督の殺害
   ・エレ41:3、42:1、43:1、バビロン滅亡の預言エレ50:1~51:64
BC577・エゼ40:1 エゼキエルの神殿の幻
BC575・エゼ29:17 ネブカデレザルのツロ攻撃の無報酬の対価エジプト略取
BC565・12月27日 2列25:27 バビロンでのエホヤキン王の釈放と厚遇

  以上が預言者エレミヤが活動した時代の背景となる情勢の簡略なご紹介です。お分かりの様に聖書のしるされた時代には、物事を順序立てるとか、時間順に記述するという概念そのものがありませんでした。それ以前にヘブル語そのものには時制に関する概念すらもありません。ヘブル語の基本形は過去形と言うことです。何事も思いが浮かんだ時点も、それを人や預言者によって語られたり字にされた時点でそれらは全て「過去」と言うのがヘブル語の認識の基本なのです。

ですから、これらの書かれた言葉=聖書を時代順に並べ替えたり、また時系列で理解しょうとすることは基本的に時代錯誤なのです。

たぶん、こんな事を言うと混乱されるかたもお有りかと思いますので、最期に単純な事をお話しして今日のお話は終わりにします。

 それは、私のこのブロクを例にご説明したいと思います。このブロク大体一記事4千字あります。最初の方は大抵字数制限に掛かりましたのでほぼ毎回5千字と言うわけです。約550記事ありますから4000字×550=220万字と言うことです。これは大体邦訳の旧新約聖書の全字数とほぼ同じです。

こんな文字ばかりで全く不親切なブロクはきっと誰も読んで下さらないだろうと心配していましたが、なんといままでに3名の方から「ブロク最初から全部読みました! よく分かりました!!」と言う驚くべきお励ましのメールを頂戴し恐縮している次第です。

このブロクは10の書庫に分けられていますが、これをもし投稿した日付順に並べてみるとどうなるかをご想像頂くと良いでしょう。きっと余計に混乱してしまいます。そう、人間の著作物を時代順や年代順に並べることはある場合には有益かも知れませんが、大抵の場合には不条理なのです。 特に預言者エレミヤの活躍した時代は聖書の中でも最も重要な神の民イスラエルとダビデ王朝が終焉する、聖書の結論の箇所ナノです。

言い換えれば、エレミヤ書は神様が選民イスラエルを見捨てられた結論の記録ということです。 そしてその理由は明白。神様の言葉を退け、神が遣わした預言者エレミヤをユダヤ王を初め国家の指導者達から一般市民、更に貧民までが迫害したのです。神の国の民全てが、神様の言葉とその神様の遣わした預言者エレミヤを拒否したと言う事なのです。 そして、これは旧約聖書丈ではありません。新約聖書の結論=堕落したキリスト教会を神様が見捨てられ、同時に天地も破壊されて新しい世界を神様が再創造されるという聖書全体のメッセージに通じているのです。

以上。

歴史書の書き順

歴史書の書き順

 今まで、新約聖書とモーセ五書が書かれた順序をご紹介してきました。今日は旧約聖書の歴史書と預言書の部分をご紹介してみます。預言者の活躍した時代は「大体この辺りの時代に活躍始めた」と言うことであまり正確には決められません。それから記、書、誌と言う言葉が在るのが聖書の書名で、それ以外は当時の著名な出来事や王様や祭司などの名前です。

BC年代
1370・士師記
1080・サムエル記第一
  ・エリ     
1044・サウル王
1010・サムエル記第二
  ・ダビデ王 
1070・列王記第一
  ・ソロモン王 
960・第一神殿建設  
931・王国分裂(南ユダ王国、北イスラエル王国)   
853・列王記第二
820・ヨエル書
791・ホセア書(北)・イザヤ書・アモス書(北)・ヨナ書・
750・ミカ書(北)
721・北イスラエル王国消滅(アッシリャ帝国)
714・ナホム書
  ・エレミヤ書 
586・南ユダ王国消滅(バビロニヤ帝国)
  ・バビロン捕囚
  ・エゼキエル書
  ・ダニエル書 
540・第一次帰還民(約5万人)
536-15・第二神殿再建
458・祭司エズラの帰還
   ・歴代誌第一、歴代誌第二、詩篇、
445・ペルシャ総督ネヘミヤ就任
  ・マラキ書
433・ネヘミヤ解任  

概略はこんな所です。明確に活動時代が決められない預言者は省いてありますが大体、聖書が実際に書き記されたのはその辺りの時代と言うことです。

自分で聖書のアウトラインを作る時には、預言者が活躍していた時代の王様の悪行の数々が列王記や歴代誌に記録されていますので、そこと突き合わせると、聖書の言葉の意味がどれ程具体的に、しかもよくぞこれだけ辛辣な言葉を権力者に語ったのかと驚かされます。

「預言者が悉く殺された」と言うのも納得できます。まあ聖書とはその様な、人間の心証を害し、普通の人間が願っていることとは正反対の神の厳しい断罪の書であると言うことです。残念な事に新約聖書を含めて歴史的状況が克明にされない為曖昧に訳出されたりしていて、折角の預言者や使徒達の痛烈な批判や断罪の言葉が読者に理解されていないのは大変惜しい事だと思います。

次回は、実際の預言者がどんなふうに状況で預言し、それを記したのかを簡単にご紹介する為に、エレミヤ書の時代背景と彼の活動をご紹介したいと思います。

歴代誌第二 22-25章

歴代誌第二 22-25章 

 今週予定した直訳、今頃になって漸く完了しました。

いつもは金曜あたりには余裕で終わっているのですが今週は雑用に追われて今頃仕上がった次第です。

今週の直訳箇所へのリンクは以下です。

以下の4つはヘブル語原典から歴代誌第二22章から25章の直訳です。

http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch22.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch23.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch24.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch25.htm

以下の4つは同一箇所の70人訳ギリシャ語原典からの直訳です。

http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch22.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch23.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch24.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch25.htm

明日(もう今日ですが!)の礼拝のプログラムはこちらです。

http://bible.ne.jp/service/2008/02/17/


次週はこの続きで26章から29章まで計8章分の直訳を予定しています。

快気祝い


ラブの快気祝い

  今日は2週間振りに獣医さんにラブちゃんの足の傷の具合を診察して頂きに行きました。

  前回の診察で良くなっていましたがまだ薬と散歩中の足の保護が続いていました。しかし、もう薬も必要なく、外出に足の保護も不要と言うことです。後は、本当に日にち薬で爪が完全に生えるのを待つだけとなりました。

  最初に怪我をご紹介したのが12月の初めですから2ヶ月半になります。その間、先ずエリザベスカーラーを首に巻き、散歩の度に、足にはビニール袋を巻き付け、帰宅後は足を全てシャワーで洗い、清潔なラブ様専用の雑巾で拭き、ヘヤードライヤーで乾かし、傷にゲンタシンと言う抗生物質の軟膏を塗りました。 

  外出の度ですから日に3~4回です。薬も日に3回飲ませるのが大変でした。大変賢い犬で異物は確実に出してきます。
  
  カプセルは何とかジャムでごまかして飲ませましたが、タブレットはそれでも後から出してきました。 そのうちにこちらも慣れて、上手く飲み込ませるコツを会得してジャムを少し残しておいて飲ませた後それを嘗めさせると上手い具合に飲んでくれる様になりました。

  最初の写真は、いつもの様に縁側でシクラメンさんと一緒に日向ボッコをして退屈しているラブちゃんの写真です。もう手の傷は殆ど分からなくなりました。 お昼にはお祝いに牛のすじ肉を3切れいただいて大喜びで食べた後なのでこのあと大変ご機嫌よく大きないびきをかいて寝ていました。

モーセ五書

モーセ五書

 昨日は一回で新約聖書の書かれた順序をご紹介しました。新約聖書は僅か50年足らずの僅かな期間でしかも27巻と少なく簡潔でしたが、旧約聖書はそうはいきません。分量は新約聖書の3倍以上ありますし、書かれた期間も新約聖書の20倍以上ですから3回に分けてご紹介したいと思います。

