FC2ブログ

主のいのり

All rights reserved. Copyright (C) semidalion 2008

こんなふうに そやさかい いのりいな、あんたら。

「お父はん うちらの、天にいたはる。
聖くされろ、名前が あんたの。
来させろ、王国が あんたの。
成らせろ、意志が あんたの。
おんなじ様に天と、地上で。
パンを うちらの、生きる為に、
くれよ、うちらに 今日。
そいで ほっといてんか うちらに、借金らを うちらの。
丁度うちらが ほっといたように
その 借金したはるひとらに、うちらの。
やめてや 運び込むんは、うちらを中でためすんわ。
反対に 助けろよ うちらを、逃がしてえな 邪悪から。」
(それは あんたのや 王国は、それに力も、
それに栄光も いつまでも。ほんまに)

マタイ福音書6章9節から13節 




直訳は以下

09 ・この様に そういうわけだから あなた方は祈り続けろ あなた方は。父よ 私達の その 中で その 不可視ら、彼が崇めさせられろ その 名が あなたの、
10 ・彼が来させろ その 王国が あなたの、彼が起きさせられろ その 意志が あなたの、様に 中で 不可視 そして 上に 地、
11 ・その パンを 私達の その 当日(生存の為or上に在る=エピイ+ウウジィン=存在する=エイミの現在分詞)の あなたは与えろ 私達に 今日。
12 ・そして あなたは放置しろ 私達に その 借金を 私達の、様に そして 私達が 私達が放置した その 借金 らに 私達の。
13 ・そして 無い あなたが中へ運ぶ(為) 私達を 中へ 誘惑、反対に あなたは救出しろ 私達を から その 邪悪。


★どないでっしゃろか?おおさかべんの主の祈り! ほんまにゲレシャ語のゲンテンに忠実にやってみたんやけど。声のベッピンサンが読んでくれはったらユーチューブに上げて 皆はんに耳からきいてもろたら、ほんまの大阪弁の威力がわかりまんねんやけど!!

★以下は参考の為に、ギリシャ語の原典と大阪弁訳の順序と意味が分かるよようにインターリニャー風に上下対訳で記してみました。

★言葉の順序は実は原典と全く同じで、一切前後に移動していません。また単語の意味も非常に厳密に訳出しました。

★日本語も会話体では元々会話体であるコイネーギリシャ語とは語順が全く同一でも意味がそのまま通じます。驚くべきこと.....それともあたり前?......です。

こんなふうに そやさかい いのりいな、あんたら。
Ουτωs ουν προσευχεσθε υμειs.

お父はん うちらの、天にいたはる。
Πατερ ημων ο εν τοιs ουρανοιs.

聖くされろ、名前が あんたの。
αγιασθητω το ονομα σου,
来させろ、王国が あんたの。
ελθετω η βασιλεια σου.

成らせろ、 意志が あんたの。
γενηθητω το θελημα σου.

おんなじ様に 天と、 地上で。
ωs εν ουρανω και επι γηs. 

パンを  うちらの、 生きる為に、
Τον αρτον ημων τον επιουσιον

くれよ、うちらに 今日
δοs ημιν σημερον 

そいで ほっといてんか うちらに、借金らを うちらの。
και αφεs ημιν τα οφειληματα ημων,

丁度  うちらが ほっといたように
ωs  και ημειs αφηκαμεν

その 借金したはるひとらに、うちらの。
τοιs οφειλεταιs ημων

やめてや 運び込むんは、うちらを 中で ためすんわ。
και μη εισενεγκηs ημαs ειs πειρασμον 

反対に 助けろよ うちらを、逃がしてえな 邪悪から。」
αλλα ρυσαι ημαs απο του πονηρου.
 
(それは あんたのや 王国は、それに 力も、
(οτι σου εστιν η βασιλεια και η δυναμιs

それに 栄光も いつまでも。 ほんまに)
και η δοξα ειs τουs αιωναs.αμην)
スポンサーサイト



飛び下り?



飛び下り?

 今日所要で兵庫県の東端、川西市の中心部を10時15分に通りました。中央町のさる県会議員さんの家のあったあたりが騒然とした雰囲気です。パトカーが3台、救急車が2台、そして消防のレスキュー隊に青いビニールシートを持った、鑑識と思われる県警の職員が機敏に動き回っていました。上の写真です。

  何らかの事件かと思いますがマンション脇の空地にオレンジ色の毛布が掛けられた膨らみがあり、その 右端から真っ赤で手ほどの大きさの物が見えていました。下の写真です。

  詳細は後日報道を確認して、この下の部分にご報告致します。今日はたまたま通り掛かった市内中心部のビルの空き地で撮影した殺伐としたこの時代の何かを解明してくれる事件のご紹介でした。

 ・・・・・・以下で詳細を後日にお知らせ・・・・・4月18日追加投稿・

あの日からもう2週間以上が過ぎましたが、新聞紙面にもまた噂にも何の情報も聞き及びませんでした。翌日にあの場所を通った時赤い薔薇の小さな花束が一つ現場に置かれていました。その事から推測すると、確かなことは分かりませんが誰かがマンションの屋上から飛び下り自殺を実行したと思われます。

最近は、年間3万人が自殺し、その大半は70才以上の老人でありそれに失業した壮年男子が続き若者たちがそれを追っていると言われます。

これから、私達団塊の世代の高齢化に伴い、ますます自殺が増加することが心配されています。

しかし、ここには重要な問題点が潜んでいることが案外知られていません。

第一は自殺者の殆ど(過半数)が男性です。そしてその原因も過半数が不治の病だと言うことなのです。

ほおっておいても直に死ねるのに、あえて死に急ぐ高齢者の男性たち。 一体何がそこに隠されているのでしょうか。

私は、彼らが人に迷惑を掛けて生きるよりも、あえて自ら死を選ぶ選択肢によって自分らしさを保とうとしていることを推察するのです。

元気である今の自分には分からない、人間の本質がそこにかいま見られるのではないでしょうか。 「散る桜、残る桜も散る桜。」という日本人の心、あるいは人類全体にある死生観、人生観が自分が自分でどうにもならなくなり、運命に支配されて受動的に死ぬよりも、どうせ避けられない結論なら、己を制する内に人生の最後を自己決定したいという願望がそうさせている様に思うのです。

さて、もう一点問題があります。それは自殺の統計その物の問題です。それは「多く在る自殺の中でも実際に自殺として統計に入れられるものはかなり少ない。」という紛れもない現実です。特に自殺者が若かった場合には、残された遺族の手前もあり、不慮の事故や病死などとして扱われていることを良く見かけます。まあ牧師という職業柄かいま見る事の出来る真実、いや現実ナノかもしれません。

聖書の中にはあまたの自殺が見られます。サムソン、エフタの娘を始め、アサエルやロトの妻やイザヤを初めとする多くの預言者達は「覚悟の死」と言う意味である種の自殺と見ることが可能かと思います。

その中で顕著な二例を最後にご紹介したいと思うのです。

その第一はイエスキリストを裏切ったイスカリオテのユダです。不思議に思うのは彼がキリストを裏切って祭司長達に密告し、その結果のキリストの十字架刑を知りました。それから彼は何結か自殺の実行に及んだのです。

  もしイスカリオテのユダが本心からキリストを裏切ったのなら彼の自殺は不合理です。本当の裏切りなら十字架刑が決定された事を喜ぶか当然と受け止めるはずです。しかし彼はそれを知るなり、出て行って首を吊って自殺しました。

彼の問題点は何かお分かりでしょうか。そう、彼の頭の中には「イスラエルの国家の宗教的指導者である祭司様やパリサイ人様は神様に立てられた立派な方である。彼らが主イエスを裁判に掛ければ、彼はみな学識や地位がある素晴らしい方々だから、キリストが神であることがわかる事間違いない。よもや処刑する事は無い。何故ならば世界は神が支配され必ず正義が勝つからだ。」という確固たる信念が有ったと思われるからなのです。

しかし、現実はそうではなかったのです。聖書が教える通り「世界は悪魔とその手下である宗教家や痴れ者が支配し、正義は地上では必ず負ける」のです。その事実を知った時ユダは自らの命を絶ちました。

  ユダがもしこのとき「正義が必ず勝つと言う信念」の間違いを素直に悔いて改めるべきだったのです。したし彼はそうすることをせず、逆に、悪が支配する世界に自ら決別し、決して自分の非や考えチガイを認めず、悪の支配する世界の現実から逃避する道にあくまでも固執したのです。 しかし、この男(イスカリオテのユダは)単なるお人好しのお馬鹿さんで現実を見る目が無い能無なのではないでしょうか。金入れを預かり損得勘定や地上の名誉などというおよそ宗教とは縁の無いことにしか彼の目と心は向いていなかったのだと私は思います。そして、このたぐいの人は結構多いのではないでしょうか。

もう一人の自殺は、そうほかでも無い 、ユダの裏切りによって十字架で処刑されたイエスキリストです。彼は「誰も私から命を取った者は居ません。私が自ら人類の贖いの為に命を捨てるのです。」と断言して、ユダの裏切りと不当な裁判と判決を覚悟の上で人となり、エルサレムに至り、あえて処刑される道を選んだのです。

彼は、人間は弟子たちを始め誰一人信頼出来る者は無く、国家も政治も司法も不正にまみれていることを知った上で、その人間たちの罪を贖う為に自ら十字架上に処刑される道を選ばれたのです。

さて、あなたは何方の人間でしょうか? もし自分がキリストを十字架に磔にした張本人ユダと同罪であることが分かればあなたはキリストの救いに与る可能性の在る人だと私は思います。もし、そうでなければこのブロクはあなたと全く無関係と言うことになります。

エズラ書完訳

エズラ書完訳

  今週もまた予定通りに直訳を終える事が出来ました。以下がそのリンク箇所です。今週は旧約123節と70人訳123節の計246節、直訳の文字数は約3万5千字で400字詰原稿用紙90枚程でした。

http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr07.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr08.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr09.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr10.htm

http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr07.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr08.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr09.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr10.htm

原典はやはり翻訳と色々異なっていて、本当に興味が尽きません。

今週の箇所は特に面白く重要な物が多かったのですが、そのなかから一カ所だけご紹介します。それはエズラ記8章の17節です。

ヘブル語からの直訳

17 ・ そして私は徹底的に命じた を彼ら 上 イド その 頭 中でカシフイヤへ その場所ら そして私は置いた 中で口彼ら 言葉ら に徹底的に言葉する事の に イド 兄弟彼 その 与えられたら 中でカサペヤ その場所 に来さした事の に私たち 徹底的に奉仕しているらは に家の 神ら私たち 

70人訳ギリシャ語からの直訳

17 ・ そして 私は外に運んだ 彼らを 上に 司ら 中で 銀(ヘブル語=カシピヤ=銀の) その 場所の そして 私は置いた 中で 口に 彼らの 言葉らを 喋る事 方に その 兄弟らを(ヘブル語は単数) 彼らの その 与えられているらを 中で 銀に (ヘブル語=カシピヤ=銀の) その 場所の  その 運ぶの 私たちに  歌うらを 中へ 家 神の 私たちの。

文脈は次の様になっています。

バビロンにいた大祭司エズラが紀元前457年にエルサレムに帰還する為に人々を集めた時のことです。

大祭司のエズラかエルサレムに戻っても一緒に神殿の礼拝を盛り上げ手暮れる同業者の祭司やレビ人や声楽家が皆無だったのです。

それは当然です。この様な知識や文学や技術、芸術の才能を受け継いだ人々は何処の国へ言っても手に職があるため自活できます。 だから、その様な今している豊かな生活を捨てて、廃墟となったエルサレムに帰る様な決意のある人が居なかったと言うことなのです。

しかし、それではペルシャ王アルタシャスタ(歴史ではアルタクセルクセス=BC426~424在位)に総督として祖国再建に赴くエズラの職務は挫折してしまいます。

  そこでエズラが何をしたのかがこの聖書箇所に記されているのです。

  そう、エズラは王に与えられた莫大な資金力に物を言わせて、祭司やレビ人を金で買収して、帰国の人々に加わるらせたのです。

  ヘブル語で一般の翻訳では「カシプイヤ地方」などと訳しています。ヘブル語の原典の言葉は「ベカサペヤ」で前置詞ベは地域と取り、後半は地名カサペとしています。

 しかし、70人訳はこれを 「エズラが 銀=お金によって 上に立つ司(=指導者)達を運んだ」としているのです。しかもそれが二度繰り返されています。

 ヘブル語の原文もカサペは地名とされていますが、「銀=ケセフ」と同子音字ナノです。元々ヘブル語聖書本文には子音字しか書いてありませんから、これが銀(ケセフ)なのか銀と言う地名(カサペ)なのかは読む人が自由に選択して良いのです。

  おそらく、ヘブル人達にとっても、祖国に帰還すると言う重大事がお金で解決されていることに抵抗が有ったのでそう読まないように仕向けたのだと思われます。

  しかし、エジプトに残留しているユダヤ人達(当然祭司やレビ人)によって翻訳された70人訳のギリシャ語には、「自分達は金に目が眩んでペルシャ王の政策に協力しなかった」と言う自尊心がそう訳出させたことが分かります。

  また同時に70人訳が訳されている当時もエルサレム教団の祭司やレビ人は自分達の優越性を鼓舞していたでしょうからそれを批判する意味も込めて、あいつらは金で神様の仕事に付いた取銭奴だとさげすむ意味も有った様です。
  まあ、何方が正しいのかは読む方の判断に任せるとして、原典で見る聖書は中々面白い物があります。

 最後に余分ですが、エズラは7章11節に「主の掟に精通した」などと訳出去れていますが原典は「早い」と言う言葉で速読あるいは速記を意味する言葉です。また、エズラ記7章の17節の70人訳には大変重要な記述がみられます。以下は直訳。

12 ・ アルタサスタ 王は 王らの エスドラ 書記に 法律の その 神の その 不可視の。 彼が完成されていた その 言葉 そして その 離れ判決。

  そこには、アルタシャスタ王の命令により律法学者で大祭司で書記エズラによって「天の神の律法の書が完成していた。」と記されているのです。

  もし、この70人訳の記述が正しいとしたら、様々な資料や記録を速読速記のエズラの手によってあまたの源資料が編集されて聖書として完結させたことを意味します。

 と言うことで、今日は旧約聖書の啓示の最後の部分に名前が登場するエズラと言う大祭司に関する興味深い重大な事を意味する聖書の記述のご紹介でした。

手抜き工事






手抜き工事

 今日は何時もすいている大阪中央環状線が大渋滞でした。どうやら御堂筋の事故でここ(池田インター)まで渋滞してしまった様です。最初の写真です。
 
 何時もは皆7~80キロで飛ばしている高架の自動車専用道ですが、一向に進みません。良く見ると所々に道路の端のパラペット部分のコンクリートがそこかしこで深くえぐれています。(次の写真です。)

  酷い所は長さの足りない鉄筋が1㎝以上も外に飛びだしていたり抜けて脱落してしまった箇所が有ります。普通だったらこの鉄筋は上まで届いていてしかも横筋と接合されていなければなりません。次の写真です。

  所々に竣工時の名盤が有りましたので見てみると1986年の完成です。まだ20年しか経っていません。一番コンクリートの強度が増す建築後50年の半分にもなっていない状態でこのありさまです。次の写真です。

  そう言えば夜9時にこの辺り通ると所々でパラペットの補修工事をよくしていました。これでは補修しないと何時パラペットが高架下に崩れ落ちるかわからないと思いました。

  そして、今朝聞いたテレビのニュース(我が家にはテレビが無いので音声だけ聞いている。)で、「道路の補修工事の予定価格で落札がされない事が増えている。その理由は補修工事は予定価格では採算が合わないので入札する企業が無い。」と言うのを思い出した。 

  テレビのキヤスターやコメンターの説明では、「以前は談合で不採算工事も採算工事も抱き合わせで各社が順繰りに受注していたが、談合が出来ない今は道路の補修工事は自治体の見積価格が低すぎて採算割れするので入札出来ない。」と言う事であった。

  しかし、今日のこの道路の要補修箇所に関する限り、NHKのニュースは間違いだと思わされた。

  おそらく、自治体の担当職員は、悪質な手抜き工事による欠陥道路であると言う認識が欠如しているのではないだろうか。だから、設計図面道理に施工されていると簡単に思って補修工事の予定価格を作るが、皮肉な事に施工業者の方は、「そんな簡単な補修工事では、道路が健全に出来ない事」を重々知っていて(手抜き工事をした本人だから)工事を受注しても表しか見ていない自治体の見積もり価格ではとてもではないが健全に補修する事は無理なので入札を回避しているのではないだろうか。

  私が関わった阪神高速道路公団の様々な工事でも多くの手抜きを目撃したが、いよいよ手抜き工事のその付けが回ってくる時代が来たと思わされた。

  これからの日本は各種の公共工事で手抜きされた欠陥道路や欠陥校舎などの崩落が頻発し、地震や洪水でも無いのに橋が落ちたり高架や建物が倒れる時代が来ようとしていることを思わさる。

  渋滞で閉口している人間達を照明灯の上からカラスのつがいが見下ろしているの見て(最後の写真です。)大変考えさせられた。これが単に公共工事の道路や建物だけであってくれたら良いけれども、教育や医療や法曹や経済界や企業や農業林業水産業、マスコミに加えて宗教界や家庭の育児.....に至るまで国家の隅々に至る構造的手抜きの付けが、この時代に回ってくる様な恐怖を感じた。

  今日は、渋滞で見えてきた道路の酷い手抜き工事の実態のご紹介でした。

アオサギの獲物





今日は珍しい真っ黒な鷺がいたので写真を撮ろうとすると、そのとなりでよく居るアオサギが何かをゲットしました。

最初の写真がそれです。かわいそうな犠牲者の足が鋭い嘴に挟まれて見えています。

逃げる大きな食用蛙(ミシシッピー蛙?)がやられました。次の写真です。

さらに執拗に息の根を止めます。その次の写真です。

最後の写真は岸辺に行って地面と嘴で砕いて今日の収穫を味わう為に引き上げる所です。

アオサギは一日ここで獲物を狙って大物を見事に仕留めたのです。と言う事で今日は凄まじい生存競争の現場からの中継でした。

黙示録20章4節

千年王国? 