  今日はまずモーセ五書とそれらに不可分となっているヨシュア記の書き順=書かれた順序です。 こんなことを書き出すと大抵の方は「なに、聖書の目次にある順番ではいけないのか?」と思われるのでは無いでしょうか? そうなんです、よくよく考えて頂くと分かることですがやはりモーセ五書にも書かれた順番というものが存在します。 

  一番最初に記されたのは当然レビ記です。 次が出エジプト記と民数記、それらに平行して創世記が記されそして申命記が続きます。そして最期にヨュア記となります。なぜ、そうなるかは実際に出エジプトの出来事を年代順に見ていくと納得出来るかと思います。

  ここでは、その事は取り扱いませんが、聖書をしっかりと読んでいただければ問題なくお分かりになるかと思います。

では早速以下に出エジプト記を基にしてモーセ五書の記されたタイムテーブルをご紹介します。

BC年代
1520・出エ1章~4章・モーセの誕生と召命
1440・出エ5章~14章・エジプトの災害と民の脱出
1439・出15~40章・幕屋の建設
   ・レビ記
   ・民数1~15章・民の不信仰と挫折
1439・民数16~19章・荒野の40年の放浪
   ・創世記
   ・ヨブ記
1401・申命記
1400・モーセの死
   ・ヨシュア記
1370・?ヨシュアの死

さて次回は士師記の時代からサムエルやダビデや王たちが活躍した時代をご紹介させていただきます。

上弦の月


上弦の月

 昨日の夕方に撮った月の写真です。使った望遠鏡はビクセンの6センチ900㎜の屈折と20ミリのアイピース倍率は45倍で漸く月全体が写る様にできました。撮ったのは小さなデジカメ(ソニーのサイバーショット)でした。 

  写真に写っている望遠鏡がそれです。これにはミードの二軸駆動の経緯儀が装備されていて軽いので大変扱い易いので助かります。

  相変わらずデジカメは手持ちで撮影するため光軸が大きくずれて月の上の方が歪んでしまいました。

  一月の中では一番地球に近い日で普段より少し大きめの月になっています。後ろは、雄牛座でプレアデス散開星団(日本名は昴スバル・メシエカタログの45番)が直ぐ側に有ります。

聖書の書き順

聖書の書き順

 さて、昨日は聖書のアウトラインの作り方についてお話ししました。今日は、どの順にアウトラインを作ることが良いのかを考察したいと思うのです。

 今日の主題は「聖書の書き順」と言うことですが、まず最初にこの事からご説明していきたいと思います。じつは、この「書き順=聖書が書かれた順」こそが聖書を読み解いていく鍵なのです。聖書を学ぶに当たって、よく言われるのは「最も優しいヨハネの福音書から学ぶとよい。」と言う間違いです。確かにヨハネの福音書は一見優しく見えるのですが、内容的に最も高度な書物です。なぜなら旧新両約聖書中でおそらく最も遅くに記された書物であるからです。

  これは難しい神学用語で「啓示の漸進性」とう表現で示されます。神様がご自身の御心を預言者や使徒達に示されたときに、「最初は初歩的なことを示し、最後に最も高度な内容を示される。」という聖書神学の基本概念がそれを教えています。啓示とは神様が人間にご自身のご計画を示されることを意味しています。

  そして、この事=「啓示の漸進性」は逆手にとると「啓示の最初の物ほど基本的簡単な事柄が啓示されている」のです。これは「初期の法則」と言われ、聖書の中で登場する事柄が「一番最初に記されている箇所が、その後に登場する箇所の事柄の意味を規定あるいは制限する」という原則を現しています。 

  この端的な例は「善悪」という聖書の重要概念にみられます。聖書の中で「善悪」が最初に登場するのは創世記の3章のエデンの園でアダムとエバが禁断の木の実を食べる箇所です。そこで示されている善は神の言葉に従うことであり、悪とは神の言葉に信頼せずそれを犯すことです。そして、聖書全体に貫かれている善と悪の概念はこの創世記の3章の出来事の意味する事がその後の言葉の使われ方を色濃く支配しているのです。

  さて、前置きはこれぐらいにしておいて、早速「新約聖書の書き順=啓示の順」をご紹介しましょう。これは聖書の中でどの書物が一番最初に書き記されたかと言う意味なのです。旧約聖書は膨大なので次回に回すとして、今日は「新約聖書の書き順」をご紹介ます。

  皆様は新約聖書の中で一番最初に記されたのは「どの書」だと思われますか? 「当然福音書だ!」 と考えておられる方が多いのではないでしょうか? 残念ながらそうではありません。福音書は新約聖書の中ではかなり終わりの方に記されました。なぜならキリストの生涯を目撃した生き証人の使徒達が生きている間は、彼らが目撃したイエスキリストの生涯を文書に残す必要は無かったからです。彼らが高齢になり、教会が地中海世界に拡大しローマ帝国の迫害が始まってのち、使徒達が殉教を目前にして書き記したのが福音書だからです。 

  正解をご紹介しましょう。一番最初に記されたのは主イエスの弟ヤコブが書き記したヤコブ書と使徒パウロが最初に伝道したガラテヤに書き送った手紙がその次に記されました。 

  新約聖書の各書が何故そのような順で書かれたのかをご紹介することは、おそらく初心者の方にはあまりに煩雑で難解と思われますので今日は、単純に新約聖書の書かれた順に各書を並べて、皆様が聖書のアウトラインを作成される順番の参考になるようなものを以下に簡単にまとめておきます。

AD・年代・書名・章・・・・・・・概略・・・・・・・・、
33-44・使徒1章から12章・エルサレムユダヤの教会 
   ・ヤコブ書(主の弟ヤコブ)
45-47・使徒13章から14章・パウロの第一回伝道旅行
   ・ガラテヤ書・
49-52・使徒15から18章・パウロの第二回伝道旅行
   ・テサロニケ第一    ・テサロニケ第二
54-57・使徒18から21章・パウロの第三回伝道旅行
   ・コリント第一 ・ローマ書 ・コリント第二
58・使徒22から28章・パウロのローマへの護送
62・パウロの獄中書簡 コロサイ、ピレモン、エペソ、ピリピ
63・パウロの最後の伝道旅行・牧会書簡 テモテ1、テトス、テモテ2
64-68・ネロ皇帝の迫害ローマでペテロとパウロの殉教
   ペテロ1、ペテロ2、マタイ、マルコ、ルカ・ 使徒、ヘブル
70・ユダ(主の兄弟ユダ)
81-90ヨハネのエペソでの殉教
   ヨハネ、ヨハネ1、ヨハネ2、ヨハネ3、黙示録

 以上で簡単ですが新約聖書が書き記された順番に書名を記しておきました。神学的なお立場に?よって少し(人によってはかなり....)前後しますが、取り敢えずこの順番で聖書を読みアウトラインを作ってください。そうすると意外に、聖書は大変具体的で理解しやすい書物であることが分かります。

当然のことですが手紙や福音書の理解にはそれらが何故記されたという背景が意味を決定づけます。書かれた時と場所を特定すると、それぞれの書簡や福音書が書かれた時の背景となる当時の「初代教会が抱えていた多種多様の現実の問題」が具体的に分かり、その 「問題が明確に理解できると」なぜこんな記述が聖書に残されているのかが分かるからです。この聖書の背景が分かると私達が直面する現実の問題に対して聖書の原則を当てはめた解決方法が大変理解し易くなります。

  さて、次回は数回に分けて、旧約聖書の各書を書き記された順番にご紹介することにいたします。

聖書のアウトライン

 聖書のアウトライン 

 さて、昨日は聖書研究の基本となる前提についてご紹介しました。その前提とは「聖書とはなんであるか?」と言う質問の回答如何によって聖書の読み方を変えなければならないと言うことでした。

  さて、様々な聖書観「=聖書とはなんであるか?」がある中で、私が皆様にご紹介するのは聖書が自分自身について言っている「聖書観=聖書に書かれている事にはそれに対応する歴史上の出来事が存在する。」に基づいた聖書研究方法と言うことなのです。

  この前提が決まると事は簡単です。先ず問題になるのは「では聖書には何が書かれているのか?」と言うことなのです。

 ということで聖書研究の第一歩はまず「聖書に書かれていることの認識」をする事なのです。

そこで始めなければならないのは聖書に書かれていることの内容把握です。

 これが結構簡単なようで、中々大変な作業なのです。私は一応聖書全巻、旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録にわたるアウトラインが頭に入っています。何処でも何でも聖書に関することを聞いていただければ、大抵のことは「それは何書の何章あたりに書かれています。」と即答出来ますがそういう事が出来るようになることが聖書研究の第一歩なのです。

 そのような資質を身につけるためにする事を今日は順を追ってご紹介することにいたしましょう。

★アウトラインの作成。

  聖書研究の第一歩はここから始まります。聖書を読みながら一冊のノートに読んだ箇所の主題を記していく作業です。説明するよりも実際のアウトラインをご紹介してみた方が早いと思います。一番簡単な創世記の最初の12章分を書いてみます。

創世記1章から12章 アウトライン (これは聖書を全く見ずに私の頭の中にあるものを書き出しました。

1~3章 天地の創造
    1章 天地万物の創造 
    2章 人間の創造  
    3章 人間の堕落
4~5章 人間の堕落
    4章 カインの罪とその末裔
    5章 世界の堕落 
6~9章 ノアの洪水 
    6章 堕落した世界とノアの選び
    7章 方舟と洪水
    8章 洪水の終焉
    9章 洪水後のノアの家庭 
10~12章 アブラハムの選び 
   10章 ノアの息子セム、ハム、ヤペテの拡大
   11章 洪水後の世界の頽廃と混乱
   12章 アブラハムの出発 

 もっと詳しく記しても良いのですが聖書全巻を書き出すと膨大になってしまいますのでこれぐらいの簡潔な物の方が有益だと思います。もちろん創世記の一章を以下のように詳細に記すのも意味はあるかと思います。

創世記1章 天地万物の創造
     1~ 5節 1日目の天地と光創造 
     6~ 8節 2日目の水と地の広がり創造
     9~13節 3日目の海と陸と種子植物創造 
    14~19節 4日目の昼太陽と夜の月星創造 
    20~23節 5日目の爬虫類と鳥類と漁類創造  
    24~31節 6日目の哺乳動物と男創造

 これくらいの細かさですると結構時間を取られますのでできるだけ大雑把なアウトラインを作られることをお勧めします。日に3章程度を読んで、簡単にその箇所を要約した主題を軽い気持ちで書き出し、それを1年も続ければ聖書全巻のアウトラインが完成します。

 適当な時に、聖書を3章程度を一気に読んで...10分位でさっと読んで下さい。そしてパラパラと見返しながら、細かいことは省いて大意を簡潔な言葉にして書き出します。読む量はほんの少しですが、この10分を一年続ければ、聖書全巻通読が出来てしまいます。 

  じっくり時間を掛けて読むことも大切ですが、軽い気持ちでパラパラと読んで自分の都合でフイーリングで記して行った方がきっと長続きするでしょう。また最初からあまり細部や地名にこだわるといやになってしまったり燃え尽きて最後まで行き着きません。

  一回目に読んだものを参考にして二度、三度読んでそのたびに読書ノートがわりにアウトラインを記して読むと5回ぐらい読んだあたりで、自然と聖書の前後関係が把握出来るようになり、ようやく聖書の研究をするための最初の足掛かりが出来たことになります。

  ★また、何処から初めても良いかと思います。出来れば最初から初めて行った方が良いのかと思いますが、その★最初からと言う★最初を★どの最初にするかと言うことが大切かと思います。

  ★そのために★次回は聖書が★実際に書かれた★順をご紹介してみますので、最初からその順番で始めた方が、ただやみくもに読んだり、単に初めの方から順番に読むよりも、聖書というものが早く理解できるかと思います。

  という事で今日は、聖書研究の第一歩、アウトラインの作り方のご紹介でした。 ところで、注解書などにも「梗概」などと称して書簡毎のアウトラインが記されているものが市販されています。それを参考にされることも無駄ではないと思いますが、やはりそれらの梗概は特定の教派や神学的立場によって、聖書を区分し編纂されていますのでよほど聖書に通じた方以外は悪影響を受ける可能性の方が高いと思います。できるだけそのような物は避けて、自分なりのアウトラインを作られた方が遠回りの様で、結局早く自分で納得できる楽しい聖書の読み方に到達出来ると思います。 

以上。 

聖書研究方法

聖書研究方法

 いつか聖書の研究方法を皆様に紹介したいと思って始めたこのブロクですが、そろそろ本題に入ってみようかと思います。

 聖書を研究する!

 と言うのは簡単なのですが、一番の問題は方法では無いのです。「聖書とは何であるか?」と言う事が決まらないと聖書研究は始められないのです。

 聖書について色々な誤解が有ります。一番多いのは「聖書は信仰の書である。」と言う間違いです。 そして「宗教の教典として解釈」されているのですが、それはその様な立場の人達におまかせする方が良いと思うのでここでは一切取り上げません。

 また、別の方は「聖書は人間の考え出した崇高な理想を記したものだ。」と言う考え方の人もおられる様です。確かに聖書に人間の考えた事も記されていますが、それは聖書のほんの一部に過ぎません。

  さて、私がご紹介したい聖書研究方法が前提とする「聖書とは何か」という前提はじつは私や宗教学者達が考え出した物ではないのです。

 それは、聖書が言っている聖書自身に関する定義なのです。

  聖書が言っている聖書に関する前提は「聖書は史実の記録である。」という簡単な物です。

  聖書を原典で読んでいるのは、大抵この立場の聖書理解をしておられる方々です。 

  それ以外の理解をしている人には大変な努力をして原典で読む価値が聖書には見られないと思われているでしょう。 

  さて、余計な事は置いておいて今日は何故「聖書が史実の記録である。」と言う前提が大切なのかをお話ししてみましょう。

 聖書を原典で読んでみるとそこに使われている言葉がそう言う意味の言葉であると言う事なのです。 

  ヘブル語ではダバール、ギリシャ語ではロゴスとなっています。この両者は言葉と言う意味の古代の言葉なのです。しかし、なんでもかんでもこの言葉は当てはめることは出来ません。このダバールとロゴスは特殊な場合にのみ使われる言葉なのです。 それは言葉が実際の出来事として起きている場合にのみ使われるのがこのダバールとロゴスナノです。 

  人間が言った言葉は「ヘブル語ではアマール、ギリシャ語ではレーマ=話された言葉」という単語が使われます。

  人間が考え出した言葉で事実との対応が無い事を前提とする言葉は「ヘブル語ではミラーとギリシャ語ではムソス」で日本語にすると「虚言」となります。

 だから聖書が自分自身に対して主張している基本がこの「ダバール=ロゴス=実言」でその言葉が主張しているのは「聖書に記されていることには基本的に対応する事実が存在する」と言うことなのです。

  そして、聖書に記されていることが真実である事を教えているのがヘブル語のアマン=アーメン=ギリシャ語のアレーセイヤ(これは真実と言う意味で決して真理ではありません。)

  そしてさらに真実だからそれに信頼すると言う意味でギリシャ語のピステウオー(これも信頼と言う意味であって一般の邦訳の様に「信じる」とするのは間違いなのです。 

  以上、これがこの聖書原典研究を行うために最も大切な聖書が聖書自身について主張している聖書の基本的な前提です。 明日から暫くこの立場「聖書にダバールあるいはロゴスとして記されている言葉の記録には必ず、その言葉に対応した出来事=史実が実際に存在した。」と言う立場に立った聖書の研究方法をご紹介しましょう。

三日月


三日月

 今日はきれいな三日月(正確には月齢4)が見えました。

 早速望遠鏡を取り出して眺めてみました。例の小さなデジカメでの手持ち撮影でピントも露出も合っていない上、倍率が高すぎて下半分が切れてしまいました。

 今週の14日のバレンタインデーに月が地球を一周する時の最も地球に近い所を通過します。だからお月様は普段よりすこし地球に近い為、ちょっと大きめで視直径が角度で32分16秒あまりになっていて大きく見える頃なのです。