 リクエストをありがとうございました。早速以下に直訳と翻訳とコメントを記します。

黙示録20章4節直訳

04 ・ そして 私は見た 座らを、そして 彼らが座った 上に 彼ら、そして 判決が 彼が引き渡された彼らに、そして その 生活らを その 首を切られたらの 通して その 目撃証言 イエスの そして 通して その 言葉 その 神の、そして 掛かる所らは全て 無い 彼らは礼拝した その 獣を 無いも その 像を 彼の そして 無い 彼らが取った その 彫り込み印 上に その 額 そして 上にその 手 彼らの。そして 彼らは生きた そして 彼らは王(王支配)した 共に その キリストの 千らを(orは) 年らを(orは) 。 

翻訳

04・そして私は多くの座を見た、それらの座に彼らは座った。彼らに判決が言い渡された、イエスの目撃証言と神の言葉を語ったために首を切られた人らの生活らを、これらの人々は獣と彼の像に礼拝しなかった そして額と手の上に獣の刻印を取らなかった。そして彼らは生きて キリストと共に千年らを王した。

■以下コメント 

  ★ポイントは最後の「千らを(orは) 年らを(orは) 」という数です。「千=キリアス」には単数と複数が有り単数は「千年」と言う人まとまりの固定観念を表し名詞などとして扱います。そして複数は単なる数字を表します。いわゆる1000と言う訳です。

  そこで、重要なのは黙示録における数を考えなければなりません。ここに登場する獣の刻印は有名な666( http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/26437751.html参照)です。

黙示録 13章18節、第一列王記 10章14節(ニ歴9章13節)、(エズラ記2章13節、比較ネヘミヤ7章18節=667名)

  そこで分かる事ですがこの、獣の刻印が文字通りの数を意味したら、千年も文字通りの数で良いかもしれません。

  ★もし、この666の数字が文字に意味がある伏せ字の様な仕組みなら、同様に千年も伏せ字の様な仕組みであると考えるのが妥当です。

  と言う事は、聖書の数字全体に見られる数字の用例のなかで゛文字通りの数として扱うか、象徴的意味を取るかの判断がここで必要であると言う事です。

  ★また黙示録の解釈で参考にしなければならない同じ、黙示文学と見られる旧約聖書のダニエル書の記載が年代順になっていない点もこの千年王国の議論には重要です。

  黙示文学で年代の記述があえて前後が入れ変えられているのには目的が有ります。敵対者に簡単に意味が分からない様にスクランブルが掛けられているのです。黙示録も当時の迫害状況から同様の手法=書き順のスクランブルと、言葉の象徴化がされていると考えるのが当時のローマ帝国の残忍で熾烈なドミテイアヌス皇帝の迫害下では当然なのです。だから千年も象徴化されていると見るのが旧約聖書のダニエル書の理解から示唆されます。

  ★また、大切な聖書解釈の原則の一つに、「一カ所だけから教理を導かない。」という基本原則が有ります。教理には通常は、少なくとも数十カ所の関連箇所の調整からキリスト教教理が構成されます。

  千年王国に関して、旧約聖書や他のパウロ書簡に加えて福音書などの何処か他の聖書箇所に関連する言及があれば「千年王国」と言う教理が成り立つ可能性が有ります。しかし、残念な事にここ以外に千年王国(原文は「彼らが王支配した共にキリスト1000年」となるかと思います。)という言及は私が原典を読んだ限りどこにもありません。

★と言う事でこの箇所の千年は文字通りの意味ではなく、「キリストの完全な支配」あるいは永遠の支配の象徴的意味が伏せ字として用いられていると思われます。と言う事は、このドミテアナヌス帝の迫害によって首を跳ねられ、獣に食い割かれ、松明代わりに磔にしてスタジアムで焼かれるキリスト者達に対して「迫害に動揺するな! これらの迫害は神の完全な支配の中にあってこの事が起きている。」という事実を明示して「熾烈な迫害による殉教者達の続出」にひるむか弱きキリスト者達に、「殉教にひるむことなく信仰の証を立て天国に凱旋する事を命じた」戦慄すべき、使徒ヨハネの凄まじい檄文と言う事が私のこの箇所の理解です。

  以上です。

大クワガタの幼虫




大クワガタの幼虫

 西多田と聞いてすぐにオオクワガタを連想される方はかなりのマニアと思います。

 今日はその様なマニアの方がどこから聞き出したのか、我が家に押しかけてこられました。お蔭で、一日ご案内に潰してしまいました。でも楽しかったのでご紹介します。

  最初の写真は教会の井戸の横に在る堆肥置き場です。ここには毎年甲虫が産卵して沢山の幼虫が育っています。中の写真が堆肥置き場に埋めておいた樫の木です。右はその拡大写真です。 木の周囲に巣くった大きくなったかぶと虫の幼虫が数十匹取れました。

次の写真は私が目星をつけておいたクヌギの朽木から割り出されたオオクワガタの三齢幼虫です。他に、ヒラタクワガタやコクワガタの幼虫も沢山取れました。

最後の列の左は今日の収穫の一部分です。上手く育てれば来月あたりにサナギになり夏には見事な(少し小振りですが)オオクワガタに羽化してくれる事でしょう。右はクヌギから這い出してきたコクワガタです。

と言う事で、日本有数の名産地ニシダタのオオクワガタや甲の幼虫取りのご紹介でした。

余分ですが、そろそろマムシも土から這い出し、間もなく雀蜂も飛び始めます。それにこの辺りの雑木林には昔の多田銀山の採掘後の空気穴が沢山有ります。うっかり足を滑らせて穴に落ちたら、20m程下の岩盤に叩きつけられ神隠しになります。山になれない素人の方は危険なのであまり参考にしない様にして下さいね!!

大阪弁訳聖書

大阪弁訳 

 生まれつきの大阪人にとってやはり心にダイレクトに響く言葉は大阪弁です。

 私は以前から大阪弁訳の聖書が有ったら良いなあと思い続けてきました。

 だから、ご一緒に大阪弁訳の聖書を作るための協力者を求めます。

★私一人でも原文は読めますし、大阪弁もシャベレマンネン、ソヤケド、やはり一人でも多くの方と作らないと偏ってしまいそうですし、また評価もされません。


 ★と言う事でこれからこのブロクに新しい書庫を作って、こちらで賛同下さる方々と一緒に大阪弁聖書翻訳委員会を作って行きたいと思います。

  オオサカベンのデキルヒト、アンタがサンカせなアカンデ!!

聖書の結論

聖書の結論

 聖書が何を言っているのかは中々難しいテーマかと思います。しかし、聖書の主張は単純明解であると思うのです。

 創世記で神様が天地を創造され、最初の人間はたちまち堕落し。神様は当時の世界をノアの洪水(原文はマブール=衝撃波=巨大水星か隕石の衝突)で滅ぼされました。

 そして、聖書は「やがて、今在る天地は滅びる。」と主張しています。その原因が「罪」と言う事なのですが、その基本的定義は「神様に対する不信頼」となりその罪の具体化は神様の言葉である「聖書に対する不従順」と言う事なのです。

 だから、聖書は世界を断罪し世界の全ての人間に「有罪」を宣告し、同時にその刑罰である「破滅」を全世界と全人類の全てに宣告していると言う事なのです。だから聖書を翻訳ではなく原典で読めば実に厳しい断罪の連続です。

  そして、人類と世界の破滅から救われる方法を人間に教える事が聖書が記された本当の目的となります。

 ですから旧約聖書も新約聖書も何処を読んでも「人間の罪はそこ知れず深く、誰一人神の有罪の宣告を免れる事は出来ない」と繰り返し批判的且つ消極的断罪と絶望が繰り返し記されています。 

  人類も、個人も全て自己救済は望み得ないので、神様に救っていただく以外に救いの望が無い事を悟りる事が救いの基本です。

  その救いの基本が分かれば後は、「人となられたキリスト=救い主を信頼するだけで後は一切の条件はなく、神様が用意される新しい天と地に救い入れられる。」と言う事なのです。 

  そして、当然の事ですが「救われても人間は罪人である」事に変わりは無く、全ての人間は、罪の刑罰である死を持って地上の生涯を閉じ、神が新天新地に導き入れて下さるのを待つのが死の意味となります。

 これ以外救いには何一つ条件はありません。以上が簡単ですが聖書を原典で読んだ結論です。

パソコン故障修理(掃除)
















パソコン故障修理(掃除)

 またパソコンが故障しました。今まであまたのトラブルを克服してきましたが今日はパソコンの簡単な修理方法をご紹介する事に致します。

 ワープロも含めてパソコンは今まで10台程使ってきました。故障やトラブルは数えきれません。最初の機種はIBMのJXというデイスクトップでした。その後はオアシスのAFII AFIIIでそれぞれ5年で壊れました。その後がDOS-V機でパソコン通信の出来るOASYS30-AD-405は20年以上立つ今も何の問題も無く動いてくれています。その後ウインドウズ95さらに98、2000、そしてXPと買い換え今取り敢えず3台が現役で動いています。

 故障したのはメインで使っている 富士通のFMV-W630という業務用の大きなタワー型の物でした。4年前に購入しましたが今までは殆どトラブルはありませんでした。故障の形体は使用中に突然画面が真っ黒になり、再起動が不安定になったりする物でした。大抵の季節の変わり目に変調するのはゴミが原因と決まっていますので早速掃除する事にしました。

  一番大切なのは服装です。特に冬季は空気が乾燥しているので静電気が起き易くなっています。セーターや化学繊維は厳禁で出来れば木綿などの静電気の起きにくい服装で作業に望みます。

最初の写真の右側の縦長の物がパソコンの本体です。先ず掃除に必要な掃除機と細いノズルにエアースプレを用意します。次に後ろの配線を全て外します。大抵のメーカーのパソコンは配線が色別になっている上コネクターの形状が違いますので配線間違いをしでかす心配はありません。

次に本体カバーを外します。このパソコンは鍵とロック解除ボタンが付いていて解除すると簡単に外れます。メインのハードデイスクもロックを外すと取り外せます。

図体はかなり大きいのですか中は殆どが増設スペースで空いていて掃除が大変楽です。電源ユニットもネジ一つで回転して邪魔な中間ステーも簡単に外れて問題と思われるビデオカードに直ぐ手が届きます。