 近くなのでアップにするとクレーターが余計によく見えるはずなのですが、残念ながらこの写真では殆どぼけてしまっていて残念です。

 先週の木曜日は新月で南極では金冠日食(月が太陽と地球の間に入って太陽を殆ど隠してしまう。)が見られたようです。

 今は結構月が大きくなっているのに皆既日食(見かけの月の大きさが太陽より大きい為太陽を全部隠してしまう。)にならなかったのは、1月3日が地球の近日点(地球が一年中で一番太陽に近い日)を通過したばかりで太陽がまだ普段よりも大きく(32分32秒)見えている為、皆既日食(月が太陽を全部隠してしまう)にならず金環日食(月の周囲に太陽の縁が見えている)だったと言うわけです。 

  今日の三日月のご紹介でした。

直訳の進捗状況

直訳の進捗状況 

 今日は歴代誌第二の18章から21章を礼拝でお話ししました。日曜礼拝の説教箇所に合わせて毎週直訳を進めています。最初(2000年)は新約聖書と旧約聖書を1対3の割合で毎週1章程度のペースで進めていましたが。その頃は、住民団体の役員を始め、子供のPTAの役員や補導委員に加えて民生委員や教会関係の超教派の放送伝道に関わっていた為、大変忙しくしておりました。

  当時、大抵の週は直訳に使える時間は土曜日の深夜からで、夜半(深夜1時過ぎに帰宅)にあわてて直訳に取りかかり徹夜で明け方に間に合わせる様なありさまでした。今見返すと随分といい加減な所が有りますがまあ訳あってそのままにしてあります。

  その週の説教箇所が新約聖書の方であれは、ギリシャ語は大抵簡単で、見るだけで分かるのでそんなありさまでも何とかなるのです。しかしその週が、旧約聖書が説教箇所の時は大変でした。ヘブル語の原典に加えて、対応する70人訳を1章していましたので実に厳しかったものです。

その後、徐々に関わっていた責任を無くし、3年程前に新約聖書が完了した頃には、子供のPTAの責任だけになっていました。子供が高校を卒業し、いよいよ直訳に専念出来るようになり最近は毎週ヘブル語を4~5章とそれに対応する70人訳も直訳出来るだけの時間的なゆとりが生まれました。

  以下は今日の礼拝でお話しした聖書箇所の直訳箇所へのリンクです。

http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch18.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch19.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch20.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch21.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch18.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch19.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch20.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch21.htm

 教会に来て下さる方にとっては長い長い、3~5章と言う聖書朗読となるわけです。その為に20分以上を費やしていただくのですが今のところ苦情はあまり聞きません。短い聖書箇所もそれなりの意義があるのでしょうが長い長い説教箇所を簡潔に纏め、聖書全体の流れを知って頂く為には大変有効だと思っています。 

 そして、皆様が忍耐して下さるのは、私がその長い箇所の全てを原典を読み、しかも70人訳の分も直訳しているので、言いたいのをあえて我慢していて下れさるのだと思います。 何しろ、毎週の直訳の分量は400字詰め原稿用紙で80枚程で3万字平均となるからです。 しかしこれだけの分量で進めても、聖書全体が終わるのに大体7~8年掛かります。そして、もし聖書全巻と70人訳の全巻の直訳が完成すれば総入力文字数は1000万字を軽く超えてしまいます。

 そして、まだ直訳が出来ていないのは旧約聖書の詩歌の部分です。、何処の国の言葉でもそうですが詩文は言語的にかなり難しい内容となっています。ヨブ記や詩篇に加えてイザヤやエレミヤの大預言書で、殆どが美しい詩文になっています。

今まで、避けてきた説教箇所ですが、もうここ以外残っている箇所がなく、いよいよ私の牧師生活も正念場を迎えると言うのが、現在の直訳の進捗状況です。

石油ピークその3(可採石油埋蔵量の虚構)

石油ピークその3 

 世界の化石燃料の埋蔵量や採掘可能量について様々な情報が世界を飛び交っています。

  しかし、真実を見抜くのは簡単な事ではないでしょうか。聖書の教えとして分かる事は「人間は常に嘘をつくと言う事です。」だから人間も、企業も国家も言っている事は一応聞いておいて、彼らがやっている事を見ればすぐに真実は見抜けます。

 端的なお話が、昨日ご紹介したOPEC(石油輸出国機構)の石油高騰下の減産です。また、さかんに化石燃料の埋蔵量を吹聴している極東にある自称資源大国です。自国の石炭資源や石油に加えて天然ガスは十分だと言いながら、中東やアフリカに加えて南米の石油資源に執拗に食指を働かせています。ある程度の真実はその言葉に含まれていますがその主張の全てを信頼する事は愚かです。

  勿論、石油メジャーも同様でかって7人の魔女(セブンシスターズ)と呼ばれた黄金時代の栄華は消え去り、収益が下がりリストラと統合を繰り返し今は4社(エクソンモービル、シェブロン、BP、ロイヤル・ダッチ・シェル)に統合され市場占有率も10%を切ってしまいました。過去の栄光=古い油井は全く油が取れず、良い油田は産油国に奪還され、残された手持ちの古い油井は石油の販売価格よりも生産コストが上回る逆ざや現象が起きていてる事を明示しているのです。

 これらの現実は世界の安全保障と経済展望の根幹を成す重要なエネルギーである石油の安定供給確保に様々な駆け引きや虚偽の情報操作がつきまとっている事を教えています。

 そして、世の常として真実は過去の歴史に登場せず、勝てば官軍の勝者の理屈が歴史となった様に、これからの人類の歴史にも真実(=化石燃料の枯渇)がその表舞台に登場して来る事はないでしょう。

  と言う事はもし真実に化石燃料の枯渇が生じても、その真実が世界経済の表舞台に登場することは稀で、万が一それが認められたとしてもそれはずっと後の世代になって認識されると言う事です。

  資源の枯渇は深刻なダメージを世界経済に及ぼす為に表面的には一切認識されず、理想=架空の厖大な石油埋蔵量と採掘可能量が一人歩きし、現実の石油が歴史から消えていくと言う奇妙な現象がこれから世界の歴史の表舞台を席巻すると言う事なのです。

 その結果、現実の化石燃料が枯渇しても、「自社や自国の繁栄と利益の為に様々な証拠を捏造して作り上げ宣伝してきた幻の化石燃料」は消えてしまう事はありません。それらは様々な権威在る専門家の学術調査資料に基づいておりいまさら嘘偽りだとは言い出せないのです。その架空の化石燃料は当然投機の対象となり、電子取引に象徴されるデリバテイブや様々な金融商品を生み出し、マネーゲームは華やかに火花を散らすことになるでしょう。 いやもしかしたらもうそんな時代が来ているのかも知れません。

 しかしバーチャルなマネーゲームの世界では莫大な利益を産出しても肝心の石油の現物が現実の世界から消えていくのです。しかし、誰もまたどの国も、正面からこの問題の真実「石油が無い」という真実を話題にする事は出来ないでしょう。

 これは、まるで裸の王様のようです。王様の王服(石油)は本当は無い(=枯渇)しているのに、代金を支払ってしまった(=経済発展を信じてインフラ整備に莫大な投資をした)為、王服が無い(=(石油無い)と言い出すことができず。関わった全ての人が王服(=化石燃料)が在るかのように装う事が起きてきます。 

  もし、あっさりと化石燃料が枯渇していると認めてしまったら、世界経済の発展を信じて、今までに様々に投資した資本が無益であった事を認める事になり、自国と世界から繁栄の希望は消滅し、惨たんたる現実=負債だけが残ると言う現実を先送りする必要が生じるからです。 

  しかし、もし現実には存在しないのにあると見せかけた化石燃料が存在したら事は複雑になります。「無い物」を「ある」とした以上、採掘が終わるまでその化石燃料は秘匿されていると多くの人々は信じる事でしょう。その幻の化石燃料は現実には存在しないものであっても、その真実を知らないか、あるいは確かめることの出来ない諸外国にとっては、存在していると認識され続ける事になります。するとその見せ掛けの化石燃料は各国の垂涎のまととなり、あたかも自国でその化石燃料を独り占めしているかの様に外国には映り、そのありもしない化石燃料を巡って奪い合いが生じる結果をもたらすのではないでしょうか。いやもしかしたら、その様な国際紛争が起こせる間は債務超過の真の原因が他国にある事を自国民に信じさせて、現体制の延命が望めるという誘惑によって世界が戦争に駆り立てられることが懸念されるのです。 

  そんな、ありもしない資源を巡って奪い合いの、恐ろしい紛争が起きる前に、正直に現実=化石燃料は減産に転じ、世界経済に成長と発展は存在せず、資源の枯渇する中、どの様に世界経済を衰退させ、持続可能な経済活動は何であるのかを話し合い、世界が同一の目標(=産業革命以前の世界)を認識して協調する時代が目の前に来ているのでは無いでしょうか?

石油ピークその2(石油ピーク否定の構造)

石油ピークその2  

  昨日は世界の石油生産がピークを迎え減産に転じたと言うことをお話ししました。今日は更にこの事を掘り下げてみたいのです。

 1956年に石油会社の研究者のハーバートと言う人が石油資源の研究をして当時世界最大の産油国であったアメリカの産出量は1970年に石油ピーク(石油生産が最大値となり増産が不可能となり減産に転じる)と言う予測を公表しました。当時はその発表は散々に酷評され誰もその研究結果を評価しませんでした。しかしそれから数年たって統計数字がまとまり彼の予測が正確に実現していることが判明したのです。その北米の石油生産が減産に転じている事と、時を同じくして中東の原油国が自国の油田にある石油メジャーの採掘権を奪還して世界の石油生産量が落ち込み、日本ではトイレットペーパーが無くなるという第一次オイルショックの衝撃に波及したのでした。

  そのハーバートの計算方法を地質学者のキャンベルと言う人が世界の石油生産に当てはめたところ世界の石油ピークは2004年であると予測しました。そしてこの予測も又世界中の研究者から否定されてしまいました。しかし、最新の統計では2000年に世界の石油生産総量が減産に転じていることが判明しています。

  これだけであれば何も問題はありません。問題はこの現実を当の産油国や石油メジャーが認めていないのです。その理由は明白です。もし自社、あるいは自国の石油埋蔵量が少ないと公表されれば、債務や債権に関する格付が下がり資金調達が困難になり、おまけに国際的な地位まで低下してしまいます。そんな不都合な真実は認めるわけには行かないのです。そしてその不都合は世界中の産油国や石油企業に共通の問題なのです。

だから、1950年代にハーバートが予測した北米の石油ピークが承認されるのに隠し果せない統計数値があらわになるまで否定されたように、2000年に判明した世界の石油ピークも当分は隠し続けられると言うことなのです。そしてあの1970年の北米の石油ピークに起因する石油の高騰に該当するのが現在の石油の高騰であって決して単なる投機資金の流入による一時的現象ではなくこれから長く続く石油の需給逆転による持続的現象だと言う事なのです。 

  だからこれから石油はますます高騰し需要の増大に生産は追いつかない事が常態化すると言う事で需給のバランスがますます崩れていくと言うことなのです。今月にウイーンで行われた石油輸出国機構OPECの臨時総会で石油の価格が50年前の50倍を超える相場(100ドル/バーレル)であるにも関わらず増産を見送りました。これは単にアメリカのサブプライムローン問題に端を発する世界経済の萎縮に対応した政策ではありません。今売れば大儲けが出来るのに売れない理由が在るのです。それは、無い袖(=石油資源が無いので)は袖を振り(=増産し)たくとも振れない(増産できない)という、公表するわけに行かない石油資源枯渇が相当進んでいるという真実を暴露しているのです。

 そして、こんな状態のまま中国やインドと言った国々が国家の繁栄を夢に見て、インフラ整備に莫大な資本を投入し近代的なアパートや高速道路に近代工場を林立しても、もはや世界にはそれらを動かす動力となる石油は存在しないのです。需要の増大と裏腹に生産が低迷していくのですから、先進諸国にある様々な設備にすら回す油はない状態が生じていくのです。まして新興諸国が他国の繁栄を真似て経済拡張政策をとっても、もはや時は遅いのです。彼らの近い将来に待っているのは投資した莫大な資金は過大投資となり、先行投資された資金に見合うリターンは発生しないのです。閑古鳥が無くそれらの資産は償却できる可能性は皆無で、無駄な投資の付けが回って債務超過に陥ります。それらの経済政策を誤った諸国の国民は働いても働いても債務さえも返還できずに借金がますますかさみ、ますます貧困にあえぐことが自明なのです。

  これからの世界では必然的に原油の高騰により様々なコストが暴騰します。まず電力を初めとする生産コストに加えて移動のための輸送コストが上がります。そして切り詰める事が出来るのは唯一人件費と言うことになってしまうのです。

  今人件費の安いことで急成長している諸国の生産品はそれ以外のコストが増大するため益々人件費を削減しないと国際競争力が低下してしまいます。しかし、ガソリン代も電気代も上がる中給料が世界中で下がります。当然その収入とは逆に燃料費、ガソリン代、電気代、水道代などの生活費が上昇するのです。支出を控え、車は小型車に買い換えるか手放し、電化製品も買い換えるゆとりも無くなります。石油の高騰によって食糧が値上がりし、まず食糧に支出をまわす為、それ以外の衣類や工業製品などは購入したくとも出来ない時代が来ているのです。原材料費の高騰により工業製品は値上げが必須、そして石油漬けのあらゆる海産物や畜産や農産物も石油枯渇によって減産を強いられて高騰して行くのです。

 だから、全ての工業製品や電化製品は安くしても全く売れない時代が来ているのです。その結果経済成長を目論んで先行投資された、港湾も空港も高速道路もビルデイングも工場も石油プラントも需要を見誤った過大投資となり、維持できなくなります。幻の経済成長を目指して無益で無駄な投資をした各国は多大な不良債権を抱え込まざるをえなくなるでしょう。

 18世紀末に発明された化石燃料を動力源とするワットの蒸気機関によって産業革命はグローバルな工業化社会を作り上げました。しかし、今はその原動力となる化石燃料の枯渇に伴い、急速にそして確実に終焉を迎える時代が今巡ってきたと言う事なのです。

  もしこのあとにも人類の歴史が刻まれたなら、これからの時代の歴史家達は「21世紀は原油を筆頭とする化石燃料の枯渇にともない工業化社会は破綻し世界経済は急激に収縮し、その混乱によって人類は翻弄され世界人口は激減せざるを得なかった。」と記すことになるのです。

 この不都合な真実を認めないで、時代に逆行する成長政策をとったらそのような国の経済は破綻する事は当然です。 また世界の経済もその原動力となる石油が減産している中で成長を目指したら破綻することは自明なのです。

  余談ですが、化石燃料の枯渇に従い、皮肉な事にCO2などの温暖化ガスのの排出は徐々に逓減し廃棄物による河川や海洋の汚染も化石燃料資源の効率化が死活を制する重要問題となるため自然と解決する事でしょう。しかし、基本的な問題は化石燃料の枯渇で、世界経済の急激な萎縮は代替資源が無い為避け得ない事なのです。(原子力エネルギーはウラン採掘に厖大な化石燃料が必要な為経済的に成り立た無くなる事は自明です。)

 世界経済は減速するのです。だから世界の国々も経済縮小政策を取らなければならないのです。当然各企業も今年よりも来年の業績は下がるのです。そして各個人の収入も段々と目減りするようにせざるをえないのです。

  そうすればやがて世界経済は持続可能な水準まで下がり続けそして一定の所まで下がるとその低迷状態で維持されるでしょう。

しかし、もしその事を受け入れず右肩上がりの成長路線を取りつつけたらどうなるのでしょうか。航空機に例えると分かりやすいかとおもいます。 燃料が残り少ない500人乗りのジャンボジエット機が早く空港を見つけて下降しソフトランデイングすれば乗組員も乗客も無事です。しかし、エンジンをふかして機首を上に向け加速上昇を続けようとするとエンジンは必ずいつか止まるのです。その時に機首を上向きにしていると上昇ではなくバックスライドしてあの名古屋空港で起きた中華航空の事故のように機体後部から地面に叩きつけられ悲惨な破局を迎える事に成るのです。
  