ビデオカードの着脱もクランプが2箇所在るだけで指で解除すると簡単にスロットから外せます。

  ビデオカードの空冷ファンの風の当たる場所のソケットにホコリがこんなにこびりつき、湿気で電気信号の漏電が起きてパソコンの動作が不安定になった様です。

先ず掃除機にノズルをつけて問題のPCIバスソケットを掃除します。その後エアースプレーでゴミを飛ばしてもう一度掃除機で吸って奇麗にホコリを除きます。かなり乱暴に扱いますがこの程度ではめったに壊れる事はありません。

 取り外したビデオカードにも相当ホコリが付いていますのでネジを外し、冷却ファンにこびりついたゴミも掃除機やエアースプレーで奇麗に掃除します。

  後、本体の裏側のコネクターの辺りもスプレーや掃除機でしつこいぐらい奇麗に掃除します。

  掃除が終われば後は元通り組み立てです。所要時間は約1時間位でしたが元通り組立も終わり配線も元通りにしてパソコンを起動してみました。

  結果は調子よく動いてくれました。 これで多分あと3月程...多分6月の梅雨位まで問題なく動いてくれそうです。

  というわけで今日は起動不良を起こしたパソコンの修理、と言っても簡単な掃除のご紹介でした。

初めに

さて今まで様々に聖書に付いてお話ししてきました。ここらでぼちぼち原典聖書研究の結果をご紹介していきましょう。

今日はその手始めに今までの纏めとなる聖書研究の三つの基本を記しておく事にします。


基本その一★ 聖書>神学  (聖書は神学に優先する。)

    多くの方が様々な教派の神学に合わせて聖書を翻訳したり、また理解する傾向があります。しかし、基本的に聖書は神学に影響されたり支配されるのではなく、聖書が神学に優先する事が聖書研究の原則です。詳細は以下リンク参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/31220997.html

基本その二★ 霊感は原典のみ (翻訳は霊感されていません。)

    聖書解釈に対する誤解や問題などに関する議論は大抵原典ではなく翻訳された訳語や文章が正しいと誤認して混乱を招いています。聖書解釈や神学などキリスト教や教会に関する全ての基本は原典によって評価されなければなりません。 

基本その三★ 歴史的文法的解釈 (聖書の啓示は当時の普通の言葉で記された。)

    聖書は当時の人間が普通に読んで理解できる言葉で記されています。特別な言葉の意味や霊解などと言う人間理性を無視した解釈は正当ではありません。だから旧約聖書が記された当時のヘブル語やアラム語、新約聖書はコイネーギリシャゴとして当時の普通の言葉で記されており、その当時の文法(実際には話法)と単語の意味を当てはめてのみ理解が可能です。

 以上です。この聖書解釈の基本となる三点が認識されないと聖書の研究は成り立ちません。このほかにも様々な聖書研究方法が有りますが聖書を理解するには無用な物ばかりですのでここでは取り上げません。

岩倉





岩倉

 今日は所要で京都の岩倉に住んでいる娘の所に行ってきました。少し時間が有ったので辺りを散策したのでご紹介します。

 最初の写真の左橋は国立京都国際会館(http://www.icckyoto.or.jp/jp/index.html)です。中の写真は会館を流れている岩倉川の上流です。右端の写真は途中に在る巨石を奉った磐座(イワクラ)と言われる古代信仰の遺跡だそうです。これが山住神社となり創建は880年と言います。

 10分程岩倉川を遡ると実相院(http://www.jissoin.com/index.html)に着きます。二番目の写真がそれです。残念な事に早すぎたので山門が閉まっていました。隣の写真は裏山にある水行の修行場で辺りは鬱蒼とした山林になります。藪椿が沢山あると聞いていたのですが、見かけたのは遅咲きの藪椿一輪でした。

 実相院の直ぐ近くには能舞台(左)や岩倉具視の幽棲旧宅(中http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/kyoto/iwakuratomomi.htm)が有ります。三番目の写真です。帰り道に白鷺(右)を見かけました。

 その次は、枯れススキと岩倉川(左)は中々風情が有ります。最後の写真です。真ん中は叡山鉄道の岩倉駅(http://www.keihannet.ne.jp/eiden/)。さらに下った同志社高校の辺りの両岸(右)は桜並木ですが、漸く蕾か膨らみはじめたばかりでした。

  今日は、良く散策する京都岩倉周辺のご紹介でした。

アラム語


アラム語

今週の直訳も無事終える事が出来ました。以下がそのリンク箇所です。

http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr04.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr05.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr06.htm

http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr04.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr05.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr06.htm

ご存じの方も多いかと思いますがこの箇所は聖書の中でも珍しいアラム語で記されている箇所です。

アラム語と言ってもヘブル語の仲間である北西セム語で文法(正確には話法で聖書が記された当時には文法などいう書き方の法則などはと言う物は存在しなかった。)が殆ど同じです。

単語もかなり似通っていて、大抵の言葉はヘブル語の語幹と共通です。しかし、冠詞の付く場所や、変化形が随分と異なっていて大変手間取りました。

70人訳の方は大変、簡単な言葉が用いられていて殆ど辞書も使わずに読む事が出来ました。

今週の箇所でご紹介したい事が沢山有りますが一点だけ簡単にご紹介しておきます。

  それは4章の7節に書簡あるいは手紙と訳出されている言葉です。ハニシテイバンと言うアラム語です。 この言葉は4章の18節ではニシテバナーとなっています。前や後ろにくっついている言葉を外した語幹はニシテイで「乾燥する」という意味の言葉です。

何故こんな言葉が手紙や書簡に成るかお分かりでしょうか。そう、当時の手紙や書簡の素材を思い見ていただくとすぐに答えが出ます。

粘土板でした。 生乾きの内に、ヘラで楔形文字を刻み、それを乾燥させて書簡にしていましたから「乾燥する」が書簡と成る訳です。

冒頭の写真は実際のクロス王の宝物倉(当時の宝物は金銀ではなく契約文書類でした。)から出土した当時(紀元前530年頃の手紙(乾燥した粘土板=書簡)です。重さも相当で私達がイメージしている事とは大きく隔たっているのが聖書原典の世界です。

翻訳では「書く」と言う言葉は全て「刻む=カターブ」という言葉で「書」とうい言葉は「数を数える=セフエル」です。また言葉とか決定とか訳出されている言葉も原文では「裁判」あるいは「判決」です。

残念ながらどんなに努力しても聖書原文に刻まれているありさまを翻訳に反映することは至難の技だと思わされます。

と言う事で今日は聖書のなかでも珍しいアラム語で記された箇所のご紹介でした。

春ラン




春ラン

 今年も春ランが咲きました。教会の向かいの山に自生していた物を5年程前に鉢上げした物で毎年素敵な花を楽しませてくれます。

 家(教会)の前の私道はハイキングコースになっていて結構人が通ります。見事な春ランですから、「変な気を起こさしては行けない」という親心で玄関の門扉の内側で育てる事にしました。

 何の管理もしませんが、今年は特に見事に咲いてくれました。花が15も咲いています。おそらく今までで一番多かったと思います。

  前の山にはまだまた沢山見事な野草が生えているのですが秘密です。咲いたらその度にご紹介します。

 一番下の写真は、20年程前に同じ場所から鉢上げした野生の藤です。盆栽ふうに仕立てて大事に育てています。どういう訳か未だに一度も花を咲かせた事がありません。

  多分実生で30年程の年数を生きていると思います。気長にいつか小さな薄い紫の花が咲くのを、首を長くして待っています。

  まあ「咲かずとも、咲くまで待とう、咲かず藤」と言う心境です。 どこかに花咲じいさんはいないかな? そんな事を言っている間に、私がそうなってしまいそうです。(半分ぐらいなっているかも)笑い!!

指と爪の再生 




今日はラブちゃんの手の傷の治り具合のご報告です。

  温かくなり、日が高くなった為か縁側のラブちゃんの指定席に日差しが届かなくなり最近は良く外に出て暇そうに、道行く車を眺めています。 

 次の写真はラブちゃんが見ている道路の様子です。見えているのはまずお隣の元ガソリンスタンドです。お隣と言っても50m程離れていますが、近くに出来たセルフのスタンドに押されて店じまいしてました。その直ぐ前が2車線の道路で、左手でもう一つの4車線の大きな道路の交差点になっていて一日中沢山の車が通ります。 