 破綻はまず最初に最後部座席(エコノミークラス=貧困層)の人達で、瞬く間にビジネスクラス(中産階級)そして次がフアーストクラス(エリート達)でそして最後に機長や航空機関士(政治家や経営者官僚)の座席が地面に激突するのです。そして皮肉な事に一番生き残れる確率が高いのは航空機事故の恒として、最も衝撃の少ない最後部の座席に座っていた人達(=貧困層)と言う事になるのです。

  豊富な化石燃料に支えられて20世紀に拡大した世界経済は2000年に石油ピークを迎えたのです。これから「世界経済は後退し、やがて19世紀の様な馬や牛車や帆船で外国行路を行き来し医療による延命や食料の増産ではなく人口の大幅減少を容認する」そのような22世紀の未来に向かって前進するか、あるいは「不都合な真実に目をつむり、執拗に近代化工業化と経済成長を夢に見て人類の破局に向かうか」の選択を私たちはしなければならないのです。

  明日は、もし破局「=さらなる成長の影に潜む破綻」を選ぶとしたらどうなるのかを考えてみたいと思います。

石油ピークその1(石油増産不可能な油井の現実)


石油ピーク

 この言葉は世界がこのまま経済の拡大路線や成長信仰を継続すると、やがて第三次世界大戦が起きることを教えています。

 私は預言者でも超能力者でもない、「ただ(多田に住んでる)のおっちゃん」ですが、これから数回に分けてこの事をお話しして見たいと思うのです。

 もし、世界経済界が成長神話を信じ続けると、その事...(世界経済の破局による第三次世界大戦の勃発)...は前から気づいていましたが最近特にその時が近づいていると思わされるのです。

 最初にお話ししなければならないのは「世界の石油生産はピークを越えた」という紛れもない現実なのです。

 冒頭の画像は、ある研究者の論文をデジカメで撮った物です。元のURLはこちらです。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/tikyuu/oil_depletion/eaj_abastract.pdf

ご注目頂かなければならないのはこの写真の上から11行目にある「世界最大の産油国サウジにある最大のガワール油田の「400万バーレルの石油生産には油田に750万パレルの海水を注入して噴出圧力を維持している。」という記録なのです。

その意味する事がお分かりでしょうか。本来油田はボーリングした当初は自噴油井です。しかし、採掘が進み、残っている油が少なくなると圧力が急速に下がり地表まで噴出してこなくなります。 増産には空気を油井に注入する方法も有りますが油井の埋蔵量が減少していると地層や砂層に抜けてしまいます。

地中深くに水(油)中ポンプを入れる方法もありますが高価な上に手間がかかりすぐに故障し汲み上げ量も僅かで採算割れします。最後の禁じ手がこの大量の海水注入なのです。これが水であれば大した環境問題には成りませんが、油井は大抵砂漠地帯で油と同等に貴重で高価で望めません。しかし、海水ならたやすく使えますが、油井の周辺地域や下流域全体に深刻な環境破壊をもたらします。

海水を地中深く注入すると、当然じわじわと周辺地層に浸透します。そしてやがて海水は地下の粘土層や砂利層や砂層を浸透し流域の地層の路頭や深井戸に塩害をもたらします。飲料水がまず汚染されて飲め無くなります。もちろん油成分と塩分との混合被害ですから対策がありません。そして地表にもこの混合成分は到達し、砂漠のオアシスの生物を全て死滅させます。砂漠の砂漠化とでも言っておきましょう。

当然、草も生えなくなってしまいます。当然砂漠で唯一の生活手段である牧畜業が壊滅します。そればかりではなく僅かな河川にも塩害は忍び寄り、流域の生態系は容赦なく破壊されます。やがてその河川が注ぎ込む沿岸漁業まで成り立たなくなります。と言う事はそれらの国では一部の石油利権をもった者以外の生活は根底から破綻するのです。私達の生活をあらゆる面で支えている石油資源の確保はこの様な大量の貧しい人々に過酷な犠牲を強要してはじめて可能なのです。

どれほどひどい被害が出ていても、被害者の利益となる環境破壊の原因究明の為の研究に加担する研究者はいません。何故なら研究に協力する企業も国家も無いからです。お金にならないだけでは無く、そんな研究をすると自分自身の出世の妨げになるだけだからです。それにそんな論文を提出する学会や引用する研究者も無いでしょう。

その研究にお金を出してくれる国家も企業が無いどころか、不利益をもたらす研究者には様々な委員会や出版物から締め出しを食らう制裁が待っているだけです。当然、何処の国の大学も調査してはくれません。なぜならこの因果関係の調査には大量のボーリングと大量の検体の土中成分分析が大規模になされなければ因果関係を学問的に立証する事は困難な上、万一(当然?)石油の増産の為の海水注入が原因と証明されてしまっては自社も自国も世界の経済も大打撃をうけます。そんな反体制的な研究者はきっと研究者生命だけではなく命まで危なくなるでしょう。

たとい、万が一その原因究明の調査がされても、マスコミは経済に悪影響を与え、テレビや新聞の大広告主のスポンサーの不利益にをもたらしたり、国家の基本政策に物議をかもしだすようなニュースは配信されません。

たとい現場の記者がどんなに頑張ってもデスクが没にしてしまいます。私も随分と環境問題に取り組みましたが結局マスコミは経済成長に悪影響する深刻な自動車騒音や大気汚染には沈黙を続ける丈でした。その最たるものはこともあろうに、私が直訴した環境庁の大木長官でした。

まあ、その事は置いておいて、地域住民に甚大な犠牲を強いて、彼らが自活生活を踏みにじってまで増産されている石油は既に減産に移行し、需給の逼迫が進み、それでも生産を強行するとやがて枯渇するのです。

油井は地下の貯油地層の褶曲に平行に並んで掘削され、産油しますが、これが周辺部から段々と油の代わりに塩水が噴出する用になっています。 するとそ油井はその日から地下に塩水を注入する油井ならぬ注海水井に転用されるのです。

そして、その元油井から積み出し港に送られていた送油のパイプラインは逆向きの送海水パイプラインに接続されて産油と環境破壊の為に貢献することに成るのです。

テロや様々な環境問題で石油パイプラインがマスコミに登場するとき、必ずパイプライン一本ではなく二本のパイプが平行して写っていることにお気づきだと思います。そうあの片方は災害や事故時の予備ではなく、深刻な環境破壊を油井地域にもたらしている海水を届ける物なのです。

イラクやアフガニスタンの産油や天然ガス産出地域に米国が軍事介入しました。しかし、米軍と英国軍がまず確保したのは油井であったことを皆様は覚えておられるでしょうか。

フセイン政権やタリバンは地域住民に支持基盤をもつ民族政権でした。だから彼らはこの地域住民の生活を根底から破壊する塩水注入による石油や天然ガスの増産には消極的だったのです。しかし、もし自社や自国の石油生産能力の減少が発覚したら債権市場や株価は暴落して経営危機は必至です。 それに業をにやした英米の巨大石油メジャーは様々な嘘偽の情報を捏造し、対テロのスローガンを掲げてこれらの資源大国に覇権を確立し資源の枯渇による世界企業の資産価値の低迷と株価の下落による経済的損失を回避し、僅かの年数だけ破綻の到来の先送りに成功したにすぎないのです。

しかし、その禁じ手=海水の注入による石油の増産は石油メジャーの生き残りをかけた最後の悪アガキでしかありません。その事自体が、既に中東の天然資源は枯渇しつつあり、世界の総産油量は減少に転じていることを証明しているのです。

もし、世界がこの現実=石油ピークを受け入れずさらなる生産と消費の拡大による経済成長路線を進むとどうなるかは明日にお話してみたいと思います。

歴代誌

今日は昨日に引き続いてヘブル語の歴代誌第二の20章と21章を原典から直訳しました。

以下はリンクです。

http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch20.htm

http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch21.htm

一カ所気になったのは21章の 15節でした。これは聖書の中で唯一記録されている北王国イスラエルで活躍した預言者エリヤが善王ヨシャパテの後を継いだ悪王のヨラムに書き送った書状の中の言葉です。