  誰も遊んでくれないので本当に退屈そうにしています。

 最初は右前足の切断もとおどかされた怪我でしたが、今はもう殆ど元通りです。まさかと思いましたが爪も生えてきています。

  最後の写真です。

  まだ少しいびつですが、後2月もすれば全く元通りに直りそうです。

 諦めないで、散歩の度の傷の養生と、散歩後の水洗いと乾燥と薬の塗布を続けて良かったと思いました。 

  今日は、化膿した指を食べた後、まさかと思った指と爪の再生が上手くいっている様子のご紹介でした。 

今日の神戸




今日の神戸

 今日は、連休に沖縄へ出かける娘のアッシー君に神戸空港まで行ってきました。

最初の写真は空港の送迎デッキからの眺めです。

 次の写真はお昼に食べた大盛りの狐うどんと出発ロビーやターミナルビルと人気の無い空港島をノンリードで散歩している何処か?の犬です。

  一番下の写真は阪神高速道路で地震で倒壊し16名が犠牲となられた場所の現在の写真です。あの時もしこの場所にいたら橋脚や高架の下敷きになったのです。

  地震直後に幾度かこの場所を歩いて神戸中心部に向かいました。一番右の写真は現在の川西航空機の社屋です。 今も川西の自宅近くに有ります。

  戦争中に航空機を作っていた本体は主に特装車などを作る新明和工業となり、数年前に姫路に移転してしまいました。 

肥松の家形の明かり



 今日は、先日ご紹介した、肥松の家形の明かりが展示されている川西ギャラリーに行ってきました。

 一番上の写真がギヤラリーの様子です。

 次の写真が、実際に明かりを灯した所です。なかなか風情があって良いものです。

 他にも、朽木や流木を磨き上げたものやチエストなど様々な物が展示されていました。

 場所は兵庫県川西市の阪急電車の川西能勢口駅の1階です。

 日時は今日から24日まで、時間は午前10時から午後6時までだそうです。阪急梅田から急行で20分、JR大阪駅から宝塚線の快速で約17分ほどです。

木工芸と俳画展 川西市立 ギャラリーかわにし
3月19日(水)から24日(月)午後5時

二つの聖書研究方法

二つの聖書研究方法

 さて、今まで聖書の本質やそれを人間が認識した神学についてお話してきました。

  今日は纏めに■聖書を実際に研究する二つの研究方法に付いてご紹介してみます。

  それは■帰納的聖書研究方と●演繹的聖書研究方です。 

  じつは★この両者は聖書研究の両輪で片方だけでは聖書研究は成り立ちません。

 さてこの二つの聖書研究方法ですが、やはり、基本は■帰納的聖書研究方です。

 ■帰納的聖書研究方とは■

これは、一切の前提を排除して、純粋に聖書を読み、聖書からその主張を導き出し、それらを集大成して聖書の主張を認識するものです。

  本来はこの方法が聖書研究の基本で理想ナノですが、問題が有ります。

  ★その問題は、聖書はあまりに厖大で、その上大変な古典ですから大抵の方はこの方法では聖書を理解する以前に挫折を経験されてしまうのです。

  ★特にある程度聖書理解が進むと翻訳では物足りなくなり、原典言語による聖書研究が不可欠ですから尚更です。

  時間を掛けて聖書に書かれている事を読み解き、その意味する事を理解し、原則を見いだしてそれらを集大成して「聖書はこう言っている。」という聖書の主張の理解に至る事がこの帰納的聖書研究方なのです。

  さて次にもう一つの●演繹的聖書研究方をご紹介します。

  
 ●演繹的聖書研究方とは●

 これは、聖書の主題に関する先入観を何処からか仕入れてきてその先入観にそって聖書を読み、その先入観が正しい(あるいは間違っている)と言う結論を導き出すものです。

  こう言ってもあまり具体的ではありませんから幾つか聖書に関する先入観をご紹介してみましょう。

 ●神は愛である。

  ★聖書を初めからこの前提で読んでいき読みおわってからやはり神は愛であった。と言う結論に至るものです。そう、大抵の教会や学者さんがしているのはこの聖書研究方なのです。

 この方法は大変分かりやすく楽しいのですが問題はどんな主題を持ってきてもやはりその主題が正しいと言う結論にいたってしまう事が多い点なのです。

  具体例を上げてみましょう。

 ●神は義である。●神は聖である。●人間は罪人である。●神様は人間を救われる。●聖書は平和を教えている。●神が世界を支配している。●教会は常に神様に従ってきた。

  いろいろ上げる事が出来ます。しかし、この聖書研究方では先入観を先に持つ為間違った結論に至る危険性が在るのです。そして主題に対して疑問を懐くと今度は反対に、全く反対の結論にいたってしまう傾向が在るのです。

  さらに、互いに矛盾する主題を上げて演繹的に聖書を研究しても主題を変えて研究していると大抵の場合は、それぞれの主題が正しく見えてしまう傾向がある事も問題なのです。

  ●神は人類を滅ぼされる。●世界を支配しているのは悪魔である。●神は恐ろしい怒りの神である。●人間は常に神様に反抗して滅んできた。●神は怒りの神である。●聖書は戦争を教えている。●教会や常に堕落して最後に背教が起きる。

  ■お分かりでしょう。聖書は特定の主題を理解するれは分かる様な、そんなに単純に理解できる書物では無いのです。

  と言う事で演繹的聖書研究にも基本的に限界が在るのです。

  と言う事で■帰納的聖書研究方と●演繹的聖書研究方の両方の聖書研究に
限界が在るのです。
 
  だから★結論は明白です。

  聖書研究は、ある時には帰納的に無心に聖書を読み、またある時には演繹的に一つの主題について聖書を読み、そこに見いだされる一致点と矛盾点を調整しながら、時間を掛けて読み進んで初めて、聖書の真の理解に至る事が出来るのです。

 ★私もまだ聖書研究の途上あるに過ぎませんが、最近になって漸く自分なりの結論らしき物がぼんやりと見える様になりました。

  ★現在の私の聖書に関する結論です。

  ■聖書はやはり中々難しく、そして同時に中々面白く有用な書物で、時間も労力もそして生涯も費やして読み解くべき価値の在る書物だ。

  ■もし、聖書をこれから勉強しょうとされる方がおられたなら次の様に助言します。

 ●出来れば各種の神学(今までに聖書を研究した人々の学問的成果=帰納的聖書研究)にも通じ、同時に無心になってひたすら聖書に聞き続け(聖書通読や出来れば原典通読)それらを毎日繰り返して2~30年かければなんとか、聖書が言っている神様御自身や、人間社会のありさまについての聖書の主張が分かるように成るかも分かりません。

 だから聖書を研究するにはこの二つの研究方法の両方(■帰納的聖書研究方と●演繹的聖書研究方)を用いる事が必要なのです。

鳥と月







  毎日鳥達がやって来ます。今日は天体望遠鏡を引っ張りだして小鳥達に迫ってみました。

  よく分かりませんが最初の写真はアオサギかと思います。ゴイサギも時々見かけるのですか今日はいませんでした。

  その次の写真は、餌の蛙を仕留めて人気の少ない池の向こう側に行く所です。

  次の写真は遠くの電線にとまっていたアトリだと思います。詳しい方があればお教えください。

  次の水鳥はバンだと思います。 そして最後はオナガでは無いかと思います。

  望遠鏡と小さなデジカメの接続リングが無い為に上手く光軸もピントも合っていないのが残念です。

最後は昨日の月齢8のお月さまです。 昼間に望遠鏡で撮影しました。赤緯が高いので昼間でもかなり月の様子が見れました。

 今日はプレセペ星団(M44番)の掩蔽現象が見られる日ですが、今週は様々に所用があるため今日はパスです。  

エズラ記1章から3章

今週の直訳 

 直訳は今週からエズラ記に入りました。結構時間を取られてしまいましたが、その無駄にした時間のかなりは昔に直訳した物を探す為に使ってしまいました。

  というのは、エズラ記とほぼ平行記事に当たるネヘミヤ記は10年程前に一度、教会の礼拝で取り上げて、その説教と一緒に直訳も作成したのです。それは、私の旧のホームページにアップしておいたのですがホームページの移転や幾度かのパソコンのクラッシュで皆消えてしまっていました。

  随分と古いパソコンのハードデイスクも引っ張りだして調べてみましたが残念な事に見つけられませんでした。古いサーバのデイレクトリーも見てみましたがやはりありません。

 私の人生目標の一つである「生涯かけて聖書全巻の講解説教(本当は後悔?)を完遂する事」を実現する為に「同じ説教箇所からは二度と説教をしない。」と言う主義を通しているつもりですが、今回は致し方ありません。主義に反しますが、直訳を残す為に再度エズラ記とネヘミヤ記を礼拝で説教する事にしました。 

 まあ、この「同じ説教箇所から生涯に一度だけ説教する。」 と言う主義は今まで幾度か違えて来ましたのでまあ良いか思います。そうしないともう一つの私の生涯の目標、「直訳の聖書全巻の完成」が出来なくなるからです。

  エズラ、ネヘミヤ、エステルを再直訳すると一月あまりの繰り返しになりますがまあ致し方ありません。おそらく10年前の物と比べると要する時間も半減しており、私の直訳方針も確立している為、10年前の物よりもかえって良い物が残せるかと思います。

  以下が、今週の直訳へのリンクです。

http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr01.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr02.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/ezr/ezr03.htm

http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr01.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr02.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/ezr/ezr03.htm

70人訳は書名はエズラ記ではなくエスドラス書になり、第一エスドラス書は偽典(ヘブル語の物が無い)為直訳では扱う予定がありません。そして、第二エスドラス書にはヘブル語原典のエズラ記とネヘミヤ記が纏めて入っています。

この直訳では70人訳の直訳はヘブル語原典と対比を目的として作成していますので、ヘブル語原に対応させて行く予定です。

直訳した箇所に関してのコメントですが、この箇所は解釈や説明が不要な箇所で淡々とした捕囚からの帰還者の氏名や最初の仮庵の祭りの記録です。そこには記されている帰還者の遭遇したあまたの困難にたいして一言の説明の無い事が返って事態の深刻さを浮き彫りにしている様で、大変感動的な場所でした。

最近見かけた鳥たち!





 ここ数日すっかり春になり、毎朝ウグイスを見かけます。一度写真をと思っていて漸く、それらしき小鳥を見つけて撮影してみました。

最初の写真です。次は直ぐ近くの池で見かける変わった鳥です。直ぐ近くにもう一匹いて多分つがいで一緒に泳いでいるのを見かけます。

その次は自宅の窓から見える隣の池を泳いでいる鴨達です。 最後はたぶんショウビタキだと思います。

分かる方があれば是非教えて下さい。

他にこげらやコジュケイと思われる鳥などもよく見かけるのですが、小さなデジカメでは中々上手く撮影出来ません。もし何とか撮影できたらご紹介します。

神学の意味

神学の意味
 
  さて昨日、「全ての神学は聖書から出てきている」と言う事をお話ししました。

  と言う事は、神学を作る為に聖書から選びだす題材を「どんな基準で選択するのか」が大変重要になります。

 人間の目や頭を使って、特定の基準を意識したり、あるいは無意識の内に聖書から特定の事柄を選びだし、在る物を強調し、在る物を軽視し、さらに在るものには解釈と言う変更を加えて辻褄合わせをして、出来てくるのが神学と言う訳です。

 その様な意味で、「神学とはその神学を作った人のフィルター(あるいは色眼鏡)を通して聖書を見たもの」と考えるのが一番理解を助けると思います。

 「出来るだけ、多くの事柄を選びだし。無視する事を少なくし、変更を避ける」とそれは結果的には聖書その物で十分で神学無用論になります。

 そうすると、「聖書はあまりに厖大で遠い過去の異国の古典で在る為、一部の有能な人間以外は結果的に聖書の主張を認識し得ない」という問題が生じます。 

  また神学を構築する時にその人が「一体どの国の言葉で聖書読むか」と言う事も大変重要です。誰もが原典言語に精通して原典から神学を構築する資質があれば良いのですが、そんな人物はアウグスチヌスやルッターなど歴史上に数人しか登場してきませんでした。

大抵の場合は翻訳本の聖書を見ながら、その翻訳を正しい物と仮定しての神学形成がなされたのです。

ラテン語で聖書を学ぶと、ラテン民族の特質と言われる「楽天さ」や「行動的」な物が強調されてしまいます。 そしてラテン民族の歌好きから「教会音楽」や視覚的な「絵画」「彫刻」が重要になります。

  これらは、現在のラテン民族に広がったキリスト教=ローマカソリックをご覧になれば自明です。

  またドイツ民族の様な緻密で普遍的な理性を強調するとバッハに代表される威圧的な教会音楽やコンコルダンスの出版や言語的な緻密な分析の結果登場した自由主義的で緻密なバルト神学が誕生します。

  また、英語に訳出された聖書で神学を構築すると、デイスペンーセーション(契約期分割説)や終末論の時系列的な理解に気を取られて、聖め派やメソジスト派と言われる英国系のキリスト教会に見られる独特の神学が形成されます。 

  また、周辺諸国の覇権に翻弄され、不幸な戦争によって為政者や国家に散々踏みにじられたオランダやネーデルランド周辺の人々は、国家や王に加えてその手先となった宗教界に基本的に不信感があります。その結果、信徒の自立による独立教会の形成や信徒による教会教育が強調されます。それらは、メノシモンズに見られる様な急進的再洗礼派や聖職者を否定したような信徒中心の会衆派やバプテスト派のような信徒が教会形成の中心になって教会と神学が構成されると言う事なのです。

  そして、基本的に認識しなければならない事は「いずれの神学であっても、それは聖書から一部を抜き出してある部分を強調した、人間が理解しやすい不完全な物である。」ということです。

  と言う事はどの神学を学んだとしても、その神学に満足することなく、その理解を突破口として聖書その物の全体を学ぶ足掛かりと成る物が「神学」という物なのです。

  と言う事で今日は、簡単にどの様な神学を学んでもよいが、「神学その物は基本的に幼稚なもの」でありそこを端緒として聖書全体を学ぶ事の大切さのご紹介でした。

神学と聖書

神学と聖書

 さて、前回は「聖書と神学」と題して■神学とは「神様の言葉」■と言う意味である事をお話ししました。これからは、さらに進んで様々な神学についてお話しして見てみたいのです。

 取り敢えずその中で、今日最初にお話ししたい事は■「『聖書』から出た物が『神学』である。」■と言う事なのです。

 なんでもない当たり前の事なのですが結構この■基本はあまり■理解されていない様です。

  ★端的にご説明してみましょう。★

 聖書から神学が出たと言う事は以下の様に表せます。

 ■「 聖書 → 神学 」(聖書から神学が出た)  と言う事は、

 ■「 聖書 > 神学 」(聖書は神学よりも大きい)と言う事なのです。

  ★言い換えるならば●「聖書は厖大で煩雑な為●人間には理解が困難なので、●人間が理解しやすい様に●ある部分だけを選びだしたものが●神学だ」と言う事なのです。

  ●全ての「神学」は「誰かが聖書からの特定の部分を選びだし物にすぎない」と言う事なのです。

  ■と言うことは「神学」と言う物は確かに元は全て聖書から出ているけれども全ての「神学=聖書ではない」と言うことなのです。

  ここで●聖書についてお話ししなければなりません。それは●「聖書は基本的には人間の理解不可能な事ばかりが書いてある」と言うことなのです。
   
  こんなふうに言うと「何のことかサッパリ分からない」と思いますので具体的にしてみましょう。

 ●イエスキリストは神であり同時に人間である。

 ●聖書は人間が書いたけれども神の言葉である。

 ●教会は人間の集まりだけれども神の所有物である。

 ●神様が世界を作られたけれどもやがて世界を滅ぼされる。

 ●神様が作られた世界は完全であったのに人は罪を犯した。

 ■まだまだ沢山の矛盾点が有ります。基本的に●「聖書は神様に属することが記されていて、不完全な●人間が聖書を完全に理解する事は出来得ない」●と言うことなのです。

ここで矛盾点として紹介した問題の原則的理解は、以前に「聖書解釈の前提」でご紹介したカルケドン信条で決着されています。以下のリンクをご覧ください。
  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/30563826.html

  ★そして当然のことですが、能力に限界の在る人間には理解できない物が聖書であり神様なのですから、当然「■人間にとって理解し易い神学程、聖書や神様の■真実から遠く離れている」と言う事が基本的に言えるかと思います。

  以前お話した事の纏めは、基本的に「神学」とは「神+言葉=神の言葉」で聖書の全体その物を表しているのです。と言うことは、「パウロ神学」などと■「パウロ」と言う修飾語をつけると、そのパウロ神学=「聖書全体からパウロが記した一部分だけを抽出した聖書や神様に関する事柄の断片にすぎない。」■と言うことなのです。

 と言うことは★「『全ての神学』は聖書全体の主張に照らし合わせると不完全である。」★と言う事が★基本的に言えるのです。そして、皮肉な事に「●不完全であれば在るほど、返って●人間には理解し易い神学●になっている。」と言うことなのです。

  何故なら、■「○○神学「と言う物は■「○○と言う人が理解した聖書」■と言うことですがその御当人の聖書の理解度が低ければ低いほど、返って■多くの人が理解でき、人間にもてはやされる神学になるからです。

 前世紀初頭に流行したドイツ人のバルトが作り上げた神学は「彼が■「聖書全体の中から彼の頭で理解出来た部分だけの集大成と言う事で、全聖書のほんの一部分の理解」■を彼がして、それに共感できた人が多かったと言う事実を明白にしている。」と言う事なのです。

  ●神学を論ずる前に、基本的に知らなければならない事は、「●歴史上に登場した様々な●神学は程度の差こそあれ●全て不完全である。」●と言う「神学の宿命が存在している」と言うことなのです。

  と言うことで今日は聖書を読み解く時によく引き合いに出される「神学」と言う物が基本的にどういう物であるのかと言う基本のご紹介でした。

  その事=神学は全て■「不完全な人間による完全な聖書と神の理解の断片である」■と言う事を踏まえたうえで、過去の歴史上に様々登場した様々な「神学や教派神学などの特質」を次回にでもご紹介してみたいと思います。

ヒヨ鳥のご挨拶




ヒヨ鳥のご挨拶

 昨日ご紹介したピラカンサのヒヨ鳥が、どうしたわけか大勢でご挨拶に来ました。私はつがいだと思っていたのですがどうも違った様です。一族で交代にピラカンサの番をしていた様です。

 私が仕事をしていると、執務室の直ぐ前にある柿の木に8羽のヒヨ鳥が揃ってやって来ました。

 今までこんなに沢山ヒヨ鳥を見かけた事はありませんでした。

  最初はピラカンサの上にある冬枯れの渋柿の枝に止まり、私がカメラを用意している間に殆どのヒヨ鳥は向こうの欅に移動しました。数えると八羽居ます。

 最初の写真は合歓木にいた、つがいと思われるニ羽のヒヨドリ。そして次の写真は欅に移動した一族と思われるヒヨ鳥たち。窓のガラス越しにシャッターを切ったのでピントが上手く合っていません。(以前ご紹介した教会の玄関横に在る金木犀の巣で毎年4~5羽の雛が羽化する。)

  最後の写真は、教会の周囲の所々に在る実の成る木、秋にはいずれも沢山の実が実っていました。今はすっかり小鳥達に食べられてしまったようです。ピラカンサはヒヨ鳥が番をしていたので、他の小さな小鳥達が食べてくれたのだと思います。

  今は葉が繁っているだけの、左から白南天、赤南天、白万両、赤万両、千両そしてクリスマスホーリー。

最後のピラカンサ



最後のピラカンサ

 12月にはあれだけたわわに実っていた庭のピラカンサもとうとう今日で最後となりました。この4ヶ月間、瞬時もこの場を離れず見守ってきたヒヨ鳥は一体どんな気持ちなのでしょうか。