15 ・ そしてあなた 中で弱くなる(病気)ら 多いら 中で弱くなる(病気)の 内臓 まで 彼らが出て来る 内臓 から その弱くなる(病気) 日ら 上 日ら 


翻訳にしてみますとこうなります。

お前は病気になって日に日に弱り、臓器が腹から外にこぼれる様になる。

よくぞまあこんな恐ろしい預言を、事も有ろうに何をされるか分からない残忍な王様にむかって書状を送りつけたと言う事なのです。

この箇所は実は歴代誌の全体が言おうとしていることを端的に表している箇所だからご紹介したのです。

同じ事が書かれていると思われている列王記と歴代誌を比較してみると大きな違いがはっきりします。

それは列王記はまだユダ王国やイスラエル王国が健在でした。しかし、歴代誌の時代には何方の国も消滅していたのです。

その原因が何処に合ったのかを反省する為に書かれた歴代誌は王様達の不道徳や悪行を赤裸々に記しているのです。

よもやと思った国家の消滅を経験して記したのが歴代誌です。国家消滅の原因はやはり神に選ばれて民の上に君臨していた王の悪行に原因があったと言うわけです。

直訳とは

直訳とは

 さて入門用のギリシャ語講座の初級も一段落しましたので、ここらへんで私のライフワークである聖書原典の直訳について、ご紹介する事にいたしましょう。

  今まで時々、リンクでご紹介してきました直訳ですが( http://bible.co.jp/bible/ ) きっとほとんどの方には全く意味不明の文章であったと思います。

これは、ギリシャ語やヘブル語の知識のない方には当然そうなるものなのです。だから今日はギリシャ語の知識のない方の為に「一体この直訳とはなんなのか」を簡単にご紹介してみたいのです。

★まず最初に何故直訳に至ったのかをお話しします。

私がキリスト教に興味を持ったのは昔働いていた公社の社内安全標語に応募したことがきっかけでした。「あなたの安全は私の安全。」という標語で近畿電気通信局管内に応募したのです。すると庶務(一般の会社では総務)の担当者がわざわざ私の所に来て「君はクリスチャンか?」と問い正されたのです。

それもそのはず、当時の近畿電気通信局長はあの遠藤周作のお兄さんの秀才でクリスチャンとして良く知られた遠藤正介だったのです。 しかも、当時の管轄管理部長は正介さんの右腕として知られた立派なクリスチャンの安岡氏だったのです。
そんななか、選考の過程で「クリスチャンぽい標語を出したやつがいる。」と噂になった為なのでしょう。私は宗教はのっけから否定していて「立派な筋金入りの無神論者」と自認していましたので、「馬鹿らしい、なんで私にそんな事を聞くのか?」と反対にたずねたのです。 すると彼は「きみの標語の説明と同じ事が聖書にかいてある。」と言ったのでした。庶務の担当者もおそらくクリスチャンだったのでしょう。

その時、一度も手にした事の無い聖書というものに産まれて初めて興味を持ったのです。その時以来、「聖書も馬鹿にしたものではない一度教会にでも行って聖書の話を聞くのも悪い無い。」と思うようになっていたのです。

すると不思議な事に、自宅のすぐ近くの通勤道の和風の住宅(良く知ったOさんの家)に教会の看板が上がり、程なく駅前の薬局で金髪で青い目の若く美しい宣教師(後で知ったのですがその時彼女は49歳でした。..騙された!!)に教会案内を渡されたのです。早速出かけてみました。

  そして、その若く見える宣教師から日英対訳の聖書を送られ早速読み始めたのです。そして、読み始めたヨハネの福音書の冒頭に「初めに言葉があった。」という語に恐れ行ってしまったのです。

  私は、「認識」と言う事を突き詰めると、「物や行為や事実を人間が認識できるのは事実が先か、はたまた言葉が先か?」と当時真剣に考えていたからなのです。

  この、最初に読んだヨハネの福音書の一言で私は聖書を生涯掛けて調べて見たいと思うようになりました。しかし、入手して読んだ邦訳聖書は読めば読むほど論旨が不明瞭で、頭を使えば使うほど支離滅裂である事に気づいたのです。

  聖書全巻を3月あまりで読んでしまいましたが、全く辻褄が合いません。聖書に関する書物を購入して調べてみるとどうやら翻訳に原因がある事がわかってきました。

  そんななか夜間学部のある神学校がある事を知り、聴講生に成り新約概論や組織神学、旧約学に加えて実践神学などのクラスを取りましたが、以外やかなりの幅広い学問である事を知り、神学や聖書学は仕事のかたわらに片手間では無理である事をさとり、職を辞し、神学校に進むよう導かれたのです。そうして計3つの神学校に合計8年ほど学び、ようやく聖書や教会の歴史と神学のおぼろげな全体像を掴めるに至ったのです。

  そして、牧師となりはや27年が経過しました。神学生時代を含めて「聖書を読むときには必ずギリシャ語とヘブル語の原典に当たる事」をモットーとして来ましたが、その長い時間の経過で行き着いたのがこの「原典直訳」なのです。

  最近でこそこの直訳なしでもいきなりギリシャ語の原典を見たら、「その箇所の言っていることが目で見る様になんとかイメージ出来る」ように成りましたが、やはり駆け出しのころはそれは望み得ないことでした。

  そんな中、請われて教会でギリシャ語のクラスを初める様になり、「ギリシャ語の初心者であっても、文法などに煩わされず読むだけで聖書の意味している事がイメージ出来る助けとなる用に」と始めたのがこの聖書原典直訳です。 

  ★そのような訳で、この聖書直訳は文字をみて頭で理解する為の物ではありません。

  ★ギリシャ語の文法の初歩を理解した方が、ギリシャ語を音読しながら、その都度、この直訳に目を通すだけで今音読しているギリシャ語のイメージしている事柄が脳裏で想像し易い様にする「ギリシャ語聖書原典学習の補助教材」なのです。 

  という事で今日は、私のライフワーク聖書原典直訳とはなんなのかを簡単にご紹介させていただきました。

  ちなみに現在完了している部分は以下です。

 新約聖書ギリシャ語全巻完訳
 http://bible.co.jp/bible/nt/

 70人訳ギリシャ語旧約聖書 モーセ五書、歴史書ほぼ完訳 小預言書完訳 http://bible.co.jp/bible/lxx/

  旧約聖書ヘブル語原典 同上
 http://bible.co.jp/bible/ot/

  現在歴代誌第二の最後の部分の直訳を進行中です。本年中にヨブ記と詩篇の直訳を完了する予定です。

  注:現時点における直訳の文字総数数は約800万字で400字詰原稿用紙に換算すると2万枚になります。(ちなみに一般の邦訳旧新約聖書で230万字程度ですからその3.5倍の分量になっています。)いくつかの出版社に自費出版を問い合わせましたがいずこからも回答がありません。完成時には一千万字を軽く超えるため印刷物にして出版することは物理的に不可能なようです。

ちなみにこのブロク原典聖書研究丈でも現時点で総文字数約200万字を超えており、原稿用紙に換算すると5千枚あり、インターネット時代だからこそ、こんなに手軽に公開出来るものだと感謝しています。もちろん、読んで下さる方にはだらだらと文字ばかりで大きな迷惑かと存じますが御容赦頂ければ感謝です。 
 以下は今日直訳した箇所、歴代誌第二18章19章(ヘブル語の直訳)へのリンクです。
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch18.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch19.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch20.htm (こちらはまだ途中で明日には21章も直訳を進める予定です。)

土星 


土星 

  今日は少し晴れ間が見えたので、久しぶりに倉庫から望遠鏡を持ち出してきて南東の空に見えている獅子座のレグルスのそばにある土星を見ました。

 実際はもっと美しく見えているのですが肝心の撮影機材が無いので、小さなデジカメを片手に持ってシャッターを切った物をご紹介します。 

 そのうちにまともな物が揃えば美しい夜空を皆様にご紹介出来るかと思います。

 撮影機材 
セレストロン C8 20㎝シュミカセ。
アイピース セレストロン12mm(160倍)
赤道儀 ビクセン SP 一軸駆動
ソニーサイバーショット DSC-p100 5.1Mpixels 

動詞の同形変化

動詞の同形変化

 昨年暮れの11月23日に始めた「世界一優しい言葉ギリシャ語」も今週で最後の10回目となりました。動詞の時制の意味を知れば後はアナリテイカルと辞書を使えば新約聖書も70人訳ギリシャ語旧約聖書もあとは実際に読むだけです。