  上の写真で左端が最後のピラカンサです。ヒヨドリはこの最後のピラカンサを食べてしまいました。真ん中の下がつがいで番をしていたヒヨドリ片割れです。ヒヨドリの上は最後のピラカンサの実の拡大写真です。

そして、その右が12月の初めにたわわに実っていたピラカンサです。

  その次の地面に落ちて死んでいるのは寒い冬枯れのある日、ピラカンサを食べようとして近づき、ヒヨドリに襲撃されて一命を落としたかわいそうなメジロです。すぐに菜園の隅に手厚く葬ってやりました。

  小鳥達にとって、冬枯れに残された食糧は命その物なのです。小鳥たちは生きるために命を賭して戦わなければ、厳しい冬枯れの中で命を育む事が出来ないのです。

  小鳥達は切実な思いて食べ物の少なくなった冬を耐え、生きる事の厳しさを日々味わいながら春を待ち続けてきたのです。

  3年程前このピラカンサが渡り鳥に食べられてしまった年が有りましたが、その年には、このヒラカンサの直ぐ隣に植えてあるビワの花を全て小鳥達についばまれてしまった事がありました。今年はピラカンサが豊作であったためそこまでして飢えをしのぐ必要はなかった様です。

  啓蟄も過ぎ、虫達が活動をはじめ、春の芽吹きが始まっています。大切な務めを終えたピラカンサにお礼肥料を上げて、来冬にも沢山の実を実らせる様にしてやる事が私の出来るささやかな環境保護の働きです。

就活


「あれで何がわかんねん!」

 今日は所用で近くの大学の図書館を訪れた。館下の生協でコピーをしていた時に聞こえた、就活の真っ最中とおぼしきリクルートスーツ姿の3回生らしき御仁の独白が冒頭の言葉だ。要するに本命ではなく滑り止めの某大企業の面接であっさり跳ねられたのであった。

  僅か数分の集団面接、しかし、「君よ! 残念なことに見る人が見ればそれで十分分かるのだよ!!」 

  社会の荒波を乗り越え、幼少期から青年期、壮年期とあまたの人と関わってきた者には、君の後ろ姿を見ただけで「お人柄、性格、それに資質、能力」は大凡、見えてしまっているのだ。まして、どんなに繕っても、また着飾ってもその顔に、言葉に、君の過去は察せられ、未来もかなりの確率で見えてしまうものなのだ。

  君には悪いが、世の中は君が考えているほど甘くはない。小手先の教養や振る舞いではすっかり足元も素養も、一瞬にして見えてしまうものなのだ。そしてたといそれがとんでもない誤解であっても、君は左様に評価され判断されてしまう何かを身につけてしまっているのだよ。

  もう少し真剣に自分を見つめ、世の中の怖さを悟らなければ、残念だけれども君を雇ってくれるようなまともな企業は無い。

  要するに「君は甘いのだ!」 そして人生も、世の中もそんな甘ったるい君を「幹部候補生の総合職や企業の未来を託す研究者として採用するほどゆとりは無い。」ということなのだ。

  「あれで何がわかんねん!!」残念だが、君のこの言葉で十分過ぎるほど君が中身の無い人間であることが知れてしまっているのだ!! 優秀な大学に受かっただけで、卒業証書をちらつかせれば将来が開かれた時代はもう遠い過去の幻想となったのだ。

  野菜や牛肉の食品の産地表示ラベルの記述だけで消費者が騙される時代は終わっているのだ。食品には、ラベルも、中身も、味も、そして鮮度も、問われる時代なのだ。どんなに発色剤で繕った所で、たちまち見抜かれてしまう時代なのだ。

 何もかもが整っていなければ、食品が消費者に認められないように、人間もラベルや服装ががどんなに立派でも、それだけでは評価がされないのだ。君が懐いている自己イメージに見合った実質が君に無いことを君だけが気づいていないのだ。

  君に忠告しておく! 心を入れ換えて面接に臨む事だ。なぜなら、22歳にもなろうという立派な社会人なのに「見かけ倒しで、世の中に通用する」という思い違いをしていること自体が問題なのだ。

  いや、少なくともそんなことも見抜けない様な人物が人事に携わるような事が、何処かの企業や団体でなされていたとしたならば、その程度の企業や組織は、おのずから次の時代に生き残る事は出来ないだろう。

  冒頭の写真は「あれで何がわかんねん!」と就職活動で企業のシビヤさに対するショックを語った若者が通う某国立大学の工学部の建物群です。

肥松(こえまつ)の明かり


肥松(こえまつ)の明かり 

 今日、ラブちゃんの散歩をしていると、ご近所の方が珍しい物を作られていたので、許可をいただいて撮影しました。

 何でも、郷里の島根の海際に育った赤松の古木の中でも特に珍しい肥松を4ミリの厚さにして木工ボンドで張り合わせお家の形にして、中に電球をいれて「家型の明かり」にされるものだそうだ。

 珍しい肥松の小さな切れ端を2ついただいてきたが、縁に乾質の脂がこびりつき仄かな脂の香りがする。これを光にかざすと何とも言えないクリアな赤茶色に光が透過し、神秘的だ。この材を木目と直角に切り出してモザイクのように組み合わせ家の形を作るのは並大抵ではないと思わされた。

  何でも、今月の19日から川西市の中心部にある駅舎の川西ギヤラリーで行われる展示会に出品されるそうだ。興味のある方は是非ご覧あれ!

歴代誌最終章

歴代誌第二 34章~36章  

  先程ようやくの事で歴代誌の第二の最後の章の直訳を終えました。今週は普段よりもヘブル語とギリシャ語からの訳がそれぞれ1章少ないので木曜には終わるだろうと踏んでいましたが大きな誤算でした。

  列王記や申命記の最終章で酷く手間取りましたのでこんな事もあろうかと3章丈にしておいたのですが意外と全章手間取りいつもよりも相当遅くギリギリ間に合って完了した次第です。

以下はその直訳へのリンクです。

ヘブル語原典からの直訳

http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch34.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch35.htm
http://bible.co.jp/bible/ot/2ch/2ch36.htm

以下の3つは同箇所の70人訳ギリシャ語原典からの直訳です。

http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch34.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch35.htm
http://bible.co.jp/bible/lxx/2ch/2ch36.htm

色々面白い箇所がありましたが一カ所丈ご紹介しておきます。

70人訳歴代誌 第二 36章 05節 直訳

d ・ そして 中で 血 非罰に、 する所に 彼が外に注いだ イオエキム そして 彼が満たした その ヒエルサレーム 血は  非罰、そして 無い 彼か願った 主は 外に荒廃させる事 彼らを。

ヘブル語原典歴代誌第二 36章 17節 直訳

17 ・ そして彼が上った 上彼ら を 王の カシュデイーム そして彼が(刑罰としての)殺害した 青年ら彼ら 中で 剣 中で家の聖所彼ら そして無い 彼が倹約した 上 青年 そして 処女 老いた そして老いぼれ その 全て 彼が与えた 中で手彼

 70人訳とヘブル語はこの最終章はかなり相違していますが、その点は置いておき、70人訳の36章の5節に記された南王国ユダの滅亡の原因に注目したいのです。「非罰」と言う言葉が使われていますが、罪の無い物の血を正式の裁判で有罪にする事を意味しています。

 今日流に言えば冤罪、あるいは犯人ではないし、本来は罰する必要が無いと分かっている人を、罰する事がユダが神様に滅亡されられた重要な原因だと言う主張です。

  次に記されていいるのは ヘブル語の36章の17節です。 ご紹介したいのは「刑罰としての殺害」と言う言葉です。 南王国ユダの滅亡はその国で行われた罪の無い物に対する有罪刑の執行に対する刑罰による国家の滅亡だと言うのです。

  この事が明示している事は、「世の中はやはり正義が支配する様にしなければならない」と言う事かと思います。

★と言う事は「現実の世界はは正義ではなく悪が支配している事を認識」しないと事「=聖書の理解も世の光と地の塩の働き」は開始出来ないのです。この点が多くの国家や宗教、特に肝心のキリスト教会の中で認識されていないのがお粗末な現実です。


これで創世記から歴代誌までヘブル語原典と70人訳ギリシャ語の直訳がおわりました。次週はエズラ記に入る予定です。

聖書と神学


聖書と神学

 さて実際に聖書を読み出すと結構気になるのが「神学」と言う言葉です。大抵の注解書や専門家にお聞きするとすぐにこの言葉が登場します。

  「・・神学によると。」とかあるいは「神学的にはそれは.....」とサッパリ分からない言い回しにすっかり聖書を学ぶ意欲を削がれてしまいます。

  これから少し「神学」という言葉に付いてお話したいと思います。

 神学校に入って一番最初に学んだのが実はこの「『神学』とは何か?」言う事でした。おそらく、大抵の方はこの「神学」という難解な表現に絶望されているだろうと思います。

 ★神学の語意

 神学とはセオロジーと言う英語Theologyの訳語です。これは本来二つのギリシャ語の合成語です。

  セオス (θεοs)+ ロゴス (λογοs)と言う事で「神の言葉」と言う意味です。

 ただそう言う事を難解にして言っているだけ事なのです。

★神学の分類

神学とは「神の言葉」と言う意味なのですからそれは聖書の事を先ず第一に指し示します。

  ■神学の第一の分野は神の言葉である聖書と言う意味で「聖書神学」と呼びます。なんのことはない「聖書神学」=「聖書は神の言葉」だと言う意味です。
  だったら初めからそう言えば良いのですがそれではあまりに権威がありませんのでかっこよく聖書神学と言います。これが分かればさらに旧約聖書神学と新約聖書神学もお分かりになられるでしょう。もう説明はしません。