  今日は文法の最後として動詞の変化系の中で同形に成る物をご紹介しておくことにします。

  聖書を読んでいると結構頻繁に登場しているのでうっかりすると、「辞書で確かに調べたから間違いない」と自信を持って、とんでもない間違いをしてしかれそれに気付かない失敗をしかねませんのでご注意下さい。

  ★以下は同形になる語形と異なった文法(法や態、時制や人称)である場合の物です。左が同形の形でその右に書かれているのが異なった物で同形は★2種類丈ではなく★「3種類も同形」であるものがある点に注意して下さい。勿論このほかに分詞や名詞、形容詞で同形に成る物も有りますがそれらは単語毎に異なりますのでここではご紹介する事は出来ません。

λυση 直接法未来中態2人称単数(あなたは自分の為に確かに解く)
   接続法不定過去能動態3人称単数(彼は解く為に)
   接続法不定過去中態2人称単数(あなたは自分の為に解く為に) 

λυη 直接法現在中態2人称単数(あなたは解き続けている為に)
   接続法現在能動態3人称単数(彼は解き続けいる為に)
   接続法中態2人称中態(受動態)(あなたは自分の為に解き続けている為に)

λυσαι 不定法不定過去能動態 (解いた事)
    命令法不定過去中態2人称単数(あなたが解け)
    希求法未来能動態3人称単数(彼が確かにされよ)(希求法は新約では先ず登場しない)

λυσω 直接法未来能動態1人称単数(私が確かに解く)
   接続法不定過去能動態1人称単数(私が解いた為)
   直接法不定過去中態2人称単数(あなたが解いた為=時制接頭辞のεが母音と合音した場合)  
    
λυετε 直接法現在能動態2人称複数(あなた方は解き続けている) 
    命令法現在能動態2人称複数(あなた方は解き続けろ)

λυεσθε 直接法現在中態2人称複数(あなた方は自分の為に解き続けている)
    命令法現在中態2人称複数(あなたは自分の為に解き続けろ)

  ギリシャの動詞の変化形が同形になる★主な物は以上です。しかし、★これ以外にも★不規則変化形や、★合音や★音便で★たまたま全く同じになる単語が★沢山有りますのでご注意ください。

  急いで辞書やアナリテイカルで探している単語を見つけて★前後を見る事を忘れると結構取り違えを起こします。私は持っていないので詳しい事は分かりませんが、パソコン等のギリシャ語データーベースを使われている方は前後の類似語に注意されないと頻繁にミスをしてしまいますので要注意かと思います。

それから、この同形の語形から原典の著者が何を記したのかを判別するのは至難の業です。まあ一般の翻訳がそれで合っていると考えておくと大変気楽です。しかし、もし自分で違う読み方をしてみて、そちらの方が文脈に合っていると思うなら遠慮する事はありません。堂々とそう訳出して下さい。結構そういう箇所は沢山有ります。

ギリシャ語講座 の全10回のクラスは以上で完了です。

動詞の規則変化表、その二

動詞の規則変化表(■法、●態、▲時制)その二
★字数制限の5000字を超えていますので「その一」と「その二」に分割しました。

■分詞(以下は全て分詞)
▲現在形
●能動形   男  性   女  性     中  性 
単数 主格 λυων      λυουσα     λυον
   属格 λυοντοs    λυουσηs    λυοντοs
   与格 λυοντι     λυουση     λυοντι
   対格 λυοντα     λυουσην    λυον
複数 主格 λυοντεs    λυουσαι    λυοντα 
   属格 λυοντων    λυουσων    λυοντων
   与格 λυουσι(ν)  λυουσαιs   λυουσι(ν)
   対格 λυονταs    λυουσαs    λυοντα
●中態 
単数 主格 λυομενοs   λυομενη    λυομενον 
   属格 λυομενου   λυομενηs   λυομενου 
   与格 λυομενω    λυομενη    λυομενω 
   対格 λυομενον   λυομενην   λυομενον
複数 主格 λυομενοι   λυομεναι   λυομενα 
   属格 λυομενων   λυομενων   λυομενων
   与格 λυομενοιs  λυομεναιs  λυομενοιs
   対格 λυομενουs  λυομεναs   λυομεναs 
●受動態 
単数 主格 λυομενοs   λυομενη    λυομενον 
   属格 λυομενου   λυομενηs   λυομενου
   与格 λυομενω    λυομενη    λυομενω
   対格 λυομενον   λυομενην   λυομενον
複数 主格 λυομενοι   λυομεναι   λυομενα
   属格 λυομενων   λυομενων   λυομενων 
   与格 λυομενοιs  λυομεναιs  λυομενοιs
   対格 λυομενουs  λυομεναs   λυομεναs  

▲完了形
●能動態 
単数 主格 λελυκωs    λελυκυια   λελυκοs 
   属格 λελυκοτοs  λελυκυιαs  λελυκοτοs
   与格 λελυκοτι   λελυκυια   λελυκοτι
   対格 λελυκοτα   λελυκυιαν  λελυκοs
複数 主格 λελυκοτεs  λελυκυιαι  λελυκοτα 
   属格 λελυκοτων  λελυκυιων  λελυκοτων 
   与格 λελυκοσι(ν)λελυκυιαιs λελυκοσι(ν)
   対格 λελυκοταs  λελυκυιαs  λελυκοτα
●中態
単数 主格 λελυμενοs  λελυμενη   λελυενον 
   属格 λελυμενου  λελυμενηs  λελυενου
   与格 λελυμενω   λελυμενη   λελυενω
   対格 λελυμενον  λελυμενην  λελυενον 
複数 主格 λελυμενοι  λελυμεναι  λελυενα 
   属格 λελυμενων  λελυμενων  λελυενων
   与格 λελυμενοιs λελυμενωιs λελυενοιs 
   対格 λελυμενουs λελυμεναs  λελυενα
●受動態
単数 主格 λελυμενοs  λελυμενη   λελυενον 
   属格 λελυμενου  λελυμενηs  λελυενου  
   与格 λελυμενω   λελυμενη   λελυενω
   対格 λελυμενον  λελυμενην  λελυενον
複数 主格 λελυμενοι  λελυμεναι  λελυενα
   属格 λελυμενων  λελυμενων  λελυενων 
   与格 λελυμενοιs λελυμενωιs λελυενοιs 
   対格 λελυμενουs λελυμεναs  λελυενα 

▲不定過去
●能動態
単数 主格 λυσαs     λυσασα     λυσαν
   属格 λυσαντοs   λυσασηs    λυσαντοs
   与格 λυσαντι    λυσαση     λυσαντι
   対格 λυσαντα    λυσασαν    λυσαν
複数 主格 λυσαντεs   λυσασαι    λυσαντα 
   属格 λυσαντων   λυσασων    λυσαντων
   与格 λυσασι(ν)  λυσασαιs   λυσασι(ν)
   対格 λυσανταs   λυσασαs    λυσαντα

●中態
単数 主格 λυσαμενοs  λυσαμενη   λυσαμενον  
   属格 λυσαμενου  λυσαμενηs  λυσαμενου 
   与格 λυσαμενω   λυσαμενη   λυσαμενω  
   対格 λυσαμενον  λυσαμενην  λυσαμενον 
複数 主格 λυσαμενοι  λυσαμεναι  λυσαμενα 
   属格 λυσαμενων  λυσαμενων  λυσαμενων  
   与格 λυσαμενοιs λυσαμεναιs λυσαμενοιs 
   対格 λυσαμενουs λυσαμεναs  λυσαμενα   

●受動態
単数 主格 λυθειs     λυθεισα    λυθεν 
   属格 λυθεντοs   λυθεισηs   λυθεντοs 
   与格 λυθεντι    λυθειση    λυθεντι
   対格 λυθεντα    λυθεισαν   λυθεν
複数 主格 λυθεντεs   λυθεισαι   λυθεντα
   属格 λυθεντων   λυθεισων   λυθεντων 
   与格 λυθεισι(ν) λυθεισαιs  λυθεισι(ν)
   対格 λυθενταs   λυθεισαs   λυθεντα

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