  さらにこれを具体的にすると旧約聖書神学はモーセ五書神学 歴史書神学と聖書区分毎に神学が現れ、さらにそれらを細分すると創世記神学、出エジフト記神学となります。また著者がモーセですからモーセ神学などと言う事も稀に有ります。

   新約聖書では福音書神学とかパウロ神学の神髄など言いますが、何の事は無い 「パウロか語ったのは神の言葉だ」と言う事なのです。ローマ書の神学は...などと言うのも何の事は無い、パウロが記したローマ書における神の言葉は...と言う事なのです。

さて以上が聖書神学の大まかな分類です。

  ■さて次成る神学の第二分野は歴史神学と言います。まあ歴史の中で神学=神の言葉がどう働いたかと言う事ですから簡単に言うと教会の歴史と言うことになります。

  当然その中にも細かな分類が生じます。教会の時代区分で初代教会の神学とか、使徒後教父の神学、中世のスコラ神学、近代主義神学などや、時代や地域や原語、思想で分類して宗教改革の神学、ラテン神学、啓蒙主義神学などなどです。 さらに信仰告白や教理の変遷を指して教理史などもこの範疇に分類されます。

  この歴史神学にはもう一つの系統があり文字通り「人類の歴史は神の言葉」だという考え方です。世界の歴史を「His+Story=History」言うわけです。実は私はこの立場を取っています。しかし問題は「何が史実か?」と言う事で記録されたり勝者によって捏造された歴史は含みませんので「真実の歴史」のみがこの題材とされなければなりません。

  実際のhistoryはギリシャ語のιστορια(ヒストリア=知る為に尋ねる=物語る)と言う意味ですから歴史神学=Historical Theologyとは「神の言葉の物語」と言うのが正確な意味かと思います。

  ■さて、次はSystematic Theology=組織神学です。こちらも元はギリシャ語でσυστημα(スステーマ=全体構成=共に立つ意)+神の言葉と言う意味です。前にご紹介した歴史神学は神の言葉の働きや理解を時代や地域や民族別に縦割りにした区分を指しますがその横割りの区分を主に組織神学と言います。

  聖書神学や歴史神学とは異なり、時間と言う概念を排除して、投影された神学の姿と言った言い方が一番正確かと思います。

  組織神学には時代での聖書理解やその移り変わりを総合して設計図の様にキリスト教の信仰の構造を縦から見たり横から見たりして言葉にしたものを組織神学と言います。具体的には神論、人間論、救済論、終末論などと言う時間によって変化しないキリスト教の教えを表した物なのです。その一番初めは「認識論=人はいかにして神を認識するか」と言う学問です。この神認識には当然罪の自覚=堕落論=罪の認識が含まれます。

  ★お分かりのようにこの神学の一分野から「法学」が派生しました。法学は神学のお弟子さんのような付け足しの学問なのです。だから由緒ある大学は大抵第一に神学部が先ず最初に設立され、次が法学部、か哲学部、そして最後に医学部の四学部が当初の学部です。

  大学の卒業式で学士さんの被る帽子が四角く上部の中心に房が付いていて学位授与前は左に掛け学位授与宣言と同時に房を右に移動します。角帽の四つの角はこの4つの学問を表し、最初の一番前に来る角が全ての学問を支配し冠たる「神学」と言う事なのです。それらの由緒ある大学で博士の学位を取ると学位授与式に臨む時にドクターガウンを纏いますが肩から胸にたらすストールの色が神学はキリストの血を表す「深紅」、哲学は智恵をあらわす「紺碧」、法学が義を表す「純白(今は紫=一番お金がかかる=儲った)」、そして医学は生命を表す「濃緑」と言うわけです。そして現代の学位の序列はすっかり昔と逆になり、何処の大学でも神学は不人気で、評価も収入も最下位、はや廃止の瀬戸際に置かれていて、神学(=神の言葉)は置き去りどころか儲からない学部として迫害されているのが実情かと思います。

  ■そして最後は、実践神学(=Practical=ギリシャ語のπαρασσω=パラッソー=「行う」の名詞形πραξιsプラクシス=実践+神の言葉)となります。聖書に書かれている事が歴史で変遷し、それらを構造的に纏めた組織神学を「現実の教会や生活でどう具体化するか」を扱います。「神の言葉の実践」と言う事です。

  礼拝学、教職論、聖餐論、聖歌学、説教学などと言う分野がそれなのです。最近はこれにゴスペル、教会成長学、牧会心理学や牧会カウンセリングなどいう流行りの世俗的な講座が神学校で人気と聞きますが、大切な事=神学「=神の言葉」が滅亡直前の旧約聖書の王国の堕落時代と全く同様にすっかり置き去りにされて「人間の言葉」がもてはやされているのが大変嘆かわしい所です。

 ★現代ではこの様な聖書、歴史、組織、実践神学などと言う四神学による分類ではなくもっと多様な分類も在る様です。しかし、まあこれが一般的な神学と言う言葉の分類方法です。神学とはなにか特別な難しい意味があるのではなく、なんでもない当たり前の事=神の言葉=聖書をどう認識するかの区分の概要にすぎないのです。

  聖書神学は聖書に書かれている神の言葉。歴史神学は聖書の言葉が歴史に一体同影響し歴史からどう影響されたか。そして組織神学とは神の言葉を人間がどう理解したかであり、実践神学は聖書が神の言葉なら人間はどう生活れば良いのかを扱った物にすぎないという事なのです。

 と言う事は★聖書は全ての神学の上位に存在する物★であり、

  ●聖書を読んでいる段階では下位に存在する神学は無用な物である」●

  と言う事なのです。何故ならば全ての神学は聖書が神の言葉であると言う事を具現化すると言う目的の為に存在しているからなのです。

と言う事は「神学があって聖書が出来た」のではなく、「聖書があってそれから神学が作られた」からなのです。

 ■聖書は全ての神学に優先する■と言う事なのです。●聖書から神学が作り出されたのであって、決して▲神学が聖書を生み出したのではないからです。

と言う事で、今日は聖書を読む時には神学は一切考慮する必要も、また神学に振り回される必要も無いと言う当たり前の事のご紹介でした。

  冒頭の写真は我が家の賢犬Lab公にモデルになって頂きハーバード大学に沢山在る裏口の一つで最高(お値段が)の学位、哲学博士(Ph.D)のガウンを纏ったスナップ写真です。こんな裏口にまで立派な十字架がついている所がなんとも言えないバロデイになっています。所でモデル料は牛筋肉一切れの超高額でした!!

聖書通読

 聖書通読

  さて、能書きはこれくらいにしておいて実際に聖書を読むお話に移りましょう。 聖書を読むと言う事ですが日に10分読むと大体1年で旧新約聖書を1回読み通す事が出来ます。

  と言う事は日に30分読めば年に3回、1時間読めば6回読めると言う事です。いろいろな読み順や、速読、精読、乱読などが有ります。やはり一番のお勧めは通読と言われる、創世記から黙示録までを順に読む事が一番お勧めです。

  性格にも因るのでしょうが、分からない事を見過ごしに出来ないタイプの方よりも、かなりいい加減な方の方が通読は進む様です。

  その理由は簡単、聖書を読みはじめると分からない地名や人名や、特殊用語が沢山登場する為です。これらを納得するまで調べているといくら時間が合っても一語で数日を費やさなけれは分からない物が聖書の中には沢山有ります。

  地名や人名や年号一つを調べだすと同名の場所、時代によって名前が変わるもの、人名も所々別名になっている等、かなり煩雑です。 その上に諸説入り乱れ、確定不可能な物も少なくありません。
 
   こんな物にこだわっていては、一回通読するのに数十年を要する事請け合いです。 

  だから、調べるのは程々にして、さっさと読みとばす事をお勧めします。

  私の通読歴から判断すると大体5回位通読すると、前後関係や地理的に重要地点、それに関連箇所の見当が付く様になります。この辺りから聖書の解説や注解を読んで意味が分かる様になるかとおもいます。

  それを過ぎて20回ぐらい通読したら、おぼろげに聖書が教えている事が何なのかが認識出来てきます。

  日に10分読む人で大体20年、1時間読める人で3~4年と言う事です。私の場合は入信して聖書を読みはじめ3年で5回程通読してそれから神学校に進みました。神学校の授業を消化するには最低でも5回位の通読が必要だと実感しています。クリスチャンホームに育った人などは幼い内から聖書に親しんでおられる為、かなり聖書知識がお有りかと思いましたが、意外と無知である場合が殆どです。

  やはり聖書は時間を費やして地道に読み込まないと理解できる物ではありません。何しろ大変不親切な書物です。文字ばかりで、イラストや年表に加えて図表も解説もありません。

  だらだらと文字ばかりが220万字も連続しているからです。しかし、中々面白い書物で私の神学校の先輩は10年程前で500回通読したと言われていました。年に30回とか言うペースで読まれていますのでもう千回に迫っておられるのではと思います。

  私は入信以来36年間毎日通読に励んでいますがまだ漸く120回程度しか読めていません。多い年で年に10回程、少ない年では1回と言うありさまです。特に最近は翻訳で読む事をやめ原典だけにしてしまいましたので原典で日に3章しか読めません。だから、この3年程は連続年1回と言うありさまです。

  それらを振り返って思うのは、やはり旧新約聖書の通読20回あたりが節目で、その辺りで漸く聖書の言っている事がはっきりと理解できる様になりました。

  と言う事で今日はぜひ皆様も、「気長に聖書通読に励まれますように」というお勧めでした

プロフィール

油食林間

Author:油食林間
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR